幸せな日常。


 俺は似たような繰り返しを続けるだけの、この日常が大好きだ。
 毎日、学校に行って眠い授業を受けて、終ったら貴輔と全国目指して竹刀振り回して、帰ったら真菜の作ってくれたご飯が待ってる。
 代わり映えの無い日常だけど、噛み締めるほどに味を失うガムとは違う。
 俺にとってこの日々はけっして色褪せない幸せなんだ。

 それは当たり前のことだと思ってたけど、けどそれは違った。
 生まれたときから同じ繰り返してるならそれは『普通』だと感じるはずだ。少なくとも俺のように日々幸せを意識することは無い。
 幸せを意識するのは何故か?
 その答えが、やっと分かった。


 ―――俺は長い間、どん底に居たのだ。
 






『コンピューターをシャットダウンします。よろしいですか?』

 画面に表示された問い掛けに『はい』と答える。
 メールに載せられていたURLのサイトを調べ終えるとすぐ、パソコンの電源を落として貴輔(ORZのプレイヤーだ)の部屋に向かった。
 情報としては頭で理解した、後は心で受け入れるだけだ。
 時刻は午前10時。
 心の準備に眠れない夜を挟み、俺は親友に全てを聞く覚悟を決めた。



 朝食を終えたこの時間、部活も無い日曜日の午前中は決まって昼寝をしている。それが貴輔の生活スタイルだ。
 午後から自主トレをする布石だそうだが、実際のところ単にシエスタが好きなだけである。
 ただ、今日は何故か起きていたらしい。
 俺はあくびをしている貴輔を横目に彼の部屋に入った。……本人はこんなだが意外と小ざっぱりした部屋だ。

「ふぁ……で、どうしたんだ空? 俺の安眠を妨害した罪は重いぞ」
「ってやっぱり寝てたのか。あー、悪い悪い、ちょっと聞きたいことがあってさ」
「なんだ、つまらん事だったら寝るからな。例えば英語関連の話だと都合がいい、2秒で熟睡できる」
「寝たら殴って起こすから心配すんなって。……あのさ」
「お前って俺の家族の事を覚えてるか?」

 それを聞いた途端、貴輔は何を動じることも無く普通に答えた。

「あんまりそっちに遊びに行ったことはなかったが……忘れるものでもない。心配性のご両親といつもお前の後ろに隠れてる弟がいたではないか、何を今更。ホームシックにでもなったのか?」

 ああ、そうか。
 ……それで、わかってしまった。
 俺は今までこいつに……いや、この英の家の皆に嘘をつかれてきたのだと。
 そして、守ってもらっていたのだと。

「ホームシックか、憧れるよな。……本当に。そんな風に思える家だったら、お前達に苦労をかけさせないで済んだのにさ」
「……空、お前」
「実感は湧かないけど、知識としては何があったのか知った。ついでに覚悟も決まってる。……そろそろ話してくれるか?」

 目を見開いて固まる貴輔、そんなアイツを見たのは初めてだ。
 けどそれもすぐに終わり、スゥと一つ大きく呼吸すると。貴輔は……ゆっくりと頷いた。

「……良かろう。お前の方から聞いて来たら、話す約束だったからな」
「ああ、頼む。……なるべく取り乱さないようには注意する」
「いい覚悟だ、だがその前に」

 何故かそこで切ると、貴輔は顔だけで後ろを振り向いていった。

「居るのだろう真菜? 遠慮しないで入って来い、空も人数がいた方が落ち着くだろう」
「あ、うん……よく分かったね?」

 促されて洗い物をしていた途中らしくエプロン姿の真菜が入ってくる。
 思わずいても立ってもいられずにやってきてしまった、といった感じの風体だ。
 ただ彼女もこの場の雰囲気に飲まれたかのように真剣な表情をしている。ある意味では、貴輔よりも緊張して見えた。
 真菜は貴輔の隣にスカートを折りたたみながら腰を下ろした。


 皆、佇まいを直す。


「さて、お前が聞きたいことは大体分かるが……その前に一つ聞かせてくれ。そのこと、どうやって思い出した?」
「それは……」

 俺は最初にニアに自分ですら気付いていなかった嘘を見破られたこと、それに続くように紳士……逆月から自分の過去を教えられたことを順を追って説明した。
 ただ、説明していると真菜が必要以上に心配そうな顔をするものだから勤めてなんでもない事のようにいった。

