<己が名>










 俺は、幸せだったけど、不幸な人間だ。



 親父の広い背中を追いかけて、いっつも全速力だったからたまに転んで怪我して、その度に母親の優しさに癒された。
 そんな毎日が楽しかった。
 弟の幸樹は愚直なぐらい素直で人を信用しすぎるやつで、素直すぎて周りからよく泣かされていたけど……可愛い奴だった。
 俺が守ってやらなきゃって思った。
 笑顔の絶えなかった食卓、たまに兄弟喧嘩をしては下された拳骨、週末にはいつもどっかに遊びに連れて行ってもらったっけ。お握りの味は格別だった。
 いつも、毎日が楽しかった。
 あの日あの時、あの事故で全てを失うまでは……。
 俺は確実に幸せだった、きっと誰よりも。


 酷い事故だった。
 車はグシャグシャで、ぶつかってきたトラックは派手に凹んでるだけで、運転手が土下座して「死んでお詫びします」とかわけの分からないことを言ってて。
 全力で、何もかもに首を振った。


 『交通事故』で、俺は自分以外の全てを失った。
 いや、唯一残った自分ですらその時に――――


 それでも残ったものはと言えば、保険金と財産と言う名の金ばかりだった。もしかしたら一生暮らしには困らないかもしれないほどの量の。
 ただ、心には何も無い。体は満たされ切っているのに、心は干上がった砂漠みたいにカラカラになった。
 泣き過ぎたから、水がなくなってしまったのかな。
 本来砂漠の中のオアシスになるはずだった"思い出"さえ、俺にはかすれてしか思い出せない。

 
 枯渇した世界。
 干上がった心。


 美しかった両親との記憶、弟と過ごした楽しかった日々。
 そんな日々を無理やり、無理やり、無理やり思い出そうとして。
 溺れて助けを求める人間のように必死に助け(思い出)を求めて。


 ―――ブチンッ、と、記憶の映像は途切れた。


 ………なんでだ?
 ……思い出が、思い出せない……。

 ………あ、あ…れ……?


 ―――ザーーー、ザザッ、ガッ……ザザァ――――


 ジャミング。
 それは夢なのか、はたまた悪夢なのか。それとも全く違う無関係な雑音なのか。

「………んて、|〜−いら=@ない。消え}'〜|、糞餓鬼…{}'…」

 思い出に浸ろうとした頭に"余分なもの"が映され始める。
 あれは―――だ。

「出て」@¥^…け。……{{''P……違う〜−¥0は――じゃない」

 それは誰かを―――する――の姿。
 雑音と虚像が跳梁跋扈する脳内の画面に、"要らないもの"が映りだす。
 ――が俺を―った。
 少しずつ、鮮明に。

「…》{〜出来損/*90*¥」

 真っ赤なソレは―――だった。
 そのとき俺は。

 ………止めろ。そんなもの、イラナイ。
ジャミング      
        雑音
 ………止めろ。そんなもの、ミセルナ。

  イラナイ、ミセルナ。

 ………俺は、違う。











         「赦さない」










 その映像は、なんて――――






「っ!!!!!!! ―――っはぁぁ!!! ………ハァッ!! ………ハァ、……………はぁぁ」

 
 全身のバネを総動員して跳ね起きた。布団が、ガバリと足元に落ちる。
 部屋は当然のように暗く視界は真っ黒、カーテン越しに差し込む夜景の明かりだけがほんの僅かに空の体を照らしている。 ――井端空、リアルでも同じ名前。
 だから、暗くても見えた。
 額からぽたぽたと落ちた嫌な汗に濡れ、千切れんばかりに己の胸を掻き毟っていた手の存在が。爪が割れていた。

「ハ――――ぁ……。………また、あの夢か」

 汗をぬぐい、外れていたパジャマのボタンを掛けなおす。その手は、何か途轍もなく恐ろしいものを見たかのように震えていた。
 ……そして深く、深呼吸した。
 少しだけ、暴れていた心が静寂を取り戻す。

