『シェーグレン症候群発症のメカニズム解明』『一般用医薬品のインターネット販売規制に緩和措置』『クローン牛突然死、カナダの研究機関が調査開始』『PTSD治療に期待か、日本の医療チームが新薬開発』
 項目を流し見ながら最後の記事をクリックした。

「……ICER(アイサー)を使用して神経細胞の興奮状態を抑制し恐怖記憶を軽減か、既に発症したPTSDにはさほど効果的ではなさそうだな。しかも開発段階で本当に効果があるのか分かったものではない、と」

 一通り読んでから閉じる、役に立つようで立たない情報ばかりだな。
 医学関係のニュースサイトでそんなことを延々繰り返しながら、かれこれ3時間が過ぎようとしている、流石に目が疲れてきたか。
 これでも文系の人間なんだが……
 そう思いつつも調べる手は休めない、「PTSD」や「解離性健忘」をキーワードにネットの海を彷徨い続けていた。

 解離性健忘。

 いわゆる"記憶喪失"の一つだ。
 一口に記憶喪失といっても色々とあって、解離性健忘とは記憶を失った原因が体の障害(頭をぶつけるとかだ)ではなく精神的なものに起因する場合のことを言う。
 精神的な原因は言わずもがなだろう、戦争、事故、自然災害などの過度なストレスがそれに当たる。
 そう、あの真っ白な髪を見て分かるように、未来(みく)の記憶喪失は真っ先に解離性健忘の筋で疑われたらしい。
 普段から明るい様子からPTSDではない(それはないだろう)と考えていた俺にとって、その"告白"は衝撃的なものだった。
 現実という名の理想を突き崩された気がした。
 いったいどれほどの精神的苦痛が有ればあれだけ真っ白になるか、どれだけ気丈にすればその中で笑えるのか、あいつの様子を思い出すたびにその裏側に隠された苦悩が胸を刺す。
 全てを忘れて、寂しかったのか、辛かったのか、俺には分からない。
 ただ漠然と物覚えの悪い能天気な弟子だと思っていた俺の阿呆さ加減が、恥ずかしい。
 常人が15分で理解するものを1時間も説明したこと、ただ"歩く"という動作を何度も何度も練習してやっと覚えたこと、……そこになぜ違和感を覚えなかったのか。
 人好きのする笑みも、時折寂しそうにする仕草も、何度も教えたことを聞き返すのも、全てはシグナル。
 本日何度目か分からない溜息を洩らす。
 "たかが他人事"に自分がこれほど動揺するとは――
 この告白をしたのは本人ではない。
 だから言うなれば告発であるのだが、当の鹿末にその悪印象のある言葉を当て嵌めるのも躊躇われた。だから、告白。
 告白を…… 鹿末から聞かされたのが3日前のことだ、いきなり「体育館裏に来て」なんて言われたものだから背筋を冷やしたのを覚えている。
 そこで鹿末は言った。

「どうせ鶴群君のことだから気づくだろうし、変に探りを入れられる前に白状しておくわ。あの子…… 記憶喪失なのよ」

 そのとき、先程とは全く別の汗が流れたことを覚えている。
 日常から非日常に裏返った感覚、だろうか。
 そんな俺を見つめる鹿末の目は痛いほどに真剣そのものだった。

「……でも、あの子が自分から言い出すまでは知らないふりをしていてあげてね。私が困ることになるんだから」

 未来はこれからもそっちに遊びに行くことがあるだろうから、知っていて、と。一通り語り終わると鹿末はすぐに帰っていった。
 ……その"告白"をするのにどれほどの勇気が要っただろうか、考えを巡らせる。
 妹の記憶喪失を人に伝える。
 それは身内の知られたくない秘密を暴露する行為だ。
 知らない仲ではないとはいえ、人の良い鹿末は相当に悩んだことだろう。
 だがそれでもなお鹿末は俺に事実を伝えた、ともすれば本人に嫌われることも覚悟して。
 鹿末の口調は優しげだった。
 俺はただ頷いただけだったが。
 それで十分だったのか、鹿末は「頼むわよ」とだけ言って笑ったのだった。

