□ 第五夜 □



どこかで決着をつけなければ、と思っていた。
自分自身の気持ちに。
それはたぶん、ずっと以前から。
だけども。
オマエの側はいつもあたたかでやさしくて、俺はひたすら心地よかったんだ。
ほんのたまーに甘えるように見上げてくる視線が嬉しくて、困ってるんだ・・と言われれば何だってしてやりたかった。
ずっとそばにいて、ずっとおまえの味方でいてやりたかった。
それだけでいいと、ずっと思ってきたのに。
・・・ごめんな・・。
もう限界だよ。
もう、これ以上そばにはいられない。
オマエの全部が愛おしくて、その全部を俺だけのものにしておきたくて、苦しい。
時折、獰猛に、それを無理矢理にでもおまえに押しつけようとしている自分を感じて、俺は怖くなった。
確かに夢を叶えるためでもあったけれど、アメリカ留学の時期を早めた真の理由は、そんなとこかもしれなかった。
この想いから、逃げたかった、ただそれだけなのかもしれない。
おまえをこの手で傷つけてしまうより、ここから去ることでおまえを守ろうと思った。

 

ホテルの最上階のレストランから見える風景は、抜けるような青空と、それにナイフを入れていくように、真っ直ぐな線を描いていくひこうき雲と、午後の少しばかり眠気をさそうあたたかな日差しと。
人と車がさざめく下界ははるか足の下の方で、そこに視線を送らなければ、ここはまるで空にぽっかり浮かぶレストランのようだった。
地面よりも、空の方が近い。
そんな錯覚さえ覚える。
だけど、抜けるような空というのは、どこか哀しい。
見つめていると、なにかをそこに失っていくような、同時に、過去に失ってきたものを忘れているような、きれいだけれども空虚な気持ちもまたじんわりと胸の下に溢れてくる。
いつも、こんな空を見ると、何かを思い出しそうになるのに、思い出せない。
失ってきたものは、いったい何だろう?
どうしてこんなに、切なくなるのだろう。
窓から見える空をそんな風に眺めながら、ヤマトは吐き出す紫煙をぼんやり見つめた。
遅めのランチの時間だから、店内の人はまばらだ。
静かで、話もしやすいだろう。
二人きりで取る、もしかしたら最後の食事になるかもしれない。
そう思っただけで、胸の奥がぎりっと痛んだ。


少し遅れてやってきたタケルは、高校の制服姿で、思っていた場所とちがったのか、ちょっと焦った様子で案内されて前の席に座った。
こんなとこだって知ってたら、一度家に帰って着替えて出てきたのにとか、先に教えてくれればよかったのに、などという。
別にいいんだよ、もう見納めかもしれないおまえの制服姿が見たかったんだから。
オーダーを聞かれ、先に答えた俺をちらっと見て、同じものを・・と言ってから、またちらっと俺を見る。
ウェイターが行ってから、ココ、高そうじゃない? いいの?と、こそっと小さい声で言った。
俺が笑う。
いいんだよ。バイト料入ったとこだから。
おまえ、こういうトコ連れてけって、前に言ってたことあったじゃん?
