流石に、病院から学生寮までノンストップで全力疾走は心臓に悪い。二人して玄関にへたり込んで干し過ぎた柿のようになっている。
 まだ上着が手放せない季節だと言うのに額からはいくつも汗が流れ心臓が暴れまわって収まらない、俺の方は半分ぐらいリュックのせいだが……
 
「逃げて、良かったのか?」
「……」

 俺よりもよほど身軽だったはずだが未来はまだ顔すら持ち上げない、疲れとは別の理由で動悸しているのだろう。

「……わかりま、せん」

 暴れまわっているのは心臓なのか、心なのか。胸を苦しそうに押えている。

「でも、あそこには居られなかったんです。居てはいけないんだって思った」

 なんでこんなに苦しそうな声を出すのか、俺には分からない。未来にも分かっていないのだろう。
 病院でであったあの女性は何者なのか…… なぜ未来をこんなにも動揺させるのか。
 とにかく俯き続ける未来の背中を叩き、中に入るように促した。

「一息入れよう、考えるのはそれからでいい」

 そして、二人してソファーに腰掛けてボーっとすること30分弱。一息とは言ったがここまで息を入れてどうしたものか。
 一応声はかけているのだが、未来は糸の切れた人形のように生気が抜けた生返事を返すだけだった。
 どううどうにも気まずい。暇を余して上着やらリュックやらを片付けたのはいいがその後にやることが無い……
 1DKの部屋がやたらと広く感じる、未来がチョコンと座っているソファの周りだけ広大な大地が広がっているかのようだ。
 ううむ。

「決めましたっ!!」

 突然時限爆弾が起爆したかのような勢いで未来が立ち上がる。

「な、なにを…… だ?」
「もう悩みません。どうせ思い出せないんですから、思い出せないうちは今を一生懸命行きようと思います。と言うことでご飯の準備をしますっ!!」

 30分かけてやっと踏ん切りがついたらしい。段々とやることが唐突になっている気がするがそうなったのなら俺は後押しするだけだ。

「もういいのか?」
「はい!」
「よし、それじゃあちょっと早いが夕食の準備を始めるか。二人だと狭いが我慢してくれ、この前来たから調理器具の場所は分かるな」

 腕まくりしてキッチンに入ろうとしたら、後ろから服を引っ張られた。

「ダメですよ章さんっ、今日は私がサービスするんですから章さんはそこで待っててください」
「なんだ、二人でやった方が早いだろう」
「今日は私にやらせて欲しいんですよー」

 ぬ……、そんな切実な目で見るな。分かった。分かったから。
 仕方なく俺が頷くと、未来はさっきまでの俯きっぷりも忘れて鼻歌を歌いながらマイエプロンを装備してキッチンに向かった。
 その後姿が不安で何度か調理している様子を覗いたんだが、やはり練習してきたらしい。野菜の皮むきもパーラーを使わずに器用にやるし出し汁を作るときの水の分量も目分量ながら適切、危なっかしいところはなかった。
 ――ので、一気に手持ち無沙汰になった。
 本とパソコンしかない部屋、と称されるこの場所にテレビなどという雑念の塊は存在しない。しかしパソコンをつけるのも配慮に欠ける。しょうがないもう一杯茶でも飲むか……
 と、そこに聞き覚えのない着信音が鳴り響いた。
 俺ではない、さすがに暴れん○将軍のテーマを着信にする趣味はない。

「あ、お姉ちゃんから電話みたいです」

 鹿末は吉宗公扱いなのか。

「今手が離せないので変わりにでちゃ ――ああっこれクリープじゃないですかっ!? なんで砂糖の箱の中に入れてるんですかっ!?」  
「ちょっとしたリサイクル精神だ、砂糖もクリープもコーヒーに入れるときぐらいしか使わないしな」

 「トラップは反則ですー!?」とか言っている未来を傍目に鳴り続ける携帯を捜す。……と、あった。
 リュックのサイドポケットからやはりピンク色の(どうもピンクにはこだわりがあるらしい)薄型携帯を取り出し、通話ボタンを押す。

「はいもしもし、代理の鶴群だ」
「あら、鶴群君? 未来はどうしたの?」
「張り切って料理をしてくれてるよ、今は手が離せないそうだ。どうもトラップに引っかかったみたいでね」
「トラップ? ふぅん、お師匠さんもイジワルね」

 クスッ、と受話器の向こうで笑う気配がし。

「そう、その調子だとうまくいってるみたいね」
「心配しないでも、あいつは頑張ってるぞ」
「フフッ」
「……なんだ?」
「ううん、なんでもないわ。ただ随分と優しい口調で喋ってるなーって思ってね? いいなぁ未来はそんなことを言ってくれる人が居て」
「なっ、バッ」

 俺の動揺が手に取るように分かるのか女狐は電話の向こうでコロコロと笑っている。

「冷やかすだけなら切るぞ」
「あーちょっと待った! その前に一つだけお知らせがあるわ、これだけ聞いて」
「お知らせ?」

 ということは一方的な通告なんだな、と長い付き合いの勘が警鐘を鳴らしているが聞かないわけにもいくまい。

「ほんとは外部の人には教えちゃいけないんだけど……」
 
 そんな前置きをして鹿末は声のトーンを2つほど下げた。

「今夜鹿末家代々に伝わる口寄せの儀式を急遽行うことになってね、全国から分家の人間が集まってきてるのよ。なんでも「本家の池で九十九匹目の鯉が死んだ時、鹿末に災いが訪れる」とかいう言い伝えがあるみたいでね。あたしも初耳だったしお父さんとかも反対してたんだけど、結局お爺様の発言は覆せなくて」

 そこまで一気に語ると、鹿末は一呼吸おいて切羽詰ったような声で言った。

「だから、今晩なんだけど、未来をそっちに泊めてくれない?」
「……は?」

 ちょっと待て。今とんでもないことを言わなかったか?
 泊めて? ステイ?

「なにぃぃーっ!?」
「お願い!」
「待て、なんでそうなるっ、いくら人が増えるといっても寝るスペースが無くなるわけじゃないだろう」
「それはそうなんだけどね。でもほら、未来って怖がりでしょ? お婆様がイタコをやるんだけど、真夜中に奇声とかあげるから本気でトラウマにしそうで心配なのよ」

 イタコとは自分の体に神様とか死んだ人間の霊(稀に動物もある)を取り込んで、イタコを通じてお告げを賜るというものである。
 有名なものは音楽を交えた舞のようなものもあり、「羽後のイタコの習俗」などは国指定選択無形文化財に指定されている。
 ……が、やはりイタコというと得体の知れない死霊を取り込んで奇声をあげてのた打ち回ったあげく死んでも死に切れない恨みの声を口走ったりするイメージが強い。すごく強い、むしろ鹿末の説明からはそんなイメージしか伝わってこない。

「それは、ありえるが」

 そんなもの未来が見たら間違いなく卒倒するだろう。俺だって正直遠慮したい。

「あれって本気で怖いのよ? 地獄の底で首なし女が首を掲げてその首が絶叫してる感じなんだから、目とか血走ってるし涎垂らしながらもの凄い勢いで迫ってきたりしてね、それがピタッと止むとお告げがくるんだけど……」
「いい、それ以上説明するな。夢に出る」
「……まぁ、いいけど。そういうわけだからお願いねー」

