Deep amber 
                      


雨雲が空を覆っている。
雷を感じる。
雨が近い。

思って数分後、空は銀次の予報通りにしとしとと泣き出した。
やっぱり天気予報屋さんになれるかも。
そう思いつつ防波堤を降り、少し歩いた所で、銀次はぎくりとして足を止めた。

一瞬で視界が曇ったのは、雨のせいではなかった。


(蛮、ちゃん…)

呼んではいけないと自分に言い聞かせても、顔を見れば無意識に心が勝手にその名を呼ぶ。
こちらに向かって、丘から降りてくる道を歩いてくる蛮を前にして、胸が大きく高鳴った。銀次の全身が、極度の緊張に指の先まで固く強張る。
姿が近づくにつれ、名を呼びたくて唇がわなないた。だが、今は駄目だ。しちゃいけない。そう自分にきつく言い聞かせて、せめて見送るようにしたいと道を譲るようにして、その脇に寄って立ち止まった。少しでも長く、やっとそばにきてくれた蛮を自分の瞳に映しておきたかったのだ。

懐かしい姿。
瞳…。髪…。腕…。胸…。肩…。背中…。

声が聞きたい。
その声で呼んでほしい。
一度だけでいいから。

銀次の心が叫びを上げそうになる。
胸が掻き毟られるような苦しい思いに、倒れてしまいそうだ。

ふいに真近まで来て、蛮の瞳がちらりとその視界の端に銀次をとらえた。銀次が飛び上がらんばかりに、どきりとする。それでも。
じっとそれを、懐かしい紫紺の瞳を見つめ返して、銀次が立ち竦んだまま縋るような琥珀に蛮を映す。
その横をゆっくりと通り過ぎていく蛮の黒い髪が、海からの風に雨の中でもさらりと流れるのを、まるで夢でも見ているような瞳で見つめた。

そして、ゆっくりと。
ゆっくりと。夢のような刻は過ぎていく。

徐々に自分から遠ざかっていく蛮の背を見送り、その瞳をつらそうにゆるく閉ざそうとするだけで、抗って瞼が激しく震えた。まだ、見ていたい。もっと見ていたいと我が儘を言う己の琥珀の瞳を戒めるように、ゆっくりと踵を返す。
背中全部に、いや全身に蛮の存在を感じながら、銀次は重い一歩をやっと押し出すかのようにして歩き始めた。
まるで、これが永遠の別れであるかのように。

――が。わずか一歩半で、その歩みは止められた。

蛮が肩越しに振り向くようにして、今度は紫紺の中心に、確実に銀次を捉えたのだ。その強烈な気配に、微かな可能性を信じて、銀次がはっと身体ごと振り向く。

「ば…!」

だが、可能性は第一声に打ち砕かれた。木っ端微塵に。




「てめぇは何だ」


…え?




「俺らに付き纏っている理由は何だ?」

――俺ら。


よく蛮は、銀次もひっくるめた総称でそう呼んだ。
オレら。オレたち。
いつもそんな風に一括りにされていることが、なぜだか銀次にはとても嬉しかった。

―――今は、もうちがうけれど。その括りの中から、自分は弾き出されてしまったけれど。

動揺とともに、胸の奥がズキリと痛んだ。


「え…。そ、それ、は…」
舌がもつれる。上手く話せない。

「迷惑してる」

「…えっ」
「ガキが恐がる」
「あ…! ご、ごめん、あの、そんなつもりじゃなくて、オレはただ…!」
「……」


――オレはただ。


こうして傍にいれば、いつか蛮ちゃんがオレを思い出してくれるんじゃないかって、最初は本当はそう思っていたけれど。
そのために新宿から離れ、この海辺の町で、アパートを借りて暮らし始めたんだけれど。
でも。今は少しちがってきてる気がする。
蛮ちゃんの今の暮らしを邪魔するとか、そんなじゃなくて。遠くからでも、少しでも、その顔が見れたらいいなあって。そう思ってるだけだから。
その生活を、自分も遠くから一緒に護っていけたら、それは、それでいいんじゃないかって。本気でそう思っている。だから――。

一人で生きていける勇気がまだもうちょっと足りないから、もう少しだけ、あともう少しだけ、ここに居られたら、蛮ちゃんの顔見たら。せめて声だけでも聞けたら。
この町を出ていくから。
だから、どうか、邪魔になんないようにするから、あともう少しだけ。ここにいさせてほしい。
ちょうどこの町でやんなきゃならない"仕事"も、まだ終わってはないし。それが済むまでは、せめて後もう少しだけ…。

心の中で、祈るようなキモチで銀次が言う。言葉に出すことは到底できず、ただ、ぎゅっと両の拳を握り締め、冷たい紫紺を無言で見つめ返すことしかできなかったけれど。


「ウゼェんだよ、オマエ」


「…え?」
「ちょろちょろと、人の周りをよ」


あ…。気付かれてた…? 
でも、それは、それには理由があって――。

銀次が、その事だけでも弁明しようと口を開きかけるが、だが、蛮は容赦がなかった。
重い声が、銀次の頭の中に鈍く響いた。まるでこめかみに銃弾を打ち込まれたかの如く、それは鈍く重い痛みだった。