冗談だったのに。
と困った顔で微笑む弟。
俺は、テーブルに頬杖をついて、それを見る。
おまえのそういう顔、大好きだよ。
ちょっと困ったような、はにかんだみたいな。
それでいて、ちょっと上目使いで俺を見る目は、いつも少しだけ甘えを含んでいる。
俺の指の間で半分くらいになっているタバコを見て、あ、ちょっと吸わせて、なんて言う。
だめだって。
酒は教えたけど、タバコはおまえ似合わないから絶対だめ。
第一、オマエの彼女も嫌いだろ、タバコ。
俺が怒られちまうじゃん。
ただでさえも、『ヤマトさんはいつもタケルくんにろくなこと教えない』って叱られてんだぞ。
これ以上印象悪くしたら、たまにこうやって食事に誘うのも許可が下りなくなる・・・・って、何言ってるんだ。
もう最後だって、今日が最後だって、そう決めたんだろ、俺。
けちだなあーとかいって笑っているオマエ。
可愛い笑顔。
笑うと、少しだけ、すごくうっすらだけど、片方だけエクボができる。
笑う時に少しだけ、小首を傾げる癖も昔とちっとも変わってない。
運ばれてきた料理に嬉しそうに、手を合わせて「いただきまーす」と言って、ナイフとフォークを手にとる。
食事しながら、今日ね、トモダチがさーと、無邪気に話す仕草がいとしくて。
ずっとずっと、こうして良い兄貴でいてやれるのなら、何も好んで離れようとなどしないものを。
好きだよ。
いったいいつから、自分でこんな気持ちに気づいたんだろう。
離れて育ったから、その分、他の兄弟より、思慕が強いのだろうと思っていた。
相手に対する思いが多少他と違うのも、まあ当然じゃないかとさえ思っていた。
過剰なブラコン兄と呼ばれても、まあそんなもんかと認めていたのは、そういう理由があると思っていたからだ。
弟の方も、たぶん。
一緒に住めないからこそ、たまに会う兄というのはいいもんだ、くらいに思ってたんだろう。
時折それでも、その瞳が少し苦しげに見えたのは、あれはそうだったらいいのにという自分の願望のせいだろうか。
あたりまえだ。
まさか知るまい。
絶対的に信頼をおいているはずの兄が、まさか実の弟にそんな感情を抱いてるなんて。
おまえ知らなかったろう。
気づかれないようにしてきたもんな。
それこそ、細心の注意をはらって、いい兄のふりをしてきた。
そう、コイビトだって、気づいちゃいない。
いや・・。
彼女だけはもしかすると、気づかないふりをしているだけなのかもしれない。
当初、一人で発つつもりでアメリカに行くと打ち明けた時、淋しいというよりは、妙にほっとしたような顔をしていたから。
弟のカノジョも入れて4人で時々食事をすることもあったが、そんな時もいつも彼女だけは、少しどこかうわの空だったから。
おまえのカノジョに微かに嫉妬する俺を、もしかしたら感じたかもしれない。
だからといって、お互い、どうかなるもんでもないけど、な。
そうこう思っている間に、食事はどんどん進んでいく。
高校生になってから、よく食べるようになってきたオマエは、ここんとこ、頬のあたりも少しふっくらしてきた。
それを指摘してやるとすぐ怒るけど、だいたい、中学んときが痩せすぎだったんだよ。
今でだって、標準体重に全然足んねえだろ。身長のわりに。
彼女、料理うまいんだから、美味しいもん作ってもらって、いっぱい食えよ。
あんまり不摂生してねえで。
夜も本読んだり、パソコンいじってばかりいないで、もっと早く寝ろ。
眠れないって電話してきたって、もう相手してやれないぞ。
なんたって、時差もあるしな。
身体に気をつけて、栄養のあるもん食べて、それからトモダチとかにあんまり気使わないで、もっと肩の力抜いてつき合えよ。
おまえにばっかり損させるトモダチは、あんまり良い奴じゃねえんだから、そんなのは捨てとけ。
いいヤツ、周りに結構いるじゃん。
彼女だって、イイ子だし。
好きにしてていいんだ。
もっと自分に自信を持てよな。
おまえみたいに、やさしくて素直でカワイイのって、他にいないから。
おまえが思っているよりずっと、おまえはみんなに好かれてんだぜ?
なに?と、じっと見られていることに、ちょっともじもじして首を傾ける。
いや別に、と笑っているつもりがニヤニヤとでもしていたのか、何だよと少しふくれっ面になる。
自分の兄バカ加減ににやついてんだ、おまえをわらってんじゃねーよ。
スープの後に、サラダと肉が運ばれてきて、それを嬉しげに一口切って、タケルが口に運んでにっこり笑う。
うまいか?
うん、おいしい!
そか、よかったな。
さすが、いいお肉だね。
いい肉かってどうしてわかるんだ?
だって・・高いんでしょ?
高くても、何の肉だかわかんないだろ。
どして? 仔牛の肉じゃなかった? そう書いてたよ、メニューに。
さあ、案外、人の肉だったりして。ほら見てみな、このへんとか・・。
・・え。
ばーか、冗談に決まってんだろ。
にいさん・・・と呼ぶ声は完全に怒ってるな?
