得てして、巨大な施設には公園が併設されるものだ。
 この水族館もその例に漏れなかったらしく、海岸をモチーフにしたらしい白いアスファルトと人工池を中心して四方に流れる水流が涼やかな公園が目の前にある。
 売店や自販機が近くに並べられている辺りにその意図が隠されているわけだが、そんなものを利用する気にはなれない。
 今は公園のベンチに腰掛けている。
 なるべく人の通りが少ない場所を選んだが、楽しそうな家族連れの声が遠くから聞こえてくる。
 未来はキャスケットを目深に直して黙ったままだ。

「……」
「……」

 俺もまた言葉を発しない。
 未来自身が気持ちを切り替えるまで、雑念を吹き込むようなことはしない。こちらが気にかけて何か言えば未来はそれ以上に気を使って返答するだろう、無理をさせることになる。最良の選択肢は"いつも隣にいる"師匠であり続けることだ。
 瞳の端に俯く未来を捕らえながら、どうしてこうなったのか考えをめぐらせる。
 気になるのはあの反応だ。
 あの白い髪が相当なコンプレックスになっていることは俺にだって分かる、だからこうして上着とキャスケットで隠している。
 しかしたった一言でここまで反応するものだろうか。まるで悪口にまったく抵抗のない子供のように過剰な反応…… そこまで来てやっと気付いた。
 そう、記憶喪失だ。
 周りからの視線、蔑みの言葉、見え透いた気遣い、それらも場数を踏めば慣れるし対処法も身につく。
 だがその全てを失ってしまっていたら、どうだろう。
 その心には何の防壁もない。
 子供が「バカ」と言われただけで激しく怒るように、些細な言葉も大きな毒針となって突き刺さるのではないだろうか。
 その痛みは、どれほどなのか。
 それを感じているはずの横顔を見てみる。ただ俯いて涙を流すことを必死に我慢しているような、唇をきつく結んだ未来の表情がそこにある。今にも震えて壊れそうな女の子がそこにいる。
 どうしようもなく悔しかった。
 せめて俺も同じものをもっていればと神様に無茶を注文したくなる。
 他人事だからこそ、人は悩むというのに。

「……変ですか」

 ポツリと、独白のように言葉が漏れた。

「私、変ですか?」

 遥か下方。
 まるで地獄の底から地上の空を見上げるような仕草で、泣きそうな顔でこちらを見上げている。
 白い髪の女の子。
 何の罪も背負っていないのにそんなところに蹲っている不平等がそこにはあった。

「多数の中にある少数のことを変の定義とするなら、それは変だろう。世間一般的に見ればな」

 何も背負っていない俺は同じ場所に立てない。
 だとしても、手を伸ばせば届く距離だと信じている、そんな違いは些細なものなのだ。結局、地獄も天国も人間が生み出した心の壁に過ぎない。

「ただ、俺自身が未来を"変"だと思うことはない。なにしろ"変な弟子"としての印象があまりにも強いのでね」

 暗く淀んだ沼に清流を流したように、少しだけ未来の顔が綻んだ。
 だからこそなのか、未来の表情には陰りが残る。まるで優しさに痛みを感じているような、そんな表情。
 
「章さんなら、そう言ってくれるって信じてました。だから私も気にしないでいようって決めてたのに。なのにこんな大失敗…… ありえないですよね」

 ありえないです。
 悔しさを噛み締めた声で少女は唸った。

「結局たった一言でこんなに取り乱して、章さんに居心地の悪い思いさせちゃて…… ごめんなさい」

 ごめんなさい。
 何度も言葉を重ねて、少女は謝った。
 ……ああそうか、この必死に留めている涙の原因。それは心に負った傷の痛みではなく。
 楽しんでもらうはずのデートの最中に、立ち止まり、俯き、視線を集め、そして俺に恥をかかせてしまったことに対する後悔なのだ。
 俺を信じていたのに、結局自分が台無しにしたと思っている。 
 この子は、そんなにも想ってくれていたのだ。

「80点」
「……はい?」

 だから、一つだけ訂正してやらないといけない。

「俺としては次から次へ新しい魚を見て行くよりは、ボーっとクラゲを眺めてたときのように気に入った展示場では足を止めて雑談に興じる方が好ましい。これは情報を集積させる場合は適度にホワイトスペースを含めるべきという考え方で、つまり詰め込み過ぎはよくないってことだな」

 確かにこのデートは失敗だらけだったけれど。

「まぁ途中で"些細な事故"もあったが、今回はかなり頑張ったんじゃないか? 俺は嬉しかったぞ、未来が魚のことを予習してくるなんて思いもしなかったしな。The worldでもこのくらい勉強熱心なら師匠としてはありがたいんだが。
 だから、なんだ、未来が頑張ってくれた分が+80だとしたら事故なんて-0.1にも満たない少数だ、切捨てて整数にもならん。電柱より不感症と呼ばれている俺にしてみれば大したことじゃない。さしあたって今問題なのは腹が減ってることぐらいだ」

 未来の気持ちはたった一つで、ほんの僅かにだってぶれることはなく。

「だから、気にするな。いいデートだったぞ」
「……本当に?」
「確かに失敗は多かった。だが失敗を本気で悔やんでくれただろう? それが心に響いた。成功して自慢げにされるより、よほど嬉しかったよ」

 こうして、伝わっているんだと。
 割れ鍋に綴じ蓋とはこのことだろうか、なにをするにしてもこの師弟は不器用だ。
 ただ…… こんなにもひび割れだらけで世間的には酷く格好の悪い言葉だとしても。
 安心とか、予想外の言葉とか、嬉しかったとか、失敗ではなかったとか、色々な理由で、我慢していたものが堰を切ってぽろぽろと。
 こんな涙を流して笑ってくれるなら、決して無価値ではないだろう。
 それは未来の頬を伝っては、チェックの入ったスカートをぬらしていた。
 