 ……さて、それに応えると決めたのはいいが。
 どうしたものか。
 大学に行っては珍しく授業をボイコットして(俺のノートを当てにしていた友人が数人泣いたらしいが気にすることではない)図書館の本を漁り、こうして帰ってからもネットを使って解離性健忘について調べているのだが……
 いまいち漠然としている。
 だいたいにして、未来が過去の記憶を全て失うタイプの記憶喪失だとは聞いたが症状の詳細が分からないのだ、鹿末はそこの所を深く説明したがらなかった。
 解離性健忘の症状にはフラッシュバックや鬱などの症状が考えられる、だが俺の知る限り未来にそういった症状は出していない。
 従って対処も思いつかないし、漠然と知識を集めることしか出来ないでいるのだった。
 
「あいつが記憶喪失、か」

 キーボードを叩く指が心なしか重い。張り切ったはいいが気持ちだけが先行しているように思えてならない。
 そう思った瞬間、ふと気づいた。
 なにをそう必死になっているのだ、と。
 ぎしりと背もたれに体重を預けて溜息をつく。
 出会って2ヶ月ほどしか経ってないがチェリー…… 未来とはそれなりに付き合いがある。
 師弟という奇妙な関係ではあるし、些か以上に変な奴だが、数少ない気の置けない友人だ。女性としての意識は今のところしていない、ただ可愛いとは思っている。
 今までそんな近しい人が本気で苦しんでいるところは見たことがなかったし、助けたこともなかった。
 だから力加減が分からず、張り切りすぎたのだろう。
 そう結論付けた。
 だがそう気付いても調べ物を途中で止める気にはなれなかった。
 性格というものは厄介だ。
 どうせだから何か結果が出るまで調べたい。
 もう少し粘ってみるかとマウスを握ったそのとき、背後からニュッと太眉短髪メガネの濃すぎる顔が出現した。
 
「な、あいつって誰やねん?」
「うをっ!?」

 慌てて上半身を跳ね戻す。
 そいつは面白いものを見つけた子供のような笑みを浮かべた。

「お? なんやおもろい反応やな? ん〜〜? これは匂うでぇ、鶴群がそんな可愛らしい反応するとこ初めて見たわ」

 四角いメガネを電球でも仕込んでるのかと疑いたくなるほど輝かせている男がいた。
 長谷川久則(はせがわひさのり)、今日も今日とて俺の部屋に夕飯をたかりに来ているタダ飯ぐらいの常習犯、我が悪友だ。
 今日も「何か食わせてぇぇなぁぁ、う゛え゛じぬぅぅぅ」と言って我が家に上がりこんでいた…… ような気がする。
 調べ物に夢中で適当にあしらったような気もしなくはない。
 本当に性格と言うものは厄介だ、上げずに追い返せば良かったものを。
 不覚だ。

「なんでもない、ただの知り合いだよ」

 俺は勤めてなんでもないように言った。
 "ただの"ではない気がするが、それをこいつに教えるわけにはいくまい。
 鹿末が苦心しているだろうことを知られるのもまずい。
 わざわざ体育館裏まで呼び出して伝えたことを3日で友人に洩らしましたなんて言ったら、即日中に富士の樹海に行くことになるだろう。
 だから誤魔化すことにした、長谷川の顔はWWWと比較しうる程に広い、風評被害を抑えるには情報非公開が効果的である。
 だがやつはこっちの事情も知らずにテレビ局のレポーターの如く食い下がってきた。

「ただの、ただのねぇ? 俺の知る鶴群やんは"ただの"知り合いのために参考書6冊も借りて家でも熱心にネットを調べるような人やないんやけどなぁ? ってか、この前俺が徹夜(カラオケ)明けのしんどい中に課題の助けを求めても「ググレカス」って冷たく言い除けてたくせにぃぃっ、贔屓、贔屓だっ、これは絶対なんかあるっ、匂う、匂うでぇぇ!!」