 描写し足りなかったのが微妙に不満そうだったが、通話はそこで終了した。
 携帯をリュックに戻し、ガックリ項垂れる。何故か知らんがもの凄く疲れた。 

「ぅぅ…… お味噌汁にクリープの香りが付いちゃいました、上のほうは師匠の分にします。あ、お姉ちゃんなんて言ってました?」
「今日は家で交霊術(くちよせ)をやるから未来は泊まってきなさい、だそうだ」
「あ、そうだったんですかーー……ぁぁぁぁあっ!?」

 延ばした語尾の高さが一気に跳ね上がる。

「お、お、お泊り、ですか!?」
「これも強制イベントらしい。ああ、でも嫌だったら別に宿を取……」
「やたーーっ!」

 未来はお玉を振り上げて万歳をしながらたいそう喜んでいらっしゃる。
 ……いや、予想外のリアクションだな。
 とりあえず飛び散った味噌汁は拭いておくようにいっておく。

「お泊りってあれですねっ、布団並べてヒソヒソ話したり枕投げしたりするあれっ!」

 未来は外泊は全て修学旅行言わんばかりに目を輝かせて興奮冷めやらぬ様子だ。

「いや、残念ながら我が家はベッドだし枕は一つしかないが」
「ええーっ、ダメじゃないですかちゃんと用意しないとっ!?」
「……不当な叱責に全力で抗議したいがそれは置いておこう。いいのか? 泊まりだぞ?」
「え? 別にいいですよ?」

 未来は「なんでそんなこと聞くんですか?」とばかりに心底不思議そうに答えた。

「だって、彼女なんですから。普通ですよ」

 そのあまりに純粋な声と表情に、こっちの方が恥ずかしくなってくる。……そうだな、確かにそうだ。
 彼女と言われてまだ実感は持てないが、その理屈の説得力は絶大だ。
 倫理的道徳的及び教育的且つ寮の規則的にも寮にアンダートゥエンティを泊めることは問題があるように思えたが、結局未来の押しに負けて俺は頷いてしまったのだった。
 

 やがて窓から差し込む明かりから朱が薄れ、暗くなる前にカーテンを閉める。


 夕食はご飯・味噌汁・焼き魚・肉じゃがの古より続く鉄板中の鉄板ラインナップだった。
 このところ外食が多かったので逆に普通の家庭料理だったのがありがたかった、……まぁ余りに余った弁当を片付けるのは大変だったわけだが。
 そして今、すっかり満足した胃袋の内容も落ち着き、就寝の時刻を迎えたところである。
 毛布に包まってソファーで横になりつつも、中々眠気は訪れない。
 疲れはこれ以上ないくらい溜まっているはずなんだが、色々ありすぎたせいか眠気はいっこうに訪れない。
 思考が瞼の裏を巡っては消えて行く。
 未来の過去のこと・病院での反応のこと・今後俺はどうするべきか ……迷うことはたくさんある。
 だが俺はあの子の気持ちを受け止め、共に歩むことに決めた。それだけは迷わないでいよう。

「……章さん、起きてますか?」

 極小さな声に、同じ音量で返答をする。

「ああ、起きてるぞ」

 向かい側にあるベッドでもどもぞと人が動く気配がする。
 こちらに体を向けたようだ、ほの暗い中でも(未来は豆電球を消さない派らしい)真っ白な髪の動きは目で捉えやすい。

「さくらさんのことで、少しだけ思い出したことがあるんです」

 顔には出してなかったがやはり考えていたのだろう。
 しかしその声は僅かに震えていた。

「どんなことを思い出したんだ?」

 なるべく安心させるように問いかける。

「その人に関する思い出や情報は何も思い出せないんですけど。……何となく、すごく大事な人だった気がするんです」
「大切な人、か。もしかしたら母親か…… にしては少し若いな」
「はい、今のお姉ちゃんみたいな感じです。友達で、親友で、ずっと一緒に居たような、家族のような、そんな感じ……」

 ないはずの過去の記憶を慈しむように、「大切な、大切な人だったんです」と未来は繰り返した。記憶はないのに感覚だけははっきりと残っているようだ。
 その人間に抱く感情もエピソード記憶に含まれるはずだが、体が条件反射で気を許すほどに親しい人だった、ということだろうか。そういった体が覚えていることと言うのは非陳述記憶に当たる、エピソード記憶は陳述記憶に類されるので体が覚えてるならありえない話ではない。
 何にせよ記憶を失っても覚えているほどに大切な人だったのだろう。

「……その人を、私は裏切りました」

 だから、そんな言葉が続くとは思わなかった。
 未来の声は後悔の色に満ちている。

「裏切った? 覚えてるのか、それは」
「感覚だけですけど、"何か大切なことを裏切ってしまった"ような気がするんです。大好きだったはずなのに、あの人の顔を思い出すとどうしようもなく悲しくなるんです……」

 ぼんやりとしたオレンジ色の光の中で、未来の頬に光を反射するものが見えた。
 原因不明の罪の意識…… 何故そんなものをこの子が背負わないといけないのだろうか。それに憤りを感じてならない。
 ただ、こうして吐き出してくれるようになったのは嬉しかった。
 しかし俺に何が言えるだろう。原因が分からないというのに。
 何十冊と心理学の専門書を読んでいても気の効いた言葉一つ出てこない、こんなに近いのに涙を拭う手段が見つからない。
 どうすれば、どうすれば未来の力になれる。
 闇の中で必死に考えを巡らせる。
 
「じゃあ、今度会ってみるか?」
「……え?」

 そうだ、涙を拭う手段は分からない。しかし分からないなら探せばいい。それだけのことだ。

「何を裏切ったかは分からないが、事実を知らないままだと悔やむことしかできないぞ。お前ならなおのこと苦しむだろう。そうなる前に、悲しみが積み重なってどうしようもなくなる前に、真実を知って出来る限りのことをすべきだ」

 未来は再び会う可能性など考えてもいなかったのか、ハッと息を飲むような音が聞こえた。
 しかし、すぐに声のトーンが落ちて行く。

「ダメです、私はあの人に会えません」
「ダメの理由も分からないのにか?」

 明らかな拒絶、しかしそこにはどこか人見知りのような会う前から結論を下している感覚が否めない。
 俺はなおも食い下がろうとしたが未来はそれを全て突っぱねた。

「会っちゃいけないんですっ! 会えるわけないんですっ!! 感情に理由なんてないんですっ!!」

 バフリと布団を引っ被る音がする。
 ……怖いのだろうか、この今が壊れるのが。
 恐らく、もう答えてくれないだろう。明日以降もそうかもしれない、この話題は出して欲しくないという気配が滲み出ている。
 それを見て俺の中で一つの迷いが消えた。
 それが未来の琴線に触れることだと言うのは分かってる、恐らく悲しい事実しかないことも。より深く傷をえぐるかもしれない、それでも。
 俺はやるべきことを見つけた。

「……未来、感情には理由がある。人によってそれが分かる場合と、分からない場合があるだけだ」

 それだけ言って目を瞑る。毛布を羽織って俺もこれで寝るという意思を出す。
 さて、明日の予定はどうだっただろうか。忙しくなりそうだ。
 な豚の裏側にあのさくらと呼ばれた人の姿を思い出してみる。
 忘れたはずなのにこれだけ影響を与えているとなると、記憶を失った原因はこの人にあるのかもしれない。
 そして、俺にはどうしてもあの人が悪い人には思えないのだった。
 



