海月個人としては、悪君ではないと思うのですが…


解説/孫皓


(学三解説)
長湖部最後の部長。孫権の従妹孫和の妹に当たる。
幼い時分は孫策によく似た快活で聡明な少女であったが、孫和を襲った度重なる不幸の影響は孫皓の精神をも蝕んでいたらしく、部長の座に着くとそれまでの功臣でも自分が気に食わないものは片っ端から処断し、己の権勢を誇るために無理な戦闘活動を断行するなどして、長湖部全体から非難を浴びた。こうした孫皓の行動により、かろうじて命脈を保っていた長湖部も、陸一族や丁奉、朱績といった名臣・名将の引退もあって急速に崩壊のスピードを速め、彼女が部長職に着いた翌年に長湖部は解体された。
孫皓は降伏の際、側近の薛瑩の言葉に従って自らを捕縛させて投降、さらにはそれに際し、残された部員達に向けて「この事態はすべて私ひとりの責任であり、あなたたちは新たなる世界で思う存分力を発揮しなさい」と声明を残した。こうしたことから「孫皓はただの暴君ではなく、何らかの意図があってあえて暴君の如き振る舞いをしていたのではないか」という説を唱えるものもいるという。この件に関しては陸凱ら一部のものが詳しい事情を知っていると噂されるが、彼女らは生涯この真相について口外しなかったために結局真相は不明である。残ったのはただ、その行為による、孫皓の「消えることのない汚名」のみである…。


(史実的人物解説) 孫皓(そんこう)/二四三〜二八四(一説に二四二〜二八三)
字は元宗。廃嫡太子孫和の長男で、孫権にとっては孫に当たる。一名を彭祖、字を皓宗をいったともある。
孫休の即位した頃、烏程候に任じられた。孫休が即位から七年して世を去ると、かつて烏程にいた頃孫皓と懇意にしていた左典軍の万ケは、当時政治の実権を握っていた丞相の濮陽興や左将軍の張布に「かの人には才知と見識があり、長沙桓王(孫策)にも劣らない」と話し、孫皓を帝位に就けるように仕向けたという。
こうして二十三歳になっていた孫皓は帝位に就いた。初めは官倉を開いて飢民を救い、規定を定めて宮女を開放して妻のない者に添わせたり、御苑で飼われていた鳥獣も逃がすなど善政を布いたと「江表伝」に記されている。人々は孫皓を名君と讃えたが、それから間もなく、孫皓は酒色に溺れる暴君と化し、人々を落胆させた。濮陽興も張布も孫皓を帝位に就けたことを後悔したが、そのことを讒言する者があって、ふたりは孫皓が帝位に就いた年の内に誅殺されてしまった。
その後も孫皓による暴政は続き、二六五年に遷都した武昌から翌年に建業に戻すと、巨額の出費を投じて宮殿造営を行った。それと同時、左丞相に任じた陸凱の必死の諌言も無視し、多くの墳墓を壊して豪華な御苑も作らせた。またその間にも、二六四年に奪取された交阯を取り戻すために出兵させ、二六八年には丁奉に命じて合肥を攻めさせるなど積極的な戦争行動も起こした。
孫皓の国事を省みない行動により、呉の国内でも反乱が相次いだ。二六六年の施但の反乱は丁固らが鎮圧し、交阯も虞らの手によって二七一年に復帰し、二七二年の歩闡の反乱も陸抗によって鎮圧されたが、二七八年に起こった郭馬の反乱はとうとう鎮圧する事が出来なかった。それまでの年で国力が疲弊していたのは元より、陸凱、丁固、孟宗といった有能な幕僚、丁奉、施績、虞、陸抗といった名将たちが世を去り、さらには賀邵、楼玄、留平といった士人たちを誅殺していたため、人材不足に陥っていたのである。そして呉国内の混乱に乗じた晋の大攻勢が開始され、各地でろくな抵抗もないまま呉国は制圧された。孫皓は光禄君の薛瑩の言に従い、自らを縛り上げて晋将・王濬の前に降伏を願い出たが、王濬はその降伏を受諾し、晋帝司馬炎は孫皓を帰命候とした。
孫皓が群臣を集めて宴会を開くと、決まって群臣たちを酔いつぶれるまで飲ませ、素面の黄門郎十人にその様子を見張らせた。そうして失態があったものは報告され、その罪の大小に関わらず必ず何らかの罰を与えた。また、宮女たちで気に食わないものがいれば、殺して宮廷内に引かせた川に死体を流したとも言う。与える刑罰も、顔の皮を剥ぐ、目を抉る等凄惨なものだったという。孫皓の寵臣・岑昏は狡賢く立ち回って孫皓に取り入り、土木工事を好んで、民衆を工事に駆り立てたため上下の人心はさらに離れていった。因みに岑昏は、呉の滅びる直前に群臣たちの手によって血祭りに上げられた。
孫皓は洛陽で、四十三年の生涯を閉じた。その年は正史孫皓伝では二八四年であるが、「呉録」では孫皓の死んだ年を二八三年としている。


(くらげのたわごと)
歴史というのは常に勝者が作るものだといいます。その行いによって並ぶべきものない暴君とされた孫皓ですが、果たして歴史書の語ることだけがすべてなのでしょうか?
陸抗の子・陸機は「弁亡論」という論文を著し、その中で呉が滅びた理由について「然るべき人物が相次いで世を去ったため、さして大勢力でもなかった晋の大侵攻を食い止めることが出来なかった」というようなことを述べています。
孫皓当人も初めから、暗愚にして悪逆非道の人間だったわけではなく、むしろ帝位を嘱望されていた聡明な人物だったという意見もあるのです。それがどうしてこのような暴君に変わったしまったかは、以下の二つの説があるそうです。
まずは、度重なるクーデターと権力争いによって疲弊した呉の国を立て直すべく起った孫皓でしたが、かえってその聡明さゆえに呉の限界を悟って自暴自棄になってしまった…という説。もうひとつは、自分の父(孫和)を死に追いやった孫権や呉の群臣たちに対する恨みから、わざと呉という国を滅ぼそうとしたという説。孫皓伝には、孫皓が降伏する際に縁戚に送った反省文が収録されていますが、その文面を見る限りでは後者のほうが正鵠を射ているのかも知れません。
孫皓が帝位に即位して間もなく、先代皇帝・孫休の直臣であった張布や濮陽興が誅殺されていますが、孫皓は専制政治を行った彼らを危険視し、処断することで真に政治を正そうと思っていたのではないか…海月はそう思っています。
海月の「学三」設定では、また少し具合が違ってきます。海月の構想では、そのときまで実は「二宮の変」が終わっておらず、学園の主権を外部から狙う魯班一派と孤軍奮闘を続け、そのことをひとりで背負い込もうとした為にかえって孤立してしまった…というのが孫皓時代の話の大筋です。結局その真実は明るみに出ることはなく、彼女は岑昏がしでかした悪名をすべて被る形で学園史に名を残すことに…悲劇のヒロインタイプなんでしょうかね、捉え方としては。