解説2
ご質問に有ります三原図書館の信抜流資料の件ですが、存在自体、何故資料として保管されたのか分かりません。
吉永派と荒木派に分かれるそうです。三原は荒木派といわれ、荒木千萬人の直系に学ばれたと、資料にありますが、荒木の系統が絶えた為、相伝家であり、佐分利流槍術宗家の吉永先生が信抜流宗家となられています。荒木より学ばれようが無いのです。それはこの資料に一部の形、名称が共に失伝とある事が物語っています。また
18代川瀬元一先生が勝手に17代吉永俊二先生の元より系譜巻物の件、持ち出し云々も、然るべき吉永先生の免許状を昭和11年8月川瀬先生は授かって居ります。当然、佐分利流槍術もです。どうも、この免許持ち出し、と言う事から吉永先生の弟子筋で(吉永先生の居合術に弟子は3名で、白石、花岡、川瀬先生の3名しかおられません)吉永、川瀬両先生の居合をアレンジされたのではないでしょうか。当然の事ながら荒木の弟子と言われるならば、吉永先生の系譜巻物は関係無いはずなのです。
また何よりも不思議な事は、川瀬先生が、他人に、流儀を勝手に名乗られたく無いとの思いから、16の形の内、3の形の名を変えられています。その内の1つは、日西です。本当は月西なのですが、それらの変えられた形の名が、三原信抜流として、三原の荒木派といわれる資料に残されているのは、非常に残念であり、あえてここにてお答えいたします。 さらに付け加えさせて頂ければ、古武道振興会主催、武道館監修のビデオ収録も、ご宗家お考えの上、形の一部を変えて撮影されました。 また口伝の中には極地、精月、北星、その他、長刀ならではの持手の形や殿中指しの形等、ビデオでの撮影を強く拒否された形が有り、ビデオで、信抜流を練習され、名乗られる方もおられる昨今、賢明な処置であったやもしれません。が、形を変えて良いのも宗家なら、変えてはならないのも宗家であり、 残念でも有ります。当流の稽古者の中にも抜きが変わり、長寸でもない刀で鞘ばかり削っている人が出る始末です。昔は納刀の血振りで、刀を、くるくる回す事は無かった。昔は刀の受けは、このようにしていた。角帯の使用は駄目であった。この形は今は、この方が良いと思い、このようにしているが、昔は、こうしていた等、、ご宗家に昔の形に立ち戻って頂き、一つ一つの抜きを、何を変えられたのか、お聞き致しました。狭い茶室で3尺の刀を抜いての稽古をされた為の事として、本筋に変わりはありませんでしたが、この時、この瞬間、体が勝手に動くよう、またその時、刃筋が通る手筋の為の稽古なのです。些細な事でも意味を違える事も有ります。今は、確認いたしましたままの昔を、何故という問いに、全て立会いと理合で、お答えしています。
奥山会広島県福山支部氏名 形名称 面当常 追刺
杉村 貴司 山東
裏刀切
伊藤 宏美
日西 廻刀車
近藤 人志
四方詰 斜撃
中平 善文 柳風 車冠
古川 浩史 瀧下 席落
岡田 和弘 無之劔
咫尺
前川 勝
飛雲 口伝2
柚木 和夫 他6名 空撫