「何時かはこんなときがくる」
なんとなくではあったが、彼女にもそんな「確信」があった。

彼女は、周瑜、魯粛という余りにも偉大な先達の後釜に据えられたそのときから、「自分こそがそれを成し遂げなければならない」という、そんなプレッシャーとともに毎日を過ごしていた。
普段は億尾にも出さないが、彼女を襲う疼痛は日に日に強さを増していた。


「間に合うのかな…?」

自分がこの病魔で参ってしまうのが先か、それとも。

「あたしが…あの武神を打ち倒すのが先か」

その呟きを聞く者は、その場には自分だけだった。



-武神に挑む者-
第一部 至上命令



その少女…呂蒙が長湖部の実働部隊を総括するようになってから、既に半年が経とうとしていた。


学問を修め、驚異的な成績アップを果たして注目を集めるようになった彼女は、好んで兵学書を読むようにもなり、一読すればまるで乾いた真綿が水を吸い込んでいくかのように、その内容を覚えていった。
そしてその知識は、合肥・濡須棟攻防戦において見事昇華し、その戦いの決着がつく頃には「長湖に呂子明あり」というほどの名将にまで成長していた。

それまではただの「十把一絡げの悪たれのひとり」でしかなかった少女は、その一挙一動を注目される存在にまでなってしまったのである。


しかし。


彼女がその名を不動にする頃には、長湖部は実に多くの名将を失っていた。

南郡棟攻略時の事故で周瑜を欠き、合肥・濡須攻防戦以降は甘寧も動ける状態になく、時を同じくして魯粛も留学のため学園を去った。
長湖部最古参のまとめ役でもあった程普、黄蓋らも時を同じくして引退していった。

公式には甘寧は未だ課外活動に在籍している。
しかし、戦場に突出した凌統を庇いながらの、張遼との戦いで受けた怪我のダメージは大きく、何時ドクターストップがかかるか解らない状態だ。

魯粛も年度末には学園に戻るとはいえ、学園から籍をはずす以上は活動からも引退を余儀なくされる。
復学したとしても、課外活動への再参加は認められていない。

在籍する中では、初代部長孫堅以来からの古参組である韓当や宋謙、孫策時代からの猛将として知られる蒋欽、周泰、潘璋、凌統、徐盛といった輩も居る。
しかし、そう言った荒くれ連中をまとめ、大々的に戦略構築が出来る人間は、知られる限りでは呂蒙ただひとりだった。





「…やっぱり厳しいなぁ…」

長湖部員で主将・副将クラスに属する少女の名が記された名簿を睨みながら、サイドポニーの少女…呂蒙は、そう呟いた。


既に時計は深夜0時を回り、締め切った部屋の明かりは手元のスタンドだけ。
名簿には、色とりどりのマーカーや蛍光ペンで、その少女に対する短評がつけられている。
それも総て、呂蒙が実際のその少女と会い、あるいは噂話や実際の仕事振りから気がついた点を書き出したものだ。

このマメさこそ、今の彼女がある…そういっても、過言ではない。


「何処かにもうひとり、興覇(甘寧)クラスの「仕事人」が居てくれりゃあなぁ」
「やっぱ厳しいん?」
「うわ!」

不意に後ろからひとりの少女が、肩口から顔を突っ込んできたのに驚いてのけぞる呂蒙。
見れば、それは同い年くらいの人懐っこそうな風体の少女だ。

栗色のロングヘアに、学校指定ではない臙脂色ジャージの上下を着ている。
呂蒙はシンプルな水色のパジャマを着ているところから考えれば、彼女はそのルームメイトであり、かつその格好が彼女のラフな格好なのだろう。

「驚かすなよ叔朗…寿命が十二年ぐらい縮まったじゃんか」
「心配あらへん。
モーちゃんならきっとまだ五百年生きるやろから十二年くらいどってことないで」
「あたしは何処の世界の妖怪だ。
つか、何処にそんな根拠がある?」
「なんとなく〜」

その、どこかほわわん、としたその少女の受け答えに、思わず頭を抱える呂蒙。


しかしその少女…孫皎、字を叔朗という彼女は、現長湖部長孫権の従姉妹に当たり、この天然なピンクのオーラで甘寧とひと悶着起こしたほどの猛者である。
幼い頃は関西にいたらしく、その京訛が特徴的だ。