「まったく、いい夢見てたんだからそのまま浸らせろよな……はぁ…」

 いい夢を見ているとたまにこんなことが起こる……いい夢を、懐かしい記憶を、理不尽すぎるほど唐突に悪夢が食い尽くすのだ。
 どんな悪夢かは覚えていない。しかしそれは、確実に空を蝕むものだった。
 夢を食いつぶす夢を見るたびに現実の俺が少しずつ欠けていって、どこか壊れていくような気分になる。
 だがどこかで……それを理解してもいた。
 空は確かに事故で両親と弟を失った、深く深い心の傷を負っているのだ。その傷が疼いているのだろう。
 ……祖父母も逝っていた為に友人の家に引き取られることになった。
 それがまだ1年前の話だ、完全に吹っ切れたといえば、嘘になるのだろう。彼はどこかで。
 いや、もう表面上は全く気にしていない。実生活で悲しむことなんて無いなっていた。
 ……ただ、この夢だけはずっと、心の裡の痛みを訴え続けるのだろう。
 深い傷痕として、一生。

「……貴輔や真菜にだけは見せるわけにはいかないな、こんな顔」

 ふと鏡台を覗き込んで、そんな言葉を漏らす。
 ORZのプレイヤー……親友である英(はなぶさ)貴輔(きすけ)とその妹である真菜(まな)は、自分たちの両親に懇願して事故で家族を失った空を引き取るよう説得してくれた。
 空には親戚が居なかったわけじゃないが、親しい親戚など居なかったし皆東京に住んでいた。……因みに此処は北海道だ。
 二人は遠くの親戚に引き取られるよりも家に来たほうが良いはずだと言ってくれたのだ。
 そしてそれは現実のものになる。
 その親戚も空の意思を尊重してくれ、英の両親もそれを受け入れてくれたのだ。
 それは空に残された金の力なのか、引き取ると叫んでくれた友情の力なのか、……きっとどちらでもあるのだろう。
 空はこうして……友人の家に居候している。だからそれは友情の成した奇跡であるのかもしれない。
 だから……。

「だから、心配かけないようにしなきゃな」
 
 そうとなったら気合を入れて二度寝だ! と。
 ……自分に言い聞かせ、空は弾き飛ばした布団を引き寄せた。そしてバフリと再び布団の中に潜りこむ。
 寝ると決めた。
 昔のことなんて忘れろ、悪夢なんて慣れてるだろう、と。羊の代わりに唱えながら。
 今の自分は井端(いばた)空(そら)ではなく、英空になった気でいようと。懸命に。
 瞼を閉じる。
 この家はとても暖かい、だからきっと時を置かずに眠れることだろう。





 ………そしてまた夢に落ちてゆく。





 その夢は、何故か背景が薔薇だった。
 天はピンク色、空気もピンク色、地面の変わりに怪しげなシーツが敷いてある。
 その中心に居るのは何を隠そう、赤帯を締めた道着姿のORZと、蒼穹の如き全身の空である。
 ゲームの中の姿であるはずの2人が、何故か現実の体となって動いていた。
 そして何故か跪いている空。
 そして何故か楽しげに空を跪かせているORZ、その逞しい体がそれに比べれば華奢な空の体に近付いていく。
 空のその顎をORZが持ち上げる、……鼻が触れ合いそうなほどお互いの顔が引き寄せられた。空の青い瞳に、否応なしにORZの真紅の瞳が映る。

 
「空……お前に一つ、大事なことを言わねばならん。とても、大事なことをだ」
「お、ORZ……?」

 ORZは薔薇なんて咥えてるくせに饒舌に喋っている。
 いつもならそんなことをされたら問答無用で巨剣で叩っ切る空だが……何故か、このときだけは抵抗できなかった。心に何かが詰まったようなもどかしさ。
 瞳の中のORZが怪しく笑みを零す。

