□ 第三夜 □



しばらく会ってなかった弟が、突然たずねてきたのはどうしてだろう。

もう初夏というのに、海浜公園にある人影はまばらだった。
その砂浜を、真新しいスニーカーをはいたタケルが、兄の後ろを少し遅れて歩いていく。
ヤマトは、というと、少し先を歩いては、波とふざけながら歩く弟が追いついてくるのを待って、そばまで追いついて来るとまた歩き出す。
そんなことを繰り返していた。
なんだか・・・。
久しぶり過ぎて、いったい何を話していいのやら。
波の音に、耳をすませているかのように静かな弟に、話題に困ってぼそり・・と言う。
「背、また伸びたよな」
「そう? お兄ちゃんこそ・・・」
視線を合わせて、でもなんだか気恥ずかしくて照れくさくて、お互い、さっとまたどちらからともなく視線をはずす。
以前はこんなことなかったのに。
そういえば、いつから会ってなかったっけ・・?
まったく会ってなかったわけじゃなかったから、だんだんに成長していくのは見えていたはずなのだけど、最近ではまともに凝視できないくらい、弟の成長は兄の目に眩しい。
丸みがあったところが骨っぽくなって、輪郭もきりりとしてきたし、手足も細く長く伸びて、靴もサイズがあわなくなったから、母が新しいのを買い与えたんだろう。
引いていく波を追いかけて、ととと・・・と前進し、帰ってくる波から逃げて、ゆっくりと後退る。
近くに住んでいるヤマトには、海は別段めずらしくもないが、タケルにとってはそんな風に波と遊ぶのが珍しいのだろう。
大人びてきたとはいえ、まだ10歳。
そんなところは、充分にコドモだ。
きらきらと波の上をはねる光に、タケルの金の髪も同じようにきらきらと輝く。
それを見ながら、ヤマトはそんな弟に魅入っている自分に気づくと、はっとしたようにタケルの背景に目を移した。
そんなことは気づきもしないで、タケルは靴が濡れるのを気にしたのか、スニーカーを脱いで靴下も取って、ハーフパンツのポケットに突っ込み、靴は手にぶらさげて、裸足で波の中に入りだした。
「おい・・・」
「なに?」
「何って。服濡れるぞ」
「平気だよーだ」
ちらっと上目使いに兄を見上げ、軽く舌を出して笑顔を見せる弟に、ヤマトが一瞬答えに困る。
何でも許してやりたくなるような、天使のような弟の笑顔に、強く咎めることも出来ず、心がふにゃ・・としたような感じ。
まったく。
どこまでも俺は、「弟」を卒業できないよな・・。
自分の甘さに心中で溜息を漏らしつつ、ふと、さっきからどうも肝心な話をはぐらかされていることにやっと気がついた。
だいたい、何であんなとこに、あんな時間にいたんだよ?
『こっちの方に用事があったんだよ。もしかして会えるかと思ったら、ちょうど空さんや太一さんと学校から出てきたとこで、でもなんとなく、声が掛け辛くて。だから、小さい声で呼んだんだ。「おにいちゃん」って。まさか聞こえるとは思わなかった。』と、さっき尋ねた時は、そんな風に言っていた。
話の後半は、まあ確かにそんな風だったのだろう。
けれど、ここに来た動機が今一どうも納得できなくて。
兄の勘というか、買いかぶりというか。
「なあ?」
「なーに」
「おまえ、本当はなんでここ・・・・」
「わ!」
ヤマトの台詞の途中で、ポケットに入れていた靴下を落としそうになって、バランスを崩したところにやってきた波に、タケルの身体がゆらりと傾いた。
「うわ・・・・と」
後退しようとして砂に足を取られ、転びそうになったところを、兄の手に上腕を掬われるようにして引き起こされて、タケルがばっと赤くなって振り返る。
「あ・・・ありがと・・・おにいちゃん・・!」
「あ、いや」
「転びそうになっちゃった。びっくりした」
「だから気をつけろって・・」
言いかけて、見上げてくる大きな瞳の碧に合って、ヤマトははっとなった。
物言いたげな切なげな瞳。
言葉数がいつもより少ないのも、妙にはしゃいでいる風なのも、何かわけがあるんだろう・・?
問いつめるように見つめ返したせいか、タケルはスッとその視線を避けると、「痛いよ」とちょっと笑った。
いつのまにか強く掴んでいたらしい細い腕を慌てて離すと、タケルはヤマトから逃れるように、2歩3歩、先を行く。
それから振り返ると、思いつめたように波を見つめた。
「あのね・・・・おにいちゃん・・」
「ん?」
「あの・・・」
「どうした?」
「ん。・・・ううん。やっぱり何でもない!」
ちっちゃく首を振って、淋しそうに笑った。
そして、背中を向けたまま、足の砂をはらいながら、まだ乾かない足先に靴下を履かせる。
「も、陽が暮れてきたから、帰らなくちゃ・・・」
自分に言い聞かせるようにそう言って、白いスニーカーに足を入れる。