怒った顔も好きだ。マジで。
素だからな、そういう時の顔って。
声に出してそう言ったら、きっともっと怒るだろうが。
きっと俺は、今日食べた肉の、この味を一生忘れないだろう。
やわらかな肉の歯ごたえと、ソースの旨みと肉汁と、それから微かな血の味と・・・。
レアになんて、してくれっていうんじゃなかったな。
なんか、すげえ、ナマナマしいや。
こうしてサヨナラしてくことが、なんだか、あまりにも生々しい。
おまえを前にしてると、全部、そういうことが非現実的で、こういうおだやかな時間がまるでずっと永遠に続くようなのに、な。
いや、わかってる。
永遠なんて、ねえよ。わかってる。
食事が終わる。
いい加減、話を切り出さなくちゃ、な。
空になった皿が下げられる。
その端っこの、ソースまで味合うんだから、まだ持ってくな。
そう言いたい。
せめて、もう少し、時間稼ぎをさせてくれ。
もう少し、この心地よい時間を、せめてあと少し。
食後の飲み物を聞かれ、タケルがコーヒーを、と答えた。
俺が意外そうな顔で見る。
あれ? おまえ、紅茶党だろ?
うん、でもね。
でも?
にいさん、好きだから。コーヒー。
だから、何で?
せっかく一緒に食事したんだから、同じの飲みたいなって。
そっか・・・?
なんとなく、納得できない顔で俺が頷く。
あんまり、コイツがコーヒー飲むとこなんて見たことないから。
もしかして、苦手だったんじゃなかったか?
運ばれてきたコーヒーカップを手にとって、タケルは少し哀しそうに微笑んだ。
おい、砂糖は?
いらない。
ミルクは?
ミルクも。
ブラックかよ?
呆れたように聞く俺に、ちらっと睨むように上目使いで俺を見て、まるで青汁でも飲んでるかのような顔でコーヒーを一口飲んで、顔をしかめた。
ほら。
水の入ったグラスを差し出す俺をまた、少し赤い目で睨んだ。
涙ぐむほど苦いんなら、飲むなって。
いいんだ。
よくねえよ。
いいってば。
貸せよ、ミルクと砂糖入れてやっから。
いいってば・・!
タケルがそう小さく叫ぶように言って、カップを奪おうとする俺の指をはがそうとするなり、ぽろっと一粒、その反動で涙がこぼれた。
あまりのことに、驚きに瞳を見開く。
なんで、なんで、いきなり泣くんだ?
「タケル・・?」
言葉に現実味が戻ってくる。
今まで、この店に入った時からフィルターの向こうからすべてを見ていたかのように、ぼんやりとしか聞こえていなかった自分の声も、はっきりと聞こえた。
そうか、わかった・・。
何を見てたんだろう。俺は。
こいつは、
弟は、
最初から、
カクゴしてここにきたのに。
全部わかっていて、笑っていたのに。
くっと唇を噛んで横を向いて、自分でもまったく予想外だったらしい涙を慌ててさっと腕で拭う。
そして、何事もなかったように、カップを持ち直し、それからまだ目は赤いのに、にっこり笑った。
「やっぱり、ちょっと苦いけど・・・。美味しいよ?」
「そうか・・」
「うん」
「俺な、タケル」
もうタイムオーバーだ。
いきなり話を切り出されたことに、びく!と小さく肩が上がった。
それを見ないようにして、視線を窓の遠くに向ける。
それからそっと息を吐き出して、ゆっくり、だけども、休まないように話した。
胸のあたりが、鉛の球でも呑み込んだように重かった。
「アメリカに留学することになったんだ。いろいろやってみたいことがあって・・・。しばらく帰ってこねえけど」
「うん・・ ヒカリちゃんが、ちょっと太一さんに、聞いたって・・」
タケルが自分の膝の上に、ちょこんと自分の両の拳を置く。
そっか。
聞いていたか・・。
いや、太一に話したのには、ちょっとそういう計算もあったかもしれない。
できれば少し前に、誰かの口から聞いてくれてた方が、おまえにも話しやすいかもしれないと。
「そ・・か。おまえに言うの、ゆっくり話せる時にって思ってたら、遅くなっちまって」
「ううん。僕も、兄さんから直接聞きたかったから」
ちょっと俯き加減に、タケルが自分の拳を見る。
「いつ・・・?」
「来月の1日」
「え・・・!」
驚いて、思わず顔を上げて俺を見た。