「ししょぉ……」

 ぎゅっ。
 俺の胸にしがみ付くように、顔を押し当てて抱きつかれる。
 泣き顔を隠すように。
 やっと甘えられるものを見つけたように。
 「ししょお、ししょお……」と何度も何度も音にならない言葉を繰り返す。
 抱き枕に顔を埋めるようにしっかりと抱締めて、ずっと傍に居て欲しいと叫ぶように。
 その背中を支えるように、片手で未来を包む。
 遠くから家族連れの声が聞こえる。
 曇天の不躾ではない明かりの下で、くぐもった鳴き声だけが近くにある。
 


――――――――−−‐



「じゃんじゃかじゃぁぁーーんっ!! です」

 いい話的なムードはその一言で完全にブレイクアウトした。
 未来は俺の腕の中からするりと抜け出すといつの間にかリュックを漁り、その中身を秘密道具の如く掲げていた。
 これは弁当箱、だろうか。
 ファンシーなクマさんが歌い踊っているおかげで直視に耐えられないが。

「切り替え、早いな」
「何があってもめげないのがチェリーですから。ふふ、師匠の優しい言葉のお陰もありますけどね」
「そ、そうか」

 未来は片手で必死に涙の痕を拭いている。ずっと重くしてもいけない、と思ったのだろう。
 そして不安などどこかに飛んで行けとばかりもっと明るく声を張り上げる。

「ふっふっふ、それよりもうお昼ですよ章さん。決戦のときがやってきました! このときのために用意した鹿末未来の最終破壊兵器(おべんとう)をとくとご賞味下さい!!」

 未来はお世辞にも器用とはいえない。当然料理も得意ではなかったはずだ。それなのにこの自信、相当練習を積んできたのだろう。もはや戦う前から優勝してるような口ぶりである。
 見ればあの巨大なリュックの中身は8割ほど弁当箱で埋まっていた。
 ステンレス、重箱、プラスチック、地方の駅弁のような木箱、果てはコンビニ弁当まで素敵いっぱい胸いっぱいに詰まっている。
 ……そりゃあ、重いよな。 

「弁当は分かる、丁度腹が減ってきたところだしそれは嬉しい。……が、この量はなんなんだ」
「えへへー、とりあえず用意できるジャンルを全部用意してみました」

 ご飯とパン両方用意したから好きなのを食べてね的な口調で言われても困るんだが。
 見れば、確かに和洋中のオーソドックスなものからジャンクフード、高級食材、北海道の駅弁まで揃っているようだ。
 鹿末家の財力に物を言わせたのだろうな、嬉々として協力する鹿末の顔が目に浮かぶ。
 恐らくこの無駄に大げさなリュックも保温仕様の特別製なのだろう。

「でもリュックにあるのは全部"予備"ですよ」
「予備?」
「そうです、師匠にはいつもお世話になってますし。その、できればこの手作りのを食べて欲しいなって…… でも口に合わないかもしれませんから、その予備」
「そしてその本命とやらが、このクマさんなわけか」

 未来は若干照れながら頷いた。
 些か大げさな気もするが、未来なりに文字通り最大限にこっちのことを思案してくれたんだろう。
 このためだけにあんなリュックまで背負ってきたりして。
 その気持ちだけでも胸がいっぱいになる。
 まったく本当に、こいつにはいつも驚かされるな。
 俺は唯一預かっていた水筒の蓋を開けると、上下についていたそれの片割れを未来に渡して中身を注ぐ。
 その間も未来はワクワクした視線をこちらに発射し続けている。俺は苦笑すると箸を取った。

「それじゃあ、ありがたく頂こうか」
「はいっ、頂いちゃってください!」

 クマさんは未来の膝の上に乗せられ、パカッと勢いよく蓋が明けられる。
 それだけで弁当特有のいい匂いが漂ってくる。
 そこには……
 ソボロででっかくハートマークが描かれていた。その上にとどめとばかりに鮭フレークで「LOVE」と書かれている。
 傍にはカニカマを中心に巻かれた卵焼きとか、切れ目の入った荒挽きソーセージとか、キャベツに包まれたポテトサラダとかがあったが目に入らない。
 ケースの半分を占めるハートマークがひたすら目に痛かった。今時新婚カップルでもやらないんじゃないかと思えるほど堂々と愛を語っている。そう
 ハートマーク。
 それが意味するモノは即ち、愛。

「……」
「……」

 これは、いったいどうリアクションすればいいのだろう。
 肝心の未来を見てても、なぜか彼女にとっても予想外らしく弁当に視線を落としたまま石像のように固まっている。
 そして顔だけ見る見る赤くなっていく。
 未来でないとするとこんなことをするのは。

「(鹿末の仕業か……)」

 恐らく、未来の弁当の監修をする際にちょっとした"仕上げ"を行ったのだろう。
 それを世間では余計なお世話と呼ぶわけだが。
 これでは困るのは未来だろう。

「まったく、これは鹿末の奴の差し金か? あいつも大人気ない悪戯をするというかなんというか」

 とりあえずここで固まるのはよくないと軽口を叩いたときだった。

「これ、私の気持ちです」
「……未来?」

 まさかぐるなのか?
 そう思って振り向くと。
 そこには目一杯腕を伸ばして弁当箱が差し出されていた。
 大きなハートマークが差し出されていた。
 差し出す本人の顔は中にあるトマトより真っ赤になっている。声も、震えている。
 心の震えを伝えるように弁当箱もかすかに揺れている。
 それでも迷うことなく、ただ俺の瞳を見つめ、未来ははっきりと告白した。

