■ Deep amber ■ |
「なあ?」 「うん」 「なんで、俺はお前に酷くできねぇ?」 食事を終え、しばらくはベッドに腰掛けたまま、他愛もないことをぽつりぽつりと話していたりもしたが。 まだ熱のある銀次の身体は、かなり体力も落ちていたせいもあり、小一時間で起きていることがつらくなってしまった。 その身体をゆっくりと気遣いながらベッドに戻し、横たわる銀次に覆い被さる様にして、蛮が訊く。 気配が重なるほどの傍らでのやさしい問いかけは、銀次にはまだ酷なのだが。それでも冷たくされるよりは断然嬉しいと、心が素直に喜んでしまう。 きっと蛮がこの部屋から去った後で、その自分の弱さを自身を責めてしまうだろうけれど。今はいい。いいことにしたかった。 こんな風に蛮が自分の傍にいてくれる、そのこと自体がとても久しぶりのことなのだから。 「って、あの。それをオレに聞かれても、困るんだけど」 唐突な問いに、銀次が困惑しながら、蛮を見上げる。 第一、今はそうじゃないけど、結構酷いこともされたような気がするのだが。 いや、もちろんそれは言わないけれど。 「どうしてだ?」 再びの問いかけに、答えはつい苦笑混じりになる。 「んぁーと…。きっと、オレが馬鹿に見えるからっしょ」 「? それが何だ?」 「怒ったりすんの、馬鹿馬鹿しくなるんじゃない?…かなあって」 そんな風に、蛮自身に言われたことが過去にあるから。 『テメーを相手にしてっと、時々赤ん坊の相手にしてるみてぇでよ、怒るのも馬鹿馬鹿しくなっちまうわな―』 なんて。 ぐしゃぐしゃと照れくさそうに、銀次の髪の毛を掻き乱しながら、そう言ってくれた。 「オレ、蛮ちゃ…、蛮さんじゃないからわかんないけど」 いつもの呼称が思わず口をつきそうになり、慌てて訂正する。 記憶をなくしてから、家庭持ちになったせいだろうか。銀次が"蛮さん"と呼んでもそうおかしくはないくらい、蛮は年齢よりも落ち着いて大人びて見えている。 かえって、"ちゃん"づけの方が不自然かもしれない。銀次が、少し寂しいなと感じながらも、そう思う。 「…そうか」 「うん」 ベッドを下り、畳に胡座をかいて座り込み、蛮がズボンのポケットから煙草を取り出す。懐かしいしぐさ。 煙草を取り出してから、ジッポで火を点し、フ――ッ…と煙を吐き出すまでの一連の動作が、なんだか妙に男臭くて、銀次はいつもそれを、隣から眺めているのが好きだった。 そういえば、ここへ来てから、煙草を吸うところを見るのは初めてのような気がする。 あのヘビースモーカーの蛮が――。 ひなたくんのためだろうか? 思いつつ、じいっと見ていると、ふいに蛮がベッドの上の銀次を肩越しに振り返った。 「おい」 「え?」 「今、何て呼んだ?」 銀次が思わずどきりとする。だが、何くわぬ顔で返した。 「え…と。" 蛮さん"?」 同じ年くらいの者に"さんづけ"をされるのが気に入らなかったのか? そんな風に思いながら。やや上目使いになる。 「その前だ」 きっぱりと言われ、銀次はますますどきりとした。思わず口ごもろうとするが、蛮の目がどうもそれを許しそうにない。おずおずと答えた。 「……蛮…ちゃん」 「そっちでいい」 「え!?」 蛮の答えに、ベッドの上で銀次が驚きのあまり、飛び上がりそうになった。 「さんづけなんぞ、慣れてねぇ」 「あ、でも! オレ、勝手にそう呼んでるだけだし! ていうか、ちゃんづけでも慣れてないでしょ! いいよ、オレ、蛮さんって呼ぶから」 「オレが構わないと言っている」 「でも、蛮ちゃん! あ…!」 思わず言って真っ赤に頬を染めてしまう銀次に、蛮が滅多に見せないようなやわらかな笑みをふいにその口元に浮かべた。 記憶をなくしてからの蛮は、以前に比べてずっとぶっきらぼうで、ほとんど表情を表に出さない方だったから、それは非常に珍しいことだった。 「それでいい」 「…蛮、ちゃん」 「どうしてだか、わからねぇが…。妙に、耳に心地好い。だから、そう呼べ」 声音はやさしい。銀次は、言葉が出ない。 胸が苦しくて、言葉にならない。 「…ん」 やっとそれだけ答えた銀次の瞳に、蛮が微かに眉を潜めた。 「……なんで、泣く……?」 銀次の瞳を溢れ、ぽろぽろとその頬に落ちてくる涙に、蛮が驚いたように立ち上がり、ベッドの端に腰掛けた。 今までの涙とは意味合いが違う、それに気づいたのだろうか。 手の平で辿るように銀次を頬を撫で、無理に微笑もうとする銀次を切なげに見下ろす。 「ごめん。なんでもない…。なんでもないから…」 小さく首を横に振りながらそう告げる銀次に、蛮が問うようにその瞳を覗き込む。 やさしく戸惑いがちにふれてくる蛮の指先が、銀次の前髪をそっと上げた。 そして、両の手の平の中に、その頭を包むようにされる。 涙がとまらない。 そのあたたかさが、どうしようもなく嬉しくて。切なくて。 銀次は数度瞬くと、やっと、というように、やわらかな笑みを蛮に向けた。 泣き声を漏らしてしまわないように、幾度か唇を噛む。 そうして、どうにか声にのせた言葉は消え入りそうにか細かったが、蛮の耳にははっきりと届いた。 「ありがとう…。蛮、ちゃん…」 それを受けて、笑んで頷く。 ――不思議だ。 この声で、そう呼ばれる。途端に自分の存在が、この世界でひどく確かなものになったような気がした。 たぶん、今まではそうではなかったのだろう。 快い声に名を呼ばれ、蛮もその名が呼びたくなった。 同じことが、コイツの中にも起きるのだろうか。 起きたら、いい。そう願い、尋ねた。 「お前、名前は?」 |