 このエセ関西人め、余計なところでなんでそうしつこい。

「記憶喪失なんてそうお目にかかれるものでもないだろう、まぁ2,3日の記憶が飛んでる程度で大騒ぎするほどでもないんだが、興味がわいたから調べてるんだよ。調べ物が俺の趣味なのは知ってるだろう」
「まぁ確かに、たっちゃんが勉強魔で調べ物がハンバーグより大好きな変態さんだとはよく知ってるけどな」

 変態は余計だ。
 メガネを更に輝かせながら口元を歪め、長谷川は意味ありげに俺の肩に手を置く。記憶喪失の重要度を下げようと思ったが逆に不審がらせたか?
 長谷川は見破ったりといわんばかりにいきなり叫びだした。

「けどな、俺は見てしもうたんや。「あいつ」って言うたときのたっちゃんのあの心配そうな顔を! 俺たちには絶対向けない顔を! ありゃ絶対女や! 間違いない! そうやろっええっ? 白状せい!」
「……それは」

 泣きながら襟首をつかまれ揺さぶられ、視界が二転三転して一気に気分が悪くなる。
 なんでこいつはこう必死なんだ。
 記憶喪失とかはどうでも良さそうなのはいいが、代わりに女性問題が浮き上がるのは厄介だ。あいつとの関係を邪推されたくはなかった、特にこいつには。
 なにか、なにか言い繕わなくては。
 揺れる頭で何とか言葉をひねり出す。

「確かに女だ、だが従妹だぞ」
「従妹?」

 一瞬、長谷川の腕が止められ怪訝そうにこちらを見る。
 今だ。
 俺はそれに乗じるように畳み掛けた。

「そうだ身内なんだよ、身内。今まで普通にしてたのにいきなり記憶喪失と言われたものだから驚いてな、だからちょっと心配になったわけだ」
「ホントか? 神に誓って嘘ついてないか? 怪しいなぁ……」
「信じる信じないは勝手だけどな、あんまり詮索はするなよ。症状が症状だ、噂にされるとそいつが迷惑する」

 それが殺し文句になったらしい。
 長谷川は訝しそうな視線を何度も寄越したが「さよか」というと、それ以上の詮索はしてこなかった。
 身内の事情に首を突っ込んだりはしないのか、あれで意外と気が回るのかもしれないな。
 長谷川は飲み会や大学祭で進んで纏め役を買って出る人間だ、常になにかバカなことを喋っては話題の中心に居る、逆に言えばそれだけ人好きな人間なのだから気配りもできるのだろう。
 そういえば、そんな長谷川だから俺みたいな根暗とも付き合いがあるのか。
 未来といい長谷川といい鹿末といい、ふと気づけばいい友人にばかり囲まれている。
 未来にはそんな友人が居るのだろうか?
 ……そうか、居たとしても覚えてないんだったな。
 そうなると関係があるのは俺と鹿末ぐらいか。
 そんなことを考えながらディスプレイに視線を落とす。と…… そのとき、鈴のような電子音と共に新着メールが届いた。

「(む、送信者はチェリーか)」

 現在色々な意味で話題沸騰中なだけに妙に意識してしまう。
 とりあえず長谷川を帰らせた後にゆっくりと読むか。
 そう思った瞬間、なぜか隣に長谷川の顔があった。食い入るようにディスプレイを見つめている。

「ほうほう、送信者は『チェリー』件名は『師匠、今度の日曜日は暇ですか?』と来ましたか。明智君、これはどういうことか分かるかね?」

 前言撤回。
 あいつは人(主に俺)の気持ちを踏み躙る悪魔で間違いない。

「……皆目見当も、あ、こらっ勝手に開くな!?」

 にゅっと触手の如く伸びた手がそれをダブルクリックすると、俺が止める間もなく短いアニメーションと共にメールが開かれた。と同時に、長谷川の目も驚愕に見開かれた。


師匠、お元気ですか?
今日は勉強があって来れないそうですけど、進んでますか?
あはは、師匠なら大丈夫ですよね。
それで、もし勉強が終って暇だったら。
今度の日曜日に、水族館に行きませんか?
お姉ちゃんにチケットを貰ったんです。(なんだかすごく悔しそうでした。何故でしょうね?)
良かったらお返事下さい。