――――――――−−‐





 翌日、未来に見送られながら俺は大学に登校した。3月中旬で通常なら春休み真っ盛りだが我が校には殊勝過ぎることに春季集中講義なるものがあるのだ。
 未来には登校ついでに家まで送ろうかと言ったのだが、怖いからお昼まで様子を見るとのこと。賢明な判断である。
 そんなわけで俺は4時ごろまで民俗学についての学識を深め……
 それが終るなり真っ直ぐに真壁中央総合病院へと向かった。
 
「さくら様、ですか。失礼ながらご家族かご親戚の方でしょうか?」
「いえ、そういうわけではないのですが、どうしても会って話したいことがありまして。……やはりダメでしょうか?」
「申し訳ありません、そのような場合ご面会は遠慮していただいております」

 まぁ、それはそうだろうな。逆にこれで通ったら病院のセキュリティを疑うところである。
 受付の前で「そうですか、ありがとう御座います」と軽く頭を下げる。
 まぁ、ここで聞いたのは単なる緩衝材だ。

「それでは裏の運動場を少し見学していってもよろしいでしょうか?」
「はい、それでしたらご自由にどうぞ」

 こちらから会いにいけないのなら待ちに徹するだけの話だ。
 俺は受付の方に礼を言うと、待合室の混雑を抜けて病院の裏手へと向かった。
 スロープと手摺付きの出入り口を抜けると、申し訳程度の花壇と歩行練習用の道の向こうに運動場が見える。運動場と言っても黄土色の土しかないだだっ広いだけの広場である。土地はあるけど金が無いと病院の内情を語っているかのようだ。
 軽く見渡してみるが、そこに昨日の車椅子の女性の姿は無かった。ギプスを付けた人がリハビリしていたり元気そうな子供達が遊んでいたりする(患者じゃないかもしれない)だけである。
 まぁ、いきなりバッタリ会えるとも思っていない。
 昨日は夕方に会ったのだからその時間まで待ってみるとしよう。病院での生活は規則的になるものだ、同じ時間にここに来る可能性は悲観視するほど低くない。……入院していたらの話だが。
 そう決めると俺はなるべく隅にあるベンチに腰を下ろし、暫し運動場の様子を眺めることにした。桜でも咲いていれば目の保養にもなるのだが、残念ながら病院に植えられている桜はまだ蕾だ。

「(しかし病院に桜か、根元に何か埋まってそうで怖いな)」

 医療事故で亡くなった患者を隠蔽するために埋めていたりとか…… そんなくだらないことを呆っと考えながら眺め続ける。
 やがてリハビリをする人もいなくなり、子どもたちも鴉の声に追われるように解散して行く。2回ほどあくびをした頃には空の色も変わり、残っているのは俺一人になった。
 裏門の向こうに流れる車の姿を目で追いながら「俺はいったい何をやっているのだろうな」と、不安が浮上する。今、自分は途轍もなく無駄な時間を過ごしているのかもしれない、そんな考えが車と一緒に過ぎって行く。
 そうなる確立が高いのが笑えないところだ。
 そして更に容赦なく太陽は傾いていき、やがて視界も朱から藍に染まろうかという頃、自動ドアが開く音がした。
 ……いた。
 さくらと呼ばれたあの女性だ。昨日と違って看護婦の付き添いはない、自分の腕で器用にハンドリム(車輪を回すための手摺のようなやつのことだ)を操って運動場に出るためのスロープを降りてくる。
 つまり、こちらに向かってくる。
 俺は無言で立ち上がった。あちらも気付いたようで、スロープを降りて運動場にいきかけた車輪をゆっくりとこちらに修正する。
 そして初めて顔がはっきりと見える距離にきて、

「……っ!」

 絶句した。
 待ってる間に入念に練っていた挨拶の言葉を一瞬でぶち壊すほど。
 ――その女性は未来にそっくりだった。

「ああ、驚きましたか? そうですよね、あの距離だと顔はよく見えなかったでしょうし」

 さくらと呼ばれた女性はその反応は予期していたとばかりに驚きもなく話しかけてくる。
 その声もやはり、驚くほど未来に似ていた。
 ただ、未来の声は生気に満ちているのに比べこの人の声は風前の灯のように儚い印象だ。
 髪の先端で結んだ亜麻色の髪はやはり未来と同じように柔らく癖が無い、背丈が平均よりかなり小柄なところも未来と同じ、そして何より人好きのする笑みを浮かべたその顔が、何もかもあまりにもそっくりだ。年齢の違いさえなければ見分けが付かないのではないかとさえ思えた。
 しかしよく見るとそこまで年上というほどでもない。精々20代後半ぐらいだろう。病人独特の薄い肉付きと決して良いとは言えない顔色が年齢の目測を狂わせていたようだ。

「……お姉さん、でしょうか」
「ええ、そんなものです」

 俺の問いに、彼女は曖昧に答えた。そしてそこで初めて彼女がこちらを推し量るような目をしていることに気づく。

「失礼しました、俺は鶴群章と言います。今日は貴方に伺いたいことがあって来ました」

 俺の言葉をやはり予想していたのか、彼女は「やっぱりそうか」というような表情を浮かべた。
 そこで笑みは消える。空気が張り詰める音が聞こえるなら、今聞こえただろう。

「貴方が知りたいことについては、恐らく知っています。ですがそれはあなたもご存知のように、簡単に人に話せる内容ではありません。もしそれについて知りたいと思っていらっしゃるのでしたら、その経緯をできるだけ詳しく教えてください。それを聞いて判断させていただきます」

 まるでこちらの心中を読みきっているような言葉。それでいて、何も知らない他人には絶対に内容の分からない言葉。
 慎重だが、それだけこの件に関して真剣に考えていることが伝わってくる。
 それは内容が"悪いこと"だから慎重なのか。それとも別の理由なのか。
 分からないが、この人が未来の過去を知っていることだけはこれで確信が持てた。

「分かりました、住所などは伏せさせていただきますがよろしいですか?」
「ええ、構いません」

 ふむ、表情に変化無しか。こちらの立場を分かっているうえで自分の立場を明かさない、未来にそっくりだと言っても思考力まで同じだとは思わない方が良さそうだ。
 だからこそ安心できる。
 俺は慎重に言葉を選びながら包み隠さず全ての経緯を話していった、The worldで初めて会ったそのときのことから。
 たった三ヶ月のことなのに自分でも驚くほどその内容は多く、気付けばのどの渇きを感じるほどに喋っていた。
 全て語りきると辺りは暗くなっていた。

「……そうですか」
「これで、俺の語れることは全てです」

 語ってる最中も殆ど表情を変えることが無かった彼女だが、話を聞き終わると息を抜くように表情を緩めた。

「それでは今、あの子は幸せなんですね」
「そのはずです」

 はずと付けたが語気に迷いはつけない。

「よかった……」

 緩まった表情がさらに泣きそうなほど安心したものに変わる。本当に心配で心配でやっとその緊張の糸が切れた、と言う感じだ。それだけ未来と深い関係があった人だということが、その仕草から分かる。
 だがそこで安心して終わりだったのなら、ここには来ない。

「ですが」

 さくらさんはピクリと反応する。

「未来は貴女に遇って何かを思い出しかけています。……あなたを裏切ってしまった、と。そう言っていますが、心当たりはありませんか?」

 顔を見るなり逃げ出した未来のことを思い出したのか、さくらさんの表情が僅かに曇った。
 その目を見ながら話を続ける。ここからが本題なのだ。

「放っておけば未来は覚えのない罪悪感に苛まれ続けることになります。あの子は他人に優しい、苦しむのは目に見えている。だからせめてその原因を知って理解してやることが出来れば、未来の負担も減ると思うんです」

