――――空がパソコンの前で倒れてから、もう半年くらいになる。
親といえど薄情なもので、今ではもうその事実が日常の一部として受け止められていた。
泣けるのは最初のうちだけ、悲しくはなるけどもう泣けない。
きっと泣き過ぎると壊れてしまうから、体の方で慣れてしまうように出来ているのだろう。
それに……あの子のことを想うなら、笑っていた方が喜ぶだろうから。
「空、かなり痩せちゃったね。コレだったらモデルさんになれるんじゃない?」
いつものように軽く話しかけながらパジャマを脱がせて体を拭いてやる、……本当、骨と皮だけみたいな細い体を。
寝ていると沢山汗をかくから、汗を拭くのは小まめな日課だ。
大事な娘を汗疹だらけにしてなるものか。お風呂も入れないんだから、清潔にするという意味でも大事な仕事である。
それにこの子は素材はすっごく良いんだから、起きたときすぐにでも武器に出来るように磨いでおかないとねー。
独り言のように話しかけつつ、仕事を進める。
医者の話しによれば夢は見ているらしいし、あの子寂しがりやだから話してあげた方が落ち着くだろうということで。
30分ほどでそれも終る。
「……ふぅ、これでよし。お昼にでもしますか」
お昼はもちろんママの威厳を込めて自分で作る、……って自分以外に作れる人がいないわけだけど。
私はWEBを通じて自宅で仕事をしている。
まぁつまり、空の汗拭きも終ったし使い慣れた台所に行ってタリラリランっと軽快な動作で炒飯でも作るかってとこ。
――――ピンポーン
……だったんだけど、宅配便ってやつぁなんでこんなにタイミングが悪いかな。
ポイッとタオルを洗面所に投げてエプロンを外す。
なんで分かるかって?
うちはこう見えてハイテクなのでチャイムが鳴らされると自動的に受話器のモニターに玄関の様子が映るのだ。どうよ、意外と稼いでるんだぜあたしってば。
適当に返事をしてドアを開ける。そこには小さな小包を抱えた好青年っぽい感じの配達員が待っていた。
「こんちゃー、お疲れさんよぅお兄さん。はい判子」
「今日も元気な挨拶どうもっす、癒されますよホント」
判子を確認し。んでは、とぺこりと頭を下げてマンションの階段を下りていく宅配便の青年。名前は知らないけどうちには宅配便がよく届くので微妙に仲がいい、というかあのくらいの青年って可愛いからつい声かけちゃうのよねぃ。
おっといかん、つい頬が……。
気を取り直して受け取った小包を確認する。
「ってあれ、送り主不明? なにこれ犯罪の匂い?」
でも興味深々なあたしだったりする。
でもここは、ここは我慢した方が。
……10秒思案。
中に白い粉とか入ってないよねー、ということを入念に確かめつつ結局封を切るのだった。
「……WEBマネー?」
中に入っていたのはなんと1万円分のWEBマネー。
そして、メモ帳サイズの小さな紙切れ。
裏面を見てみると、そこにはちゃんと差出人の名前が書かれていた。
逆月、と。
――――――――――――――――――――――――
『天空の鯨』
――――――――――――――――――――――――
ロストグランドと言う場所がある。
The Worldにおいては割りと有名なエリアのことで、俺も噂ぐらいは知っている。いわゆる観光名所って奴だ。
そう、俺の中ではロストグランドなんてたいそうな名前のエリアも観光名所でしかない。
ただ一つのエリアを除いては。
【隠されし 禁断の 聖域】
ニアが祈りを捧げていたあの礼拝堂だけは、忘れることの出来ない場所だ。
"喪われた地"に来いといった逆月の言葉を頼りに、俺はそのエリアへと向かった。
見上げればそこは相変わらず黄昏た空、その茜色に包まれるようにひっそりと礼拝堂は佇んでいる。
けっして目立つわけでもないのに、何でこうこういう建物は威圧感がずっしりしているのだろうか。
特に、重要な用事があるときは物凄く行きにくい。
気付けば。迷わず駆け出していた。
「あれは……?」
しかしその足もすぐに止めることになる。
泰然としているはずの礼拝堂の前が、なにやらやたらと騒がしい。
見れば。
垂れた犬の耳をした大男、すらりと細身の軍服を着た女性、旅人風のフードを被った老人……様々な容姿のPCが輪になって何かを喋っていた。数は20程度だろうか。
普段人気がない場所だけにかなり異常な光景だ。
「日本語版The Worldにない不正規なNPCと認定した、これより―――」
「ごたくはいい、逃げられる前に片付けるぞ。一般PCが来ている」
「一般PCが? ……これだから仕様外のエリアと言うやつは」
なにやら輪の中心に居るらしいPCが慌てて手を上げると、全員が軍隊のような動きで一斉に得物を中心に突きつけた。
その様は明らかに怪しい、密教の集会か何かに見える。
一般PCと言うのは俺のことだと思うけど、そう呼ぶということはあれはGMだろうか? でもなんで、こんな所で何をしているのだろう。
……何故か、いいようのない寒気がした。
大の大人が何かを慌てて隠そうとする時は、大抵がよくない事をしでかした時だ。
漠然と不安になって、全力で駆け出した。
「Deletion!(削除)」
「おいっ、あんた達なにを――――」
言葉が、途切れる。
俺が無理やり体をねじ込んでPCたちの間に入った瞬間、輪の中心で無数の武器に串刺しにされる誰かが見えたから。
全方向から巨大な剣山を突き刺したかのよう。
ザクザクといやな音が耳を突き裂く。
そのあまりにも、あまりにも残酷な仕打ちの中心に居たのは……。
「に、ニア……?」
俺がずっと探していた、白い少女だった。
ニアの胸から、腕から、足から、顔から……刺々しい刃物や棒が無数に突き刺さっている。ここまで来ると中心がよく見えない。
言葉が、出ない。
ニアが何でこんな目に遭っている、何で、なんで、酷い。
……なんだこの光景は?
ちがう、こんなものは本物じゃない、こんな三流ホラー映画みたいな光景は嘘だ。
ニアはコチラを見てなんていない、周りのPCが削除とかクズデータとか言っているなんて知らない、あの剣山の檻の中に居るのはニアなんかじゃない、コチラの世界にいるからその全てに痛みを感じているとか削除と言うのはニアを消す事だとか全部、ぜんぶぜんぶっ! 全部嘘だ。
「ぁ、……ぅぁ……あ………」
嘘だ。
よろめく様に一歩後ずさる。すると犬の獣人らしい男の足にぶつかった。
その手には長い槍が握られていて、その切っ先は確かにニアの胸を貫いて……
嘘だ。いやだ、嘘だ。
嘘だ、……嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だっ!!!!!!!!!!!!!