チェリー

 それは、文字通りデートの誘いだった。
 しかし妙に緊張が伝わってくる文章だな、まぁそれがあいつらしくていいか。
 久々に雪が解けたような気分になった、……のだが。
 なんだ、この背後から噴出す黒々しいオーラは。
 振り返りたくもないがこのまま放っておくと地球が汚染されそうだ。仕方ない、地球のためだ。
 振り返る。
 そこには真っ黒な影を背負い目を赤くビカー!と輝かせている獣がいた。非モテという名の獣だ。地球どころか宇宙規模で汚染しかねない勢いである。

「きぃぃぃさぁぁぁまぁぁぁっっ!! 兄ちゃんは、兄ちゃんはお前だけは死ぬまで独り身(なかま)でいてくれると信じてたのにっ!! 裏切ったなこの抜け忍がぁぁぁっ!!! 抜け忍には死! 死! 死! 死、あるのみやぁぁっ!!」

 またもや両肩を掴まれてがっくんがっくんと揺さぶられる。
 視界が先程とは比べ物にならないほどに跳ね上がったり突き落とされたり、これが疑惑と確信の違うというやつ、か。
 非モテの執念とはこれほど、なの、か。

「は、長谷川、待て、いいものがある」

 何とか、声を、出す。
 流石に、このままだと、まずい。壊れ、る。
 確か棚の中に……

「問答無よ――――」
「お好み焼き」

 その一言で長谷川の動きが凍りつき、俺はその隙に素早く台所へともぐりこんだ。
 そしてお好み焼きの素(広島風)を取り出し、宝物でも持ち上げるかのように掲げて見せる。特売で460円、2人前だ。

「腹ごしらえにお好み焼きでも焼こうと思ってるんだが、もう遅いしお前は帰るか?」

 これ以上突っ込めば人質(おこのみやき)の命はない、暗にそういった。
 その瞬間奴の黒オーラは太陽の光に焼かれた悪霊の如く消え去る。
 そしてガックリと膝を付いた。

「ボス、俺のことはどうぞイヌとお呼び下せえ」

 お好み焼きが宇宙を救った瞬間だった。
 そのままお好み焼きを焼くことが暗黙の流れとなり、仕方なく長谷川をまた餌付けすることとなる。
 長谷川は「俺はなにも見てねぇから、頑張りなはれよ!」と背を叩いて帰っていった。
 それに鼻を鳴らせて答え、そしてメールの返信を打つ。
 たまたまだ。
 たまたま、日曜日はなにも予定が入っていなかった。



 
――――――――−−‐




 目を細めずに空が見えるくらい、その日は曇天だった。
 降水確率は50%、夕方から雨が降り出すかも知れないとテレビが喋っていた。
 上々だろう。
 自慢ではないが俺は「嵐を呼ぶ男」として自他共に認められた雨男である、これくらいならばむしろ良い方だったりする。
 さて、幸先がいいのは喜ばしいことだが、未来とのデートか……
 ネットでは確かに2人で行動しているが、こうして改めてリアルで、となると妙に緊張する。なんだかんだで"会う"のは2回目だしな。
 相手があの弟子なのだから意識する必要はないと思うのだが、あのメールのせいでこちらまで緊張が伝播しているようだ。
 やましいことは何もないはずなんだがな。
 俺は師匠で、あいつは弟子なのだから。
 鹿末の言葉を思い出す。
 ……分かってるさ。
 俺は折り畳み傘を入れたショルダーバッグを叩き、目的地である駅前に向かう。
 学生寮住まいなだけあって駅は近い、徒歩10分で到着だ。
 待ち合わせ場所でもある駅の大時計を確認すると、約束の時間までは30分ほどあった。
 