 そう、それが俺の本心だ。
 ほやほやしているようで人の心をその人以上に察してやれる未来のことだ、こんな状況に置かれて苦しんでいるのではないかと心配しないはずが無い。
 俺の表情、そして言葉をどう取ったのか、さくらさんはこちらを見たまま動かなかった。
 俺の気持ちに証拠が欲しいというのならいくらでも示そう、その思いを込めてそれを見返す。
 暫く無言の戦いが続いたかと思うと、さくらさんの方がフッと表情を緩めた。

「その"未来ちゃん"は、何も裏切ってなどいませんよ。ただ…… 私のわがままを聞いてくれただけです」

 「気に病むことはなにもないんです」とここに居ない未来に語るように呟く。
 どうやら、及第点は得られたようだ。

「そのわがまま。俺にも聞かせてもらえますか?」
「あの子の全てを背負うつもりがあるのなら、お話します」
「お願いします」

 即答した。

「覚悟がなければ此処には着てません」
「……そうですね、そうでした」

 さくらさんは少し驚いたような表情を浮かべた後、何か羨ましいものを見るような目でこちらを見ると、すぐにそれを笑みで細めた。

「私は今までの人です、そしてあなたはこれからの人。あの子をちゃんと守ってあげて下さいね」
「言われなくても、そのつもりです」
「ええ、妹を宜しくお願いします」
 
 クスリと、まるで鹿末のように笑うさくらさんを見てなんともいえない表情を浮かべてしまう。
 信用してもらえた、のか、それとも遊ばれているだけなのか。
 突然の弱点攻撃にうろたえる俺を見て、さくらさんは優しく微笑んだ。それは本当に桜のような淡く美しくそして包み込むような優しさの笑み。
 そこから続く話はいくらかほぐれた口調に変わっていた。

「自己紹介が遅れてしまいましたね、私は井上さくらと申します。今はこうして患者になっていますが、少し前までは看護師として働いていました」
「こちらでですか?」
「殆ど別の病院に勤務していましたが、ここには1年ほど居たことがありますね」

 なるほど、だから看護婦と仲が良かったのか。

「なるほど、しかし職を失うほど患っているとなると…… 差し支えなければ、病名を伺ってもいいですか」
「構いませんよ。特発性心筋症です」

 それを聞いた瞬間、一瞬だが確かに血の気が引いた。
 その病は……

「……ってあんまり聞いたことが無いですよね、俗に言う心臓病です。治療のために心臓移植も受けています」

 まるでちょっと風邪をこじらせているだけですというようにさらっと説明する。……歩けなくなるほど心臓が弱っているということは、死期が近いということなのに。
 理解できなかった。何故笑いながらそんなことが話せるのかその精神が理解できない。
 無意識に拳を握り締めていた。

「そんな顔をしないで下さい、これでも私は幸運に恵まれてすっごく長生きしたほうなんですから」

 いくら笑顔で言われようとそれだけは頷けない。
 死期を前にした人を前にどうして笑うことができるだろう、俺はそこまで強くない。それが未来にそっくりとあればなおのことだ。
 だが、今は頷こう。ここにはその話をしにきたわけではない。

「それでは、未来のことについて教えてもらえますか」

 良かった、何とか正常に口は動いた。

「ええ。先ずは何から言いましょうか…… そうですね、先ずはあの子の前の名前からお教えします」

 たしか、みさきちゃん、だったか。
 桜に美咲、よくある名前だがこう続くとそれなりに味があるな。

「あの子は――被験体033番、と言います。それではあんまりなので私はみさきちゃんと呼んでいましたけど」
「……は?」
「私の細胞を用いて作られた体細胞クローン、それがあの子です。端的に言えば、私が心臓病を患ったことと、父が医者であったことが原因。あの子は私に最適なドナーとなるために作り出されたんです」

 心臓病のドナーは少ないですから、と彼女は呟いた。……普段の俺だったらそれだけの説明で大体の事情を察したことだろう。
 だが今、そんな余裕はどこかに消し飛んでいた。

「待ってくれ! クローン!? そんなばかげた話があるはずがないっ!」

 ヒトクローンの作成はクローン技術規制法などで厳重に禁止されている、それに医者でも簡単に作れるものではない。高い技術と凄まじく高額な設備が必要なのだ。日本国内で…… いや、SFでもない現実でそんなことがあるはずが無い。
 だというのに、さくらさんは俺の現実感を打ち壊すような説明を加えた。

「井上正信という名前をご存知ですか?」

 ……知っている、医学関係のニュースを追っているとよく目にする人物だ。名前だけで記事はあまり読んでないが、確かIPS細胞関連でよく見かけたのを覚えている。

「私の父です。カナダの研究機関と協力してIPS細胞の研究をしていた遺伝子工学の専門家なんですよ」

 高度な技術、高額な施設。それが簡単に合わさった。
 IPS細胞とはES細胞に代わるヒトクローン胚を使わずに作成する新型の万能細胞(あらゆる細胞に分化できる細胞、再生医療において注目されている)のことであるが、その研究では数万回に及ぶ細胞を使った実験を繰り返すという。
 対してヒトクローン胚作成の成功確率は100回に1回成功するか否かだそうだ、細胞の権威ならIPS細胞を作るより簡単なことかもしれない。
 信じたくはないが、それが本当なら話は真実味を帯びてきてしまう。いや、認めたくないが真実なのだろう。彼女の苦悩に満ちた表情と声が、それを雄弁に物語っている。
 嫌な汗が額を流れた。

「もっとも、あの子を作ったときは外国で人に言えない手段を取ったようですが……」

 "作った"という言葉が無性に胸に刺さった。
 さくらさんも言い難いのか説明する表情が硬いものに変わっている。
 日本国内でのクローン作成が難しいことは想像に難くない。クローンも受精卵から始まるのである、生まれるには母体による出産という仮定が必要になる。国内では出産までは隠しきれなかったのだろう。
 しかるべき場所に資金さえ持って行けば人の命すら買える国も存在する。クローン受精卵だけを国外に持ち出し金を積んで出産を依頼することぐらいはできるだろう。戸籍登録すらどうとでもなる。

「そこまでしてクローンを作った理由、それは私の余命を引き伸ばすためでした。心臓移植は延命治療に過ぎないって知っていますか? 成功しても10年以上生きられる可能性は50%以下、25年以上存命した例はない。移植したあとは大体10年ぐらいの余命なんです。
 私は15歳でそれを受けました。母は成功を喜んでくれましたけど、父はずっと泣いてました……」

 余命宣告がどれだけ辛いものかは俺には分からない、だがそれを語るさくらさんは全てを受け入れているように感じられた。
 もしかしたら、本人以上に周りが悲しんでいたのかもしれない。

「だから、父はクローンの製作を思いついた。クローンの心臓ならもっと余命を延ばせるかもしれないと考えて」
「クローンの心臓はそこまで有効なんですか?」
「他人から貰った心臓はそもそも自分の体には合わないものなんです、拒絶反応というものが出ます。だから移植をした人はプレドニンとかの免疫抑制剤でこれを抑えます。でもそうすると抑制剤の副作用がありますし、拒絶反応も完全に消えるわけではありません、それらが負担になって心臓も体も長く持たないんです。
 ……それがもし自分のクローンの心臓であったなら、拒絶反応は出ない、または極めて小さくなります。移植すれば高確率で余命が延びてしまうんですよ」