「タケル・・! 何かあったんなら、俺、話きくから・・」
「ううん。本当に何もないんだ。ごめんね、心配させて」
「タケル!」
「駅どっちだっけ? 僕、方向音痴だから・・・」
言って振り切るように歩き出す、その背中があまりに頼りなげで小さくて、まるで泣いているかのように見えた。
とめなくては・・・!
そうだ、何やってるんだ、俺は。
こんなままで帰らせちゃ、いけない。
そう思った瞬間。
突然、びゅっと海から強い風が吹いてきて、タケルの白い帽子は後方の、ヤマト向かって飛ばされた。
風が悪戯を仕掛けたように。
「あ・・・・!」
慌てて振り返って、それを取ろうと手を伸ばして踵を返した所で、タケルは自分の足につまづくようにしてつんのめった。
飛ばされて来た帽子は、ヤマトの手がキャッチし、それに次いで倒れ込んできた弟の身体も、もう片方の腕が自分の身体の横にひっかけるようにして受け止める。
「わ・・・」
腕にひっかけられたという感じで足はもつれながら一.五歩ほど横歩きし、バランスを崩して、どさっと兄の胸に倒れ込んで、タケルが大きく瞳を見開いた。
「大丈夫か?」
耳のすぐそばで聞こえる、自分を気遣う兄の声に、びく!と肩が跳ね上がる。
真っ赤になっているだろう顔を兄に見られまいとして、とっさにヤマトの胸に顔を押し当てたから、答えるようとするタケルの言葉は少しくぐもって聞こえた。
が。そんな状況の方が、なお赤面ものだと自分で気づいて、思わず身を離そうとするけれど、それを兄の手がやさしく制す。
タケルは耳たぶを真っ赤にしながらも、それでももう兄の腕から離れようとはせず、そこでじっと身を強張らせた。
「タケル・・?」
ヤマトがそんなタケルの肩を見下ろして、何も言わず、そっと壊れものにするかのようにそれを腕の中に抱き包んだ。
何だかわからないけれど、そうせずにはいられなくて。
何かと問うつめるのももう、なんだかかわいそうで。
タケルの身体がまた、ぴく!と小さくふるえる。。
心臓の音が重なるように、どんどん高鳴っていき、わけもなく、胸がしめつけられるような感じがした。
「・・・・・・・っ」
「・・・ん?」
小さく叫んだ弟の声を聞き逃さずに、少し上体を傾けて腕の中のタケルに訊く。
「おにいちゃんと・・・・離れたくない・・・っ」
そう言って、両腕をヤマトの背中に回して、ヤマトのグリーンのブレザーにぎゅっとしがみつく。
「タケル?」
「もう、これ以上、おにいちゃんから遠くに行くのはいやだ・・!」
「遠くって・・?」
意外な言葉に、ヤマトの声が動揺する。
「一緒に暮らせなくたって、もういいから、もう、望んだりしないから・・・。せめて、お兄ちゃんから、今以上遠くに離れていくのだけは嫌なんだ・・!!」
絞り出すように言うタケルに、ヤマトが、わけがわからないというように問いただす。
「タケル! どうしたんだ? 何いってんだ? おまえ、どこに行くんだよ・・!」
肩を揺すぶるようにされて、兄を見上げたタケルの瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。
苦しそうに、うめくように言う。
「お母さんが・・。フランスに行くって。・・・ずっと、あっちに住んで、もう帰ってこないからって・・!」
「・・・!」
あまりのショックに言葉をなくし、ヤマトの瞳が激しく震える。
フランスに・・・?
もう帰ってこない・・?
じゃあ、もう。
もう、タケルに会えないってことか・・?!
そりゃあ。
今までだって、そんなに会えたりはしなかった。
いつでも会えると思いながらも、なかなか機会をつくることも出来なくて、会いたいと強く願いながらも、電話する勇気もなかなかなくて。
だけど。
フランスなんて、もう帰ってこないなんて、そんな、そんな、そんな・・・・!!
「いやだ・・!」
やっとの思いでそれだけ言って、泣きじゃくる弟の肩を絞るように抱きしめる。
「いやだ、そんなこと、させるもんか・・!」
親の都合で勝手で、引き離されて別れさせられるなんて、もうゴメンだ。
第一、タケルのこんな風に泣かせるなんて許さない。
何、言ってるんだ、母さんは!
「タケルは行くな・・! 行きたきゃ、母さんだけ行ったらいいんだ。おまえは、親父と俺と、ここで暮らしたらいい・・!」
「おにいちゃん」
「おまえを、もうどこかにやったりしない・・! もう、俺のそばからどこにも行くな・・!!」
叫ぶように強く言って、強くその身体を抱きしめると、タケルが涙のたまる瞳ではっとヤマトを見上げ、ふいにその顔に笑みを浮かべた。
切なげで、それでも嬉しげな。
お兄ちゃんのそんな言葉が、ずっと聞きたかったんだよ、と。