タケルが驚くのも無理はない。
来月ったって、今日はもう29日だ。
つまり、日本を発つのは明後日。
「どうして・・・・」
「ん?」
「どうして、もっと早く・・・ どうして・・・・そんな・・突然・・・」
絞り出すように言う。
突然じゃないんだ。
ずっと前から用意もぬかりなくして、準備万端な状態だった。
いつでも飛行機に乗れるくらい。
けど、荷物や書類の整理がついても、気持ちの整理だけはどうしてもなかなかつかなかった。
どうしても叶えたい夢があって、たとえそのための旅立ちだとしても、おまえのそばから離れたくなかった。
やっとわかったよ、
幼い時から、いつも離れたくなかったのは俺の方で、
甘えていたいのも、ずっと俺の方だった。
おまえの側が、一番心地よかったから。
誰といるよりも、自然で、やさしい気持ちでいられた。
おまえのためなら、どんなことでもしてやれると、本気でそう思っていた。
いや、それは今でもそう思っているけどな。
「見送り、行くよ。空港まで」
「いいって。皆、断ってんだ。そういうの、なんか苦手だし」
「どうして? 一人でなんて淋しいじゃない」
「別に淋しくないって。子供じゃねーんだから」
つとめて明るく言う。
それでも、だけど、と引かないおまえにもう一つ、サヨナラを突きつけなくてはいけない。
物質的なサヨナラと、もう一つ、この気持ちへのサヨナラと。
おまえには、関係ないことかもしんないけれど。
「別に淋しくねえんだって。一人じゃねえから」
「え?」
どういうこと?と瞳が尋ねる。
迷う前に言葉にした。
「彼女も一緒だから」
「・・・・え・・・っ」
「向こうで、一緒に暮らすことになった」
瞳が最大限に見開かれた。
何もかもが。
その一瞬で、
世界も全部、
終わりがきた、
そんな瞳だった。
たとえば、こんな至近距離で、もし弾丸を胸に撃ち込まれたとしたら、人はどのくらいの衝撃を受けるのだろう。
銃口を向けた方も、引き金をひいた指先が、同じ衝撃に割れて血が飛び散るだろうか。
弟は、なんどか瞬きをして、自分が生きているのか、息をしているのか、確認しているかのようだった。
なんて顔、するんだよ。
どうして、そんな顔、すんだ?
頭が割れそうに痛い。
身体中が引きちぎられるように痛い。
少し身体を動かすだけで、あちらこちらから血が流れるようなそんな気がした。
それでも、動けないままじっとしている弟に、やっと手を差し延ばして、そっと色をなくした冷たい頬に触れた。
微かに、その手のひらに自分から頬を寄せて、タケルが長い長い時間の末(実際は数十秒だろうが)、やっと言った。
「結婚するの?」
「ああ」
たぶん。
既にそういう話もしてきた。
いづれ、そうすることになるだろう。
彼女もまた、目的を持って渡米する。
一緒に夢を築けるかもしれない、ただ一人の女性だから。
タケルとは違う意味で、本気で大切に思っている。
もっとも、持っている夢は別々だから、何の保証もないのだけれど。
タケルは、またフィルターの向こうに行ったように、不確かな存在になり、自分の頬にある俺の手を静かにテーブルの上に戻した。
「幸せに、なってね」
今までで一番大人びた、静かな微笑みを浮かべて、弟はそう言った。
その小さな顔が、愛しくて愛しくて愛しくて・・・。
思わず、顔を背けて、血が滲むほど強く唇を噛みしめる俺に、弟は、自分に言い聞かすようにもう一度言った。
幸せになってね、『お兄ちゃん』
・・・・と。


送るよ、車だから。というのを、いいよ、歩いてくと笑顔でかわして、タケルが夜の街の光の中に紛れていく。
それを、その姿を車を止めて、小さく小さく見えなくなるまで見送って、ヤマトは堪えきれず、ハンドルに突っ伏すようにして、頭を抱えた。
髪を両手で掴むようにして、嗚咽を噛みしめる。
今、車を降りて、追いかけて、抱きしめて、何もかも全部タケルのために無くせたら、それはどんなに幸福だろう。
何一つ残らなくても、弟がいればいいと、それだけでいいと、こんなにもはっきりと思えるのに。
今、自分の中で、一番確かな思いなのに。
どうして、兄弟なんかに産まれてしまったんだろう・・!