「ハートマークをあげるんだからアイラブユーですっ! マイハートイズギブンです! 受け取ってください、師匠っ!」

 一呼吸置き。

「師匠が好きなんです!」

 鼓動が高鳴る。
 怒涛のように流れ込む言葉に、想いに、そのあまりの大きさに、今度は俺が固まる番だった。
 あまりに素直な言葉。
 混じり気のない未来の想い。
 あまりにも唐突な告白。
 その純粋な熱さが瞳から瞳を伝い俺の体温を一気に跳ね上げる。鼓動が暴れる、それは何年ぶりのことだろう。
 
「……っ」

 瞬きもしないでこちらを見つめ続ける大きな瞳、余りにも真剣な前にして喉が渇く、言葉が出ない。
 予想をしていなかったわけではない、相手のことを本気で考えていれば分かることだ。ただ、気付かないふりをしていたツケがここに回ってきただけ。
 サインはいくらでもあった、取り合わなかったのは誰だ、自分だ。では嫌いなのか、そうではない。
 なんと言えばいい? どうすればいい? 俺の気持ちは何なのだ?
 展開とパターンを予想して用意しておいた台詞の数々が完全に吹っ飛んでいる。
 頭が混乱している。
 この真摯な瞳の前に建前は通用しない、必要ない、欲しいのは俺の心ただ一つと言わんかのごとく。
 5秒ほど経つ。
 未来はジッとしているが、その瞳が心配と羞恥で今にも泣き出しそうなものに変わり始めている。
 だというのに俺はなんと言うべきか分からないでいた、そもそも俺自身が自分の心を見失っている。
 未来は弟子でありネット上の可愛い友人だ。
 今朝までは確かにそうだった。
 だが今はどうだ?
 ……違う。決定的に違う。
 あんなにも俺のために真剣だった未来を見て、その裏側にある弱さを知って、名前を呼び合う仄かなくすぐったさを感じて、こんな俺を好きと言ってくれて。
 変わっていた。
 では今、未来をどう思っている。断れるのか?

「そうか……」

 立場とか、歳の差とか、記憶とか見た目とか釣り合うか否かとかその全てを度外視してでも。俺は――――
 今、ここに至って理解した。
 美辞麗句など必要ない。
 思考をすっぱりと捨てて気持ちだけ残せば、答えは簡単に出ていた。

「――残念だが」

 未来の体がびくりと震える。

「この弁当を食べる前に口にするべきものがあるようだ」
「え? ――っ」

 俺は未来の顔を静かに引き寄せ、唇を奪った。
 それはどんな食前酒より甘美な味で、甘い香りがした。そして何よりも柔らかい触感が印象的だった。
 遠く。
 聞こえていたはずの人の声が遠ざかっている、まるでこの場所だけ隔絶されたかのようだ。
 5秒を1時間ほどに感じた後、名残惜しみつつゆっくりと離す。

「…………ぷは」

 唐突過ぎて少し苦しかったのだろうか、未来は大きく息を吸い込んだ。
 息を整えながらも呆然とした表情でこちらを見ている、そろそろ瞬きぐらいしてもいいだろうにずっと見つめたままだ。それでも目が乾かないのは潤んでいるからだろうか。
 そしてなぜかキョトンとした表情を浮かべ、ゆっくりと自分の唇を人差し指で触る。
 その指先と俺の顔を交互に見た後、段々と込みあがった感情が安堵と喜びの嵐となって表情を崩していく。
 きっと劣等感だらけの自分が好かれるはずが無いと悩んだだろう、表情が見えない俺が相手で不安だっただろう、それでも…… だからこそ何倍も何十倍も頑張ろうと決めていたのだろう。
 初めて目を瞑ったかと思えば、その端から大粒の雫が落ちる。
 そして今度は未来の方から、俺の唇にその桜色の唇を重ねてきた。 



――――――――−−‐



「あーーっ! 兄ちゃん達キスしてるーっ!」

 ビクゥッ! と揃って心臓を跳ね上げる。
 自分でも驚くほどの速度で身を離し、ついさっき法事がありましたといわんばかりの姿勢を正す。……チラリと、声の出所を探った。
 そこには先ほど未来にぶつかってきた子供達がいた。
 小学校に入りたてぐらいだろうか。頭一つ高い女の子が一人、その左右にいかにも元気そうな男の子が二人、興味深そうにこちらを見上げている。

「つ、続けていいよ? どうぞお構いなく」

 お姉さん役らしい女の子がドキドキしながら言ってくる。

「お構いなくって、いわれましても……」

 未来は頭で鯛焼きを焼けるぐらい真っ赤になっている。
 見られていたのが相当恥ずかしいのだろう。
 俺だって死ぬほど恥ずかしい、子供じゃなかったら逃げ出してるところだ。が、ここで俺まで呆けるわけにはいかない。

「コホン。君たち、今後のためによく聞いておくんだ。もしこういうシーンを見てしまったらなにも言わずにそっと立ち去ること、マナーというものだぞ。大人の常識というやつだ、これを守れないとかっこ悪い、分かったか?」
「はーい!」