 延びて"しまう"。
 その言い草は彼女の心象を現しているようだ。先ほどから父親のしたことを淡々と語り、一切同情の余地はないと静かな怒気を込めている。
 彼女は未来の味方なのだ。言葉からそれがひしひしと伝わってくる。

「父は移植に耐えうるまでクローンを成長させ、その心臓を奪おうと考えました。それが、あの子なんです。此処までは、いいですか?」
「理解はしています、するほどに苦しいですが。……続けてください、質問があれば後でまとめてします」
「では……」

 続けます、とさくらさんは頷いた。
 さくらさんは丁寧に、最初の出し渋りが嘘のように何度も補足を入れて説明してくれる。
 そのあり方があまりにも真摯だから、横槍を入れることなく真剣に聞いた。

「私があの子と初めて会ったのが半年前、そして私のドナーであると知ったのが三ヶ月前の話です」

 三ヶ月前、確か未来の記憶が始まっているのも三ヶ月前からだったはずだが。

「半年前はまだ自宅療養をしていたのですが、みさ…… 未来ちゃんに逢ったのはそのときです。あの子は父を探して家を抜け出してきたと言っていました。……そして、名前を聞いたら『自分は被験体033番だ』って答えたんです」

 そんな自己紹介をされたら、どう思うだろうか。
 その相手が自分にそっくりだったら……

「あの子は何も知りませんでした。普通の名前がどんなものなのかも、自分がどんな存在なのかも。ただ父の蔵書を読むことぐらいは許されていたようで医学に関する知識ばかり詳しくて、他は何にも知らなくて、それが可哀想で。私はあの子に「友達になろう」って言ったんです。そうしたら、「友達ってなに?」と言われました。
 それでも何度か遊んでいるうちに仲良なって、あの子も父の隙を見てはこちらに遊びに来るようになりました。「みさきちゃん」って名前を付けてあげたのもその頃です。一緒にパズルをやったり、慌てて父から隠れたり。思えばあのときが一番楽しかったです、人生で一番楽しいときでした……」

 さくらさんはそこで一旦話を切った。
 そして俺のほうもその頃には痛いほど事情を理解していた。

「それで、全ての事情を知ったとき。あなたは未来を逃がしたと」
「ええ、それが三ヶ月前。突然2度目の心臓移植を行うと聞かされ、何故か手術前の説明を父から受けているときでした。 
 あの子がドナーとして紹介されたんです、手足を固定されて眠らせられている状態で、です。正気の沙汰じゃなかった。健康体のドナーが手に入ったと父は笑っていました。
 私は聞きました。冗談よね? と。父はこう答えました。……これから脳死させると」

 静寂が、その場を包んだ。
 俺は身が強張って動けなくなり、さくらさんはそのときのことを思い出してか息を殺している。
 目の前で大きく深呼吸する音が聞こえてくる。

「父は最期まで事を隠す勇気がなかったのでしょう、だからそこで私に打ち明けた。そして何かに弁明するように「こうするしかなかった」と繰り返していました。見つからないから大丈夫だとか、これでお前は助かるんだとか、見るに耐えませんでした。
 私はすぐにあの子を逃がすことを考えて、実行しました。父のことも自分のこともどうでも良かったんです、ただあの子に生きて欲しかったから、逃げて欲しかった」

 「それなのに」とさくらさんは呟いた。
 まるで目の前にその光景が蘇っているかのように、目を細めて。

「あの子、逃げようとしなかったんですよ。それで私の病気が治るなら治してあげたいって、そう言ったんです」

 それが限界だった。
 さくらさんの瞳から堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。

「……友達の、ためだからって」

 溢れ出す嗚咽に言葉が止まる。
 我慢しようと強張った肩が震えている、だというのに少しも止まらない涙が白いブラウスを染めていく。
 その姿は昨日何度も見た、未来が悲しいときに見せる泣き方そのものだった。
 さめざめと夜の病院に押し殺した声が漏れる。
 ただ静かにそれが収まるのを待った。
 肺も悪くしているのだろう、さくらさんは懸命に呼吸を整えてから続けた。

「それでも、私は強引に彼女を送り出しました。心臓を渡されるぐらいなら舌を切ってやるって、そのとき初めて喧嘩しちゃいましたね。窓から未来ちゃんを送り出して…… あの子、泣きながら走ってましたからちゃんと前が見えてたか不安でした」

 まるで遥か遠い過去のようにさくらさんは言った。

「未来ちゃんを送り出した後、私はすぐに警察に通報しました。それで、呆気ないぐらい簡単に父は捕まりました」
「――なっ。逮捕、されていたんですか」
「ええ。違和感はあったはずでしょう? 身元不明の記憶喪失の女の子が出ても警察はまるで動かなかったのはそのせいです。私が口止めしたのもありますが、クローンなんて公権力が一番隠蔽したがる話ですしね」
「……そういうことだったのか」

 色々な違和感もこれで全て合点がいった。

「許されることではないと思ったんです。……あんなこと、人間がしていいことではないんです」

 絶対に許せない、終始穏やかだったさくらさんが最後に言葉を荒げた。
 確かに。そこで止めなければ同じ事を繰り返す可能性がある。そうなる前に恐らく共犯であったこの病院の医師ごと現場を押さえる必要があったのだろう。
 だがその決断は己を切るのと同じだ。社会的な地位、心理的な立場、経済状態、父からの失望、彼女は未来のためにどれだけものを捨てただろう。 
 俺にそこまでのことができるだろうか。

「もしかして、鹿末は既にそのことを」
「はい、鹿末さんには事の顛末も伝えてあります」

 やはりそうか。

「まさかDNA鑑定までして私までたどり着くとは思ってもみませんでした。そこまでされたら口止めなんていっていられませんでしたし、あの人も鶴群さんと同じように必死でしたから」

 ……人の事を探偵呼ばわりしておいてお前はそれか、鹿末よ。

「鹿末さんってすごいですね、ヒトクローンなんてばれたら国際問題になるのに一ヵ月で警察を黙らせて自分の家での保護を許可させるなんて」

 いや、鹿末の豪腕への突っ込みはこの際置いておこう。
 そうなると皆知っていて未来には真実を教えなかったようだな。

「でも、誤解しないで下さいね。鹿末さんは悪くありません、このことを誰にも他言しないようにお願いしたのは私ですから」
「分かっています、それが正しい対応です」

 口止めしなくとも鹿末は喋らなかっただろう。分かっている、これは知らない方が幸せなことだ。
 ともすれば絶望しかねないほど辛い過去であるし、その中で得た唯一の親友すら近い内に死ぬ、それを思い出していったいどこに幸せがあるのか。
 ……だが、納得いかない。
 さくらさんにとって未来との思い出が父親を売るほど大切なものならば、未来にとってもさくらさんは死ねるほど好きな人だ。
 親友が自分が知らないところで知らないうちに死んでいくなど、俺なら耐えられない。後でそれを知ったりしたら最悪だ、一生後悔する。
 例え思い出せなくても、それが正しいはずが無い。
 ……ん? 思い出せなくても?

