
解説/張紘
(学三解説)
張昭と並んで「二張」と称される徐州校区の文化人トップ。名文家・名筆家として知られ、大手文芸雑誌が取材にくるくらいの有名人。
曹操の蛮行をおそれて活動拠点を楊州校区へ移し、やがてその地に乗り込んできた孫策の人柄に惚れこみ、長湖部の幹部となる。孫策からは真珠に喩えられるほど重宝された(余談だが、彼女が開設していたサイト名は「海内の真珠」という)。
張昭と違って穏やかに相手を諫めるのだが、相手が容れるまで粘るのは同じ。孫権にも同じスタンスで臨み、こちらは歓迎された。孫権は部員に対して、字が解っていれば(上級生に対しても)字で呼び、そうでなければ「阿(中国語で「〜ちゃん」のニュアンスがある)+名前」の形で呼んでいたが、この「二張」に対してのみ、「フルネーム+〜さん」で呼んで敬意を表していたという。最も、張昭に対するニュアンスと、張紘に対するニュアンスにはかなり大きな違いがあったようだが…。
長湖部本部をより長湖に近い建業へ移すよう言い残してから、部を卒業。この案は直ちに実行に移された。
彼女はあるとき、柘榴の樹で出来た机を見て、その木目の面白いことから一片の詩を作ったが、幼馴染で妹分でもあった陳琳はその詩に感動して周囲にそれを広めて回ったというエピソードがある。彼女のHNである「POM(柘榴、の意)」の由来も、このとき陳琳が併せて考えたものである。
(史実解説) 張紘(ちょうこう)/一五三〜二一二
字は子綱。広陵の人。
洛陽の大学で学んだ後帰郷し、茂才として推挙されたり、三公の府から招聘されたりもしたが、そのいずれにも応じず、戦乱を避けて江東へ移住した。
孫策が挙兵するとその元に仕官し、張昭と共にその参謀となった。孫策は出征すると、張昭と張紘のいずれかを必ず従軍させ、いずれかに留守を守らせた。建安四(一九九)年、孫策の命により許都で天子に拝謁したのだが、そのまま許都に引き止められて侍御史に任ぜられた。
曹操が孫策の死に乗じて江東を攻めようとした際、それを諌めて取りやめさせたため、曹操は彼の意見を取り上げて孫権を孫策の後継者となるよう取り計らったという。曹操はなんとか彼を自分になびかせようとしたが、張紘が孫家への恩義を忘れずにいたため、彼から孫一門を自分に帰順させようと考え、会稽東部都尉に任じて江東へ戻らせた。
江夏攻略の際、会稽の東部は特に憂慮すべき問題もなかったため、孫権は背後の守りを張紘に任せた。後に孫権は彼が後方を守った功労を認めて褒賞を与えようとしたが、張紘は自分にその資格はないと固辞し続けた。孫権は普段、臣下を字で呼びかけていたのだが、張昭に対しては「張公」、張紘に対してはその官職から「東部」と称し、臣下の中でも特別な扱いをしていた。それゆえ、褒章を固辞する張紘の気持ちを尊重し、無理強いはしなかったという。
後に長吏として、赤壁の戦いに呼応した合肥攻略に従軍した。孫権が先頭切って戦おうとすると、張紘は「たとえ敵将を斬り、軍旗を奪い、戦場に威を示したとしても、それは武将たちの役目であって総司令官の役目ではありません。どうかお心に覇王としての計略をお持ちになってください」と諌め、孫権もそれに従って自ら陣頭に立つのをやめた。また、その翌年に再度兵を出そうとしたときも、諌止して思いとどまらせている。他にも張紘は、孫権の日常生活の場に侍して、ちょっとした言葉や正面から述べぬ意見によって、常々孫権の行動を誡め正していたという。
二一二年、張紘は孫家勢力の本拠地を呉から秣陵に移すように進言し、孫権もそれを受けて本拠を秣陵に移した。張紘は孫権の家族を呉の地へ迎えに行く道中、俄かに病を発して帰らぬ人となった。危篤の際、息子の張靖に孫権への遺言状を託し、それを読んだ孫権はその死を惜しんで涙したという。享年は六十歳。
優秀な官吏としてのみならず、詩賦など十余篇の作品を残したことでも知られる文人でもあった。許都にいた時には孔融らとも親交を深め、同郷の文人である陳琳とは互いに文才を讃えあう関係であったという。
(くらげのたわごと)
張姓ではありますが、張昭や張温とは血縁関係など特になかったそうです。演義では張昭とともに「江東の二張」と称され、孫策の三顧の礼で招聘されていますが、正史の記述ではどうも張紘のほうから孫策の元に出向いた、という感じらしいです。きっとウマが合ったんでしょう。
演義では何故か、ずっと曹操の元に引き止められたことになっていて、秣陵(建業。現在の南京)遷都はその遺言によって行われたことになっています。史実では、孫権が孫策の後継者になって間もなく呉に戻って、その後はずっと孫権の側近くに仕えていたのですけどね。
曹操親子ほど有名にはなれなかったとはいえ、それでも相当な文才の持ち主であったらしく、柘榴の木から作られた枕の木目が面白いという理由から、それを題材にして詩を作ったら、これを読んだ陳琳が感動して人に紹介しまくったというエピソードがあるそうです。残念ながらその賦は正史に収録されていませんが…。
というわけで「学三」張紘も文学少女です。でも文学少女というよりはもう女流作家の域にまで達してしまってるそうですが…何ゆえか常日頃から着物を着ているとか、持っているウェブサイトの名前が「柘榴の花」だとか裏設定が豊富です(w)。まぁ「柘榴の花」の元ネタは陳琳とのやりとりにあるのですが。もしかしたら、もう印税生活とかしてるのかも知れませんね、きっと。