「悪いが退いてくれるか、少年。コレは我々デバッグチームの大事な仕事でね……見た目は酷いかもしれないがバグ取りという作業の一つなんだ」
「そう、ただ壊れたNPCを消しただけです。騒ぎ立てることじゃないし、ゲームに支障はきたしません。ですが事後処理がありますので本日中はこのエリアに入らないでいただけますか?」
ガクガクと震える俺に、PCたちは以外にも優しく丁寧に退場を促す。
けれど、それには……従えない。
「……いやだ」
「と、言われましても困ります、コレはThe World運営のために必要なことでして。見た目は悪いですが皆様の快適なプレイ環境を維持するために――」
「っざけんな!! こいつには心があるんだっ!! それを簡単に消すとかバグ取りだとか言うなっ!! ……止めろっ、今すぐそれを止めろ!!!!」
激昂してしまったのが悪かったのか。
中心に居た細身の軍服を着た女性に詰め寄った瞬間、俺の体は3人もの屈強なPCに羽交い絞めにされていた。
「ぃぐ、この……!!」
「何か勘違いなさっているようですね。いいですか? アレはPCのように見えますが、ただの壊れたNPCです。多少妙なことを話しますが自分の意思など在りませんし、心などもってのほか。それにもうデリートは済んだので……おや?」
女性は剣山のような武器群の中心点を見て、怪訝な顔をする。
そこにはまだ、アレだけ刺されているというのに表情一つ変えず、言葉一つ発しないニアの姿があった。アレだけ串刺しにされているのに血も出なければ痛がってもいない。
まるで……人形に針を刺したみたいだ。
「まだ削除できないの?」
「すみませんチーフ。どうも特殊なプロテクトが掛かっているようでして……解析に暫く時間が掛かりそうです」
「そう、では作業を続行します。手の空いた人はエリアの封鎖に回りなさい」
「分かりました」
文句も反論も憎しみも悲しみも、そのニアを見ただけで綺麗に忘れ去った。
ニアの様子が、明らかにおかしかった。
壊れている。
この状況があまりにも酷いというのもあるが、それにしたって何も反応しないなんておかし過ぎる。
何の抵抗も、声すらあげないなんて……いくらニアでもそこまで無反応な筈がない。
「ニア……? どうしたんだよオイ。まだ削除されてないんだろ? 聞こえてるんだろ? なんか、返事してくれよ……!」
「………」
周りのPCがごちゃごちゃと難しい話をしている最中に声をかける、すると、ニアはぜんまいの切れ掛かったオルゴールのような動作でこちらを向いた。
体はまったく動かせないので顔をほんの少し動かして、目をこちらに向けた。
それだけでも少し安心する。
「ニア、一体これはどういう」
「……アンタ、誰や?」
………え?
俺の顔を見ながら、本当に不思議そうにそんなことを聞かれた。
抑揚のない、機械みたいな声で。
「い、いや……空だよ。俺は、空だ。……なにいってんだよ」
「ウチはニアや、ハジメマシテな」
「……は?」
ハジメマシテ?
ニアは何も疑うことなく、当然のように初対面の挨拶をした。
どこか空ろな表情で、呆とした声でそれを言う。
壊れた玩具。
そんな表現が一番しっくり来るような、白紙の言葉……。それが今のニアの状態のように、俺の心を串刺しにして抉った。
――――忘れ、られ……た?
一瞬、俺も何もかも忘れそうになった。
「言ったでしょう、それは壊れたNPCだと。あなたが何を見たかは知りませんが、それは誰彼構わずハジメマシテといい続けるだけの破損データです。お分かりいただけましたか?」
軍服を着た女性が冷静に断言する、それが事実だと。
なるほど、彼女達にとってはそうなのだろう。
だけど。
真菜の必死に叫ぶ声を思い出す、……ニアの悲痛な表情を思い浮かべる。
このくらい、耐えなくちゃ。
「……分かてるよ。アイツはもうダメだって言ってたんだ、このぐらいの事は予想の範疇。……だけど、ダメだ」
精一杯の強がりでそれを受け止め、返す。
「ニアは消させない」
腰あたりの空間から光と共に大剣を取り出し、その重量を持って一閃。武器の一撃よりも重量による反動で羽交い絞めから無理やり抜け出す。PCたちの呻き声を背中に踏み出す。
そしてその一瞬の虚を突いてニアに突き刺さった武器に向かって大剣を叩きつけた。
重量だけは拘った自慢の一振りだ、それが幸いしたか叩きつけた側の武器が幾つか派手な音を立てて抜けるか折れるかする。同時に中心のニアに向かって飛び込む。
何故か近付く奴がいない、がすぐにその理由も分かった。
「なっ、止めなさい! デバッグ作業中ですよっ、あなたのPCが破損してしまいます!!」
「構うか!! 俺は消えたって痛くない、けどニアは痛いだろうがっ!!」
本当、そういっておきながら強引な手段をとったものだ。
俺は武器が少なくなった側から駆け寄って、ニアの肩に手をかけて……強引にその体を引き寄せた。音はしないが武器が引き抜かれる光景はけっして綺麗なものじゃない。
けど、消されるぐらいならと謝りながらニアを抱きかかえ、走り出す。
幸いなことに人員を裂いていたせいで包囲に抜け出せる穴がある、そこを飛び出した。……捕まえようとする手をORZ仕込の逃げ技で何とか掻い潜り、走り抜ける。
走りながら……ニアを見てみると、体は意外なことに無傷だった。
プロテクトと言うやつのお陰だろうか、むしろあの場所に手を突っ込んだ俺の方が重傷だ。何しろ腕のテクスチャがボロボロに剥がれてる。
そう、体は無事だったけど。
「ハジメマシテ」
ただ、腕の中でハジメマシテといい続けるニアの声が……何よりも痛々しかった。
…………。
その逃走劇も長くは続かなかった。