 聞き分けがいいのかそれとも聞き流してるのかよく分からない返答が帰ってくる。
 だが少年少女にその場を離れる気配はなかった。

「君たちな……」
「でも用事があったらいいんだよねー?」
「だよねー」

 用事?
 いったいなんの。

「用事、ですか?」

 未来が不思議そうに聞き返す。
 すると少年二人(双子のようだ、よく似ている)のうち片方が自慢げに答えた。

「お母さんに話したらね、すぐにあやまってきなさい! ってすっごい顔で怒られたんだよ!」
「うん、だからあやまりにきた! めっちゃこわかったもん!」

 親指立てて嬉しそうに語るな。しかしなるほど、そういうことか。
 どこで話を聞いたのだろう、そして彼らの母親は子供の失礼を恥じたに違いない。日本人は"そういうこと"に敏感である。それはめっちゃ怖く起こるというものだ。
 しかし謝りに来させるのはいいが、子供達だけでやらせようとする辺り教育欲が見え隠れしているな。

「謝りにって、何をですか?」

 話に付いて行けてないのか未来はきょとんとしている。
 ぶつかってきたのがこの子供たちだとは覚えていないのだろう。あの時はただその言葉だけが聞こえ、他の事が見えなくなっていたということか。
 だから俺はなるべく迂回して答えた。

「ほら、未来の背中にぶつかってきた子達だよ」
「……あ!」

 思い至った瞬間緊張が走る。
 それは不安、またあんなことに、俺の前でそうなるのではないかという恐怖。
 そして葛藤、今は違う、同じことは繰り返さないという抵抗の意思。
 それらが混ざって汗として流れる。
 ただ、子供達はその様子を敏感に感じ取ったのか未来の前にくると勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい……」
「おねえちゃんけっこうびじんなのに、おばあちゃんなんて言われたらヤだよね? ごめんなさい」
「よく見えなかったんだもん、でもゴメン」

 その三者三様の、それでもちゃんと真面目に謝ろうとしている姿を見て、未来の表情が優しく緩まった。
 自分が怯えていたモノはこの子達ではない。そう気付いたようだ。
 何のことはない、あの場所に悪意なんてモノはなかったのだから、気付いてしまえばそれだけなのだ。
 そして、一瞬の逡巡を見せた後。
 未来は自らキャスケットを脱いだ。

「あ……」

 女の子から感嘆の声が漏れる。
 大き目のキャスケットから銀砂を流すように長い髪が零れた。現れたそれは風と戯れながらゆっくりと肩にかかる。上着の中に隠していた髪も後ろ手で引っ張り上げて背中に垂らす、縛ってあったそれは白馬の尾のように見えた。
 木陰の中で雪の花が咲いたように未来の長く美しい白髪が子供達の前にさらされる。
 その仕草に子供達が見とれる中、未来は彼らの前に屈んで目線を合わせた。

「やっぱり、おばあちゃんに見えちゃいますか?」

 未来は何とか笑顔を崩さないように訊いたが、キャスケットを掴む手が僅かに震えている。
 かなりの緊張を伴ったであろうその質問はしかし、子供達にとっては些細なことだった。
 皆一斉に首を振った。

「ううん、全然見えない。というかすごいキレイ! あ、あの、さわってもいいですか?」

 そしてやっぱり一番に反応したのは女の子だ。
 未来が「いいですよ」と答えると、その小さな手でガラス細工を手の中で転がすように未来の髪に触れる。
 そして顔を近づけて「いい匂いがする」と感想を洩らしたのだった。その声に未来の表情にも花が咲いた。
 そこから先にもう緊張はない。
 未来は「お姉ちゃん秘蔵のシャンプー、勝手に使ってます!」と本人が聞いたら修羅場は避けられない台詞を自慢げに言ってたり、女の子は大真面目な顔で聞いていたり。

「ねぇ、それってそめてんの? だっしょくってやつ?」
「んー、たぶん地毛だと思います」
「ふーん」
 
 男の子二人はそれだけ聞けば満足そうだった。
 女の子二人はそれから暫く髪談義を続けていたが、退屈した男の子達が袖を引っ張った辺りでお開きとなった。
 心臓に悪かったうえに騒々しいことこの上なかったが、彼らのお陰で随分と心の荷物が減った気がする。
 大きく手を振りながら帰っていく三人を見送る。
 ……と、思ったら一人が駆け足で戻ってきた。

「お幸せに!」

 こちらがビックリした顔するのを見て満足そうにすると、すぐにかけ戻っていく。

「マセガキめ」
「でも、いい子たちだったから許してあげます」

 未来はこちらを振り向くとニッコリと笑い、「わたし達も行きましょう」と俺の手を取る。
 キャスケットは…… リュックにしまって。
 その白い姿の隣に並んで歩いた。



――――――――−−‐



 午後は最近出来た大型ショッピングセンターで買い物、という流れになった。自然にそうなった。
 ……ように見えて未来の計画した通りなんだろうが、ここはあえて気付かないふりをする。
 デートは男がリードするものなんて古い考えはこの際改革しよう、楽しそうに張り切っている未来を邪魔する気にはなれない。精々財布とボディガード役に徹するとしよう。
 そんなわけでショッピングセンターに到着し、圧倒された。
 
「すっごい人ですねー」
「出来たばかりだしな、この辺りじゃ他に行く場所がないんだろ」

 先月オープンしたばかりのそこは溢れんばかりの人で埋め尽くされている。
 水族館から地元のほうに戻ってきたのだが、いったいどこに隠れてたと思うほど人が集まっている。
 老若男女問わず人が濁流のように通路を行き交っては、専門店に立ち寄ったり、地下にある食品売り場に足を運んだり、最上階のレストラン街に向かったり、この施設だけで我が町の税収の3割くらいは支えられそうなほどである。
 4階建ての天井まで吹き抜けになっていて、吹き抜けているスペースに天井から釣り下がった広告が揺れている。その中央の空洞を囲うドーナッツのように通路があり、通路に沿ってブティックから電気屋まで様々な店が並んでいる。
 下見には行ったのだろうが、恐らく平日だったのだろう。未来はこの圧死できるレベルの人の渦に気圧されているようだった。
 荷物は俺が預かってる(持つと言い張られたがいい加減言いくるめた)から体力面は大丈夫だが、今度は精神的な試練到来のようである。デートとはかくも難儀。
 今はその真っ白な髪を晒している、過ぎ去る人は皆ちらちらと未来を流し見ては通り過ぎて行く。