『好きだよ。誰よりも。』
心が自覚するまでに、想いがそれよりも早く胸の中で告白する。
そうか、知らなかった。
ずっと、俺はタケルのこと・・・・。

手の中で大事に包んで顎を掬って上げさせると、ゆっくりと、まるで待っていたかのようにタケルがふっと目を閉じた。
夕日が、長いまつげの先に色を落とす。
ゆっくりと。
ゆっくりと上体を屈め、引き寄せられるように唇を寄せた。
タケルが僅かにかかとを上げる。
どこにもやらない。絶対に。
タケルは俺が守るんだ。
そう胸に誓った瞬間。
日がゆっくりと海に落ちていく中で、ヤマトの唇が微かに、タケルのやわらかな唇にふれた。









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はっとして目が覚めた。
な、なんだなんだ、今の夢は!
なななな、なんで、俺、タケルとキスしてたんだ?! 
お、弟だぞ! 弟相手にキスって・・!
いや、キスはもちろん嫌いじゃないが、だが、誰かれなしにという訳じゃない。
しかも、よりによって、血の繋がった実の弟に・・!
焦って、一人で数分わたわたとして、目の前のテレビが深夜放送を映していることに気がついた。
それと。
自分の肩にかかる、現実的な心地よい重み・・・。
ソファに並んで坐って、確かテレビを見ていたはずだ。
何を見てたんだっけ・・?
とにかく、久しぶりに弟が家に泊まりにくるからって、人知れずはしゃいでいて、テンションが高くなっていたのだけは確かだ。
皆で会った時、もしかして、勘のいい太一あたりは気づいたかもしれない。
8/1計画の後、弟が家にくることで、みんなと会うことさえ気もそぞろになっていた自分のこと。
しかし、まあ。
浮かれていたのは認めるが、いったい何て夢を見たんだろう。
ああ、でもこんな夢を前にも見たことがある。
いや、キスシーンが付属していたかどうかは定かではないが、確か母とタケルがお台場に引っ越すと聞いた直後で。
父に、タケルが引っ越すのはまさか本当はフランスとかじゃないだろうなと詰め寄って、「は?」とか呆れられた気がする。
まあ、それはともかくとして。
微妙に間隔を空けて坐っていたタケルが、崩れるように自分にもたれてきているのを、ちらっと見た。
まだ、寝顔はあどけない。
少し開いた口から、すーすーと微かに寝息が漏れている。
安心しきった表情で、自分の肩にもたれて眠っている。
うわ、かわいい・・。
『うわ、かわいい』じゃねえだろ、オイ。
自分で自分にツッコミを入れつつ、ぱっと視線をテレビに戻した。
それでも気になって、もう一度盗み見るようにちらっと見ると、『うん・・・・』と小さく身じろいだ。
でっかくなったよな。
あんなに小っちゃかったのに。
激辛カレーも、よく食ったよな。あんな辛いの。
昔のタケルだったら、「からいよー」ってとっくに泣き出してたところだ。
別にいじわるしてるわけじゃねえんだけど。
おまえがどんな顔するか、ちょっと見てみたかったんだ。
かわいかったぜ。真っ赤になって。
俺がつくったもんだから、我慢大会みたいにしてでも食ってくれてんのかなって思ったら、なんか可愛くて可愛くて。
そういうトコ、変わってねえよな。
ま、そんなこと思ってる俺も、相変わらずブラコンだけどさ。
思いながら、時計を見てちょっと驚いた。
いつのまに、こんな時間になったんだろう。
明日は渋谷につれてく約束をしたから、もう寝ないと。
でも、こいつ、どうしよう。
こんなによく寝てるのに、起こすのもかわいそうだよな。
いっそ、布団持ってきてここで寝かすか・・?
けど、落っこちるよな。意外にも寝相は悪かったはずだ。
第一、風邪でもひかせたら、母さんに会わせる顔がない。
・・・しようがねえな。ベッドに運ぶか。
重くなっただろうな、こいつ・・。
落っことしたら、どうしよう。
ごく短い試行錯誤の後、タケルの脇から背中に手を入れて、もう片方の腕を両膝の下に入れて、そっと起こさないように持ち上げた。
思ったよりもずっと軽くて、ふわっと持ち上がってしまったことに驚きつつ、それでも両腕にかかるタケルの身体の重みと、自分の首元にかかる息に、妙にどきどきしてしまう。