「少し早すぎたか」

 そう思いながらも駅の構内を見渡してみる。
 都心からだいぶ離れているため駅の規模は小さい、首を多少動かすだけで古臭い全貌が見渡せる。
 ただそれでも日曜の朝である、人の出入りは駅の規模に反して多かった。忙しなく行き交う人間の間にあの小さな姿を見出そうと目を細める。
 だがその必要もなかったようだ。
 いた。
 見覚えのある小さな姿がなにやら駅員と話をしている。激しく目立っていた。

「お嬢ちゃん、どうかしましたか? 迷子だったら学校名を教えてくれるかな、おじさんが連絡してあげるから」
「ちーがーいーまーすーっ! 迷子じゃないですよ!」

 思いっきり小学生と間違えられていた。
 優しげに声を掛ける駅員に色々と頬を膨らませているようだ。
 だがそれも無理はない。
 あいつ、なぜかキャンプ用の巨大なリュックサックを背負っているのだ、肩からはご丁寧に細身の水筒まで提げている。
 140に満たない背丈でその装備である、そりゃ修学旅行か社会見学前の小学生に間違えられることだろう。
 というか、行くのは水族館…… だったはずなのだが。
 とりあえず助け舟を漕いで行く。

「すみません、その子は俺の連れなんです」
「あ、師匠!」

 俺が声を掛けると未来の表情がパッと花を咲かせたように明るくなった。

「師匠? ですか、失礼ですがご家族のかたですか?」
「はい、兄です。師匠と言うのはあだ名ですよ、ちょっと勉強を見てましてね。それで、今日は家族旅行に行くつもりでして、京都辺りではもう桜が見頃ですし…… まったく、探したんだからな、未来」
「う、うん。ごめんなさいです」
「そうでしたか。失礼しました、てっきり勘違いを……」

 駅員さんは一瞬俺と未来を見比べると、帽子を取って頭を下げた。
 そして未来に「お兄ちゃんと楽しんでくるんだよ」と笑顔で言い残して人の波へ消えていった。
 「お兄ちゃんじゃないのに」と未来は不満そうだったが。
 駅員が見えなくなったのを確かめて、未来に振り向く。

「リアルで師匠は控えてくれ、流石に怪しいというか不自然だぞ」

 初っ端からの痛い指摘に未来ははっとして口を尖らせる。

「だって師匠は師匠じゃないですか。っていうかなんで師匠がお兄ちゃんになってるんですかー! しかもあんなにナチュラルに! 私ちょっと錯覚しちゃいましたよ!? この演技派!」

 褒めてるのか怒ってるのかどっちなんだ?
 あと、ナチュラルに見えるのはお前が小さいせいだ、言うと怒るから言わないが。

「突然兄妹芝居をしたのは謝ろう。ただ原因はそのリュックにあると思うんだがな、水族館に行くんじゃなかったのか?」
「水族館ですよ? あ、このリュックは、えーと…… な、ナイショです!」
「……そんなに言いにくい物が入ってるのか?」
「師匠、そこは深入りしないとこですよ!」

 いつものやり取りでようやく場がほぐれたようだ。
 俺はそれ以上の追求はしないでリュック以外に目を移した。
 未来は少し大人びた服を選んできたようだ。
 雪のように白い長髪は灰色のキャスケットと、後ろ髪はファーのついた白いダウンの中に隠している。色合いで調和が取れているためか髪が不自然に見える事はない、それどころか似合っている、といえるだろう。あの無骨すぎるサイズのピンクのリュックサックを無視できればだが。
 ファッションはよく分からないが、悪くないと思った。……リュックさえなければ。
 ただそんな感想は俺の口からは出ないのが常である。

「師匠、今日は……」
「だから、リアルで師匠は禁止だ」
「むむ」

 不満そうだが反論は帰ってこない、先程の駅員のこともあってか変えたほうがいいとは感じてるようだ。

「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
「別に何でもいいが」
「じゃあ…… お兄ちゃん、とか?」

 思わず噴出しそうになる。
 まだ根に持っていたのか…… いや、見る限り本気そうだ。
 思いつきで言ったのが妙に馴染んでしまったらしい。何度も口の中で繰り返している。
 本気で俺を犯罪者に仕立て上げるつもりなのか。

