解説1

備後三原に伝承された信抜流居合術の特徴は、長刀を使用するも左足を出して抜きます。普通に左足を出して抜けば、2尺の刀でも鞘を削り、鞘に穴を開けます。また長刀ゆえ間合いによっては足の踏み換えを行う流儀です。三原での川瀬元一先生佩刀は備前長船祐定3尺3寸でした。
地稽古では、背に円座を背負い、あるいは頭にざるをかぶり、真剣とは逆に短い棒を持って前屈姿勢、ただひたすら相手に背を打たせる事にて気力を練り、相手の足先により、相手の前後左右を見極める事が大事なのですが、現在は形稽古のみ行います。また、信抜流剣法は形名、口述、剣図、のみ伝承しています。

三原には、かって心貫流が2つあり、1つは竹之内流竹之内中務太夫久盛の弟、片山伯耆守久安が文禄5年(1596)京の愛宕神社で貫の1字を以って悟り心貫流と称したそうです。大内家に仕え安芸に住す。後、周防国久珂郡祖生村に住し、吉川家の世話を受ける。慶安3年(1650)没後、片山の心貫流は、伯耆守ゆえ弟子に片山伯耆流と称され現在に至るそうです。

奥山左衛門太夫忠信は、タイ斜流より出、、こちらも伯耆流と同じく、何故か、阿多古神社より一以貫之と悟り、心貫流を創始。この時の立技7太刀を古刀法と言い、他、秘太刀2刀を授かります。5代、永山大学入道信楽は豊後竹田の生まれにて、三原浅野家に仕えるも、先に片山の心貫流あるを以って流名を信抜流と改める。寛文6年(1666)安芸海田に入道隠居。元禄5年(1692)70才で没す。と言われていますが、長尾美作守までは新影流で免許が出ていますので一考を要します。

相伝家は新抜流、新貫流、心抜流等漢字を変えています。江戸では元々の心貫流を称し.兵法の掟の一文の中より忠孝心貫流、または講武実用流と名を変えました。無ノ劔で抜ききれる最長の刀を持つべしと言われ、皆、3尺から抜き、幕末の有名な剣士に平山行蔵がいます。その本家三原では千石家老の戸田家が一国相伝いたします。戸田勝寿の指料は、勤皇差しにて、短く厚い2尺2寸、重ね3分、備後三原住田中源正秀、天保8年君命作之於其邸中が現存いたします。7太刀と書かれていますが、もともと薙刀状の長巻を使用した、太刀討ちの形が原形と成り残っています。

居合の形は、長刀16本短刀2本、他、口伝の形が有ります。16本の内、1つの形を除き、長刀ゆえ、全て肩に担いで斬ります。座技では、正座を神仏の前でする場合も有りますが、基本は胡坐、居合腰です。茶室は正座ですが、長刀は、持ち込めません。江戸時代日常で正座をする事は在りませんでした。明治に天皇御前演武より正座を取り入れられた流儀が多いようです。当流では、自腹の前を山とし、これより45゜左(胡坐でも立技でも左膝の前)が北であり本正面で、初発を北に抜く為、正座でも注意を要します。普通に自腹前を正面として抜けば、右真横より真後ろの敵に対応する形が消えたり、形が重複してしまいます。居合は小さな動作1つ無駄なく理を持っていますが、方位による足先、腰ノ廻りが特に大切であり、初手より正座で稽古をすべきでは有りません。