□ 第一夜 □



星もなく、風もない、月だけの夜だった。
父と母はもう夜も遅いというのに、リビングでそれぞれの荷物をまとめている。
不自然なほど、無言のままで。
もう明日にはここを離れていくから、ほとんどの荷物はダンボールの中だ。
お気に入りの玩具は、どこに入ってしまったのか。
タケルの大事にしている赤いトラックは、ちゃんと母の荷物の中に入っているだろうか。
あれがなかったら、きっとタケルは泣き喚くだろう。
まちがってないといいけど。
もし、間違ってても、届けてやれればいいんだけど。
けどオレ、明日、母さんとおまえが、どこに行くのかさえ知らないんだ・・。
四角いダンボールの箱に詰め込まれていく思い出は、いったいどこに運ばれていくのだろう。

もう一生会えないなんて、まさかそんなことは、ないよな・・・?

眠れないヤマトは2段ベッドを降りて、下で眠る小さな弟の寝顔をじっと見つめていた。
何も知らずに安らかな眠りの中にある幼い弟が、余計かわいそうに思われる。
こわれそうなものにさわるように、頬に、そっと、指先でふれた。
やわらかな、やさしい感触。
いつも自分の頬に、このやわらかな頬をすりよせるようにして甘えてくれた。
忘れないでおこう。
おぼえておこう、とそう思った。
もう一生、ふれることはないのかもしれない。
もしもあったとしても、次に会う時は、もう弟はこんなに小さくないかもしれないから。
何も知らないこの子は、明日の朝、いつも保育園に行くのと同じように家を出て、笑顔いっぱいに「おにいちゃん、いってきまーす」というのだろう。
もう二度と、ここに「ただいま」と帰ることはないというのに。
永遠のサヨナラになるかもしれないのに。

そっと布団からはみだしたちいさな手を握ると、タケルがうっすらと目をあけ、兄の顔をみてニッコリし、安心したように、また目を閉じ眠りに落ちていく。
その手を自分の両方の手の中で、宝物のようにそっと包むと、ヤマトの瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。

“おにいちゃん、明日はブランコもっともっとこいでね! 
 今日よりずっと高くしてね! ボク怖くなんかないんだから!
 ね、約束ね!”

昼間、公園のブランコに2人乗りして、タケルが言った言葉が思い出される。
     


ごめんな、タケル。嘘ついて。
明日は、だめなんだ。
もう、あしたは・・・ 一緒にいてやれない。
明日からは、一緒じゃないんだ・・

おまえまだ、こんなに小さいから、
離れて暮らすようになって
ずっと会えなくなってしまったら、
オレのこと、忘れちゃうのかな。
もう、おにいちゃんって、呼んでくれなくなるのかな。
どっかで会っても、
もうオレのことわかんなくなっちゃうのかな・・・

でも、オレはずっと忘れないよ。
おまえのこと、全部、全部、全部、忘れたりしない。
どこにいても、オレはおまえのおにいちゃんだから。
会えなくても、会えなくなっても、
ずっと、ずっとおにいちゃんだから。
ずっと守ってやるから。
もし、おまえを泣かすヤツがいたら、どっからでも飛んできて、
ブン殴ってやるから。
本当だよ、オレが絶対守ってやるんだ。
どこにいても、どんな時でも、オレはおまえの味方だから。
おまえはオレの、大事な大事な、たった一人の弟なんだ。
だから、だから、おまえも、 
オレのこと忘れないでくれよ。
絶対だよ・・・!
絶対に絶対に、忘れないで・・!!

  ―――タケル・・・!

どうして、どうして、どうして、どぉして・・・・・
    
お母さん。オレ、できることなら何でもするよ。
どんなことでも我慢するから・・・
何もなくても平気だから・・・
だから・・
タケル、連れてかないでよ!
オレからタケル、取っていかないでよ!
お願いだよ・・!母さん・・・!!


もう会えないなんて、嫌だ!!
タケルが、オレのこと忘れるなんて、絶対嫌だ!
タケルと離れるなんて、そんなこと出来ないよ・・!
いやだ、いやだ、いやだ・・・っ!
お願い、お父さん! お母さん!
オレ、なんでもするから、
本当だから、
どうか、どうか、どうか・・・!
どうか神サマ、お願いします、
オレから弟をとらないで・・・!!







     ………………………………………………………………………………






幼い頃の夢に、はっと目を開き跳ね起きた。
いやな汗が額を伝い、髪をべっとり張り付かせている。
ヤマトは、それをうるさそうに掻きあげると肩ではぁ・・と息をついた。
「お兄ちゃん・・・?」
横で眠っていたタケルが、目をこすりながらヤマトを見上げている。
その顔を見て、ヤマトは心からホッとしたように微笑み、覆い被さるようにしてタケルの身体を抱き寄せた。
「お兄ちゃんてば・・・」
抱き寄せるというよりは、抱きつくといった感じの兄に驚いたようにタケルが言う。
「どうしたの?こわい夢でも見た・・?」
やさしい口調で微笑んで言う弟に、ちょっと苦笑しつつ、ヤマトが言う。
「ああ・・。おまえに、“僕には、お兄ちゃんなんていませんけど?”って言われる夢」
兄の言葉に一瞬目を丸くしてきょとんとし、“お兄ちゃん、寝ぼけてる”と、ふふっと笑って、いつも自分がしてもらうように、タケルが細い両腕でヤマトの頭を抱き寄せるようにして、金の髪をそっと撫でる。
ヤマトは低く笑うと、タケルのうすい胸の上に、摺り寄せるようにして頭をのせた。
「重いか?」
「ううん。ちょっとくすぐったいけど」
「そっか」
「でも、お兄ちゃんが甘えてくれるなんて、なんか嬉しいな」
心持ち頬を染めて、嬉しげにこそっと漏らす本音が可愛い。
ヤマトがそれに照れ隠しのように、ぼそっと答える。
「今だけな」
「わかった。今だけね」
タケルの言葉と身体の暖かさに癒されながら、ヤマトは、今でもタケルさえいれば何もいらないと思っている自分に、ひそかに苦笑を漏らした。


今夜も月だけの、星のない夜だ。
けれども、今夜は風がふいている。
やわらかくやさしい風が。



END






かなり以前にかいたお話を改稿してみました。
両親の離婚が決まって、ヤマトはきっとそれを知らされていたと思うけど、タケルはまだ小さかったし泣かれると困るから、両親から何も知らされてなかったんじゃないかなあとか思いながら書いていました。
それだけに、サヨナラの前夜の幼い兄の心境って、切ないなー・・と。
もし離れて暮らすことがなかったら、兄弟は、お互いがこんなにも特別な存在にならなかったんじゃないかなあ・・とか思います。(風太)