「記憶喪失って案外気持ち悪いもんでさ、分かったからには知りたいんだ」
「でも、でも空さん! ……今の生活に不満はないって以前言ってましたよね? それなら、そのままでもいいんじゃないですか?」
「知ったら……きっと、辛いです」

 珍しく真菜が声を荒げて反論する。
 自分のためではなく、俺の為に。
 正直に言えばその気持ちを押し退けることには抵抗があった、けれど。こればっかりは譲れないから。
 「ありがとう」と謝った。 

「……知ったら辛いだろうけど、それでも知りたいんだ。辛いことを忘れた人間は、本当に辛い目に遭ってるやつを慰めることが出来ないだろ」

 そう、例えばニアの、あの時の顔。

「だから。俺は本当の俺自身に、戻りたい」

 そこまで言うと、今まで静かに聞いていた貴輔は「なるほどな」といって頷いた。
 その顔は今まで一番落ち着いているようで、一番苦渋に満ちていた。
 ああ、だからこいつは親友だったんだな。
 それを見て不意に嬉しくなる自分が居た。

「……そうか。ならば話そう」
「お兄ちゃんっ」
「真菜。心配なのは分かる、だが信じてやれ。確かにあの時の空は本当に今にも崩れそうな心をしていたが、今の空は違うだろう?」
「……でも」
「真菜、真実を語るときが来たのだ」
「……分かった。……でも、説明は私がする。私の口から語りたい、……いいよね?」
「ああ」

 俺が頷くのと、貴輔が答える声が重なった。
 それを見て真菜は苦しそうに躊躇いながらも、とつとつとしかしはっきりと言葉を紡ぎ出した。
 出だしは一年前、俺がとある薬を飲んだことから始まった。

 
『プロプラノロール』


 高血圧な心臓病患者に対して用いられる薬である。
 そして同時に……一度引き出した記憶を、忘れさせることの出来る薬である。
 10年ほど前にこの使用法を発見されたこの薬は今ではある程度使用法が確立され、PTSD(心的外傷後ストレス障害)などの治療薬として極僅かに特殊な許可が下りたケースでのみ使用を許可されている。俺にはその許可が下りたそうだ。
 使用法は実に簡単で、服用しながら忘れたい記憶をずっと思い出し続けることでその記憶を消すことが出来る。
 といっても実際は使ったところで都合のいい記憶のみをピンポイントで忘れることは難しいそうだが、俺の場合『家族に関する今までの記憶を全て忘れる』という成功事例となった。
 なるほど、"ピンポイントで"忘れることが難しいだけなのだ。
 なら記憶の大半を失えばいい俺はやりやすかったのだろう。
 
 しかし、ここで一つ予想外の出来事が起こった。

 あまりにも大量の記憶を消してしまった為に俺の人格が損なわれかけた……らしい。
 簡単に言えば廃人になりかけたそうだ。
 人は他者との人間関係を認識することで自己を確定する、その人間関係の大半を失ってしまった俺は『自分がナニなんだか分からなくなりかけた』のである。
 母がいるから子供だと分かる。
 先生がいるから生徒だと分かる。
 友達がいるから友達が何か知っている。
 家があるから、居場所が有る。
 自分以外の人が居るから、自分が人なのだと……。
 

 ……じゃあその全てを忘れてしまったらどうなる?……
 

 辞書のような知恵を持ち、鋼のような肉体を誇り、賢者のような悟りを開こうとも。
 そんなものは白紙の紙と同じだ。
 他人を忘れた人間は、自分がナニであるか分からなくなる。何も出来なくなる。そもそもの前提がなくなる。
 誰から生まれどこで生き何をしていたのか、それは自分を構成する重要な要素(アイデンティティ)である。
 それが無くなるのは、本から文字を抜くのと同じ。
 自分がなんで生きているのか分からない、これからどう生きていけばいいのか分からない。
 自分が分からない。