「空、お前のことが……」
「な……なに、を………」

 フッ、と……笑みを深めるORZ。
 否応無く空の頬は何故か上気し。瞳は驚くように見開かれ、さらに顔が近付いて。

「おお、セニョリータ! 愛しき君! 君のハートをボクの口付けと交換してくれないかい? お望みならボクの全てを君に捧げてもいい。ンマッ」
「………」





 ――――空は、この身に宿った全ての力と意思と根性を賭して、その幻想(あくむ)を打ち破った。
(イメージイラスト→http://www5f.biglobe.ne.jp/~feud/sasi03.jpg





「……ぎゃわああああああっっ!!!!!!!」

 全身のバネを総動員して跳ね起きた。勢いでそのままジャンプして逆立ちしてでんぐり返して阿波踊りを2分ほど続ける。
 つまりわけが分からない。

「あんぎゃぁぁあああ!!!! うっぎゃぁぁあああっっ!!!!!!!」

 布団が、ガバリと足元に落ちる。
 まる背中に蜂でも迷い込んできたかのような飛び跳ねようが、見ている分には愉快だ。
 腕立て伏せをして腹筋をしてそのままスクワットを何回も全力で飛びまくる。
 しかし本人はこの上なく真剣だった。

 ……あまりにも夢に見たものの衝撃が大きすぎて奇怪な行動に走る空であった。とにかく一刻でも早くこの不吉な気分をぶっ飛ばしたいらしい。
 ガツーン、と額を自らの拳で殴る。

「―――っっはぁぁあああ!! はぁぁ!! ……はぁぁ。夢、夢だよな、夢だっ! 夢。ハ、ハハ……」

 大きく、とても大きく深呼吸した。眠気を散らして夢なんてものの残滓を全て綺麗に抜き取ってやろうと。
 荒い息を整える。
 そして誓った、夢の神様なんてものが居たら絶対に呪ってやると。
 ……夜中なんて比ではない位に汗でびっしょりだった。
 自分が知る中で、アレは最強最悪の夢だった。
 と、そこにドタトタと階段を駆け上ってくる音が聞こえる。そして間髪居れずにノックも無く扉が開け放たれた。

「ど、どうしたのだ空っ!? 曲者かっ、こそ泥でも出おったかっ!?」

 それは貴輔……ORZのプレイヤーその人であった。
 異変を感じ取った友人が突入してきたのだ。……貴輔はリアルでもあの口調である。

「うをおおおおおおっっ、出てきたのはお前だバカモノーーーっ!! 俺の……俺の純白の青春を返せぇぇぇーーーっ!!! ORZルートなんて必要ねぇえぇぇぇええっっ!!!?」
「ガハッ!?」

 入ってきた瞬間全力で空手チョップを脳天に見舞う空、不意打ちのお陰で剣道部副主将の男であろうと脳天にクリーンヒット! 
 ☆がビミョーンと撒き散らされた。実に分かりやすく激しい威力だ。
 で、それに涙目で抗議の声が上がる。

「な、まだボケてもいないのに突っ込むでないっ!? そんなに突っ込みたいか空っ、それは時期尚早というものだぞ! そもそも青い春と書いて『青春』であるのに純白とは矛盾しておるではないかっ!!」
「ええいうるさいっ、俺の夢を薔薇色の悪夢へと変えやがってこの夢魔ぁぁぁ!!!」
「ワケが分からんがつまり夢の中の俺様がとても素敵だったと言うことだなっ! 流石俺っ!!」
「何故そこで威張るっ!!」

 お互い暑苦しいパジャマ姿の男どもが朝っぱらから妙な言い合いをしていた。
 が、別段珍しいことでもない。
 とりあえず、それは英家のいつもの朝であった。
 因みに空は世間一般的な高校生のイメージ通りの体格と容姿をしているが、貴輔はかなり背も高く体格もいい。女の子にはちょっと見せられない光景かもしれない。
 ……と、その時、今にも枕投げが始まりかねない緊張感を破ってドアの向こうの1階から苛立った声が響いた。