「迷子になるなよ、ナビゲーター」

 足踏みしているその手を握る。

「だ、大丈夫です!」

 握り返される。
 水族館のときとは違う、握っている手の意味がまるで違う。
 もう大丈夫なんだと自分に言い聞かせるように、未来は自らその渦の中に飛び込んでいった。
 最初に向かったのは……
 
「……………………………………………………………………………………」

 周囲360度オールレンジから可愛らしい瞳に見つめられている。
 犬に猫にクマといったポピュラーなものからクモにタコといった少々際どいものまで、大小様々なぬいぐるみに壮絶なほど見つめられていた。ただでさえその視線に耐えられないというのに耳からはファンタジックなオルゴールの音色が聞こえてくる。いかん、脳が拒絶反応を……
 異世界に迷い込んだ上に見世物にされている気分だ。
 『ぬいぐるみ専門店・クルル』という存在がここまでの恐怖を孕んだ場所だとは思わなかった。可能なら今すぐ逃げ出したい。全力で逃走して我が家でプラトン先生の『ソクラテスの弁明(山波文庫)』を心行くまで再読したい。
 だが、手を握られていてはそれも叶わない。

「どれがいいと思います? 章さん」

 未来はトラ模様の猫とブチ模様の猫とで悩んでいるようだった。眉間に皺を寄せてお宝鑑定弾のあの人の如き慧眼を光らせている。
 両方とも未来腕の中に納まるサイズで、デフォルメされて服まで着せられている。まぁ、可愛い人形だろう、それは分かる。
 だが正直模様以外の違いが分からない。

「……どれでも同じじゃないのか」
「全然違いますよー! ほら、顔つきも違うし誕生日も名前だって違うんですからっ」
「誕生日まであるのか……」

 膨れる未来だったがそもそも俺にそこまでは望んでいなかったのだろう、服の襟首にあるタグを見比べて真剣に悩む表情に戻って行く。
 そのタグを後ろから覗いて見ると、値段の方は意外と紙幣を食い荒らさない良心的なものだった。
 専門店だから普通は売ってない輸入物のとんでもない値段の奴が置かれてるのかとも思ったが、そうでもないらしい。
 何にせよ。
 
「両方買えばいいんじゃないか? そのくらいなら問題ないぞ」
「ダメです」

 即答された。

「両方男の子なんですから喧嘩になっちゃいます」

 ……何故?
 雄猫が二匹並ぶと縄張り争いをするということだろうか、嫌にリアルな設定だなそれは。
 猫二匹を使って喧嘩させている未来を想像してみる。……うん、かなり平和じゃないか。
 俺が不思議そうにしているのを察したのか、未来は猫二匹となぜか俺を見比べながら補足した。
 
「家には女の子が居るので取り合いになっちゃうんですよ、あの子可愛いですから」
「ああ、そういうことか」

 「そういうことです」と、未来は家庭の事情を自慢するように頷いた。

「……よし、こっちの子に決めました!」

 どうやらトラ柄猫がお眼鏡にかなったらしい。
 よく見ると心なしか目つきが据わっているようなそいつを抱えると、二人でレジに並んだ。
 人が多いせいかレジはそれなりに込んでいる、しかもその殆どは女の子と言う人種である。この待ち時間はかなり息苦しい。
 男も極稀に見かけられたが大抵は子供連れのお父さんだ。
 
「(居辛い……)」

 未来が人目を引くのも手伝って俺達は目立っていた。
 特に女の子達から視線を向けられることが多い、なぜか…… ああ、手を繋いでるからなのだろう。
 声を潜めて色々言われているのも頷ける。

「ねぇ章さん。私たち、ちゃんとカップルに見えてるでしょうか?」
「見えないだろうな」

 ちょっと期待していた未来の声を即答で斬捨てる。甘い、修行が足りない。
 流石に30cm以上差があると無理がある。カップルというならあと10cmは欲しいところだ。

「……ですよねー」

 どうしようもない現実を前に未来はガックリしながら頷いた。
 見せ付けたかった…… みたいだな。

「焦らないでも背が伸びてから見せつけてやればいい。俺は逃げないからな」

 未来は顔を上げてパッと笑顔を浮かべると「逃がしませんから」と腕に抱きついたのだった。バランスを崩しかけて慌てて戻す、未来は暫くそこにぶら下がっていた。
 が、その瞬間から背後の女の子達の視線が強く…… なにか色々と推察と論議を楽しんでいらっしゃるようだ。
 店員の生暖かい笑顔に見送られて会計を済ませる。
 未来は満足そうに、そして少し恥ずかしそうに胸の猫を抱きしめて、俺の前を歩いた。

「この猫君はアキラっていいます、それで、家に居るのはミクちゃんなんです」



――――――――−−‐



 なるほど、一番最初に一番恥ずかしい目を見ると慣れるらしい。
 あの後も一生縁が無いと思ってたブティックやら一人では何かと入りにくい喫茶店やら俺の好みを考えてか書店やら、人の流れを縫うように色々な場所を回った。
 視線は確かに気になったがそれはもう足枷にならない、俺達はいつものようにこのショッピングセンターを"冒険"する。
 唐突な発言と意外な行動力で場を作る未来と、無愛想で論理的かつ薀蓄(うんちく)まじりのツッコミばかりする俺、いつもの師弟の姿だった。
 一つだけ違うのは、繋がれた手。