「そういえば、未来は何故記憶喪失になったんですか? やはり逃走時の心理的ストレスとか」
「いいえ、あれは父が用意した薬のせいです」
「……薬?」
「父が逮捕された今となっては詳細なことは分かりませんが、父はプラプラのロール系の物質を利用して人の脳から記憶を奪う薬を開発していたそうです。それで、手術前にそれを飲まされていたみたいなんです。何かあったときに足が付かないようにするために、です」

 つくづく、最低だな。
 その薬も、クローン技術も、正しい方向に開発していれば医療の進歩を目覚しく進めたことだろうに。
 それをこんなことに使うとは……

「それで」

 不意に、さくらさんはこちらを見た。

「鶴群さんはどうされますか? 私に話せることはこれで全部ですが」

 その言葉で一度全ての時間が巻き戻り、初めてであったときの空気が再び訪れる。
 そう、全て語ってくれた。
 己の傷をえぐるような記憶を事細かに真剣に教えてくれた。そしてその全てを俺に委ねてくれた。だから、俺はここで答えなくてはいけない。
 日は完全に落ちている、車が走り去る音が酷く遠くに感じる。
 点滅しながら辛うじて辺りを照らし始めた蛍光灯が、ここにきてもなお穏やかなさくらさんの表情を照らしている。
 全て分かっているのだろう、俺がどう答えを出したかなど。

「俺は、全ての事実を未来に教えようと思います」
「それで、あの子が傷つくと分かっていてもですか?」

 さくらさんはただ事実を確認する。それが冷たく聞こえるのは俺自身それが痛みを伴うことだと分かっているからだ。
 だが、それでも答えは変わらない。

「さくらさんのことを知ればあの子は泣いて悲しむでしょう、例え記憶を取り戻せなくても目の前のあなたのために大泣きします。泣きじゃくって一週間ぐらい鬱になるかもしれない。それでも、"悲しむことすら許されない"よりよっぽどいい。
 俺の祖父は俺の知らないところで知らないうちに他界していました、後になってそれを知って死ぬほど後悔したことがあります。「なんでさよならの一つも言えないんだ」と。いつか未来があなたのことを思い出したとき、後悔しないようにさせてあげたいんです」

 さくらさんは静かにこちらの話しを聞いている。

「それに、何も教えないと言う選択はさくらさんが救われない」
「私が?」

 そこで自分の名前が出てくるとは思わなかったのだろう。
 この人は未来のために自分を犠牲にしすぎて自分が見えていないのだ。未来に対する罪悪感が大きすぎて自分の幸せを軽く見てしまっている。……そして、それこそ未来が悲しく思っていることだろうと俺は思った。
 確実に言えるのは、未来はそんなさくらさんの生を願ったということ。それを考えなくてはいけない。 

「未来に忘れられたまま死にたいですか?」

 はっきりと口にする。

「それが、あの子の為になるのなら」

 さくらさんの返答にも迷いはない。

「ではあの子の為にならないとしたら、忘れられたくないわけですね」
「それは……」
「未来は記憶を失ったままで居るより、そんなあなたを救いたいと願う子ではないですか? 例えそれで自分が不幸になろうとも、あの子はあなたに幸せでいてほしいと思うはずだ」
「そうですね…… きっとそう願うと思います」
「未来は出きる範囲であなたを救おうとするでしょう。それはきっとあの子にとって何よりも大事なことです。それを、させてあげてほしい。大丈夫です、心臓を差し出すなんてことはさせません」

 詭弁かもしれない。
 だがしかし、未来はさくらさんについて「思い出したくない」とは一度もいっていない。それどころか一番に考えるからこそ「会えない」と言っていのだ。
 記憶を失っても確かに「大切な人」だと覚えている。
 その未来が望むのは、何もかも忘れて幸せに暮らすことではなく、さくらさんの幸せではないだろうか。少しばかり悔しいけれど。

「でも、それは……」
「観念してください。あの子はあなたのことを「大切な人」だと言いました。記憶を失っても、その感情だけは残っていますよ」

 さくらさんは目を見開き、「本当ですか」と聞いてきた。
 俺は静かに頷く。
 さくらさんはそれを見て泣きそうな表情を浮かべ、ゆっくりと目を瞑る。
 そして最後にもう一度、俺を見て話した。

「分かりました、未来のことはあなたに任せます」

 俺はもう一度頷いた。

「ですが……」

 刺すような夜風が吹き抜け、根こそぎ体温を奪い取ったかと砂埃を引き連れて去って行く。
 三月とはいえ流石にこの時間は冷えてくるな……
 そう思った矢先、さくらさんが激しく咳き込んだ。

「ゴホッ! ゴホッ!」
「大丈夫ですか!?」

 そのあまりの激しさに思わず駆け寄る。
 風邪気味、で言い訳が立つ咳き込み方じゃない。喉の奥からヒューヒューと息が漏れる音がする。
 慌てて上着を脱いで彼女に被せながら背中を摩る。……細い、病的なほどに白くて細い。話し込んだせいか体も冷え切っているようだ。俺は涼しい程度の感覚だったが、この人にとっては極寒だったかもしれない。自分の配慮の無さが腹立たしい。
 咳が収まってもさくらさんは暫く肩で息をしていた。

「……見ての通り、私はいつ倒れてもおかしくありません。会うなら、なるべく顔色のいいうちにお願いしますね」
「分かりました、明日にでも引っ張ってきます」

 宜しくお願いします、と。彼女は顔色のよくない頭を下げた。




――――――――−−‐





 翌日、俺は未来に全てを話した。
 未来は驚きはしたが取り乱したりはせず、全てを理解したようだった。しかし話しただけで記憶そのものが戻ることはなく、実感は持てないと言う。
 俺がさくらさんに会いに行こうというと未来はためらった。

「だって、私が心臓を差し出していればさくらさんは救われたんでしょう? やっぱり裏切ったと同じじゃないですか」
「違うな、さくらさんはお前に生きて欲しいと言った、裏切ったのではなくて約束を守ったんだよ」
「でも……!」
「お願いだ! 一緒に来てさくらさんに会ってくれ! 頼む!」

 理屈に頼らなかったのはこれが始めてかもしれない。
 全力で頭を下げた俺をどうこうできるものでないと思ったのか、未来はそれ以上反発をしなかった。
 俺は足取りの重い未来を引き摺るように手を取って真壁中央総合病院へと向かった。
 時刻はやはり午後の4時、俺と未来は昨日と同じ病院裏のベンチでさくらさんを待った。
 未来は常にキョロキョロして落ち着かない様子だったが、さくらさんが現れると背筋に棒でも突っ込んだかのように緊張して固まった。
 彼女が車椅子を漕いでこちらに来る間に緊張がものすごい勢いで高まって行く、不安、恐れ、それらの感情が渦巻いている俺たちに対して、さくらさんの第一声は桜のような笑顔と共に発せられた。
 
「お久し振り。いえ、初めましてかしらね、未来ちゃん」

 優しげな声と、揺れる前髪、母性の塊のような自分とそっくりなその人の姿を前に未来の緊張が抜けて行くのが見て取れる。

「さくら、さん……」

 未来は彼女を見て、それだけを言うのがやっとのようだ。
 暫し、二人で見詰め合う時間が続く。音もなく瞳で会話するかのような雄弁なる静寂がその場を包む。
 さくらさんは車椅子の上で向日葵の柄が入ったトートバッグを抱えてジッとしているし、未来はその姿を見つめたまま固まっている。
 こうしてみると本当に二人はそっくりだ。
 もちろん年齢差を考慮しなければの話だが、未来が成長すれば間違いなくさくらさんと瓜二つになることは確信できる。親子が似ているとはわけが違う、これが一卵性双生児の似方なのだろう。
 さくらさんは全て受け入れるという表情で、未来は何を言えばいいのかわからない表情。
 ただ、その無言は長くは続かないだろうと思われた。