考えてみれば当然だ、包囲に穴があったのはエリアの封鎖に人員を裂いたからなのだから。
「そこまでだ、少年。止まりなさい」
プラットフォームの前には、邪魔者が居るに決まっている。そこには5,6人の大小バラバラのPCが一様に俺を睨んでいた。
今更ながらこのエリアが一本道だったことを呪いつつ、足を止める。
そしてすぐ追っ手がやってきて10人近くのPCに挟まれることになる。
この状況でもニアは無表情に、俺の腰に捕まっていた。
「君は自分のしていることが分かっていないようだな。ヒーローを気取って弱者を救ったつもりで居るのかもしれないが、それは違うぞ。君が抱えているのはこの世界を破壊しかねない綻びなんだ。だから――」
「分かってないのはあんたたちのほうだ。ニアが元々はPCで、"天使"とか言うAIと融合してしまったから今のようになったって、……あんたらは知ってるのか?」
「元が、PC……?」
「ああ、こいつには家族だって自分の身体だって有るんだ! それをみすみす消すって事は、人殺しと同じだろう!!」
「馬鹿なことを、ゲーム脳かね君は? そのNPCのソースでも見せようか? "ソレ"に会話を行うような高度な機能も知能もない、プレイヤーの情報もない、……そして何より。ソレは現に壊れているじゃないか?」
待ち伏せしていたフードの魔法使い風の男性がニアを指差し、やはり冷静にいう。
どいつもこいつも、デバッグチームという奴はこういった状況に場慣れしているようだった。
……けど、言っていることは正しい。
ニアは今、本当に壊れていた。
「……あんたらにはそう見えるかも知れないが、俺には違う」
「そうか、ではしょうがないな」
男性は俺の方に眼を向けると、なにやらカタカタと音を鳴らしながら数泊固まった。
アレだけ隙だらけだってのに、俺は何も出来ない。
「――コピー完了。いって分からないのなら、我々も立場上実力行使に出なくてはならない。……分かるね? 君は今プレイヤー規約を破っている」
「だったら、どうするっていうんだ」
「君ごと削除する。なに、PCのコピーは終っている。事が完了すればマク・アヌに自動的にログインされるから心配しなくていい」
そういうと、男性は古めかしい魔法の杖のようなものを取り出した。そして周りに居たPCたちも同じように武器を構える。
どうやらデバッグチームとやらは一対一で戦おうとか考える心意気は無いようだ、……俺のPCを転送ではなく削除するあたり、彼らなりの罰って所だろうか。さながら処刑だな。
無駄と分かりつつも大剣を片手で構える。
もう片方で、ニアを抱きかかえながら。
……奴らはジワジワと包囲網を狭めていく、逃げ出せるような隙などまるで無く、手馴れた動作で俺を追い詰める。
反撃したらその瞬間逆方向から武器が飛んでくるだろう。
だから動けない。
動けないまま、ついにあいつらは間合いに踏み込んできた。
「その心意気だけは買おう、君は嫌いじゃない」
「後で買い戻したくなる台詞をありがとうよ」
魔法の杖が一振りされる、一拍おき、10を超える武器が一糸乱れず俺たちに突き出され。
突きぬいた得物からきっとデバッグシステムが――――
「Defense program motion, a recognition code "zenithian whale"」
ビクリと、腕の中のニアが震えた。
意味不明な英語を早口に紡ぎながら、痙攣を起こすようにビクリ、ビクリと胸が動悸し跳ね上がる。
まるで良くないものが身体の中で暴れているような。
奴らの攻撃はニアに届く寸前で時を止められたかのように凍りつく、存在しないはずの"力"によって。
驚愕の表情を浮かべるPCたち。
まるでその虚を突くかのように、俺たちの前にバサリと、巨大な翼が広がった。視界を埋め尽くす勢いで広げられた。ニアの――天使の翼が。
バサリ
――バサリッ!
同時に巨大な旋風が巻き起こり周囲のPCを軽々と弾き飛ばす、追撃のようにやってくる暴風がより遠くへ体を投げ飛ばす。
紙切れになった気分だ。
黄昏た空が嫌に近くに迫ってきたかと思えば、視界が一転して石畳にたたきつけられる。痛みがあったらまさに悪夢だろう。
優々と30m近く吹っ飛ばされた。
「――――−!!」
「―― ――−!!」
「――−!!」
声が、声にならない。あまりの暴風が景色も音も捻じ曲げてかき乱す。
ハリケーンが発生したかのように風が吹き荒れ、岩や瓦礫が悪夢のように入り乱れて巻き上がる。
その凶悪な螺旋の最中、まるで神でも降臨したかのような厳粛さを纏いながら、白く大きな翼を持った人影が宙に浮いていた。
「―――ニアッ!!!」
辛うじて、ソレだけが声として成立したかもしれない。
だが無駄だ、叫んだが故に俺の体は更に弾き飛ばされる。風が濁流のように押し流す、何かを拒むかのように。
「グァッ、ゥ……」
大気が逆巻く。
大渦が風になったかのよう。
洪水濁流の如き狂風がなす術もないPCたちをゴミのように蹴散らしていく、まるで世界と人との違いを決定付けていくかのように。
そして、中心に在った人の影がフワリと空中へと浮き上がった。
まるで台風の目をエレベーターを使って浮き上がっていくかのように、翼は天上に向かって羽ばたき、その身を遥か高みへと持ち上げる。
ただ白い羽が残され、舞い落ちる。
……数秒もしないうちにニアの姿は見えなくなった。同時に風が止んだ。
「………。目標は、容量を急拡大しながらシステムに干渉を続けています。このままではエリアデータが改竄されますっ」
「チーフ! セカンドサーバーが処理落ちを起こしてます、早くしないと復旧に支障が!」
「あの、チーフ?」
「……なんですか、あれは」
チーフと呼ばれた女性は、報告を聞きとめつつもずっと頭上を望んでいた。