 そのように、俺は白紙になりかけたらしい。
 ただ、俺が忘れたのは家族に関することだけで学校や友人については記憶が残っていたらしい。
 それが地獄に伝う蜘蛛の糸のような巧妙となり、今の自分を維持することに成功したのだ。
 思えばその時から俺は貴輔や真菜に救われていたことになる。
 英家は俺から抜け落ちた因子、家族としての役割を肩代わりしてくれた。
 精神養生をかねて北海道に引っ越してまでくれた……。
 それを考えると自分の場かさ加減とありがたさで、泣きたくなる。


 それから俺は自分を納得させるかのように、自分に嘘を信じ込ませ始めた。
 ある意味それは自己防衛の本能だったのかもしれない。
 人は都合の悪いことを忘れて都合の良いことだけ覚えているというけれど、まさにそれだ。
 俺はいつしか失くした記憶の代わりに。

 『理想の家族が居たと思うようになった』



「……空さん、大丈夫ですか?」

 最後まで語ると殆ど間髪も入れずに真菜は心配そうに声をかけてくる。
 それは殆ど立て篭もり犯に対する説得のようだった。

「空さんは、悪くありません。虐待にずっと耐えて幸樹を守ろうと必死でしたし、夫婦喧嘩を止めようとして大怪我を負った事もあったぐらいです。あの時から空さんは空さんでした」
「……だから、悪くないんです。……だから、だから気にしないで下さい。……グスッ……お願いだから思い出してももう自殺なんてしようとしないで下さいね……!」

 ただ、俺よりも彼女の方が心配だ。
 そんなに泣きながら語らなくてもいいだろうに。
 ……当時は相当に酷いものだったのだろう、まだぼんやりとしか実感は湧かないが真菜の顔を見れば分かる。むしろ、この話を語ることで真菜の方が鮮明に事を思い出してしまったらしい。
 恐らく当時の俺は虐待にと両親の別離に耐えかねて落ち込んで擦り切れてグチャグチャになっていた、だから真菜はまたそうなるんじゃ無いかと心配しているのだろう。
 ただ、それは杞憂だ。

「大丈夫だよ。俺が自殺? バカいうなって。こんなに、こんなに幸せなのになんでそんな勿体無いことが出来るんだよ。いいか、あの時は耐え兼ねない状況の渦中にあったからそんなことを……そんなバカをしそうになっただけなんだ。今死んだら閻魔大王と喧嘩してでも戻ってくるっての」
「……ック…ホント、ですか?」
「あー……思い出した、それにあの時真菜に一発引っ叩かれてから中指で指きりやっただろ、5回ぐらい。『もう2度とこんなことはしない』って」
「それに、案外ショックは受けてないんだ。今まで散々夢に出てきたせいか今更驚かないって感じでさ」
「……夢に、ですか」
「ああ、たまに滅茶苦茶嫌な夢を見てたんだけどこれのことだったんだな。……正直何度も見せられてウンザリしてたんだけど、まさか役に立つとは思わなかった。……だからそんなに心配すんなって」

 ほんと言うと少し嘘だけど。
 大部分のホントの前に、全部をホントにする。
 だからもう泣くなと笑ってみせる。
 涙は……あ、このやろう。渡そうと思ったら隣に居た貴輔がさり気なくハンカチ貸してるし。
 俺が微妙に視線を向けると、切り返すように貴輔は大声で口を開いた。

「空、お前の名前は!」

 唐突だ。
 実に唐突で分けが分からない質問だが……、俺も同じように全力で言い返す!

「井端空、17歳。紫格高校2年、剣道部所属!」

「空、お前の親友の名は!」
「英貴輔、そして真菜!」

「空、お前はもう過去には負けないか!」
「はんっ、負けたように見えるか? お前達のお陰で勝っちまったよ!!」

 ……全力投球キャッチボールでそこまで言うと、互いにニッと笑みを浮かべ合う。
 バカらしいほど体育会系のノリだ、けどこれが分かりやすくていい。
 ここまでやってやっと真菜も笑ってくれた。
 だから、これでおしまいだ。
 この後どれだけ枕を濡らそうとも、悪夢に苦しめられても、俺はきっと2人の前では心から笑えるから。
 だからおしまいだ。
 もう、自分に負けるのはおしまいだ。

 
 話はここで一端途切れ、一息つくと真菜がお茶を入れてくれた。
 そのあいだにバシャバシャと顔を洗ってたような間があったのは黙っておくのが華だろう。
 そこに罪悪感を感じつつも、俺は落ち着いていた。
 記憶を思い出すたびにジワジワと染み込んでくるように悲しさも辛さも感じる。
 けど、耐えられないほどじゃない。
 だってそうだ。
 目の前に居る2人が、1年もかけて薄めてくれたのだから――――

「……さてと、それじゃちょっと行ってくる」
「行くって、どこにですか?」
「The World。記憶を失ってたときのことを思い出したらさ、……どうしても謝っておきたい奴のことも思い出しちまったんだ」

――――……ウチって、ダレなんやろ?