「……できるだけ苗字か名前を使ってくれ、鹿末に聞かれたら弟呼ばわりされそうだ」
「はい?」
「いやお前じゃなくて。そうか、そういえばお前も鹿末だったな」
 
 いつも忘れがちになるが未来は『鹿末未来(かのすえみく)』なのだ、姉は学友の鹿末諒子。この姉妹は全く似てないのでどうも連想できない。
 しかし、そうなると一つ問題が出てくる。

「苗字で呼んだらややこしくなるな、未来…… でいいか?」
「はい、すごくオッケーです!」
「分かった、俺の方はそう呼ぼう」

 嬉しそうに頷く未来の姿を見て、妙にくすぐったい感覚を覚える。
 ネットでは何度も会っているというのに、今更名前の呼び方を決めるというのがおかしな感じだ。
 だが、悪くはないな。
 こうしているとゴチャゴチャしていた人間関係が整理整頓されるようですっきりとする。
 白紙のトランプにやっと裏と表の絵柄が書き込まれた、という感じだ。

「えー、それじゃあー、私は章さんって呼びますね!」

 不意打ちに少しどきりとする。
 表情に出さないで頷いた。

「……ん、了解した」

 師匠という立場を示す言葉から章(あきら)と言う俺個人を示す言葉に代わった違和感、だろうか。
 先程とはまた別のくすぐったさを感じるな。
 しかし呼び方に問題があるわけではない。
 苗字の方がポピュラーかも知れないが、俺にも兄がいる、未来もそのことは知っているから名前で呼ぶのは不自然なことではない。
 そうだ、別に問題なんてない。

「それじゃあ行くか、未来」
「はいっ! 章さん」
 
 問題ないはずだが。
 このくすぐったさはそう簡単には消えないのだろうな。



――――――――−−‐



 水族館は港に近い場所にある。
 海を一望できる建物は横に広く、恐らくは意図的に船のような形をしている。ただそれは子供だましではなく、有名なデザイナーが趣向を凝らしてそうしたという雰囲気が出ている。透き通った色調が印象的な建物だった。
 開放的なデザインの入り口とは対照的に、未来はなぜかガッチガチに緊張している。
 ……手と足が同時に出てるやつなんて始めて見たぞ。
 そんな歩調でイルカ型のマスコットが愛嬌を振りまいているアーチを潜り、受付嬢の待ち受ける内部へと踏み込んで行く。
 
「申し訳ありません、会館まで10分ほどお待ち下さい」

 ンガッ!? と、大げさにリアクションを取る未来。……予定は切り上がり気味だったらしい。
 「ご、ごめんなさい!」と何度も俺に謝ると、ちらちらと時計を見ながら改札ゲートが開くのを待つのだった。あまりにも必死すぎて声がかけ辛いんだが、何かあるのだろうか? 鮫と一緒に泳ぐプランでも入っているのか?
 未来はまるでそれを肯定するように喉を鳴らしながら深呼吸をして、俺を見て…… 慌てて視線を戻す。

「?」

 いつにも増してよく分からんやつだ。
 そうこうしているうちに目の前のランプが緑に変わった。

「行きましょう、いざ出陣です……!」
「あ、ああ」
 
 未来に引っ張られながら館内へと入って行く。
 穏やかなBGMと開館を告げるアナウンスが、なぜか行進曲と上官の出撃命令に聞こえるような。
 よく分からないが未来は本気だ。かなり本気だ。ロケット発射のカウントダウン中の指令室並みに集中している。
 ……問題なのは何故そんなに本気なのか分からないところだ。
 その雰囲気に呑まれたのか、俺はまだ未来に手を引かれていることに気付いていなかった。
 そして、その空気は当然のように館内でも続いた。
 いやむしろ深刻化したといえる。
 水槽を移動するたびに魚の解説をしたり、面白いお土産を見つけてきてはプレゼントすると言い張ったり、話題が途切れたら水族館の歴史まで語りだすぐらいだ。
 所々間違っていたのはご愛嬌なのだが、凄まじく事前予習してきたことだけは伝わってくる。
 嬉しいのだが流石にそこまでされると逆に後ろめたい…… のだが、顔に出すわけにはいかないな。