「せやけどモーちゃん、あんまり気ぃばっか張っとったら身体に毒やで。
うちなんかと(ちご)おて、モーちゃんにもしもの事遭ったら、皆きっと悲しむで?」

孫皎が心配そうな面持ちでその顔を覗き込んできた。

「うちにはモーちゃんの代わりになれるような能力(ちから)もないし、友達とかもようおれへん。
せやから」
「んなこたねぇだろ、あんたがあたしのサポートをしてくれるおかげで色々巧くいってんだ。
それに、あんたのとこにはいつも人が集る」

呂蒙の言葉を否定するように、孫皎は寂しそうな顔で頭を振る。

「ちゃうよ。
あの子達はみんな、うちが仲謀ちゃんのイトコやから、ちやほやしてくれるだけ…うちには、ほんまに仲良いなんて、おらへんのや」
「ばか、それじゃああたしはあんたの何だってんだ。
あたしが一方的に「友達」だと思ってただけか?」
「え…?」

呂蒙はそう言って孫皎の額を小突く。

「あまり自分のことを悪く言うな。
興覇だってあんたのこと、胆の据わった大したヤツだって褒めてたよ。
それに今度の戦いはあんたの頑張りを全部引き出してくれないことにゃ始まらないんだからな」
「うん…頑張ってみる。
おおきにな」
「礼言うトコじゃないよ。
あたしが勝手に思っていることなんだからな」
「うん」

自分のベッドにもぐりこんだ孫皎が自分に微笑みかけてくるのを見て、呂蒙も苦笑を隠せない。
人選の刻限は徐々に近づきつつあったが、彼女は「友達」に倣ってとりあえず切り上げ、寝ることにした。





翌日の昼休み。
混雑しているだろう学食を避け、予め出掛けに買い込んでいた菓子パンを頬張りながら、再度名簿と睨みあってる呂蒙。


「なぁモーちゃん、文珪ちゃんとこのこの娘とか、どない思う?」
「ん?」

隣りでサンドイッチを食べながら、孫皎が指差したのはひとりの少女だった。

「あぁ、承淵(丁奉)か…確かにいい素質は持ってんだけどなぁ」
「あかんかなぁ…確かにまだ中学生やけど、こないだの無双でもいろいろ活躍しとったし」
「主将クラスは足りてんのさ。
あたしが欲しいのは、スタンドアローンで動ける軍才を持った、それなりに無名の人間。
関羽が油断して、江陵周辺をがら空きにしてくれるくらいで、その留守の短い間にその辺平定しちまうくらいの」
「うーん」

サンドイッチを口にくわえたまま、腕組みして考え込んでしまう孫皎。


要するに呂蒙が欲しい人材というのは、呂蒙と同等かそれ以上の能力を持ち、かつまったく名前の知られていないということ…実際に難しいというより、ほとんど無茶ぶりもいいところである。
だが、そのくらいの将帥がいないのであれば、一大作戦とも言えるこの計画を達成することは絶望的であった。


「でもそれやと、興覇さんがおったとしてもあかんのやないの?」
「んや、興覇は別格だよ。
あいつほどの仕事人、世代にそう何人と出るモンじゃない…あの「事故」さえなきゃ、今頃公瑾(周瑜)さんが確実に南郡をものにできてた…夷陵周辺での興覇の陽動がなきゃ、帰宅部の連中が南郡をかすめ取ることだって実際不可能だったはず。
今度こそはあたし達がその恩恵にあずからせてもらいたいところだが…興覇が入院中の今となっちゃ、それが厳しい状態だ。
無い物ねだりしても仕方ねえし、その代わりにあんたを使うことを考えても見たんだが」
「うちを?
でも」
「実力的には申し分ない。
けど、今あたしの軍団からあんたを欠くのはマジで痛いからな。
編成している中では潘璋分隊の義封、蒋欽分隊の孔休を外すと途端に機能不全、あんたも一緒だ」

自信なさ気な孫皎を気にかけるもなく、パンを飲み込みながら難しい顔の呂蒙。
そして、しばし考えていた孫皎は、何かを思い出したように提案する。

「マネージャーとはどうなんかな?」
「マネージャー?」
「うん。
マネージャーで、なんかすごそうな人。
例えば、こないだの濡須とき、援軍を指揮してた緑髪の娘とか…あの娘確か公苗さんとこのマネージャーって」
「陸伯言か。
そう言えばこないだ興覇とふたりで承淵をからかった時、話題は伯言の話だったな」