「あーーーもーーっ!! お兄ちゃん達朝っぱらから何を騒いでるのっ!? 静かにしなさい! 着替えなさい! そしてご飯を食べて学校に行きなさーい!」
「「は、はいっ!」」

 それは1階の台所で朝餉(あさげ)を用意していたのであろう真菜の声だ。普段は大人しく控えめな彼女なのだが、それだけに怒らせると誰よりも恐ろしい。
 これ以上続けたら朝餉の命は無い。
 ……男ども約2名はイソイソと着替えて登校の準備をして食卓へと向かったのだった。
 海よりも深く山よりも高く反省しながら。
 でもやっぱり明日になったら同じようなことするんだろうなと、運命染みたものを感じながら。
 因みに本日は土曜日、登校と言っても部活のためである。2人は剣道部に所属していた。



 ――朝食はいつも真菜が用意している。昼食のお弁当もだ。
 英家の両親は共働きで2人とも朝は仕事柄途轍もなく早い、そのため朝食を用意している時間が無いのである。
 最初はそれでも母親が簡単なものを用意するか時間が無いとお金だけでも置いていっていたのだが、いつの間にか夕飯以外は真菜が作るようになっていた。
 真菜は昔から料理が好きだったから、それは自然な流れだったのかもしれない。
 彼女は料理を楽しんでいる、それだけに腕も一流だ。誰もまずいと不満を漏らしたことは無い。……ただ、だからこそちゃんと食べないと凄く怒られるわけだが。
 ……そして、いつものように食卓には芳しい匂いが満ちていた。傍らにはエプロン姿で胸を張る真菜。

「今日のメニューはアサリの味噌汁と豆腐の白和え、そして南瓜のサラダです! 残さず食べてね」
「うむ、残すと夕飯のピーマンが5割増えるという暴挙が待っているからな。残さず食べるとしよう」
「問題ないだろ、今日も美味そうだ。いただきまーす!」

 常人より遥かによく食べる2人に囲まれて楽しそうにしているエプロン姿の少女……それが英(はなぶさ)真菜(まな)、貴輔と同じ血筋とは思えないしっかりものである。
 貴輔とは血の繋がった兄妹ではあるが、実に似ていなく可愛らしい。
 ただやはり血筋ではあるらしく貴輔と同じく髪は亜麻色で、それでいて鋼のような貴輔の髪とは違いそれはしっとりと首筋に流れている。額で髪を纏めている桔梗のヘアピンがトレードマークだ。
 歳はあと少しで15歳になる、中学3年。兄達より2つ下だ。
 その割に背丈は小柄で線も細く本人も非常に発育が悪いことをかなり気にしているのだが、その実スポーツ万能で頭も良く何をやらしても上手いという型破り。実に誠実な人柄で、それだけに怒らせると精神肉体両面から攻められるという怖さを持っている。
 因みにエプロンの柄は白地にイチゴ、小学校以来愛用している伝説のエプロンである。これをつけている限り家内では最強と噂される。

 居候生活2ヶ月目でお残しをしてそれを思い知らされ、1年目になった今では逆らう気すら起きない男が口を開く。
 
「むむ、このアサリ美味いな。なんていうか味が濃い」
「それはお婆ちゃんが一昨日送って来てくれたんですよ、沢山取れたからって。やっぱりさっきまで生きてたものはスーパーのとは味が違いますよね……あ、砂入ってませんでしたか?」
「いいや、こっちには何も。うん、こっちにはな」