もしも、兄弟じゃなかったら、もしも血がつながってなかったら、もっともっと、貪欲に求められたかもしれない。
たとえ男だって構わずに、引き裂いて、どんなに卑怯な手段を使っても、自分のものにしたかもしれない。
だけど、アイツは弟で、誰よりも守ってやりたい大事なヤツで、だから、こうするしかなかった。
どんなに一方的な突然の別れをしたって憎まれたって傷つけたって、アイツを狂った自分の手で壊して貶めて不幸にするなんてことは、それだけは俺が絶対許しはしないから・・!
俺が、弟を、守るんだ。
「タケル・・タケル・・・・タ・・・・ケル・・・・・タケル・・・・・ッ・・!!」
歯を食いしばっても、頭を掻き抱くようにしても、低く呻くような声が漏れ、涙は後から後からこぼれ落ちた。



好きだよ、タケル。
ずっと、俺だけのものにしておきたかった。






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はっと目がさめて、泣いている自分に気がつくと、ヤマトはびっくりしたように慌てて手の甲で涙を拭った。
驚いた。
何で泣いているんだ・・?
ぼんやりする頭を軽く振ると、ヤマトは、ところでどうしてこんなところで、壁に凭れて坐り込んだまま寝ていたのかと部屋の中を見渡した。
そちこちに転がる、空き缶が・・・。
空き缶?
ちょっと待て。
たしか、そうだ。
今日はオヤジが帰らないからって、タケルを呼んで夕飯を一緒に食べて、ちょっと酒でも飲んでみるか?なんて、まだ中学生の弟をそそのかして・・。
と、1つ1つ思い返す。
ちょっとからかうとすぐにムキになるから、その反応が可愛くて、よくヤマトはそんなことをするのだが。
でも、確か飲ませたのはビールを軽くグラスに一杯程度だったはず。
なんだ、この缶の山は!
頭のぐらぐら具合から察するに、自分も相当飲んだんだろうが、いくらそれでもこの数は・・・。
まさか。
蒼白になりかけたところに、にゅっと、こちらは真っ赤になった顔が目の前に現れた。
「どしたのー?」
「え・・・?」
「どうしたの、おにいちゃんてば!」
「おい・・・。目、すわってるけど」
「そんなことないよぉ、ちゃんと立ってるよー」
「いや、そうじゃなくて、目が・・・。つか、おまえ、ヒトが寝てる間に、いったいどんだけ飲んだんだよ!」
「わかんない」
「わかんないってなあ!!」
怒鳴られてても上機嫌なタケルは、ぺたんとヤマトの前に座り込むと、いきなりその足の上に乗り上げてき、ヤマトの首に腕を回してしがみついた。
「え・・・・! お、おい、ちょっと、タ、タケル・・・」
抱きつかれた瞬間に、さっき見た夢を思い出した。
そう、確か、自分のヨコシマな思いを恐れて、アメリカに・・・?
アメリカに、何しに行ったんだっけ?
しかも、女連れて。
女もいい迷惑だよなあ。
それで、ケッコンなんてされちゃ、たまんないぜ?
第一・・。
「おにいちゃあん」
「おにいちゃんて・・」
中学生になって以来、すっかり『にいさん』が定着してるというのに、なんだ、いきなり『おにいちゃん』て。
あまりに久しぶりなものだから、なんだかちょっとくすぐったい。
ましてや、甘えて抱きつかれるなんて、長いことなかったから。
ヤマトが内心焦りつつ、しがみついてくる身体を抱き返す。
あんな夢の後だから、つい力を込めて抱いてしまいそうになるのを、ぐっと堪えつつ。
それでも、甘えられるとこんなに嬉しい。
かわいい。
そう、さっきの続き。
第一、こんな頼りなくて可愛いの置いて、心配でアメリカなんて行けるか?って、そう思いかけたとこだった。
「ねえ、おにいちゃん」
「ん?」
「僕のこと、好き?」
「え?」
「嫌いなの?」
「いや、嫌いってことは・・・」
「嫌いなんだ」
「え、いや、だからそうじゃなくて」
好きって言えってのかよ!