 そう、その言葉の意味が。今なら分かるから。
 アイツだけは俺が助けてやらなきゃいけない。
 今まで助けられてばかりだった俺だからこそ、アイツの苦しみも、アイツの救い方も、分かるのだから。
 そして何より、あいつが……。
 
「それにしたって、もうちょっとゆっくりしてから行ってもいいんじゃないですか? 空さんだって大変だったのに」
「だからこそ、今大変な奴を放っておけないんだよ。……悪いっ」
「あっ」

 休憩もそこそこ、制止の声も聞かず、我ながら落第点の行動だと思った。
 だけどいてもたってもいられずに部屋を飛び出して自室に駆けていく。
 背中越しに、心配そうな顔をしている真菜に謝りながら。
 それでもなお早くと。

「……行っちゃった、か」

 最後に聞こえたのはそんな残念そうな声まで。
 ごめん。






「追わぬのか」
「……追えないよ」













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        『紫紺の夢』
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 パソコンを起動させてみると、あの長いようで短い時間の間にメールが一通届いていた。
 差出人の名前は……『ニア』
 件名は『待っています』となっている。
 俺は内容を確認するとすぐに世界へとログインした。
 





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 ……その空は、紫色をしていた。



 全身真っ青な俺のキャラを包み込むかのように、雄大な空がどこまでもどこまでも広がっている。
 紫紺の空は黄昏と夜の挟間に引かれたカーテンのよう。
 目にも心にも優しく、そして懐かしい感じのする空。
 現実と違いそれは永遠の標本だけど、まるで本物と見違えるほどそれは美しく、俺の心を惹いて止まない。
 今でなければ。
 そこは誰もいない高山の山頂のエリア。
 その頂に、純白の衣装を纏ったニアは全身を紫に染められながら待っていた。

「空……? 意外と早かったね、こんな時間やからまだ見てないかと思ってたのに」
「その割にはニアはもういるじゃないか。……もしかして、俺が来なかったらずっと待つ気だったのか?」
「まぁ、な。……ウチ、空が好きやから。待ってても飽きへんし」

 曖昧なニュアンスで聞こえるその言葉にドキリとする。
 ただ、それと同時に……ニアが自暴自棄に過ぎるように見える。

「話したいことが有るって書いてあったけど……、何の用事だったんだ?」
「空……ウチの言うこと、信じてくれるか?」
「ああ。嘘を言ってたのはどっちか……ついさっき嫌ってほど思い知った」

 そう、今なら。
 ニアは絶対に嘘をつかない、むしろつけないぐらいなのだと分かっている。

「ウチね、人間やないんや」

 ただ、その口からこぼれ出た言葉は……嘘いかん以前に現実離れしていた。
 あまりにも唐突過ぎて。
 しかしあまりにも悲しみの篭った声がただひたすらにそれが本当なのだと訴え続けている。
 
「"天使"ってゆうらしい。……人の心の声を聞き届け、その心中での願いを叶える。背には翼を持ち、何処の、誰の願いでも叶える宿命を持つ」
「ちょ……なんだよそれ」
「元は放浪AIゆう世界の因子の一つだったらしいけど、それがウチのPCと融合してもうてな。もうリアルにも帰れへん、もう人間でもあらへん。ウチはこの世界に取り込まれた生きたプログラムになってしもうたんや」

 真実を前提にして語られる幻想。
 そうとしか思えないそれは、ニアを見ている限り嫌って程本当なのだと思い知らされた。
 ニアがいつも1人にしているような妙な雰囲気をしていたのはこのせいなのだと。
 簡単に言うけど、簡単じゃない。
 俺が自分でも知らないうちについていた嘘を見破ったのは、人の心の声を聞くという"天使"の力によるものなのだろう。
 けどそれって……とんでもなく辛いものなんじゃないだろうか。
 人の心の声を聞き続けるなんて、人間が勤めて出さないようにしている汚れた部分を知り続けるのと同じだ。
 それに、もうリアルに帰れないって……。

