新西国霊場 第一番
荒陵山 四天王寺
  (和宗総本山)
北海道の夕日: 制作 SENSET MEMORY

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本尊   :救世観世音菩薩
開基   :聖徳太子
開創年  :用明天皇二年(587)

ありがたや 法のはじめに 天王寺 亀井に浮かぶ み仏の影
かしこしな 法のはじめの 名をとりて なにわの寺は すえの世までも
父の里 立ち出で来る 母の里 また立ちかえる 父の故郷

日本仏法最初の寺
   大日本仏法最初四天王寺

 天王寺西門から境内に歩を進めると、まずこの石の碑文が目に入る。それから大きな石の鳥居、発心門といって掲げたある額には「釈迦如来転法輪の所、極楽土の東門の中心に当る」と浮彫風に鋳出している。文字は聖徳太子または小野道風の筆と伝えられ、重文に指定されている。西国第一番の霊場が、日本仏教における最初の寺四天王寺とされているのは、当然とはいいながら、不思議な因縁であるとともに、この霊場巡拝の将来の隆盛を予言しているようで有難い。
 聖徳太子は幼名を厩戸皇子といい、御年十六歳のとき、蘇我馬子と力をあわせて逆臣物部守屋を討とうとされた。しかし戦いは不利であった。そこで太子は木を斬り、いそいで四天王の像を作り、「今もし私をして敵に勝たせていただければ、必ず護世四天王のおんために寺を建てます」と誓いをたてて戦ったところ大勝した。今の八尾市太子堂のあたりである。こうして平和になったので、誓いのとおり太子は摂津玉造の岸上に伽藍を造り四天王の像をまつったのが四天王寺であるといわれている。その後、推古天皇が即位されるや、御年二十二歳で摂政の宮として政務を行なわれた。この年(593)太子は四天王寺を玉造より、現在の地に移し、敬田院、悲田院、施薬院、療病院の四ヵ院を創建し、民衆の教化と救世を行なわれた。現在の四天王寺の宗教活動、学園、社会事業施設、病院の経営にこの四ヵ院の精神をみることができる。

庶民の心のふるさととして
 おそらく、この寺ほど、戦火や災害を多く受けているところは少ないであろう。しかし、また、ここほで、すべての民衆に親しまれ、憩いと安らぎを与えてきた寺も少ないだろう。大阪のど真ん中に三万三千坪の境内を持ち、いつも誰にでも開放されているので、まさに民衆はここをふるさととして受けとり、肌で感じているようである。春秋の彼岸には宗派を問わず百万から百五十万の人々で賑わう光景は、このことを如実に物語るものといえる。
 広い境内には、数多くの堂塔伽藍があったが、その大半は、昭和二十年の空襲によって焼失した。六時堂、五智光院、元三大師堂、湯屋方丈などは幸い災をまぬがれ、元和年間(1617)再建のままの姿を今に伝えており、いずれも重要文化財に指定されている。
 太子殿は昭和二十九年に、五重宝塔、金堂、講堂、仁王門、東重門、西重門、極楽門および廻廊等は昭和三十八年に、聖徳太子創建当初のまま、すなわち、四天王寺様式の伽藍配置で再建され、建築も、耐火耐震耐風の鉄筋コンクリート造りであるが、飛鳥様式そのままの荘厳でしかも優美な姿が復元されている。
 ご本尊の救世観世音菩薩は、金堂正面に安置され、三方の壁には芸術院会員中村岳陵画伯によって釈迦伝が描かれている。国宝、重文、二百数十点を蔵する宝物館とともに拝観することをおすすめしたい。
 なお、戦火にて焼失した大講堂ご本尊の丈六阿弥陀如来坐像が、昭和五十三年、大仏師松久朋琳・宗琳の両師により昭和最大の木造仏として謹刻された。

朱鷺書房発行 下休場由晴著 
「新西国霊場 古寺めぐりへの招待」より