数日前、呂蒙は甘寧の妹分であった丁奉を伴い、入院中の甘寧の見舞いに行った。
そのとき、去年の赤壁決戦前の夏合宿で調理実習をやったとき、同じ班に居た陸遜の話で話題が盛り上がったときのことを、呂蒙は思い出していた。





「はぁ?
伯言が公瑾のお墨付きだぁ?」
「あ…えっと、それは」

狐色の髪が特徴的なその少女は、ベッドから上体を起こした状態で呆気にとられた甘寧と、その傍らでぽかんとした呂蒙の視線を浴びて、明らかに動揺していた。
明らかに、いわでもなことを言ってしまった…そんな感じだ。


昨年の合宿では自分たちの悪戯のせいで周瑜に完全に目の仇にされ、ただおろおろしているだけの気の弱そうなヤツ…ふたりにとって陸伯言という少女はその程度の存在でしかない。
朝錬の際甘寧と凌統が喧嘩したのに巻き込まれたときも、周瑜に命ぜられるまま律儀にふたりに付き合って罰ゲームを受けたり、失敗した料理の処理をまかされて保健室へ直行したり…まぁ流石のふたりも「悪いことしたなぁ」くらいは思っていたが。

ふたりならずとも、「要領の悪い鈍くさいヤツ」というのが陸遜に対する印象であるのは間違いない。


「ということはなぁ…承淵の言葉が正しければあのあと、あいつらが仲直りしていたってことになるが」
「となると休み明けに伯言がやつれてたのそのせいか。
あの赤壁キャンプを乗り越えたとなれば相当なもんだな、伯言のヤツ」
「あ、だからその、それはちょっとした…」

ひたすらおろおろと取り繕おうとする狐色髪の少女…丁奉の慌てる様子から、呂蒙と甘寧もその言葉の真なるところを覚った様子だ。
中学生ながら、荒くれ悪たれ揃いの長湖部の中で一目置かれるこの少女だが、それだけにその少女の性格はよく知られていた。


すなわち、絶望的にウソをつくのがヘタな、素直で真面目な性格の持ち主であるということだ。

そして自分の尊敬する者に対して強く敬意を払う。
彼女の普段の甘寧への接し方を見ていればよく解る。
それが彼女らにとって取るに足りない存在だった陸遜に対して「周瑜が認めた天才」と言うのであれば…。


「まぁ能ある鷹はなんとやら、とも言うしな。
長湖実働総括も伯言に任せりゃちったあ楽できるかね、あたしも?」
「だ、だめです!
そんなことしたら公瑾先輩が」
「なんで?
いいじゃねぇか、公瑾が出し惜しむならあたしが伯言を活かしてやるまでさ」
「きっとその方があいつだって喜ぶだろうしなぁ」
「だからそうじゃないんです!」

必死にその言葉を取り消させようとする少女の姿が面白くて、呂蒙も甘寧も完全に悪乗り状態だ。
陸遜に実力があるかどうかは別として、今はそのほうがふたりには面白かった。


だが…そろそろ可哀想になってきたと見えて、話題を切り上げようとしたとき…丁奉は、覚悟を決めたようにぽつぽつと話し始める。


「…解りました…でも、なるべくなら他の人には黙っててください。
こんなことが知れたら、あたし長湖部に居れなくなってしまいますから…!」


そうして、半泣きになった彼女は、ことの詳細をふたりに語って聞かせた。


その話を聞いてもなお、呂蒙は半信半疑だった。

丁奉は話し終えると、何度も何度も念を押す様に「このことは絶対に内緒にしてください」と取りすがるようにして懇願してきた。
恐らくは相当の事情があるのだろうことは呂蒙にも理解できた。
甘寧もだろうが、きかでもなことを聞いてしまったと…一抹の後悔を抱くほどの、とんでもない秘め事であったことは感じ取れていたからだ。

だから、以降はその話題に触れまいと思っていたのだが。


「ここはひとつ、承淵の顔でも立ててみるかねぇ?」

その気持ちは遊び半分のものではない。
それがまだ見ぬダイアの原石であることを信じ、呂蒙は陸遜の元へと出向くことにした。





呂蒙はこの日、様々な折衝事を孫皎に任せ、たまたま陸遜が出張ってきている丹陽棟を訪れていた。
その棟内に足を踏み入れてすぐ、廊下の向こうから出てきた一人の少女が呂蒙に気づき、駆け寄ってきた。


