◆エルールの月◆



月の力をわたしにください 
想いの糸を切るために
それは消せない あなたの名前 
胸に刺さった銀の棘

ああ、時の舟はすべりだした
あなたのいない 夜の国へ

銀の三日月 勇気をください 
想いの糸を切るために

運命よりも強い力で 
わたしに言わせて さよならを




その昔。
冥界を司る神ハーデスのもと、その王の座を継ぐべく男の赤子が誕生した。
しかし、折りしもそれは、アテナとの聖戦のただなかで、きらびやかな魔星があらぬ限りの不吉をその身に呼び込む、おぞましい朱の半月の夜のこと。
そして、ハーデスはアテナとの戦いに敗れ、ついには転生の間もなく、完全にその身を粉砕されてしまった。
赤子は来るべき復活の日のために、肉体を奪われ、冥府にそびえたつ高い高い塔の上へとその魂だけを封印された。
アテナの眼を欺くために。

そして、現在。
この世に甦ったアテナに対し、冥王ハーデスの魂は永い眠りから目覚めようとしていた。
108つの魔星の見守る中刻々と、その宴への準備は行われる。

戻るべき肉体の用意はできた。
さあ、この身体を好きにして、今まさに、ここに目覚めるがよい・・!と。


『あなたが僕の兄さんじゃなかった、
と知った時。
僕の世界は闇に閉ざされ、真っ暗に落ち、
それから。
絶望に、血の色のような真っ赤になった。
何もかも。
今まで生きてきたことのすべてを放棄し、
闇の中で膝を抱え、すすり泣きながら、
“これは何かの間違いだ。おまえは悪い夢を見ているのだ”とあなたが揺り起こしてくれるまで、じっと丸くなって眠っていたかった。
―― 兄さん・・
僕にとっての、魔法の言葉。
どんなことにも負けない勇気の出る呪文。
このやさしく切ない響きで、僕は、今までどれほどのことを乗り越えてこれただろう。
僕を苛む全てのものから救い出してくれるような力をくれた。

でも。
神様はいじわるだね。
たとえ、どんなことがあったって、
あなたが「兄さん」でいてくれる。
それだけで、僕はもう何1つ、
これ以上を望みはしないのに。
せめて、星矢たちのように、たとえ半分でもいい、あなたと同じ血を分け合って、この世に生まれてきたかった。
それだけで、僕はどんな哀しい運命にも負けやしないのに。
たとえ、この身が呪わしい、冥府の王の半身でも・・・!』



「なかなか強情な・・・」
「まだ、魂をあけわたしませぬな」
「ハーデス様の復活は近い。早く、アンドロメダの魂を完全にこの身から消し去らねば」
「フフ、この者にとっての一番の希望を奪いましたゆえ、もう時間の問題かと」
「急げよ」
「はっ」

冥界の闇を貫く高い塔の天辺の、円錐形の部屋の中央に少年はいた。
両手を天井から下りる鎖につながれ、がくりと頭を項垂れて。
かすかな蝋燭の光のみのその薄暗い牢の中で、死人のように青ざめた白い頬をして。
色を無くした唇はもう何も語らず、瞳は開いているというのに、もう何も映してはいなかった。
やせ衰えた手足は、まるで紙の人形のよう。
数日で床につきそうなくらい急にのびた髪は、美しかった碧のそれではなく、切れそうに細い銀の糸みたいだった。
―― ああ、それは、
あまりにも冥王ハーデスに生き写し。
「しかし。見れば見るほどに、うり二つだな。まあ、もっとも、おまえもいわばあの方の一部なのだからな。当然といえば、当然か・・」
時折、少年を見張るために空間にぼうっと姿を現すのは、ちょうど膝下くらいの大きさの邪鬼で、それは少年の顔の前にふわりと飛ぶと、
けたけたと嫌な声でせせら笑った。
「どうした? もう答える気力も失せたか。ククック・・ いい夢を見させてもらっているだろうからな。・・しかし、こんな呆けたガキにあの方の魂を受け入れる、そんな力があるとはな。まったく信じられん」
瞬の髪をガシッと掴み、その顔を上げさせて、吐き捨てるように邪鬼が言う。
「・・・フン。地上界などという堕落の世界にいたせいか、やわな顔をしていやがるぜ・・! まあ、その強情さだけは認めてやるがな。おまえがそうしてまでも、未練がましくしがみついている地上界になど、もう何1つの救いもないんだぜえ。・・・ククク・・・憐れな・・」
その言葉にも反応せず、瞬は邪鬼が手を離すと、また力無く、その頭を深く項垂れた。
「だが、もう終わりだ。もう間もなく消えてなくなる。あと一息だ。あと僅かで、おまえの心は絶望のために完全に死に絶え、そして、あの方の覚醒が始まるのだ」
ぼんやりと床を見る、瞳の光も力もなくした瞬の耳に、一際耳障りなかん高い笑いを残し、フッと下半身だけをそこから消すと、胴から上の物体となった邪鬼が、瞬の周りを嘲笑しながら浮遊する。
そこにもう一体の邪鬼が現れ、瞬をじろじろと眺めると、けらけら笑いながら言った。
「しっかし、今まで兄と慕っていた男がそうでなかったからというそれだけで、こうまで絶望できるものかねえ。ケケケ・・・。人間ってヤツは本当に馬鹿だぜ。愚か者だぜー」
言い残し、最初にいた邪鬼とともに、嘲笑しながら、フッとそこから姿を消した。
その反動で、壁の蝋燭の火がかすかに揺らぐ。