――――天子の羽根を捨てる方法、それを探しとったんや

 ……そうか、だからあんなことを。

「ウチは人間になりたい、こんな翼……ほんまは嫌いなんや」
「だから、いっぱい人様の役に立って、いっぱいそれを神様に見てもらって。……今度こそ、今度こそ人間として生まれたいねん……」
「な、……なんだよそれっ! 今度こそって……それ、もう諦めてるのかよ」
「……うん」
「なんで」
「ウチ……もう、ダメみたいなんや」
「バカヤロウッ!! ダメってなんだよっ!! 天使だかなんだか知らないけどなっ、なった方法が有るなら帰る方法だってあるだろっ!!」

 ……ああ、だからなんでそこで。
 笑うんだよお前は。

「いっぺん、お礼が言いたかった」
「………」
「間に合った、……最後に空に会えてよかった」
「………」

 瞳に涙を溜めて笑うアイツに、俺はなんて台詞を吐けばいい。
 救える? ……どうやって。
 助ける? ……どうやって。
 世界のことを知らず、世界を動かす力も持たず、天使なんてものを理解すら出来ない俺に……何ができて、何が言える。
 記憶についてならまだ何かいえる、けど今のニアに誰が何を語れるというんだ。知ったような口だけは叩きたくない。
 アイツは泣きながら笑っている。
 俺の隣で、肌が触れ合うほど近く、恐ろしく遠く。
 アメジストのような紫の空を、一緒に見上げている。

「ウチね、こんなだから誰にも相手にされへんかった。いっつも一人ぼっちや、1人遊びの達人やった、いっつも……。だからお母さんには心配かけてばっかで、ホントだめな子供やった……」

 過去を懐かしむように彼女は言った。
 そして、俺の方を振り返る。

「空だけなんや、ウチを仲間に入れてくれたのは」
「……たまたまだよ、たまたま」

 そっぽを向く俺に向かってあいつは笑っている。
 本当に幸せそうに。
 ……くそ、心の声が聞こえるってのは意外と厄介だ。

「あの時は笑えへんかったけど、ホントは嬉しかったんやで?」
「ホントは。嬉しくて、嬉しくて。泣きそうなくらいやったのに……それやのにウチってば白状で。ホントに嬉しかったのに……なんで言えへんかったんやろな」

 ……ふわり。


「空……、ありがとう」


 羽のように軽い体が、俺の体を抱きしめた。
 何かを確かめるように腕に力を込めて、話したくないと甘えるように長く。
 泣き顔を見せたくないと胸に顔を埋めた。
 その体温を、感覚を、感じられないのが悔しいけれど。気持ちだけは……はっきりと感じることが出来た。
 されどそれは紫紺の夢。
 俺の腕が抱き返すよりも早く、その体はするりと離れていく。

「ぁ……」

 懺悔をするかのように言葉を紡ぐと、ニアはそこから一歩を踏み出した。
 ここは山の頂、一歩先は見えない壁に遮られた断崖絶壁だ。
 つまり、足場がない。
 ニアは紫の空へと歩みだした。

「……ウチのこと、忘れんでくれると嬉しいな」
「ニアッ!!」

 飛び出して伸ばそうとした手は、プログラムと言う名の見えない壁に阻まれた。
 俺という存在では、この世界を変えることなど出来ないと、宣告されるかのように。
 叫んだ。
 
「止めろ、……行くなぁっ!!」
「空の気持ち……痛いほど分かる、聞こえてしまう。けど、かんにんな、……答えられへん。ウチも同じ気持ちだけど……口にしたら空を縛ってしまいそうだから」
「そんなのお前が気にするなよっ!! 俺は―――」

 叫ぼうとした口は、"向こう側"から伸びたニアの手がそっと塞いだ。
 その背には……身長を優に超えるほどの大きな純白の翼。
 紫の空に潔白の羽がコントラストを描き、舞う。
 崖の上に立つ俺と、空の中に舞うニア。
 そしてその間を隔てる見えない壁。
 その向こう側で……最後までアイツは微笑んでいた。
 幸せそうに、辛そうに、思い残すかのように俺の目を見つめながら。
 泣きながら、微笑んでいた。



