
解説/張嶷
(史実的人物解説) 張嶷(ちょうぎ) ?〜二五五
字は伯岐。巴西郡南充県の人。なおその名は演義にて「ちょうぎょく」と読みが当てられているが、正史では「ちょうぎ」の表記をされている。
二十歳で県の功曹となったが、劉備が益州を平定した頃に県で山賊が蜂起した。県長は領民どころか家族さえ見捨てて逃亡する有様であったが、張嶷は県長の夫人を救出して名をあげた。それで州に召しだされ、多くの名士たちと交わった。後に重い病にかかったとき、彼は貧乏だったゆえ薬も満足に変えない有様であったが、博愛で知られた広漢太守の何祇に懇願したところ、何祇は私財を投じて張嶷の療養に尽くしてくれたため、何とか回復することが出来たというが、それもこうした交流によってもたらされたものであるという。
二二七年、諸葛亮が漢中に赴いた際、広漢・綿竹の山賊たちが略奪行為を繰り返し、張嶷はその平定のため都尉に任じられた。張嶷は彼らを一網打尽に捕まえることは難しいと感じ、和睦と偽ってその頭目たちを呼び寄せ、酒宴の最中に頭目たちを総て斬り殺し、残った賊徒も十日を待たずして壊滅した。
やがて牙門将に任じられ、馬忠(呉で潘璋の司馬であった人物とは別人。蜀の名将の一人)の配下として国境を脅かす異民族の反乱平定、もしくは鎮撫に当たったが、彼はその地を治めるときには恩愛と信義を第一にして彼らを招き寄せた。そうした異民族のひとつである捉馬族は勇猛で、なかなか従おうとはしなかったが、張嶷は族長の魏狼を生け捕って厚遇を加え、説得して捉馬族を帰順させると、魏狼を候に封じる上表をした。こうした張嶷の行動に、他の異民族も続々と恭順を誓うようになったという。また、結局恭順を誓わず滅ぼされた民族もあったが、その縁者が復讐しようとすると、その生き残りをその人物に預け、自分の意図をしっかりと伝えたため、その人物は以後反乱を起こすどころか、長きに渡る戦乱で荒れた道路や宿場を改修するようになった際、一族を上げてそれに協力すらした。そうしたことから、張嶷は非常に異民族に慕われていたという。
張嶷は一方で優れた軍才も持ち合わせており、諸葛恪が軍を起こした時も必ず失敗すると見抜き、大将軍となった費イがあまりにも降伏者を信用しすぎるのを戒めるなど、見識も深かった。しかし張嶷は一方でその気概を士人から愛されたものの、気ままな行動が多く嫌うものも多かったという。
やがて中央に戻ってきた張嶷は、姜維の北伐に参加する。狄道(いどう)で魏将・徐質の軍と死闘を繰り広げ、その陣中で落命することとなったものの、敵軍に与えた損害は凄まじいものであったという。二五五年のことであった。
張嶷が亡くなると、その子が候に封じられたが、南方の異民族たちはその死を知るとことのほか悲しみ、廟を建てて四季ごとに祭ったという。
(くらげのたわごと)
演義では蜀の一将でありさほど活躍も見られない張嶷ですが、正史では李恢と並ぶ異民族平定のプロ。当時の南方の民は神様のように慕っていたようで、死を聞き及べば廟を建てるなんて序の口、彼が任地を離れるに際してもその後を追いすがってきたほどといいます。演義(もしくはそれをベースとした物語)をご存知なら、此処で南蛮王孟獲と諸葛亮先生が別れるときのシーンを思い浮かべられるかもしれませんが…一説に、そのシーンは張嶷のそれが元になっているとも言われます。まぁ演義はね、その近い場に孔明先生がいたりすると、別の人の功績も先生が全部持ってっちゃいますからね(w)。
「学園三国志」では狄道の戦いのSSが収録された際、もうかなりのお祭状態だったみたいです。ストーリー展開に元ネタはあったそうですが、そんなこと知ったことかでものすごい盛り上がりようを見せたとか…挙句には神絵がうぷされて、その奮戦ぶりに興奮冷めやらぬ住人が狂喜乱舞するわで、今も本家掲示板のスレ過去ログを読み返すと、その当時の祭りっぷりが窺い知れるようです(もっとも、海月が出現する2年も前の話ですが)。
その当時にある記述によれば、「学三」張嶷のモデルは「月姫」もしくは「Melty Blood」に登場する「さっちん」こと弓塚さつきなんだそうで。まぁ髪の色も違うし(さっちんは暖色系っつーか栗色髪)、性格も全然違うんですけどね。