「えーと、次は、次はですね…… ちょっと待っててくださいすぐ思い出します! えーっと……」

 あんなに頑張ってるのだから。
 脳細胞の奥底から記憶をひねり出すことに成功したらしく、未来はポンと手を叩いた。

「次はイルカショーなんてどうですか? もうすぐ始まるみたいですし。イルカ、すごく可愛ですよ! 毎日25キロもサバを食べるんですって!」
「サバか、そうだな、サバは重要だ。それは見ないとな」

 可愛いとサバがどうしても連結しないがとりあえず頷いておく。

「ですよね、じゃあ出発です! 場所は屋上ですよ!」

 またグイグイと手を引かれていく、時間も場所も既に確認済みらしい。物覚えが悪いくせに頑張ったんだな。
 小さな掌は少しだけ緊張で湿っている。
 この頑張りはきっと俺のためだ。
 それは日ごろの感謝なのか、厚意なのか、それとも気まぐれなのか別の何かなのか…… まだ分からないが、無下にはしたくないと思った。
 それから散々イルカに水を浴びせかけられ(カッパを着込んでイルカの飛ばす水飛沫を浴びるアトラクションだった、なにもこの時期にやらんでも)、その後はペンギンを見に行った。
 ヒゲペンギンは成鳥は目元が真っ白なのに対して若鳥は目元に黒い羽があって斑模様になっているらしい。という豆知識を吹き込まれ、あまりのキュートさに何度も振り返りながら未来はまた俺の手を引いていく。
 気になるならもうちょっと居てもいいと思うのだが、「戻って来れなくなりますから」と決意を込めた声で返された。ペンギンは未来の中では麻薬に近い部類なのだという。
 そんなわけで足早に館内を回っていたのだが……

「はふぅ、……ぅぅ、はふぅ……」

 まぁ、そんなことをすれば当然疲れる。
 まだ2時間も経ってないしイルカショーの間は座っていたが、それでもこの小柄な体の半分はあろうかというリュックを背負って歩き回るには無理があるのだ。

「重いなら持つぞ?」
「だ、ダメです! ダメってばダメなんです!」

 ずっとこれである。
 肩で息をしながらも、俺が手を貸そうとするとリュックを俺から遠ざけようとする。
 未来は断固として俺に荷物を預けようとしない、先程から交渉しているが俺に任されたのは水筒だけだ。
 いったいあのリュックにどんな重要機密が入っていることやら。
 水槽にあった手摺に凭れ掛って息を整えている。
 なんにせよ、無理が出てきたら休憩を挟むか強引にでも預かるかしかないな。

「ほ、ほら師しょ…… じゃない章さんっ。クラゲが光ってますよ! LEDを通した宝石みたいですねー」

 見ると、未来が疲れも忘れて手招きしている。凄いもの見つけた! という顔である。
 この辺りで時間を取って休ませるか。
 暗がりとなっているその一角にわざとゆっくりと歩いて行く。

「ふむ、オワンクラゲだな」

 招かれてみると、なるほど確かに青色LEDのようだ。
 目の前の空間だけ深海の入れ替えたような真っ暗なブース、ショーケースのように洒落た水槽の中で、それは光の線を描きながら優雅に漂っていた。
 暗闇の中で赤外線の光を浴びて青白く発光している半透明のクラゲ。
 それは落ち着いたネオンの様であり、どこか蛍のようでもあった。
 だがネオンのようにせわしく瞬いたり蛍のように飛んで逃げたりもしない。
 ただ当然のようにその場を漂い、規則的な動きで優雅に踊り続ける。
 未来の言うように、それは幻想と言う名の宝石だった。
 水族館という言葉にさほど興味を抱かない人間だが、これを見るかぎりどうやら認識を変える必要があるようだ。
 暫く言葉を交わさずにその水槽に見入っていると、不意に未来が声をかけてきた。
 