俺も、見上げている。
……そこにはいつの間にか、天空を悠々と泳いでいる"巨大な鯨"の姿があった。
赤い空の片隅を黒い影が埋める、空の2割は優に埋め尽くしているだろう。それほどに巨大な黒い影が空を支配している。
黒く太いバルーンのようなカタチは確かに鯨のようであり、その実真っ黒で金属質な表皮はどこか生きた戦艦を思わせた。
なにか、魂が震撼させられるような不安。
アレを見ているだけで世界など簡単に食われてしまいそうな、いい様のない恐怖を感じる。
それは回りも同じようで、見上げた人間は一人の例外も無く恐れ、慄(おのの)いている。
アレは、ニアが作り出したらしい。
もう、呆然と見上げるしかなかった。スケールが大きすぎるどころの話じゃない、意味が分からない。
「作業を、続行しましょう」
やっとの思い、そんな感じの声が静かな空間に音を生き返らせた。
「エリアの解析を進めて下さい、私も向かいます。何とかしてアレを止めないと……」
彼女は何か的確に指示を飛ばしていくと、PCたちは皆口々に答えながらログアウトしていった。
管理室みたいなところにいって解析をするのだろう。
けど、俺にはそんなまねはできない。
何も出来ない。
できないから、……ずっと、あの鯨を見つめていた。
「どこにいっちまうんだよ、どうなるつもりだよ、ニア……」
そのあまりにも巨大な影は、あまりにも遠く。掴み取るにはあまりにも腕は短い。
あるいは俺に翼があればあそこまでいけたかもしれない。
けど、俺に翼は無かった。
ただひたすらに、空に影を落とす巨大な生物を見上げ続けた。
本当、自分がこんなにもちっぽけだと思い知らされたのは……初めてだ。
………………
諦めようかと思った。
正直、ここまできてしまうと俺にはもうどうにも出来ない。
「遠い」
システムを越えた場所にどうやって行けというのだろう。
俺はただのプレイヤーで、PCも中級者にやっと到達するかしないかぐらいの普通のキャラだ。
超能力を持っていなければ翼もない、あまつさえ強くもない。どれだけジャンプしたってあの鯨には届かない。
だから、諦めようかと思った。
「……でも」
思うだけだ、チラリと魔が差しただけだと自分に言い聞かせる。
逢いたいと願った。その想いは消えていない。
それに約束もした。その想いを無下にしたくない。
なにか、俺にだって何かできるはずだ……。
「あ、みっけた! もしかして君が……えっと、空君?」
橋に寄りかかって難しい顔で考えていると、やたら明るい声が思考を遮った。
場違いなことこの上ない。
「はい? あぁ、そうだけど」
「よかったー、手がかりが『青い』ってだけだったから間違ってたらどうしようかとドッキドキだったのよー。むしろスリリングで面白かったけど。しかし一発で命中なんてあたしのオトメの勘もまだまだ鈍っちゃいないな! アッハッハ」
「(……ダレ?)」
途轍もなく疑問だった。
「いやーそれにしてもこのゲームって本当によく出来てるね、ビックリだ! コレなら中に居付きたくなるのもちょっと納得かなー、なんてのは不謹慎か。でもホント綺麗綺麗、すくりーんしょっとってやつに撮れるのかなコレ。えっと説明書説明書……」
「ぃゃ、ぁの」
人に話しかけておいてひとり言マシンガントーク? ただ者ではないな。
むしろこの世界が面白くって仕方ないって顔をしている、好奇心爆発で周りが見えていないのだろう。むしろ周りを見過ぎて俺が目に入ってないというか。
だから誰だよ、この人。
とりあえずマジマジと真面目な思考をぶち壊してくれた人物を観察してみる。
「…♪」
とりあえずマジカルな感じ。
嘘じゃない。ほんとにマジカルなかんじ、マジカルな美少女(物、と付けたくなるような)だ。
一昔前の低年齢の女の子と大きなお兄ちゃん向けアニメとかで流行ったデザインの、コテコテの派手な衣装の美少女である。手に☆付きステッキを持ちつつ可愛らしくも何故か露出度の高い格好……を思い浮かべれば大体説明は事足りる。若干The World風にアレンジされていたが、まぁこの印象が揺るぐことは絶対にないだろう。
バッチリ目を逸らした。
彼女は♪マークを撒き散らしながらクルクルと景色を見て回ったり、礼拝堂に入ってはしゃぎ回ったりしている。
他に人間がいたら逃げ出していただろう。
何とか我慢してまっていると、マジカルな美少女は満足したらしく戻ってきた。
「……気は済んだか?」
「おおきに、待っててくれるとは大人だねー君」
「似たようなのがダチにいるからな」
ORZとか、奈々々とか。あの辺の面々。
なんとなく感じる、同じオーラを。
「それはともかく、俺になんか用か?」
「そうそう、重要な用があるんだよー。聞いてくれる?」
「待った、重要ならその前に自己紹介と行こう。俺は空、撃剣士だ。あんたは?」
「見れば分かるのに挨拶を重んじるとは、礼儀正しいのも点数高いなぁ。あ、あたしはプラム! もち呪療士ね!」
……だと思った。
名前もジョブも何処までも見た目とイメージ通りで期待を裏切らない人だった。
で、聞いてみたけどやっぱり初対面だった。
ある意味。予想不可能すぎて用件を聞くのが怖い。ああ、こんな重要なときに俺は何をやってんだろうか。
「それじゃあ、用件を聞こう」
これ以上引き伸ばすことも出来ず、覚悟して聞きに回る。
するとプラムはにこっと笑って可愛らしく口を開いた。良く見たらウサギの獣人だった。
「えっとね、率直だけどコレからお母さんと呼びなさい?」
「……はい?」
なぜ疑問系。
そして言葉の真意や如何に。俺に宇宙語を理解する機能は付いていないと知らないのだろうかこの人は。
ああ、俺もう帰ってもいいですか?