「そうだ、ちょっとドラッグストアに寄って行っていいか?」
「いいですよ。えっと、場所は丁度のこの真下です」

 またしても構造を把握してる未来に苦笑しつつ、ドラッグストアに向かう。
 丁度歯磨き粉を切らせていたんだが、この際色々と足りないものを買い足しておこう。未来には悪いが一人暮らしは色々とシビアなのである。オープン記念セールに便乗しない手はない。
 揃って自動ドアを潜り真っ白で照明の眩しい店内に入る、ここはそれほど人が居ないようだ。

「いつも使ってるのはこれ、と。後は胃薬も買っておくかな」
「胃薬? 章さんも調子に乗って食べ過ぎたりしちゃう方なんですか?」

 いや、「私と同じですね!」と嬉しそうにされても困るんだが。

「そんなことはしない、侘しい一人暮らしに無駄食いと作りすぎは厳禁だ」
「むー、じゃあなんで胃薬?」
「飲み過ぎ対策だ。……友人に、飲み会の帝王みたいな奴が居てな。飲めなかったらいいんだが、なまじ中途半端に飲めるせいでよく強引に飲まされる。そして翌朝になって地獄を見る、と」

 まぁ長谷川なんだが。
 飲んだら奢ってやるとか言うせいでいつもうまく飲まされてしまう、……と、未来に酒の話をしても分からないか。
 記憶喪失なので年齢不詳なのだが(自称14歳のすーぱーあいどる)未成年なのは間違いない。

「……うーん、飲み過ぎですか」

 しかしなぜか未来はいくつか胃薬を手にとってその成分を細かく見比べている。
 どの商品も『飲み過ぎには』と書かれてるのだから同じだと思うのだが。

「どれでも構わないだろう、頻繁に使うわけじゃないから小さいやつを適当に」
「同じじゃないです。飲み過ぎ対策なら、アルコールで荒れて傷ついた胃自体を修復する働きのある胃薬がお奨めです。銅クロロフィリンカリウムとか、水酸化マグネシウムや無水リン酸水素カルシウムがちゃんと入ってるのがいいですね。余分な成分が入ってても体に毒ですからこの場合吐き気を止めるオキセサゼインは入ってないものを…… これとか」

 未来はそれがちゃんと入ってるのかどうか確かめていたらしく、いくつかの候補の中から一つを選んで俺に渡した。
 ただ、渡された俺の方は呆然とするばかりだ。

「……? どうしたんですか章さん? まだ何か買います?」
「いや、詳しいんだな」

 そういわれた未来はなんでそんなことを言われるのか分からないという顔をし―――― 胃薬を見て、目を見開いた。

「あ、あれ? そういえばなんで私…… そんなこと、知ってるんだろう」
「テレビとかで見たんじゃないのか?」
「違います、成分のどれがどんな働きをするのか詳しく理解できましたし…… そんなのテレビでは見てないです」

 そこまで言ってハッと口を塞ぐ動作をする。
 だがもう遅い、知らないふりは出来ないタイミングだ。

「教えられた覚えも勉強した覚えもない、だが知っているということか」

 未来は観念したように頷いた。

「……はい」

 解離性健忘の症状だ。
 未来は『銅クロロフィリンカリウムが飲みすぎに有効』と知っていたが、それをどこで覚えたのか、その知識に対してどう思っていたのか覚えていない。知識としては覚えているのにそれにまつわるエピソードを覚えていない。
 これは知識である『意味記憶』を保持したまま思い出である『エピソード記憶』を失っていることを意味する。記憶喪失の人間が記憶を失ってもちゃんと常識をもって言葉が話せる現象と同じものである。
 記憶にも色々な種類があるが『エピソード記憶』とは思い出にを司る記憶だ。例えば「どこで誰と会ってどんなことがあってどう思ったか」という記憶や他人に対する感情の記憶がこれに辺り、失くすと未来のようになる。
 これに対して『意味記憶』というものがある、例えば『林檎は木になっていて赤い果物である』『7×4は28である』といった知識がこれに当たる。
 未来は成分に関する『意味記憶』だけ思い出したわけである。
 本人はそんな出所不明の知識が気持ち悪いのか奥歯にものが引っかかったような表情をしている。

「とりあえず、買う物はこれで全部だ。会計を済ませたらちょっと休憩しようか」

 俺は急に電池が抜けた人形のように覇気がなくなってしまった未来を引っ張り、会計を済ませると休憩コーナーへと向かった。
 相変わらずの人の入りだがまだ夕食時には遠いので二人分の席はなんとか確保できる、水と適当に買ってきたバニラアイスを未来の前に置くと向かいの席に腰掛けた。こっちは水だけだ。
 未来は何かを悩むように暫く黙っていた。
 寒々しく雑踏の音と人の気分を刺激しないBGMが流れて行く。
 そして漸く決心が付いたのか、水を一口含むと未来はいつになく真剣な表情で語り出した。

「私、記憶喪失みたいなんです」

 知ってはいたが、改めて言われると軽くショックを受ける。だがそれで演技は必要なくなった。
 俺のリアクションを伺っている未来に、出来る限りいつもの自分で切り返す。

「記憶喪失? 頭でもぶつけたのか」
「違います、お医者さんは精神的なものだろうって言ってました」
「精神的…… ああ、そうか」

 未来の髪を見て頷いてみせる。

「いろいろ事情が有りそうだが、聞いていいか? 話したくないなら強要しないが」
「話します。いずれ分かることですし。章さんなら感付いて自分で調べちゃいそうですから、先に白状しちゃいます」