「キレイですね」
「ああ、俺は海辺の生まれなんだが、クラゲがこんなに美しいものだとは知らなかった」

 俺の地元ではクラゲといえば漁と海水浴の邪魔をする厄介者でしかなかったのだが。これは本当に綺麗だった。
 その答えを聞いて未来は心から嬉しそうな表情をする。……が、しかしその表情はすぐに引き締まる。
 どうしたのか、そう問うことも出来ない雰囲気へのいきなりの置換。
 未来は唾を飲み込むように小さく頷くと、こちらに顔を向ける。それはとても真剣で、そして不安を秘めた表情だった。

「……章さん、今、楽しいですか?」

 唐突に、しかしずっと訊ねたかったに違いない言葉。
 未来は判決を待つ被告人のような表情でこちらを見ている。

「そうだな、予想よりも楽しいぞ」

 だから、あえてそんな雰囲気すら流すように答えた。
 自然な気持ちが伝わるように。
 
「ほ、ホントですか? あんなに失敗したのに?」

 未来は鵜呑みにしない。魚の名前を微妙に間違えていたりとか、強引過ぎたんじゃないかとか、色々な後悔が頭の中に渦巻いてまだ俺の返答が信じられないのだろう。
 しかしそれも含めて俺は楽しんでいた。
 だから俺は断言する。
 
「あえて言おう、未来の行動は失敗の方が面白い」
「ええーっ!?」
「どうして驚く? 喜ぶところだぞそこは」
「うーれーしーくーあーりーまーせーんー! 人の失敗を楽しむなんて邪道ですー!」

 抗議する未来の頭の上に掌を乗せ、笑う。
 ほら、これが楽しいということだと語るように。
 未来も「まったくもう」と抵抗を忘れて笑みを浮かべる。緊張の抜けたいい笑顔だ。そしてふと、それがとても得がたいものだと思った。
 俺達の周りをゆっくりと家族連れが、恋人達が、あるいは清掃員が流れている。
 何となく離れがたかった。未来もそうなのか、静かに、近くにいる。
 だがいつまでもそうするわけには行かない、キャスケットを軽く叩いて本物のLEDが光っている通路を指差す。先にあるのは出口だ。

「そろそろ昼食にするか?」
「そうで――あわっ」 
「っと!」
 
 いきなり未来がこちらに突っ込むようにつんのめり、慌ててそれを受け止めるる。
 
「ゴメンナサーイ!」

 どうやら3人ほどの子供がかけっこでもしていたのか未来の大荷物にぶつかったようだ。
 受け止められて揺れる未来の体。

「あ……」

 反動で頭のキャスケットが、落ちた。

「あれ、おばあちゃん?」

 その一言に未来の表情が凍りついた。
 まるで死刑宣告されたかのように目を見開き、きつく口を結ぶ。一歩も動けなくなる。
 子供からすればいきなり現れた真っ白な髪に反応しただけなのだろう。
 後ろからだと未来の顔は見えない。間違えても仕方ない。悪気などあるはずもない。
 だがその一言は……
 その一言だけは、言わせてはならないものだった。

「館内で走るな」
「あ、うん。すみません」

 少し、声が不機嫌だっただろうか。
 子供たちは逃げるように去って行った。
 それを見送ることもせずキャスケットを拾い上げ、埃を払う、そして丁寧に未来の頭に乗せた。その白い髪は見た目通り綿のように柔らかだ。
 未来は身動きをせずにずっと俯いている。
 まるで周囲からの目線に耐えるかのように。
 辺りを見渡してみる。
 日曜日の水族館は結構な人の入りだ、当然のように子供の声は人目を引いていた、その先にある未来の姿を目に留めた者は多いだろう。
 誰もがチラリとこちらを見やる。
 ……だけで言葉にしたりはしない、ただ見ているだけだ。憐憫も興味も差別も露骨なものはない。
 そこに悪意なんて有るはずもないのに。
 もう、ここには居られないと思った。