夢の中で、あんなに苦しんで呑み込んだ言葉を、酒の勢いで言えっての?
なんかそれって、ちょっと軽すぎな気が・・・。
しかも、おまえ、カラミ酒だし。
ヤマトが戸惑っているうち、タケルの声はだんだんに低くなっていく。目、坐ってる、完全に。
「ふうん、そうなんだ・・」
「って、オイ」
「おにいちゃんって、おにいちゃんって、僕のこと嫌いだったんだああ・・!」
「おおおい、泣くなっての!! 今度は泣き上戸かよ、おまえ!」
ヤマトの足の上を跨ぐカタチでちょこんと坐って、向かいあって密着してくるタケルに、さすがにそんなことをしていると変な気になってくる。
夢の中ほど切羽詰ってはないが、一番好きで一番大事だと思っているのがこの弟だということに関してはまったく異論はないわけで。
時折それも、兄としての感情をはるかに越えていくこともあるけれど、今はまだコントロール出来ている。
この先の保証はないが。
今はまだ、こうしているだけでいい。
いつか、そんな風に離れていかないと、どうにもこうにもならない気持ちの時がやってくるのかもしれないが。
まだ今は、自分の将来も見えてこないし、こいつとのことだって、ずっと自分の気持ちの中に封印しておければ、ずっと兄としてそばにいてやれるわけなんだし。
それにやっぱり、頼りないし、こんなの放ってどっかに行ったら、心配で心配で、メシも咽喉を通らないだろう。
とりあえず、俺以外とは、酒は絶対飲むなよ、飲んじゃいけない。こんな風に、たとえば大輔とかにでも抱きついたりでもしたら・・!
ダメだ、考えただけで発狂しそうだ。
正気になったら、厳しく言ってきかさないと・・!
「おにいちゃん・・・」
「どうした・・?」
「嫌い・・?」
「おまえのこと? 嫌ってるだなんて、本気で思うか?」
「・・・思わない、けど」
「好きだよ」
「・・うん」
「おまえのこと、大好きだよ。誰よりも」
「・・・・・・・うん」
ヤマトの言葉に、ぐしゅん・・と鼻を鳴らしてタケルが頷く。
好きだと言われて、赤かった頬が、気のせいかさらに赤くなった。
ぎゅっとヤマトの首にしがみつく。
髪の毛、いい匂いがする。
身体も、同じ親から生まれたせいか、抱いていると驚くほどしっとりと腕になじむ。
この気持ちの果てにあるものか何なのか今は到底わかりはしないが、今は、このままでいいと思う。
想いを隠して偽って、それでもそばにいてやりたいとそう心から思っているから。
もっとも。
このままベッドに運んでヨシと言われれば、即、小躍りして実行しそうな欲望も正直のところあるけど。
そうなったらそうなったで。
ま、いいか。と。
半分酔った頭でそんなことを考えるヤマトに、タケルがその耳もとで、甘い声で兄を呼んだ。
「おにいちゃん・・」
「んー?」
「気持ちわるい・・・」
「んー? え。ええ・・! ちょっと待て、まだ吐くなよ! え、えっと、こ、こっち、いや、こっちだ。まだ吐くなって、タケル、おいタケルって、ほら・・!」



兄としての受難は続くけど。
今はまだ、これが幸福だから、それでいい。
今はまだ、このままで。


 END






ひゃー、やっとこ5夜アップです。
一番書くのがつらかったので、時間かかっちゃいました。
タケルサイドから書いたらもっと早かったんだけど、悲壮な話になっちゃいそうだし。
ヤマトが悩んだ挙句にこうした結論を出したんだというのも、少し書いてみたかった。
浸りすぎてて、ちょっとハズカシイかなー。
でもま、それもヤマトらしいかなーということで、あと2夜頑張りまっすv
しかし、年齢あげると色々難しいことも出てくるなあ・・・。