「や〜、また珍しいお客さんが来たもんねぇ」
「これはこれは君理棟長殿。
あんた自らの出迎えとは恐れ入るな」

襟にかかる程度の柔らかなショートカットの黒髪を揺らし、その少女…丹陽棟切っての顔役・朱治が笑う。

「まぁこんなところで立ち話もなんだし、ちょっと寄ってく?」
「うーん…そうだな、たまにはゆっくりさせてもらおうかな」

呂蒙とてそう暇があったわけではないが、そもそも彼女は此処へ人探しに来ていたわけだから、それなら顔役である朱治に話を聞いたほうが早いと判断した。

「そーかそーか。
ね、ちょっとお茶用意してもらっていい?」
「はい」

傍らに寄り添っていた少女が恭しく一礼して立ち去ると、呂蒙も朱治に伴われるまま階段を上っていった。

「随分、規律が整っているもんだな」

周囲をざっと見回し、思わず感嘆する呂蒙。


棟内に落書きのようなものは一切なく、廊下で無駄話しているような生徒もいない。
そしてすれ違う少女達も軽く会釈し、挨拶して立ち去っていく様子は、長湖部の本部がある建業棟にも見られないものだった。


「コイツもやっぱり、あんたの人徳のなせる業かい?」
「いやいや、とてもじゃないけどあたし一人じゃこうはならないさ。ほとんど仲翔のお陰さね」
「仲翔だって?」

意外な人物の名前を聞き、呂蒙は鸚鵡返しに聞き返した。


仲翔…即ち会稽の虞翻も、呂蒙や朱治と並ぶ「小覇王」孫策時代からの功臣の一人だ。
確かに彼女みたいな「キレるとコワい」タイプの文治官僚がいれば、このくらいの状況を作り出すのも朝飯前だろうが。


「確かあいつは幹部会にいたんじゃなかったのか?」
「それがねぇ…」

朱治は苦笑いして、

「あの娘、どういうわけか知らないけど、唐突にこっち寄越されたのよ。
別に幹部会で何かやらかした話は聞かないんだけど…どうもあの性格だからね、丹陽の風紀更正の名目で厄介払い食らわせられたのかもしれないわ」

と肩を竦める。


虞翻は確かに経理に強いし、仕事振りも真面目なのだが、その生来の真面目さゆえか自分が正しいと思ったことは梃子でも曲げない性格だ。
孫権も孫権で同じくらいに意地っ張りなものだから、普段何気ないところからでもかなりの軋轢が生じているだろうこと位は、容易に想像できた。


「なるほど…確かにそういう理由付けされたら、流石の子布(張昭)さんも何も言えないだろうな」
「まぁ、お陰で私は助かってるんだけどねぇ…」

ふと、校庭の方へ目をやると、一人の少女とすれ違った二人組の少女が、眉をひそめてこそこそ言っているらしい様子が目に映る。
すれ違ったプラチナブロンドの少女は、それを意に解するでもなく、そのまま歩き去ってしまう。

「相変わらずだなぁ…仲翔のヤツも」

その様子には流石の呂蒙も苦笑せざるを得なかった。





「陸伯言?
まぁ確かにあの娘も此処にいるけど」

執務室の一角、朱治の趣味で設置された畳三畳のスペース、お茶の用意されたちゃぶ台に二人は向かい合う形で胡坐をかいていた。
そこで思いがけぬ名前が呂蒙の口から出たことに、朱治は小首を傾げた。

「どうしてまたあの娘の名前が?
確かによく働く娘だけど、そんな目立って何かすごいトコもないような気もするけど…」
「そいつは悪いけど詮索無用で頼むわ。
で、今あいつは何処に?」
「うーん…あの娘そこらじゅう動き回ってるからねぇ…呼び出す?」

あぁ頼む、という言葉が喉まで出掛かった呂蒙だったが、何故かそうしてしまってはいけないような気がして止めた。


冷静になって考えてみれば、陸遜の件に関する証言は丁奉からしか得られていない。
合肥では確かに彼女の指揮振りを実際目にしているものの…まだまだ自分の中では彼女に対する評価材料が少なすぎる。