 姉妹揃って同じことを言う。俺はそんな風に見えるのか?
 確かに知識魔かもしれないが他人の秘密まで探り出す趣味はないのだが。

「……まあいい。とりあえず記憶喪失といってもいろいろ有るが、いつごろから、どのくらい記憶が無いんだ?」
「……3ヶ月前より前の記憶、全部です。全生活史健忘(Generalized Amnesia)って言うみたいです」
「全部か……」
「はい」

 未来は俺がさほど動揺しないのに安心したのか、話しを続けた。

「気付いたら病院の壁と窓があって、入院してて…… という感じでした。お姉ちゃんが道端に倒れていた私を見つけて運んでくれたそうです。なんでこんな所にいるのか分からなくて、すごく不安で怖かったのを覚えてます。
 でも何度もお姉ちゃんが心配してきてくれて、そのときはお姉ちゃんじゃなかったんですけど、何度もリハビリの手伝いをしてくれて。その度に「家に来ていいよ」って言ってくれて…… すごく嬉しくて。私、懐いちゃったんですね。
 それで、一ヶ月ぐらいで退院して、私はお姉ちゃんの家の子供になったんです」

 初耳だ。
 なにか事情はあると思っていたが、まさか鹿末のやつが人間を拾ってきていたとは。
 ただ、妙に納得できた。
 なにかにつけて鹿末が未来のことを気にかけてるのはそういう事情があったからなのだ。
 信じられないような話ではあるが、未来が鹿末に懐くまでの一連の流れは容易に想像が付く。世話好きの鹿末に何も知らないひな鳥のような未来、まさに運命の出逢いだったことだろう。少なくとも姉妹になれるほどには。

「……なるほどな、似てないと思ったら義理の姉妹だったのか」
「はい」

 「隠していてごめんなさい」と未来は頭を下げた。

「別に怒ったりしない、そんなこと隠して当たり前だ。ただ少し、驚いてはいるけどな」

 驚いてはいるが、考えるほどに符合する。
 どこか浮世離れした未来の性格は歴史の古い鹿末の家柄では違和感があるし、あの鹿末に妹がいたら記憶を失うほどの精神的ストレスなんて背負わせないだろう。
 むしろなぜ今まで本当の姉妹だと思い込んでいたのか不思議なくらいだ。
 違和感をまるで抱かせないほどに姉妹をやっていたんだな。

「章さん。その、……記憶喪失でも、付き合ってくれますか?」

 その唐突な切り返しに思わず水を噴出しそうになり。

「あ、ああ。当たり前だ、実は宇宙人でしたとか告白されても驚かないから安心しろ」
「えへへー、良かった」

 さっきからそれをずっと心配していたのか、未来の表情がいく分か緩んだ。
 まったく……
 まだ恥ずかしい台詞が喉に残っているようだ、話題を変えなければいたたまれない。
 少し、気になることもあるしな。

「……その髪は、最初からなのか」
「最初から?」
「覚えている限り最初から白かったのか? 記憶喪失だと知ったときのストレスで色が抜けたとかではなく」
「あ、はい。最初から白かったです」
「ふむ……」

 真っ白だがシルクのように艶がある髪に目を向ける。未来は「なんですか?」という顔だ。

「そうなると少し変だな」
「何がですか?」
「人口の多い大都市ならいざ知らず、こんなベッドタウン未遂みたいな狭い町で未来みたいな子が居ればすぐに身元が分かるはずだが」

 そう、ここは大学と住宅と山と畑とそれを繋ぐ無駄に税金を突っ込んだ国道ぐらいしかないような場所である。
 "真っ白な髪をした少女"なんて目立つ人間がいれば必ず誰かが知っているだろうし噂にもなるはずなのだ。

「そういえば、そうですね。なんでだろ?」

 退院するまでの一ヶ月とは恐らく身元不明と警察が断定するまでの時間だろう。
 警察がこんな狭い町を調べても何も出ない…… 事件性の匂いがあるにも関わらず、か。偶発的な事故ではなく意図的に隠されていたと考えるべきだろうな。
 幼少時から自宅に監禁され家庭内暴力に晒されていたが耐えられなくなって脱走、しかし力尽きて倒れそのまま意識と一緒に記憶を失った。という線が妥当だろうか。

「未来。暗いところが怖いとか、刃物や拳を振り上げられるのが怖いとかいう症状が出たことはあるか?」
「お医者さんと同じことを聞きますね? ええと、そういうのはありませんけど」

 一瞬言うのを逡巡したように水を飲み、言いにくそう続けた。

「強いて言えば、独りになるのが怖いです。一人でいると急にもの凄く不安で耐えられないぐらい怖くなって、どうしようもなくて大声で泣いちゃうことがあります」
「ふむ…… なるほど。外傷や薬物反応は?」
「外傷はちょっと注射の痕があったぐらいですね、でも特別な薬物の反応はなかったみたいで採血でもしたんだろうって。体調は最初は低血圧と不眠症と下痢で大変でしたねー。でもちゃんとご飯食べて運動してたらすぐ元気になりましたよ」

 採血……? 血液検査を行って体調管理をしていたのか? そう考えると、監禁の線が強くなるな。
 監禁を行っていた人間は医学的知識があることになる、周囲から隠れての長期監禁も安全且つ容易に行えるだろう。
 長期監禁で強い孤独を感じていたせいでPTSDになった、と考えれば不自然はない。

「下痢と不眠症はストレスで説明が付くな……」

 逃走時の心の負担を考えればむしろ軽いぐらいである。想像したとおりであれば栄養失調や胃潰瘍も……
 ……ふと、そこまで考えて思考を止める。
 何を考えてるんだ俺は。これは、デートの途中で考えることなのか?