「……っ!」
「あっ」
  
 出ない言葉をもどかしく思ったのか、未来はさくらさんに抱きついた。
 少し驚いた声と共にさくらさんがそれを優しく受け止め、二人の長い髪が解けるように重なった。
 思い出せない記憶、声にならない声、何を言っていいのかまるで分からないのに、どうしてもなにかを伝えたい。さくらさんを抱締める腕はそんなことを語り、さくらさんはその未来の頭を優しく撫でた。
 それで落ち着いてきたのか、未来はゆっくりとさくらさんの胸からその顔を見上げる。
 さくらさんはその視線を受けて微笑んだ。

「未来ちゃん。あなたは今、幸せ?」
「……とっても、幸せです」

 挨拶など必要なかったのだろう、二人は元々一つ、会えば全てが符合するのかもしれない。

「章さんが居るし、お姉ちゃんも居る、本当にいい人ばかりに囲まれて。これ以上ないぐらい幸せです」
「その人たちの、どんなところが好き?」
「えっとですね――」

 未来は戸惑いながらも、さくらさんに請われて一つ一つ、話し出す。
 その思い出には俺が知っているものも、知らないものも、知っていたが未来の口から聞くと新鮮な物もあった。 
 さくらさんはその一つ一つに相槌を打ち、共感したり、逆にたしなめるように自分の感想を言ったりして、笑っていた。
 そこには何故か人と人の間にあるべき壁のようなものが感じられない、誰よりも自然に未来と話している、いつしか未来は問われて答えるのではなく自分から話をし始めていた。
 二つの水滴が溶け合うような会話だった。

「あ、そのときは師匠のせいで――」
「いや、あの時は4手先を読んだ計画があってだな――」
「ふふ、でも未来ちゃんに怒られたんでしょう? ――」
「それは――」

 いつしかそこに俺まで引き込まれて、その会話はとても楽しく続いた。
 どうして未来とこの人が親友になったのか分かった気がする。そう、この人と話すと溶け合う気がするのだ。二人が感じているその気持ちを、俺も感じられた。
 不意に息継ぎのように会話が途切れると、今度は未来が質問を持ち上げた。

「それじゃあ、さくらさんは今、幸せですか?」
「幸せよ、未来ちゃんに負けないぐらいね。今はとても幸せ」

 さくらさんの言葉には迷いも嘘も感じられない。だがそのあまりにも穏やかな笑顔のせいだろうか。
 未来は心配そうに問いを重ねた。

「もうすぐ、死んじゃうとしてもですか?」
「――ええ」

 未来がたっぷり3秒はためらった台詞を、さくらさんは笑みのままはっきりとした口調で返した。
 そこに死を前にした陰りなどどこにも存在しない、俺たちよりもよほど未来が待ち遠しそうな表情だった。
 それでも浮かない表情の未来の手を取って、

「ぁ……」

 さくらさんは自分より一回り小さなそれを自らの胸…… 心臓の辺りにそっと置く。

「私の人生はこの心臓のせいでとても短いみたいだけど、でもこの心臓のお陰であなたと友達になれた。だから、私はこの心臓もこの人生も、大好きだと思ってる」

 胸に置かれた手の甲の上に、ポタポタと水滴が滴った。
 未来が大粒の涙を流していた。

「でも、もしも。もしも私が――」
「それは違うわ!」

 大声に、未来は愚か俺まで驚かされる。さくらさんは真剣に怒っていた。
 小さく咳き込むと、さくらさんは未来の胸に手を置いた。叱られると思った子供のように未来が身を竦める。

「これはあなたのものなの。命は人に譲るものではないわ、未来ちゃん。例えそれが大事な人のためでも、自分がそれを望んでいても、この命は責任をもって全うしなくちゃいけない。あなたは生きなくちゃいけない、私も鶴群さんもそう、自分でそれを絶つことは絶対にしてはいけないことよ」

 さくらさんはきついとも取れる口調で諭すように言った。
 未来はそれを聞いて納得はしているのだろう、聞く前からわかってもいたはずだ。しかしその震えは止まらない。

「分かってます、分かってますけど…… さくらさんがいなくなるなんて、私……っ。なんでこんなに悲しくなるか分かりませんけど、理由なんて分からないけど、悲しすぎて、悲しくてっ!」

 未来の涙は止まらない、いや、さくらさんの優しさに触れて堰が決壊してしまっていた。

「嫌なんですっ!! 大好きな人に居なくなって欲しくないんですっ!!」

 言葉にしきれない未来の感情を受け止めて、さくらさんは今度は自分から泣きじゃくる未来の体を抱いた。
 包むようにして、嗚咽を続ける未来に「大丈夫だから」と囁いてる。
 俺はただそれを見ていた、見ているしか出来なかった。

「未来ちゃん。私は死んじゃうけど、いなくなるわけじゃないわ」
「いなく、ならない?」
「ええ。……だってそうでしょ? 私はあなたで、あなたは私。あなたが生きていてくれることは、私が生きてるのと同じなの。あなたが幸せなら、私も幸せ。私はずっとあなたと一緒に居るよ」

 その言葉が二人の間でどんな意味を持つのか、俺には分からない。

「目を閉じて、ほら、そこに居る」

 未来は再び目に一杯の涙を浮かべて、さくらさんの胸で泣いた。その存在を確かめるように、自分の存在を知ってもらいたいかのように、強く手を握り合いながら。
 分からないけれど、未来はなにかを見つけたようだった。
 ……と、何度も抱き合ったりしてたせいかさくらさんの膝にあったトートバックが落ちた。

「あっ」

 その拍子に中にあったものが飛び出してしまう。
 運動場の日に焼けた黄土色の土の上にいくつもの箱と、一枚の完成したパズルがばら撒かれる。
 未来はそれを見て目を見開いた。
 さくらさんが「見てみて」と静かに言うと、未来は恐る恐るそのB4サイズの小型パズルを拾い上げた。

「これって、コスモス……?」

 透き通る青空、静かな湖畔、それらを背景にして3輪の白いコスモスが画面の手前で咲いている、そんな素朴な図柄だ。
 別段普通のパズルのように思えたが、未来はそれを歴史的資料でも扱うように慎重にかつ食い入るように眺めている。
 さくらさんはそんな未来を眺めながら、あえて何も言わない。
 俺はそこに何かあると思って口を挟まなかった。
 そのパズルの向こうに何か隠されているのか、未来はパズルをジッと眺めて動かない。まるでなにかを思い出そうとしているかのように。

「もしかして、これ、さくらさんと二人で作った……?」
「ええ、そうよ」
「もしかして、この欠けてるところは私が無理やりはまらないピースを嵌めようとして千切っちゃったところ?」
「うん…… 探してみるって言ったのに結局千切れた部分は見つからなかったの、ゴメンね」
「じゃあ、もしかして! これは…… 私の」

 未来はさくらさんの顔を見上げた。

「14歳の誕生日おめでとう、未来ちゃん。忘れてたみたいだからもう一回言っておくね」

 満面の笑みが、そこにあった。
 未来は震える手でそれをそっと裏返す。……そこには、可愛く装飾された「Happy Birthday」の文字。そしてその下に「みさきちゃん」を横棒で消して「未来ちゃん」と書かれていた。
 それはきっと、初めて貰った誕生日プレゼント。
 それが今もう一度、初めて未来に手渡された。