「いや…今日は余裕があるし、散歩ついでに探してみるよ」
「そお?」

丁奉の言葉を疑うわけではないが…だがその言葉を信じればこそ、いきなり面と向かってしまえば、陸遜は警戒し、その本音を明かそうとはしないだろうと呂蒙は思った。





それから数刻の後。

普段は利用することすらない豫州丹陽棟の地下食堂に、ふたりの少女がやってきていた。
放課後、暇をもてあました生徒の何人かや、あるいはマネージャーたちが活動計画の話し合いに利用するなど普段は賑わっている場所にもかかわらず、そのときはそのふたりしかいなかった。


ひとりは呂蒙。
もうひとりは緑色の髪をショートボブに切り揃えた、少々気弱そうな印象を与える少女…彼女こそが、探し人の陸遜、字を伯言その人であった。


「…あの…何の御用ですか?」
「あー、急に呼びつけて悪かったな。
うん、用事といえば用事。
だが少しその前にあんたと話をしておきたくてね」

恐る恐るといった感じの陸遜をこれ以上警戒させないよう、呂蒙は勤めて自然に振舞った。

「…お話」

鸚鵡返しに聞き返す陸遜。


ここまで来る間にも呂蒙は、それとなく陸遜の一挙一動をそれとなく見ていた。

確かに一見、何処にでもいるごく普通の少女。
そして何より、かつて自分や甘寧から散々な目に遭わされたというトラウマがあるような様子も、今のおどおどした態度を見れば疑いようがなく見える。
しかし、呂蒙は確かに、その仕草の諸所に違和感を感じ取っていた。


陸遜がかつて自分の考えるような少女であったなら、恐らくどんな手を使ってでもこの場から早く逃げたいと思っても、結局自分の気の弱さ故最後まで引きずられてしまうだろう。
だが、呂蒙は陸遜が、今この場から如何に自然に切り抜け、やり過ごしてしまおうと考えているような余裕がどこかにあるような気がした。

確信があったわけではない。
だが、こわばっているその顔の中でただ一点…彼女の瞳だけが、冷徹な光を宿しているように、呂蒙には思えていた。
呂蒙は一筋縄ではいかないと考え、その日はとりとめもない話をして切り上げることにした。





そんなことが一週間ほど続いていた。
そのころになると、呂蒙はわざわざ丹陽まで出向き、陸遜を誘い出して昼食にまで出るようになっていた。

最初のころの警戒心もだいぶ和らいできたことと見て、彼女はそれとなく今の状況を話してみることにした。


「…そういうわけでね。
仮に相手の龍馬を攻略するにしても、どうも二、三手足りないのよ。
何処かでいきなりと金をぶち込んで一気に勝負を決めるとしたら…あんたならどう考える?」
「うーん…そうですねぇ。
私は将棋のことはあまり詳しくないですけど」
「見たまんま言ってくれていいよ。
参考までに、あまり詳しくないって人間がどう考えるか興味があって…あたしには思いも寄らないような「解決の糸口」も見つかるかも知れないし」