―― そう、兄が兄でなかった。
それだけで。
確かにそうだね。
そうかもしれない。
そんなこと、なのかもしれないね。

悪い夢を見せられている。
それをどこかで知っているのに、これは夢だと、本当に夢なんだと、確かめることすらとても怖くて。
もしも、そうじゃなかったら?
夢じゃなかったら、どうするのだ。
本当に、兄さんが、僕の兄さんじゃなかったら・・?
これが、真実だとしたら。

項垂れたままの真っ白い横顔が、さらに色を薄くして、心で呟く。
―― 絶望、か・・。
なんて、心地よい響きだろう。
まるで何もかも、自分の内にある何もかもを、
心さえも放棄していい、
その言い訳になるみたいだ。

だけど、わかってる。
ここに、もう、こうしてはいられない。
近づいているのがわかる。
炎のような熱い小宇宙が、もうすぐそこに・・!

真実を知ることはとてもこわい。眠りは心地よい。ここにこうして眠っていれば、何ももうこわくない。
こうして永遠に眠っていられれば・・・。


「――だけど・・!」
うなだれて、ここ百日あまり、ぴくりとも動かなかった瞬の、痩せこけた尖った顎がくいと持ち上がり、もう言葉さえ忘れてしまっただろうと思われていた唇から、澄んだ凛とした声が発せられた。
まるで今しがた、やっと深い眠りから目覚めたように。
「だけど、闇の中からずっと僕を呼び続け、惑わせ苛む僕の半身よ・・! これ以上の呼びかけは無駄なことです!」
宙を、輝ける瞳が睨み、放つ声は暗い牢の壁にはねかえって反響した。
「なぜなら、僕があの人からもらったものは、血の絆ではなく、心の絆だから・・! たとえ、あなたが僕の耳に何を囁こうと、僕にはいつだってあの人の声が聞こえているのだから・・! 僕の答えは1つです!」
そして、喉を裂くような声で闇に叫んだ。
「僕は・・・! 僕は、あなたと闘う!」
瞬の叫びに、邪鬼が驚愕の顔をして、壁から慌てたように飛び出してくる。
「き・・・きさまッ! とうに弱り切っていたはずでは・・! いったいこれは・・!」
怯えるようにひきつる醜い顔を、瞬がキッとにらみつける。
強い光を取り戻した澄んだ瞳で、次第に色を戻す唇で、不敵な微笑みさえ浮かべて。
「悪いね。少しの間眠らせてもらったよ。だけど。そうだね、君の言ったとおり、眠りはそろそろ終わりそうだ・・。 ただし、目覚めるのは冥界の王ではなく、アンドロメダの聖闘士、だけれどね・・!」」
言いながらゆっくりと、天井から吊された鎖に引きずられるようにしていた身を起こし、頭が軽く振られると、長い銀の髪がぶわあっ!と空間に舞い上がった。
「な、なんだとッ! 貴様、それでは俺たちを今まで欺いてでもいたというのか・・!」
「そんなつもりではなかったけれど。ごめんね、そうそうゆっくりもしていられないんだ」
言うと同時に、瞬を繋いでいた鎖がバリッ!と、まるで薄いガラスのような音をたてて粉々に粉砕された。
「な、何をする気だ!」
「この塔を、破壊する・・!」
「な、なんだとお!」
「む、無駄だ! おまえごときが、この塔を破壊など出来るわけがあるか! たとえここから抜け出せようと、この塔にはハーデスさまの結界が張り巡らされている! 逃げおおせるわけなどない!!」
別の邪鬼が現れて、こちらも驚愕に目を見張りながら言い放つ。
「逃げはしないよ! 闘うのだからね!!」
言葉と同時に、瞬の両眼がカッ!と見開かれ、その全身から凄まじいまでの小宇宙のオーラが舞い上がった。
その真紅の炎のようなオーラは次第に大きくなり、瞬の周りを嵐のように吹き上がっていく。
バリバリと雷を生みながら荒れ狂う小宇宙のその中で、瞬の透けるように白かった身体は、もとの戦士の肉体へと戻り、銀の髪は暴風に梳かれながら、やわらかな翠へと変わっていく。
瞬は、しなやかに伸びる筋肉の戻った自らの腕を満足げに見下ろすと、壁際に震え上がる邪鬼たちを見据え微笑んだ。
―機は熟した―
グズグズはしていられない。
兄が、仲間たちが、女神を追って、もうすぐ近くまで来ている。
ことに兄の小宇宙は、近いー!
瞬の全身が、喜びに力をみなぎらせ、もうじっとしていられないくらいに!
すぐ近く!
瞬が、自らの起こした嵐の中、光り輝く両腕をゆっくりとその頭上に振りかざす。
「な、何をする気だぁ!」
「ハーデス様に・・・! だ、誰か!」
慌てふためく邪鬼を尻目に、そして、息をつめ、瞳を閉じる。
気が、その手の中に集まっていく。
そして、その両眼が今一度カッ!と見開かれ、空を切るように、腕が鋭く振り下ろされた!
その瞬間。
あたりは一面光に包まれ・・!
ドガァッ!
火山の噴火のような重く凄まじい破壊の音とともに、ハーデスの塔は、天から落ちてきた雷に裂かれたかのように、瞬のいる天辺から下に向かって亀裂が走った。
そして、最上から順に、ボロボロと表面を剥がされるようにして、塔が地へと崩れ落ちていく。
長きにわたって多くの者が、罪なき罪を問われ、囚われ、残酷に責め苛まれてきた「懺悔の塔」
ゴゴゴ・・・!と、大地を揺るがすその轟音は、冥界の果てまでも轟くほどに、その全土に恐るべき震動をもたらした。
その崩れ落ちた塔の上から、ふいに光の輪が現れて、暗雲たちこめる空へと飛び立つ。
その光は次第に小さくなって、その中に少年の姿を映しだした。
少年が、あまりに一度の小宇宙の燃焼に、少し疲れた顔をして、だけども、その視線の先にある光景に気づくと、ひどく安らかな、安心したようなあたたかな微笑みをその口元に浮かべた。
・・雄々しい勇姿に、熱い涙が瞳を溢れ、頬を伝う。
冥闘士を向こうにして、勇敢に闘う戦士の姿が、そこにはあった。
友と、それから。
最愛の兄、と。
隙あらば、心地よい眠りに逃げ込んでしまおうとする弟の心を励まし、ともすればハーデスの言葉の罠に囚われ、惑わされてしまいそうになるその魂に、勇気と力を与え続けた。
大いなる、愛情で。