「大丈夫大丈夫、あたしは世間一般的に言う小姑みたいなことは言わないし。というか死ぬまで現役? うん、安心して。例え血がつながってなくとも息子として可愛がってあげるから、もうアメリカンサイズの愛を注いであげちゃう」
「待て待て待てっ、何の話だっ! 新手の恐喝かっ!?」
「フッ、近いかな」
「近いのかよっ!?」
♪の次はハートマークを乱舞して投げつけてくるマジカルな美少女に裏拳ツッコミを決める。
………。
いつの間にか、ネタには反射的に応える身体になっていた。きっとORZのせいだ。
その事実に内心少し凹んだ。
「アハハハ、やっぱり面白いね〜君」
「お、俺で遊ぶな……」
そして突っ込まれてる当人は心から楽しそうだった。
アッハッハと笑いながら本当に楽しそうに……していた顔を、急に真顔に戻した。
空気が変わった。
「ハイ、合格。君ならいいかな、君なら……あの子もきっと笑ってくれる。ほんと我が子ながら上玉を引っ掛けたこと」
「……あの子?」
「君と同じ名前の子、こっちではニアって名前だっけ。あの子ね、あたしの子供なんだ」
少し寂しそうな顔をしてプラムは笑う。
一方の俺は言葉すら忘れて立ち尽くす……、というか信じたくない。突拍子が無さ過ぎて心の準備も出来ないままクリティカル連発されてノックアウト寸前と言うか。
けれど、どこかで納得して受け止めている。
声が似ていたと言うのもあるし、性格が真反対だから意識したというのもあるかもしれない。
彼女が誰かの母親であることは薄々感づいてはいたから。
俺はゆっくりと頷いた。「そうか」、と。
今度は心の準備をちゃんとしてから、先を促した。
「知り合いからあの子に彼氏が出来たって聞いてすっ飛んで来たんだけど、まぁそんなことはいいや。それなら君にまず話しておかないといけないことが有ると思ってね」
聞きたい? と、彼女は確かめるように俺の目を見つめる。
それはもう挑戦的に俺を試すものではなく、この先は悲しい話になるから……聞く覚悟はあるかと。それを問う目だった。
そしてもう一度、頷いた。
例えそれがどんなに悲しいことでも、受け止めるつもりで。
「聞かせて欲しい」
それを確認すると、彼女はゆっくりと語りだした。
「……あの子はね、いわゆる記憶障害ってやつなの」
「記憶、障害……」
ある意味予想通りの言葉だったが、母親の口から言われるとその重みが俺を押しつぶしそうになる。
だけどそれは……目の前にいるこの人が、人生をかけて背負ってきた重さなんだと思う。
それに肩を貸すと決めたのは、俺なんだ。
「記憶には4つの手順があるって知ってる? 記銘、保持、想起、忘却……それぞれ文字通りの意味を持ってるんだけど、あの子は生まれつき『保持』の機能が曖昧なのよ」
「保持が……、ってこは長い間ものを覚えていられないとか」
「近いけどちょっと違うかな。あの子はね……数年ぐらいの周期で記憶がリセットされる。昨日まで思い出せたことがある日突然思い出せなくなるの。その日までは、至って普通に記憶できるんだけど」
「そんな、それじゃアイツは!」
「本人はただの記憶喪失だって思ってるけどね、あの子はそれを何度も繰り替えてるんだ。何度も、何度も、そしてこれからも、……一生ね」
俺は、同じ記憶喪失なのだろうと思っていた。だが聞かされたのはそんなものより遥かに辛い現実だった。
そんな、馬鹿なことがあるか。
記憶喪失は直る可能性もある、いわば傷だ。
しかしニアの場合は違うという。彼女のものは生まれつき持った、……いや、生まれつき持たなかった類の欠落だ。
最初から無かったものが回復する理はない。
アイツは幸せなことも悲しいことも、覚えてはいられない。
例えどんな大切な人が出来ようと、例え恐ろしく悲しい出来事が起きようと、忘れていく。
それは成長を放棄するのと同義だった。
そうか、だから彼女は学校に行けなかった。ずっと、一人のまま……遊ぶしかなかった。
例え友達が出来たとしても、忘れてしまう。
――――ウチ……もう、ダメみたいなんや
――――間に合った、……最後に空に会えてよかった
――――ウチのこと、忘れんでくれると嬉しいな
――――だから空。さよならと。ありがとうと。……ごめんなさいや
そう、この言葉の意味は……。
――――……アンタ、誰や?
「けどね、……一つだけ。不思議なことに一つだけ忘れないものがあるの」
「一つだけ、なのか」
「うん、一つだけ」
寂しそうに彼女は頷いた。
その時になって愚鈍な俺はやっと気が付いた、彼女が明るく振舞う理由を。
「あの子ね、全てを忘れても……あたしを見つけるとこういってくれるの。『おかーさん』って」
それが何よりも愛おしい宝のように語る。
「赤ちゃんみたいにキョトンとした顔で、その言葉しか覚えてなくて……。それでも、その声を聞くと嬉しくて涙が止まらなかった。
また覚えていてくれた、だからまた頑張ろうって。あたしはこの子のおかーさんなんだって……。
気付かせてくれた。どれだけ哀しくてもあたしは幸せなんだって。
いつまでもあの子を抱きしめて泣いていた……」
だからこの子もせめて、幸せな記憶をと。
幸せでいて欲しいんだと、最後は涙声になりながら語っていた。
「あたしのことを覚えてるなら物事を完全に忘れるわけじゃない。何か鍵になるものが有るんじゃないかって、あたしは信じてる」
「………」
この人は強い。すぐに涙を拭いてしっかりとした声で俺に話しかける。
「空君、君はあの子の鍵になれると思う?」
「今、同じ事を考えてた」
「で、その考察の結果は?」
「今のままじゃ鍵としては足りないと思う、でも……もう一回ニアに会って。絶対鍵になってやる」
「ありがとう。脳ってのは良く思い出す事柄には太いパイプ(シナプス)を作るように出来てるの。だから、君があの子の一番になってくれたら……ね」
空を見上げながら、彼女は言う。
そこには入道雲のような巨大な鯨が優々と泳いでいる。……心なしか大きくなっていた。
急がないと。だけど
「けど、例え俺が鍵になれても……あそこに行くための翼がない」
「そうねぇ、うーん」
急に黙って考え始める。
何故か嫌な予感がした。
……暫くして、頭の上に電球が出現した。ピカッと。
「大砲でも使ってぶっ飛んで行けないかな?」
電球が光ってる。
………。
確かにエリアによってはそんな大砲もある、有ってしまうあたり確信犯で言ってるのではなかろうかと少しゾッとする。
「んなことやって生きてるのはスク○アの人々だけだろ」
「そうだよねぇ、じゃぁどうしよっか。お姉さんお手上げだ」
「………」
両の手の平を肩まで上げてお手あげ〜っ、ってポーズを取るプラム……さん。
とても、軽い。
いや、こういう人だとは分かっているのだけど。分かってるけど。
シリアスとの切り替えがあまりにも早すぎる。
……むしろほんとにお姉さんって年なのだろうか?