陸遜は、その言葉の真に意味するところを気づいていない…正確に言えば、今呂蒙が問おうとしていることの趣旨に気づいていないように見える。


呂蒙は息を呑んだ。
陸遜はその手を指し示そうとして…。


一瞬…ほんの一瞬、その表情を強張らせた。


「…すいません、やっぱりいい手は思い浮かびませ」
「場所が悪いなら、変えても一向に構わないよ」

再び困ったように作り笑いに戻る陸遜に、呂蒙は初めて、その笑顔の下に隠された素顔を垣間見た気がしていた。


恐らくは、彼女も気づいたであろう。
何故相手の王ではなく、龍馬を狙っているのかが。


盤面の龍馬は関羽。
それを守るように囲う半壊状態の美濃囲いは現在の荊州学区。
そして何故呂蒙側がわざわざ飛角落ちなのか。


それはまさに、今の長湖部を意味しているものなのだから。


陸遜ははっきり、その表情を変えた。
その、温和そうな顔に似合わない、鬼気すらも感じる迫力を見せている。

これが、彼女の秘してきたその真の姿の一端なのだと、呂蒙は確信した。


「謀ったんですか…私を」
「ああ」

互いの強い視線が交錯する。

「あんたを試した非礼は詫びる。
あんたがこういう資質をまったく見せないか…むしろ持っていないのであれば、あたしは公瑾や部長を裏切らずにすんだかもしれない」

陸遜の表情は変わらない。
その表情には、今まで呂蒙が見たこともない、陸遜自身の激しい怒りを感じた。

だが、呂蒙も並みの覚悟をもって、彼女の元を訪れたわけではない。

「何処で、その事を?」
「聞かないで頂戴。
それを教えてくれた子も、悪気があったわけじゃない…けど今その子の名を告げれば、その子にも迷惑がかかることになる」

彼女はばつが悪そうに応える。

校舎からやや離れたその広場には人はいない。
呂蒙は始めから、この場で本心を明かすつもりでいたのだ。


「あたしは公瑾や子敬から請け負った荊州奪取を成し遂げたい…そのためにはあんたの力が必要なんだ。
この一戦だけで構わない…だから伯言、この一戦…この一戦だけあたしに力を貸してくれっ!!」


呂蒙は反射的に、大地に手をついていた。


どれほど時間がたっただろうか。

自分に愛想を尽かし、その少女は自分を置いて立ち去っていたかもしれない…と呂蒙は思っていた。
だが、自分はそうされても仕方ないことをしていたことも、重々承知していた。

そしてそうなってしまえば、荊州を落とす機会は二度とはやってこないだろう。
関羽が蒼天会を攻めようとしている、今をおいてその機会はないかもしれないのだ。


そうなれば、自分はどうするだろう。
やはり周瑜と魯粛の後釜として不十分、というレッテルを貼られたまま、空しく部を去るのであろうか。
それとも、それを良しとせず玉砕して終わるのか。


「先輩…顔を上げてください」

ふと見上げると、ここ数日では、恐らくはもっとも自然な微笑を浮かべる陸遜の顔があった。

「先輩のお覚悟、確かに。
私如きがどれほどお役に立てるか解りませんが…この一戦、全力を尽くさせていただきます」

呂蒙もまた、自分の至誠がようやく目の前の少女を動かすことができたことを知り、笑みを返す。

「…ありがとう…伯言。
これでようやく、あいつらの顔を汚さずにすむかも知れないよ」

ふたりはしっかりと、その手を取り合っていた。





長湖部の総本山・建業棟棟長執務室。
普段なら暇をもてあました幹部たちが屯し、長湖部長孫権を中心に賑やかに過ごしているこの場所は、この日に限っては不気味なほどに静かで…何処か重い空気に支配されている。


執務室の中に居たのは数人の少女。

執務室の机に腰掛けた、金の巻き髪と碧眼が印象的な少女は長湖部長孫権。
その背後に侍している、黒髪を頭の両サイドでお団子に纏めた小柄な少女は、その孫権第一の側近を自負して憚らない「長湖一の使い走り」谷利。
それと向かい合う形で立っているのは呂蒙。

場に居る少女たちの表情は固い。


「此度の荊州学区攻略においては、この名簿に加えた誰一人として外しても成立しません。
また、この機会を逃せば永劫、荊州奪取はならないかと存じます」

淡々と言上する呂蒙。
孫権はなおも黙ったままだ。


呂蒙にも孫権の沈黙の理由は解っている。

その名簿の一番下、そこには確かに陸遜の名前が存在していた。
丁奉の話から、陸遜の件は当然孫権にとっても他人事ではないことを呂蒙は知っていた。
孫権の様子は、そのことを裏付けているといっていい。


「…本当に」

内心のさまざまな感情を抑えるかのような、震える声で孫権がつぶやく。

「本当に、伯言以外の適任者は居ない…そういうんだね?」
「ええ」

そこでさらにわずかな沈黙をはさむ。


孫権は流石に、誰から聞いたのかなどとは訊いて来ないようだ。
丁奉の性格を考えれば孫権には話しているのかもしれないが…いや、おそらくは。


「子敬さんがね、自分の後任として、本当は最初伯言の名前を挙げていたんだ」

一度目を伏せ、そして寂しそうに笑う孫権。

「子敬さんが認めたあなただったら…もしかしたら何時かは気がついちゃうとも思ってたよ」

呂蒙にも言葉が出ない。

「一度だけ、なんだよね?」

念を押す様に、彼女は問いかける。

「このあたしの、命に賭けて」

呂蒙は真剣な眼差しでそれに応えた。


二人の視線が交錯し、やがて、

「解った。
その代わり…できる限りでいい、無茶はさせないでね」
「はい」

呂蒙は拱手しながら、孫権の英断にただ感謝するだけだった。