(兄さん・・・)
誰よりも、誇り高い、強靭で勇敢な僕の・・。
「兄さ・・・ん」
僕の、兄さん。
「兄さん・・っ」
僕だけの、たった一人の・・!
「兄さん! 兄さん・・!!」
天空からこぼれ落ちるようにして耳に響いた懐かしい声に、一輝がハッと、血まみれの顔を上げた。
「・・・瞬ッ!!」
血を吐きながら叫んだ名に、一輝の両腕が最後の力を振り絞り、群がる亡者どもを打ち砕く。
そして、空中にいる弟に、その両腕を広げ、差し伸べた。
愛おしい者に向かって、大きく。
瞬の瞳が歓喜に輝き、その腕の中へと、彼は苛むすべての何もかもを忘れ捨て去り、飛び込んだ。
その刹那。
巨大な共鳴を起こした互いの小宇宙が大きく弾け、光の輪になって、あたり一面を覆い尽くした。
その空までも。
闇を裂き、雲を裂き、その地平の果てまでも。
光が、光が、光が――!!


そして、瞬は、
思い焦がれた懐かしい腕の中で、兄の心の声を聞いていた。
甘く囁かれる、睦言のように。

「わすれるな・・
何があっても、おまえは俺の弟だ。
誰が何と言おうと、
俺がおまえの兄であることに、何1つ変わりはない。
たとえ運命がどう動こうと、血の繋がりでどうであれ、
おまえは俺の決めた、たったひとりの俺の弟だ。
いいな。よく、覚えておくんだぞ、瞬・・・」



END







冒頭の歌詞は谷山浩子さんの「LUNA」です。
この話を書いていた頃、現在進行形だった原作は、ハーデス編の冥界に入ったとこで、パンドラの一言で"一輝と瞬は兄弟じゃない?”なんてことで大騒ぎになっていました。とんでもない展開に瞬ファンは瞬以上にショックを受けていた(笑)ので、こんな話を書いてしまったのですね。この後の展開がわからなかったのでハーデスは瞬の双子の兄?とかいう感じで書いてたのですが、この本が出た後で、一輝と瞬はちゃんと兄弟だったとわかって一安心。それで再録にあたっては、『双子』とかいう記述は省いて、単に身体をあけわたさせるために言葉のワナにかけていたのだということにしてみました。ま、あんまり変わってナイですけど・・。しかし、一輝がパンドラに「(瞬の身体は)おまえなどが勝手に出来る肉体ではないのだ」といわれた時は、”今更そんなこと言っても一輝のことだから、もう勝手に好きにいただいちゃった後では・・?”とマジで思った。ははは・・・。


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