「っと、不躾なことを聞いて悪い。デートの途中なのに」
「ううん、章さんに恥ずかしいことも怖いこともは全部知ってて欲しいから。いいです」
「そ、そうか」

 未来はこんな話の後だというのに笑って見せた。あるいは、全てを吐き出してスッキリしたのかもしれない。
 少し解けたアイスを口にしては目尻を下げている。
 そんな様子をぼんやりと眺めて、無理に過去を詮索する必要性を見失った。悲しいと分かっているものをわざわざ掘り起こす必要はない。少なくとも、今はまだそれをする理由が無い。
 過去に拘るよりも今を懸命に生きてより良い未来を作っていった方がよほど前向きだ。
 恐らくこの子の名前を考えたであろう鹿末も同じ事を思って、『未来』と名付けたのだろう。

「もし、記憶が戻るとしたら。取り戻したいか?」
「んー、大事なことを忘れてると大変なので取り戻しはしたいです。でも、無くて困っては居ませんよ」

 未来ははっきりと答えた。
 「だって今、とっても幸せですから」と。

「章さん章さん」

 ……と、スプーンが目の前にある?

「はい、あーんしてください」
「……なんですと?」
「だーかーらー、あーんですあーん! 恋人達の通過儀礼ですっ。もちろん強制イベントですからね!」

 そこは鼻、鼻に押し付けるな! ぐおっ、喉に突っ込むな!?
 そんな感じで、いい具合にシリアスな話題は流れていった。
 後になって気付いたことだが、それは「気にしないで」という未来の心の声だったのだろう。



――――――――−−‐



 食品売り場で食料を調達した俺達はレジ袋を断ってリュックの空きスペースにそれを突っ込むことでそこはかとなくエコに協力した気分になりつつ、非常にナチュラル且つ回避不可能な展開の流れをもって未来が俺の家に夕飯を作りに来る運びとなった。
 ……この流れも、まぁ言わずもがなである。
 どこまで未来のデートに計画されてるか知らないが、最後まで付き合うとしよう。
 太陽が傾き段々と赤らんで行く空の下、自分の影を踏むようにアスファルトの上を歩く。足元に伸びる影の背が気に入らないのか、未来は俺より少しだけ前を歩いた。
 学校のこと、家のこと、The worldのこと、他愛もない話をしながらの帰り道。こちらに引っ越してからは、いや、随分と長い間こんな帰り道は無かった気がする。
 ――思えば、兄が行方不明になって以来だろうか、独りを纏うようになったのは。
 リュックをカタツムリみたいだと言われ、誰の荷物だと言い返す。そんな幸せがずっと続けばと願った矢先。
 未来が足を止めた。

「どうした?」

 未来は瞬きすら忘れて固まっている。その尋常ではない様子が気になって、未来が目を見開いて見ている先を追う。
 そこには地元の病院があった、大きさだけで言えば小学校二つ分はあろうかというこの辺りでは最大の総合病院である。ただ、大きい割には古くて質素な作りで、裏手には運動場もあるため病院と言うよりも小学校に見える。
 未来が見ているのはその運動場である。
 「真壁中央総合病院」とネームプレートの付いた裏門の向こう、リハビリ施設を兼ねたちょっとした運動場をツチノコでも見つけたかのように凝視している。
 ……そこには、車椅子の女性と付き添いらしい看護婦がいた。
 看護婦はにこやかに何かを話しかけているようで、女性の方はそれに控えめな相槌を打っているようだ。会話までは分からないが……

「さくらさん……」

 吐き出す息に混ざりそうなほど小さな声で、未来は聞き慣れない名前を洩らした。
 まるで無意識に口が動いたかのような。

「知り合いなのか?」

 訊ねてみるが返事はない。というよりまるで聞いてない、茫然自失といった感じだ。
 一度そのさくらさんとやらに目を向けてみる。
 30代半ばぐらいだろうか、麦のような長い茶髪を毛先のほうで纏めて左胸を隠すように垂らしている、おっとりした印象だが…… ここからではそのぐらいしか分からない。また視力が落ちただろうか。
 こちらが暫く見つめていると看護婦と目が合った、看護婦は珍獣でも見つけたようにこちらを暫くこっちを見ていると――ああ、未来の髪を見てるのか――何事かそのさくらさんに報告したようだ。それでようやくその人もゆっくりとこちらを向いた。
 生気のない動きをする人だな、病状が芳しくないのだろうか。
 そう思った矢先女性の表情が豹変する。目を見開きそして

「みさきちゃん!!」

 声帯の方が驚いたような上ずった声。
 その声を聞いて未来がビクリと肩を震わせた。

「……な」

 こちらを見てみさきちゃんと言った? それは、まさか未来を見て言ったのか? 未来が、みさき――――

「行きましょうっ、章さん!」
「あ、おい!」

 "未来"はその叫びから逃げるように全力で駆け出した。
 その手に強引に引っ張られて俺も駆け出す、あっという間に病院から離れて行く。
 止めようと思えばできるが今はその理由が見つからない、未来が逃げるならば今はそれもいいだろう。
 走りながら一度だけ振り返る。
 裏門にしがみ付いて「待って」と必死に口を動かす女性の姿がそこにある。
 俺にはそれが目の前で子供を連れ去られる母親のように見えて、一抹のしこりとなって胸中に残った。