・・・あんな夢を見たからだ。
まったく・・。

まさか、こんな状態で起きたりしないよな? 
起きるなよ?
こんな年になって、兄貴にだっこされてるなんて知ったら、きっとすごく嫌がるにちがいない。
そう思いつつ、足で自分の部屋の半開きになっていたドアを開いて、そっとゆっくりとタケルの身体を自分のベッドに降ろす。
「ん・・・・」
ベッドに下ろす寸前に、タケルの腕が少し自分の首に絡むようにふれたと思ったのは、きっと気のせいなんだろう。
布団をかけてやって、無事ベッドに寝かせてやれたことにほっとして、ヤマトがベッドの端に静かに腰を下ろすと、眠っているタケルの顔をいとしげに覗き込んだ。
薄暗がりの室内で、白い頬が窓から差し込む月の淡い光に縁取られる。
きれいだよな・・と何気に思って、その思いに自分自身でまたはっとなった。
だから・・!
弟だぞ、しかもオトコ相手に何思ってんだって・・!
まあ、弟なんだから、普通オトコに決まってるけど。
それでも、『キレイ』とか、女の子相手にもあんまりそんな風に思ったことはないから、(ましてやオトコになんか、あるわけがない)タケルはやっぱり、自分にとって特別なのかもしれない。
そうだ。
この際、全部ひっくるめて、そういうことにしておこう。
誰よりも、自分にとって、特別な存在だから。

夢の中のことを思い出して、少し胸が痛くなった。
『どこへも行くな・・!』
もし本当に、実際あんなことになったら、自分はどうするのだろう。
母だけで行けばいいとか、自分たちと一緒に暮らせばいいとか、思うほど簡単じゃないことは、現実的な意味で自分が一番よく知っている。
それでも、もうみすみす離れ離れにされるようなことだけは絶対にしたくないから、なんとか母を説得しようと奔走するのだろう。
いや、そんなことにならなくて、本当によかったけど。
よく、近くに越してきてくれたよな。
ありがとうな・・。
もう、どこにも行くなよ。
この距離から、これ以上離れて行くな。
俺のそばで、ずっと、そのまま大人になっていけよ・・。
願わくば、俺の前でだけは、大人になりきれない幼いタケルのままでいてほしいけど。

「オヤジ・・・。もう寝たよな・・・?」
ヤマトは、部屋のドアが開いていないことを確かめて、あたりを意味なくきょろきょろと見回すと。
そっと。
そっと弟の、まだ少し丸みを帯びたあどけなさの残るやわらかな頬に、そっと小さなキスを落とした。

タケルの口元が、微かに笑みを浮かべたようだった。




END






ふう。第3夜やっとこアップです。
一番、夢の中と目覚めた現実の時差が短いお話かと。
兄は、どうもシリアスになりきれませんね。
でも、こういうヤマトは、描いてて本当に楽しいv
夢の中で、タケルの帽子が風にとばされるシーンは、実は、すでに何度か書いているのですが。
なんだか好きでね。帽子が飛ばされて、兄がその帽子とタケルの両方を後ろでキャッチするっていうの。
ふいに抱き合う形になって、お互いの恋心をはじめて自覚するのです。
いいと思いませんか? ぐふふふふv (こわいよ)