因みに見た目にはロリッ娘である。
「………」
「ほらほら、そんなに怖い顔しないの。何も分からないときは楽にしてた方が案外アイデアも行動力も出るよぅ」
「いや、そういうけど。そうなんだけど……!」
「こんな時ぐらいプライドは捨てるべきじゃない? 空君?」
なんでこうこの人は余裕なんだ……。というか捨てるタイミングが明らかに間違ってるだろ。
とりあえずそれには反論しようとしたその時、気配を感じた。
すぐ背後に何か人型のものが出現している。
夕暮れ時……それから続く影が、俺たちの足元の物と混ざり合う。
背の高い、シルクハットを被った紳士の影が。
「何しに来たんだよ、アンタ」
振り向かずに問うと、足元の影は帽子を取ってお辞儀をするポーズを取った。
ゆっくりと大げさに。
こいつのはただのポーズであって礼ではない。
「なに、少しお困りかと思いましてね。貴方はともかくそちらのマダムが」
「あらやだマダムだなんて紳士ねぇ……でも、プラムって呼んでくれる? 歳がばれるじゃない」
「これは失礼しました、プラム様」
あの逆月が気圧されていた。
声音は軽いのに喉元に包丁を突きつけられた感覚がするのは何故だろう。
コホンと咳払いをして帽子を正す紳士。
「して、性急ですが本題に入りましょうか。お二人とも準備は宜しいですか?」
「なんのだよ」
影が、ニヤリと笑った気がする。
「―――大砲のご用意が出来ました」
スク○アの回し者がそこにいた。
………………
――――天空の鯨。
逆月はこの生物らしきモノのことをそう呼んだ。
あまりにもそのまんまなネーミングだが、ニアのいっていた"zenithian whale"を訳すとそうなるといわれたら反論のしようがない。
それに……。
足元を覗く。
眼下には白い雲がまるで海のように広がっていて、その合間から緑と茶の織り成す大地が垣間見える。
風は果てしなく強く、踏ん張っていなければ飛ばされてしまいそうなほど。
そして何よりかなり寒い、丁度風が強い冬の夜ぐらいの寒さだ。
多だ……そんなことすら忘れてしまいそうになるくらい、景色は美しかった。
空が何よりも青い、ただ青い、何処までも青い。
その青しかないドームの下にいる気分は爽快としかいいようがない。
俺はずっと空を飛びたいと願っていた、それが叶ったのだから気分が良いといわなければ嘘になる。
風に髪が引っ張られる。
ただ……恐らくはその『願い』を叶えたのはニアだと思うと、心は一気に地の底へ墜落しそうになる。
そう、ここはあの巨大生物の背中だった。
なだらかな丘のように盛り上がり地面は曲線を描いているが、何故か岩肌のようにゴツゴツザラザラとしているので歩きやすくはある。
例えるならアスファルトの板を1m感覚で爆破したかのような凸凹具合、生物の背中と思ったものはさながら大地震があった後の道路だ。
ただ……その割れ目の奥でドクンドクンと蠢くものが否応無しにそれを生き物と認めさせている。
で、それを覗き込んでるチマイのが一匹。
「うっわー、グッロー! 楽しー」
「……ホント強いな、あんた」
「お恥ずかしながらホラー映画通ですことよ。……フフフ、中に入るのが楽しみねぇ」
ほんとに楽しそうだなこの人は。
あと、似合わないからせめてウサ耳だけはしまってほしい。このシリアスでファンタジックな空間の中であなたの周りだけ異世界だから。
というわけで。……俺たちは2人で、ここに挑んでいた。
どうにも俺はまともな人間とPTを組めない運命にあるらしい、神は一生俺に突っ込みをやれと啓示しているのだろうか。
因みに俺たちをここに転送した張本人は「裏方は舞台裏に潜むもの。私はシステム面からサポートさせていただきます。良い劇をが演じられることを期待しておりますよ」……とか何とか言って早々に退場した。
平たく言えば逃げたんじゃなかろうか。
「しかしコレ、入り口ってあるのか……?」
「うーん、鯨なら頭の辺りに潮を出す穴があるんじゃない? あ、ほらアレとか」
伊達に足元は見ていなかったらしい、プラム……さんの指差した先に大人3人ぐらいが余裕で入れそうな穴があった。
潮は噴出していないようだ。
「……確かに、あそこなら入れそうか」
考えていても仕方ないので俺たちはそこに入ってみることにした。
……………
生物の体内。
あの赤くてグログロー……っとしたイメージを黒い岩とか金属で覆ってみる、それがこの鯨の体内の様子だ。
どうにもこの鯨は皮膚が金属とか岩で出来ているらしい、その割りに中身が肉なのだから気色悪いとしかいいようがない。
それに……。
「熱っ!? ……って、なんだこれ胃酸かよ」
「ほうほうなるほど、危ないねー。この水溜りに突っ込んだら溶かされるってことかぁ」
気色悪いだけでなく、危険だ。
天上からポツンと落ちて来た雫に手を少し焼かれ、そうしっかりと認識する。
何故か知らないが今の俺たちには"感覚"と言うものがあるらしい、ここで焼かれたり刺されたりしたらあらゆる意味でゲームオーバーってことだろう。
それでも、それぐらいのことは承知だと進んでいく。
2人とも危険は承知の上で進んでいった、それだけ……ニアが大切だから。
分岐点を迎えるたびにプラム……さんが行き先を選び、そちらに向かって走っていく。
かなり心配な道案内だったが、通信で逆月が合っているようなことをいっていたので恐らくは当たってるんだろう。
細かったり太かったり、低かったりする出鱈目な道を走っていく。
そして……。
「ニアッ!!!」
彼女を見つけた。
「――――っ」
ここは鯨の目……なのだろうか、ニアの向こう側にある壁にはドームの天井みたいな途轍もなく大きなガラス(だと思う)が嵌め込まれていて、その先の雲の海を望ませている。
空が望める、体育館並みの広い空間ごと空を飛んでいる錯覚を受ける、実際飛んでるのだけどこれだけ眺めが良いと景色に飲み込まれてしまいそうだ。
そんな場所で……俺たちはガラスのすぐ下に居るニアと対峙した。
背中に白く美しい羽を背負ったニアは俺たちを見て驚いているような顔をし、そしてその顔を悲しみに染めた。
「空……、それとそっちはお母さんやな」
「ニア、俺が分かるのか?」
「当たり前や、さっきのはデバッグチームに重要と判断されないための演技やからな……まぁ失敗して最終手段を取ってもうたけど」