「ありがとう、さくらさん」

 それはもう何度目の涙だっただろう。

「……全部、思い出したよ」

 二人はお互いに幸せかどうか聞いたが。その答えが、そこにある。
 かくして日は傾き、尽きない話題もやがては切り上げなくてはならない時間となっていった。
 名残惜しいのは俺も同じだが、病院のタイムスケジュールは絶対だ。
 未来は少しでも長く一緒に居たいと、さくらさんの車椅子を病室まで押して行った。

「それじゃあ、気をつけてね二人とも。間違っても事故にあってここにお世話になるようなことになっちゃダメよ」
「大丈夫だよ、師匠のエスコートは完璧なんだから!」
「あらあら、それは羨ましいわね」

 いつの間にか二人とも口調が砕けている。あのどんな時でも敬語だった未来がそれを崩していた。
 俺はそれに若干の新鮮味を感じつつも、いつまでも病室の前から離れようとしない未来の手を取った。
 ……む、抵抗するな。

「また来ればいいだろう。そうですよね?」
「ええ、まだまだ面会謝絶になるつもりはありませんよ。未来ちゃんさえよければ、またパズルでも作りましょ? いっぱい買ってあるし、ね」
「……うん、またくるっ。絶対くるからね」

 未来は何度も約束を取り付けると、その倍の数を振り向きながら、やっと病室を離れた。
 最後に振り返るときまでさくらさんは笑顔で手を振っていた。
 そして病棟のエレベーターの扉が閉まる。
 俺はそこで思わず一息ついてしまったのだが、未来はその向こうを見つめたままだった。
 その手には、さくらさんに貰ったコスモスのパズルがある。

「私、昔は悩んでました。なんでここに居るんだろう、どうして一人なんだろうって」

 1階を選択されたエレベーターが動き出した。

「監禁、されていたんだったな」
「はい、と言っても家の中は自由に動き回れましたし。外国に居たときは普通に外にも出れましたけど…… でも、ずっと独りだった」

 外に出れたと言っても森の中とか言うオチなのだろう、外界とは完全に遮断されていたはずだ。
 俺はハッとなって未来の顔を見た。今更だが、記憶を取り戻すとはそういった負の記憶も全て取り戻すと言うことなのだ。
 しかし、未来はまるで誰かのような穏やかな笑みを浮かべていた。

「でも、今は違います」

 嬉しそうに、愛おしそうに。抱締めるようにその言葉を呟いた。




――――――――−−‐




 ざっと見えるだけで200人以上の人間、しかも物騒な鎧を着込んでいたり半裸に近い際どい格好のそれが各々普通に喋くりながら目の前を流れて行く。見える範囲で200と言うだけで途切れることなくその流れは目の前を流れ続けている。現実だと何処かのコスプレ会場以外はありえない光景だが、幸いにもそこは現実ではない。
 ネットゲームの中だ。ついでに言えば俺も似たような格好をしている。
 人ごみからは一歩離れてキオスクの隣に腰を落ち着けていた。斧槍を抱くような姿勢でぼうっと人を待っている。
 "俺"はそんな暇そうな"自分"を3人称視点で眺めていた。何のことはない、それはH2D越しに見たThe startという自分のキャラである。
 暫く待ち呆けているとそのキャラの隣にピンク髪をした女の子のキャラが突然出現した。まぁ、それもゲームではよくあることだ。

「待ちました? 師匠」
「……」
「あれ、AFKですかー? ししょー?」
「……」

 そのキャラは俺のキャラの目の前で手をプラプラさせている。そしてエモーションで「?」マークまで浮かべていた。
 最初の頃と比べて極自然にそこまでできるようになったことは賞賛して然るべきなのだが、だが、だが!

「仕方ないですね、こうなったら最後の手段です。必殺! ゴッ――――」
「遅いっっっ!!!」

 何を必殺仕しようとしたかしらないが弟子を吹っ飛ばす勢いで怒鳴った。

「92分30秒の遅刻だっ、連絡も寄越さずに何をやってたんだ!?」
「えっと、すごく、ごめんなさい」

 さっきまでのは虚勢だったのか、ピンク髪のチェリーというキャラ=未来は風船から空気が抜けたように萎んでいく。

「お姉ちゃんに中間試験のテストが見つかって、そのー、ですね。不可抗力で素敵なお勉強タイムが…… こ、これでも頑張って抵抗したんですよ! サルでも因数分解を理解できる3時間みっちりフルマラソンコースを半分に値切ったり、とか。最後には泣いてお情けをかけてもらったり、とか……」

 ボソボソと小さくなっていくいいわけにダンッ、と足を鳴らして歯止めをかける。問答は無用である、いくら鹿末でも携帯で連絡を入れるぐらいは許したはずだ、それを怠ったのは未来のミスに他ならない。
 というか、いくら温厚な師匠でも92分は堪忍袋の容量オーバーである。

「事情は分かった、で? 何が悪かったんだ」
「ほんのりと、社会と国語が…… 一桁だったかも、知れません」

 ひと…… そりゃあ鹿末も怒るだろう。
 95点以下のテストはゴミと豪語する鹿末である、一桁のそれなんて見た日には…… 嗚呼、現世の鬼の姿が見える。
 確かにまともな教育を受けられなかったとはいえ、未来にはその鹿末が付きっ切りで勉強を教えていたのである、中学の範囲ぐらいならば半年もあれば追いつけるはずだ。そして今はもう10月の中盤、勉強開始から10ヶ月近く経過している。

「よし、それじゃあ次の土曜はうちに来るか?」
「えっ、ホントですか!? 行きます行きますっ、お姉ちゃんから逃げられるならどこにでもっ」
「泊まりでもいいぞ」
「ええぇっ!? ぜ、是非是非是非にっ!! わーい、師匠から誘われるなんて冗談みたいですっ♪」

 冗談ではない、誰も遊びに来いとは言っていない。徹夜で勉強会の準備をしておくから安心して来るがいい。
 リポビタンZを飲みながら勉強し続け7時間が経過するとそれ以降は割とどこまでもいけると思えてくることを学習させてくれる。 
 丁度バイトで家庭教師もしているのだ、資料も手元にある。
 俺が算段を練っていると、向こうでThe startの手が引かれていた。

「それはそれとして、そろそろ行きましょう? 今日はちょっと時間が無いですし」
「そうだな、1レベルぐらいは上げるとするか」

 まぁ、楽しみは土曜日に取っておくとしよう、今は遊びの時間である。その辺りのメリハリはつけなくては。
 二人で並んで雑踏の流れに混じる。
 穏やかなBGMと賑やかな雑音、それらをかき分けつつ流れに乗るようにベネツィアをモデルにした水の都を歩いて行く。
 暫く歩いたその先にあるのは巨大な青いリング、カオスゲートだ。
 クルクルと回り続けるそれの前で立ち止まり、「今日は何にするか」と悩みつつ適当なワードを入力、そして光の輪に包まれて世界を移転する。

「ねぇ師匠、私こうしているといつも思うんですよ」

 そこがお気に入りなのか、未来はいつも青々とした草原のエリアを選ぶ。
 今回はそれに加えてがい骨やらが混じっているのだが、気にしてないというか目に映るなとばかりに蹴飛ばして未来は元気よく緑の海を駆け回っている。
 長い桃色の髪が地面を蹴る度に跳ね、緋鯉が草原を泳いでいるように見えた。
 それはとても――――

「平和だな、とか?」

 その後ろを歩きながら付いて行くと、緋鯉はクルリと半回転して振り返った。
 そしてこっちまで幸せになるような笑みを浮かべて、
 
「師匠と逢えてよかった、って!」 

 俺の胸に、飛び込んできた。 



(了)