「だから空。さよならと。ありがとうと。……ごめんなさいや」



 ――バサリッ。
 視界を覆うように純白の何かが俺の前で羽ばたいた。
 そしてその次の瞬間。
 一枚の羽を残して……ニアの姿は消えていた。
 目の前にはもう、あいつの教えてくれた空しか――――


「…………バカヤロォォォォォォォォォォォォッッ!!!!!」


 ナニに向かって叫んだのか。
 見えない壁に向かって拳を、叩きつけた。
 嗚咽、憤怒、憐憫、伝わっているのに結ばれることの無い気持ちにたまらなく腹が立つ。
 無知は罪……誰の言葉だったか。
 どうやったらこの壁の向こうに行けるのか、それすらも分からない俺自身の無知が許せない。
 空を、見上げる。



 アイツ、最後まで笑っていたな。
 ありがとう、って。





――――――――−−--







 それからの俺は、見ていられないものだったらしい。
 食事も喉を通らず覇気も無く……っと言ってて虚しくなるぐらいだ。
 ただ心配だけはかけまいと無理して笑ってばかりいたのだけど、それが余計に2人を心配させていたらしい。
 そんな生活が幾日か続いた。
 まぁ、あの話を聞いた後なのだから心配させてしまうのも当然といえばそうなのだが。
 俺の記憶が原因だと思われていては2人が自分のせいだと気負いかねない。
 散々迷った末。
 俺は、ニアのことを2人に話した。そして真っ先に真菜が切り返してきた。

「ニアさんを探してあげてくださいっ!!!」
「お、おう」

 そんなことは分かってるしやってもいるんだが、思わず真菜の剣幕にたじろいでしまった。
 腹立たしいのは分かるが真菜がここまで怒るとは思わなかった。
 貴輔の方は相変わらず冷静に物を考えているが、その表情は芳しくない。

「絶対です、絶対見つけて助けてあげなきゃダメですっ!! だってニアさんは空さんを待ってます、ありがとうより言いたい言葉があったはずですっ!! だからっ――」
「落ち着け真菜、空は既に探しているといっただろう」
「ぅぅ、でも。……でもっ」

 兄に抑えられて少し抵抗する。
 本当にこの子は人の為に泣いてばかりだ、それも必死に。 
 
「分かった、すぐにでももう一回探してみる。諦めたりはしない」
「分かってるだけじゃダメですからね。……伝えてあげないと」
「大丈夫だよ。今、勇気を貰ったから」

 真菜の言葉に背中を押されるようにして、俺はもう何度目になるかすらも分からないニアの捜索に出かけていく。
 部活も休み、寝る間も削り、ただ諦めないと追い続けるために。
 またしても集まっていた貴輔の部屋から、出て行く。
 自分も言いたい言葉があるはずの……真菜を残して。
 自分の部屋に戻っていった。





「……これで、良かったんだよね」
「まだ間に合うかもしれんぞ。いいのか?」
「無理だよ、だって。一度傾いた天秤は、……もう、戻らないんだから」







 パソコンの前に座り、スイッチを入れながら1つ決めた。
 ニアは……最後にありがとうといった。
 だけどそれは受け取ることの出来ない言葉だ。


 だから、それを突き返しに行ってやると。
 ありがとうを、言い返してやろうと決めた。
 いや、それを100倍にした言葉に秘めて言ってやるのだと。




 パソコンの電源が入り、The Worldを立ち上げる。
 そして自動的にチェックされるメール欄を見て、天啓のように1つの言葉を思い出した。
 差出人は、逆月。



――――私はこれにて失礼致します。真実を知ってなお翼を求められるのでしたら、"喪われた地"で再会いたしましょう。






(……次回、最終話)


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……色々と、次回がまだ残ってるってのに燃え尽きてる私がいます。
シリアスすぎて死ねるかと思った。頭の大半がネタ回路で出来ている人間にしてはちょっと重労働だったようです。
ただその分、頑張った実感だけはあります。
私は散々恋愛物が苦手だと言ってきましたが、最後の最後で、それが克服できればいいなと。
少しだけ気合の入った物語……。
青臭いかもしれませんが、楽しんでいただけたならば幸いです。