「なら戻って来いよ! みんな、待ってるんだぞ」
「……ダメや。こうなったらウチは鯨から離れられへんし、記憶だってもう薄れて初めてきてるん……」
もうダメだと、ニアは泣きそうな顔で繰り返す。
今まで必死で我慢してきたけど、もうダメなんだと。
それは抵抗に抵抗を続けた上での達観の表情だった……。
「空(くぅ)ちゃん、もうこっちには戻ってこれないの?」
「……うん、ごめんなさい。ウチ、もうこの箱からは出られないみたいなんや。こっちの神様になってもうたから。このまま記憶が消えると、多分もうウチは居なくなる」
「そっか、残念だな……もっと、ずっと……空ちゃんのお母さんで居たかったけど」
「お母さん……」
「うん?」
「ごめんなさい、こんなことになって……ごめんなさい。ウチ、お母さん大好きやのに……! 最後まで迷惑掛けて、悲しませてばっかりで、本当にダメな子供で…今だってこんな。ごめんなさい……ごめんなさい……!」
「――天誅チョップ!」
必死に謝り続けるニアに、駆け寄ったプラム……さんのチョップが炸裂した。
物凄い早業だ。
俺も、叩かれたニアも唖然としている。
「痛っ、お母さん……?」
「愛してるの」
そして恐々と母親の顔を覗き上げたニアを、そのまま抱擁する。
背はニアの方が高かったけど、プラムさんの方がずっと大きくて、やさしく見えた。
ただギュッと、愛しさを込めて深く抱擁する。
「そんなところも全部大好きなの。運動苦手でちょっと物覚えもよくないところも、物怖じしないで勇気があるところも、ホントはすごく寂しがり屋で甘えん坊なところも、お母さんに似て美人さんなところも……空ちゃんの全部が愛おしいの。
良いところも悪いところも全部含めて空ちゃんで、その空ちゃんが好きなんだから。ごめんなさいなんて言わないで……あなたのその選択も運命も、あたしは全部愛すから。だからね。泣いたっていいんだから……この結末は悲しいけど、それまでの自分を否定しないで。ごめんなさいは止めて、自分を愛しなさい……泣いたって、いいんだから」
それを聞いて息を飲むような声を出し、目に涙を溜めるニア。
「お母さん……お母さんっ!! うう、あああぁぁぁ…っ…」
その胸に顔を埋めたまま、叫ぶようにニアは泣いた。
ありがとう、ありがとうと。
離れたくない、消えたくないと。
ずっと泣き続けた。
見れば……プラムさんも泣いていた。
全てを許し、全てを認め、全てを受け入れてニアを愛すといった人だって、悲しくないわけがない。こんな結果を許せるわけがない、苦しまなかったわけがない。
それでも、終わり行くニアを許し、認め、その選択と結果すら愛し。幸せな最後にして欲しいとニアを抱きしめている。
許せなかった。
アレだけ愛されて、こんな結果……許せるはずが無かった。
「空……」
「なんだよ、邪魔かもしれないけど帰れったって帰らないからな」
涙に腫らした顔を上げて、ニアはクスリと笑った。
ああもう、なんでこうこいつは最後になって表情豊かになるんだ……。
ニアは立ち上がってコチラに歩いてくる。プラムさんは笑いかけているのか、面白がってみているのか。
「帰れなんていわない。嬉しかったもん、空が来てくれて」
「当たり前だろ。……お前が居るところなら、どこにだって行く。俺だって、お前と一緒に居たいんだ」
「うん、……うん」
「泣きながら頷くなよ、寂しいだろ」
「ゴメン。……なぁ、空」
「なんだよ」
「もし、もしもやで。もしウチが普通の人間で。それで、それで好きってゆうたら……付き合ってくれたか?」
歩みは止まる、目の前にニアが居る。
ユラリと長い金髪が揺れ、神様みたいな白いスカートが揺れ、雪のように数本の羽が舞い落ちる。
目と目が合う。
ニアは泣いているようでも笑っているようでも、恐れているようでも信じているようでもある表情をしていた。
「もしも? もしもってなんだよ……そんなもの、いらないだろ」
「え?」
「もしもなんて付けなくたって、俺はニアが好きだ。空は、空を愛してるんだ」
「変な奴やな空は……。こんなに壊れていても、すぐに消えてしまうとしても、そんなこといえるんか」
「悲しみや痛みを知らない奴は優しくないし、記憶を失った奴は記憶の大切さを知っている。傷だらけのお前だからこそ、最高に魅力的なんだ。もしもはいらない、その全てを含めて……俺はお前が好きだ」
抱擁はプラムさんに先を越されたから、俺はニアと口付けを交わした。
長く、熱く、愛しく。全てを確かめ合うように。
悲しみも、愛しさも、悔しさも、幸せも、全てを確かめて。
今、白紙の少女は色取り取りに染まり……とても綺麗だった。
だからこそ、ソレを失いたくないという気持ちが一層強まった。
今まで怖がって手を出そうとしなかったニアの手、それをこうして握れたのだから。もう、離したくなかった。
「ヒューヒュー、熱いねーお二人さーんっ!」
「っわ、ああっっぷ、プラムさんからかうなよっ!? というか今SS撮ってただろっ!!」
「えへへー、寂しいときに勇気をくれる写真ってことで」
「消せっ、今すぐ、宇宙の果てまで!!」
「お母さん、ソレはちょっと雰囲気ないでー」
いいところでハァと、息をつくニア。なんでそんなに落ち着いているんだと突っ込みたいが恥ずかしくてそれどころじゃない俺。
ああもう人前で何やってるんだと血が沸騰するみたいに恥ずかしさがこみ上げてくる。
プラム……さん、恐るべしと言うかこのシリアスブレイカーめ。
まぁこんな展開になった方が俺たちらしいっていえばそうかもしれないけど。
ニアと顔を合わせて苦笑した。
「あ、あたしのことは気にしないで続けて続けて。どうせだからCまで許す、母親公認」
「っておいまてや母親っ!! 公認すんなっ!! というか今時ABC隠語かよっ!?」
「……? Cってなんや?」
「ふっふっふ、それはねーセ……」
「 わ ー ー ー っ!! あ゛ ー ー − っ!!! 皆までいわんでいいっ!! 説明すんなっ!!!」
そこからはもう大騒ぎだった。大声を出したり、大笑いしたり、お祭りのように。
SSで撮った写真を人質にされていいように遊ばれたり、さっきの俺の台詞を復唱されて二人して真っ赤になったり。
暖かくて、楽しくて、幸せで。
ここまで来てこんな所で、こんな状況なのに笑えることが……何故だかとても誇らしく思えた。