「これ以上、近づくな。俺らに」
「…あ」






「――失せろ」






言葉の中身を理解するより先に、次の瞬間、腹部のど真ん中に恐ろしいほどの衝撃があった。


「――!」


痛みのあまり、呼吸が完全に停止しそうになる。
いっそ、その手でそうしてもらえたら、どんなにか楽だったろう。

腹部の痛みが、そこに蛮の鋭い拳がめりこんでいる所為なのだと銀次が認識するまでには、かなりの時間を要した。
「……ぐ…うっ…」
呻きを漏らして、膝から順に銀次の身体が崩れていく。最後には腹を押さえた体勢で、顔から地に倒れ込んだ。
次第に強くなってきた雨に、道はぬかるんでいた。雨水がびしゃりと跳ねる。
その頭上から、蛮の冷たい声が吐き捨てるように言った。

「チンピラが。二度と俺らの前に、そのツラ見せやがるんじゃねえ―」

冷たい声。他人を見るような、冷ややかな瞳。
あんなに、あれほど。
愛情を込めて自分を呼んでくれた声が。あたたかく包み込むようだった瞳が。
今は、もうそこにはない――。

――世界中、どこを探しても、もう存在しないのだ。
   もう2度と。未来永劫。



――突然に降り出した雨の粒は、結構な大粒で。その視界も濡らしてしまう勢いではあったけれど。
視界がぼんやりしてしまうのは、心に受けたショックがあまりに大きすぎたせいだろう。心が砕けてしまったせいだろう。


へ…へへ…。
効いたよ、蛮ちゃん…。

どうしよう。
至近距離で胸に撃ち込まれた一方的な「サヨナラ」に、オレ、瀕死の状態だよ…。
まいったなあ。

自分では、自分は結構強い気でいたけれど。さすがに相当堪えた。
堪えたよ、蛮ちゃん…。


ひどいな…。
ひどいよ…。


待ってろって言ったのに。そうオレに言ったの、蛮ちゃんなのに。


――あの日。

かならず迎えにきてやるから、ここで待ってろって。
そう言い残していなくなった蛮ちゃんを、オレは一日中、廻り続けるメリーゴーランドを見ながら待っていたのに。
夜になって誰もいなくなった遊園地で、それでも膝を抱えて一人ずっと待ちつづけたのに。
それから幾日も。ずっとずっと待ち続けたのに…。


意識が、闇に落ちていく…。


雨音に混じって去っていく蛮の足音と、それを迎えにきたらしい小さな黄色の長靴が、パシャパシャと水を弾いて蛮に向かって駆け出すのが、薄れていく銀次の視界の隅を鮮やかに横切った。
蛮の腕がその子を抱き上げ、その後からついてきた少女のような愛らしい笑顔の女性が、傘を蛮に渡して二言三言話しかける。大きな黒い傘が、ぱんと開いた。
そして、そのまま彼らが銀次に背を向け歩き出すのを、銀次はぬかるみにうつ伏せたまま、ただぼんやりと空っぽの瞳で見つめていた。


雨足は強まり、地を叩き付ける雨に、銀次の姿は消されている。見つけられることもないまま、気付かれることもなく。

このまま、雨に皮膚も骨も溶かされて、あとかたもなく大地に染み込んで消えてしまえたら。
この痛みも消えてなくなってしまうだろうか。

降りしきる雨の中で、周囲の景色はぼんやりとけぶって見えた。






ここはどこだろう。
自分はいつからこうして、ぬかるみの中に倒れ込んでいるのだろう。

現実か、それとも愛おしい男の不現の瞳が見せる夢の中にいるのか、もうそれさえもわからない。
地にうつ伏せる銀次の背中に、突き刺すように雨の滴が叩き付けられている。
痛いほど、強い雨だ。
それでも感覚は麻痺している。心と同じく麻痺している。冷たさも感じない。
ただ。頬を一筋落ちていくその滴の冷たさだけは、銀次にもわかった。
氷のかけらのようにそれは冷ややかだったから。

自分を見た、紫紺の瞳と同じ。冷たく射るような瞳。


恨んだりしない。
悲しいとかともちがう。
ただ、痛くて。
どうしようもなく、痛くて痛くて、痛くて。苦しくて。

でも、心の痛みだけでは、死ぬことさえ出来ないんだ――。
痛いのに。こんなにも苦しいのに。声を上げて泣くことさえできない。


「……ちゃんっ…!」


取り残された雨の中で。悲鳴のように銀次が叫ぶ。
けれどもその懸命な叫びは、雨音に掻き消されて、蛮の耳に届くことはなかった。

絶望が波のように、その心に押し寄せていた。