 ズズ…と味噌汁を啜る空、それを見て真菜は良かったと嬉しそうな顔をする。
 だが。

「……真菜ぁ、なんの因果か知らんが俺の方には砂入りが2つも入っておったのだが、ちゃんと潮抜きはしたのか? いざ咀嚼した瞬間に恐ろしく冒涜的にジャリジャリと言うか、貝を開けたらデンジャラスというか、歯が欠ける……」
「あ、ゴメン兄ちゃん! ちゃんと潮抜きはしたんだけどなー……。あ、でも勿体無いから全部飲んでね」
「……俺は時々お前が恐ろしくて仕方無いぞ」

 ズズズー、と味噌汁を飲み干す貴輔。その表情はとても複雑だった。
 故意の罠ではない、そう信じたいところである。
 多分事故なのだろう、やんわりと砂が入ってそうなのを兄に回したりする可能性は否定できないにしても。
 真菜も兄達に続いて味噌汁を頂く。その味に頷き、今度は酒蒸しにしようかな等と思いつつ食事を進めていく……。
 
「真菜、お替りを頼む!」
「あ、それじゃ俺も」

 炊飯ジャーの守護神に貢がれる茶碗が二つ、杓文字(しゃもじ)を持つ少女は厳粛な表情でそれを受け取る。

「じゃ、空さんの方から」
「……なぁ、マイシスターよ。いつも思うんだがその微妙な優先順位の違いはなんなのだ? 空を特別扱いしない、とうるさいのはお前だった筈だが」
「空さんを優先してるわけじゃないの、お父さんやお母さんだって平等に扱うんだから。ただ、お兄ちゃんの優先順位が低いだけよ」

 山盛りのご飯を渡しつつ、しれっと笑顔でそんなことを言うのだから侮れない。ありがとうと受け取る空。
 真菜は将来凄い女性になるんだろうなと、そう思うは男2人の共通認識である。

「何だそんなことかハッハッハ………あー。もしかして、この前不慮の事故で風呂場を覗いてしまったのが祟っておるのか?」
「当然です」
「よし、ならば今度俺の入浴シーンを見せてや――」
「いりま、せん!」

 流石にその提案は変態である。
 飛んできた杓文字が容赦なく貴輔の顔にベタッと天誅を与える、そして「自分で洗ってね」という追い討ちが決まる。
 兄はトボトボと杓文字を洗いにいって戻ってくる。
 ただ、そんな兄だからこそこういう気兼ねの無い扱いをできる、だからこれもよく見ればそれも愛情表現の一つである。
 情け容赦の無い愛情表現だが。

「……ご飯が美味い、しょっぱくて美味いぞ」

 きっと、たぶん、そうであってほしい。




 ……ご飯を食べ終わると流石に時間もギリギリになる。
 2人は手早くスポーツバッグを背負って玄関を駆け抜けていった。

「それじゃあいってきまーす!」
「いってらっしゃい、2人とも」

 それは、何も変わらぬいつもの朝の風景。
 願わくば、ずっと続いてほしい朝。
 けれどこんな日々もいつかは――――

「さてと、洗い物を済ませたら宿題でも片付けよっかな………ん?」

 エプロンの紐を縛り直し気合を入れて台所に向かおうとしたその時、真菜の目に柱時計の下に掛けてあったものが見えた。
 子犬の写真が上面に入っているカレンダーだ。
 子犬は動物好きな真菜の趣味である、というよりこれは真菜が勝ってきたものだ。家事手伝いをやっている真菜は家具を自分で選んでいいと言う権限が与えられている。
 その他食事の献立を決める権限やテレビのチャンネルの支配権すら持っている、……家庭において主婦は最強、それがこの英家のルールだ。
 真菜が積極的に家事をこなすのもこの権限を求めての所が割りと大きかったりする。……それが母親の策略だというのはまた別の話である。
 カレンダーには、今日の日付にマークが入れてあった。