そして、心の中でプラムさんに感謝した。
最後になってこんなに幸せな時間を作れたのは、全部この人のお陰なのだから……。
本当に、こんな時間が一生続けばいいと思った。
……けれど。
それが叶わぬ夢だと哄笑するかのように。
夢を覚ます冷たい足音が響いた。
「御機嫌よう、お楽しみのところ申し訳ありません」
それは、いつものように帽子を取って深くお辞儀をする。
今このときばかりは、その黒い衣装が死神の外套のように見えた。
「そろそろ刻限のようですが、話はお済みになりましたか?」
「逆月……お前、何しに来た」
「まぁ落ち着いて、そんなに睨まないで下さい。私とて理由もなしにこの場を壊すほど愚かではありません」
「理由って……」
聞こうとして、思いとどまった。
理由なんていくらでもあるのだから。
「デバッグチームの方で決断があったようです、10分後にこのΔサーバーはシャットダウン及び隔離をされ。即時初期化が行われます」
「初期化って、そんなことして大丈夫なのか!?」
「PCデータはまた別のサーバーに保管されていますから問題ありません、ただ今まで追加されてきたバージョンアップも同時に消えてしまうので復旧には1週間程度掛かるでしょう。
……それはいいのですが、そこでもう一つ重要な問題が浮上します。この処置は逃げ遅れた放浪AIに多大な影響を及ぼすのです。例えば、ここを動けない女神様のような」
「……どんな影響が有るんだよ」
「初期化とは、即ち全てのデータを消去し。バージョンアップ以前のデータを再インストールすることです。現在のCC社の体勢からして1年ほど前のデータまで戻されるでしょう。……システムの根底に関わるAIはブラックボックスに守られるかもしれませんが、女神様のように外れた存在となると……恐らく。完全に消え去るでしょう」
「……っ」
ニアの肩がビクリと震えるのが分かった。俺の心も、氷水を掛けられたかのように寒気が迸った。
消えるという言葉が、心臓を突き刺したかのようだ。
今の今まで目を逸らしていたものが、こうして断頭台として目の前に立ち塞がる。
もう、逃げられない。
ぶるぶると震えるニアの手を、冷え切った手で握った。
「空さん」
それを見てか、逆月は俺の反対側の腕に向かって何かを投げてよこした。
軽く投げられたものは空中でクルクルと銀の螺旋を描く。それは、刀身の太めな短剣だった。
リアルなら慌てふためく所だが、軽く手を伸ばして飛んできた剣の柄をキャッチする。
目の前に持ち上げてみてみると、刀身が二等辺三角形のような形になっている……何の変哲もない短剣った。この長さなら双剣はずだが、一本しかない。
「おい、こんなもの何に使えって……」
「それで、女神様を殺してください」
「……な」
当然のように、逆月は言い切った。
「お前、なにをっ!? そんなこと出来るわけないし、なんでしなきゃいけないんだっ!」
「なに、簡単な理屈ですよ。データ容量の減少スピードから察するに……女神様の記憶が保っていられるのはあと7分ほど、完全初期化がその3分後。……ならば記憶が有るまま天に召された方が幸せではなありませんか?」
「テメ――」
「――そう、やな」
逆月に掴みかかろうとする俺を、ニアの呟きが止めた。
その瞳が、俺を見つめている。そして……俺の握った短剣を。
――――ウォォォォォォォォ………ン
鯨が、大きく鳴いた。
まるで主人の決断を称えるかのように。
「空、ウチを……殺して」
「嫌だっ! 待てよニア、そんなことをしたって何もならないだろ、痛いだけだろっ!」
「ならそれを貸して、自分でやるわ」
「お前……死にたいのか」
そんなことをいった俺を責めるかのように、ニアは初めて俺を睨んだ。
瞳に、涙を溜めながら。
「ウチだって死にたくない、ないに決まっとる! けどな……消えるよりはマシや思たんや」
「でも、それは……」
反論する材料が、なかった。
7分後の死も、10分後の消滅も、どうしようもなさでは等しかったから。
これ以上反論できるはずがなかった。
「ウチな……今すっごく幸せなんや」
「ニア……?」
「だからいいんやっ! ウチ、世界中の人に誇れるぐらい幸せやもん! 大好きな人に抱かれるのってこんなに暖かいて知れた、初めてのキスの味も知った、愛しい人に出会える喜びも知れた! ウチは今世界の誰よりも幸せや。
だから……だからな、忘れたくないんや。この気持ちを、この気持ちだけは絶対に忘れたくないんや。
この記憶を持ったまま天国に、行かせて欲しいんや。白紙のまま消えるなんて嫌なんや」
だから、こんな目で叫ぶニアを否定することなんて出来ない。
本当に幸せだったことなんて、俺も同じなのだから。
その記憶が何よりも大切だなんてこと、俺だって同じなのだから。
短剣を、握り締めた。
「……ニア、俺が本当にコレを突き刺しても。お前は幸せなのか」
「逆、幸せなままでいたいから突き刺して欲しいんや。そこに、嘘はあらへんし、この状況で他の選択肢はないやろ? 叶わない夢はいくつもある、けど現実から眼を逸らさずに……一番いい選択をするなら、これしかないやん」
「……分かった」
時間をかけて、頷いた。それは理解をするのに時間が掛かったのではなく、別れが惜しかったから。
「もう何もいわない、ニアの選んだ選択に俺は従う。……いや、その選択を愛す」
「空……ありがとう、ありがとうな」
「バカ、ありがとうなんていうな。それじゃ終っちまうみたいだろうが」
その言葉に、ニアは笑みを浮かべた。
そして逆月は時間がないと俺を促し。
プラムさんは微笑みながら頷こうとして……それが出来なかった。
俺の心情はプラムさんに近いけど。
それでも、……この決断を愛すと決めた。だから、鈍く輝くこの刃を振り上げる。
「あ……、言っとくけど後追っちゃダメやで空? 追っかけてきても蹴落としたるでな」
「フン、ちゃんとクソ爺になってから天国行ってプロポーズしてやる。だから覚悟しとけよ」
片方の腕でニアと手を繋ぎ。
両の目で互いを見つめ合いながら。
別れの言葉すら忘れ。
その絆を確かめたまま。
「空、今までいえへんでゴメンな。空……大好きや」
「ありがとうは返すからな、愛してるぞ……ニア」
その刃を、振り下ろした。
――――ウォォォォォォォォ………ン
<了>