「そっか、今日は」

 お財布の中身を確かめつつ、真菜は今日の予定を変えることにした――――。












 空と貴輔が通う高校の名は『公立・紫格高校』と言う進学校でもなければ荒れた高校でもない、いわゆる平和な学校だ。しかしながら莫大な生徒数を誇るマンモス学校であり、コースの豊富さや部活動の盛んさにおいては定評がある。
 彼らが所属するのはそんな学校の普通科コース『2−B』である。
 そして彼らが今現在汗水流して竹刀を振り回しているのが校舎からかなり離れた場所に後付けの如く建てられた建物、紫格高校武道場『朱雀館』である。
 今日は剣道部が朱雀館を使う日である。休日だというのにしっかりと部活があるだけの活気はあり、人数も50人程度を抱え込んでいる。
 そして、何を隠そうこの剣道部の副主将こそ英貴輔であった。

「ほら腰が入っておらんぞ! 手を振るのではない、体の中心で踏み込み打つのだ!」

 後輩達を叱咤し、適切に指示を飛ばす姿は普段のネタ担当具合を綺麗に忘れさせるほどだ。

「空、何度言えば力み過ぎる癖が直るのだ! 竹刀は心と体に余裕を持って握れ、握り潰しでもするつもりか!」
「押忍!」

 そしてそれは親友を前にしても変わらず……否、だからこそなお厳しく指導する。
 一心に竹刀を振り続ける彼らの汗が、7月を過ぎて容赦なく熱の篭る朱雀館に滴った。
 それでもなお部員達からあがる気合の声は消えない。それはうるさくなり始めた蝉の鳴き声すら弾き返す。
 剣道において声を出すことは基本中の基本である。



 ………さて、そんな灼熱地獄染みた練習もいつかは終る。
 昼を挟んで4時を回った頃合には防具と竹刀を丁寧に片付け、剣道部にも帰宅のときが訪れる。5時からは柔道部が使う予定が入っているのである。
 体操を終えて着替え始めた部員達はざわざわと忙しない。
 女子などいない部活であるから着替えもその場でするのだが、それにしても話し声が絶えない。疲れなど忘れてしまったかのようだ。

 ――今日のインは何時にする?
 ――8時から。今日こそはアリーナで勝ち残ろうぜ。

 まったく、これだけ蒸し暑いというのに高校生とは体力のバケモノだろうか。
 疲れてクタクタだというのにもう次の遊びはどうするかと話題が絶えない、そしてその中で最も多いのがThe Worldの話題であった。
 運動部の間でさえこのゲームは深く広く浸透している。
 それは汗びっしょりの頭をタオルで拭いている空も、顧問と大会の打ち合わせをして戻ってきたばかりの貴輔も例に漏れない。

「さて、空。今日はどこでレベル上げをする? 俺様としてはあの神社のようなエリアに行ってみたいのだがどうだ? あそこは日本人の心をくすぐられる、ニアは夜しか来れぬと言っておったし今のうちに2人で彼女に追いついておこうではないか」
「そうだな、それじゃ帰ったらすぐ……」

 と、そのとき着替えたばかりのズボンのポケットが震えた。
 携帯にメールが届いたようだ。
 ……開いてみると、それは真菜からのメールだった。

「……に、行こうとは思ったんだけどな。悪い、俺は今日は夜からにするわ。急用が出来ちまった」
「む? ならば仕方あるまい、俺様一人でお前を突き放してやろう。ふむふむ、それはそれで面白い」

 気にした様子もなく前向きに対処するのが貴輔のいいところだろうか。彼は何も問わず、空も何も言わずに一足早く先に朱雀館を後にした。
 一応メールには兄には知らせないで欲しいと書いてあったからだ。
 だが貴輔のことである、何も気付かないということは無いだろう。だからこそ空をこうして行かせたのだから。
 
 ……ぶらりとそのまま通学路に着き。
 そして普段は暇つぶしにしか寄らない商店街のほうへ歩いていく空。スポーツバッグをぶらぶらと揺らしながら、心地よい風を受けて火照った体を冷ましていく。
 7月とはいえ風が出ればまだまだ涼しい。

「喫茶店『あみん』かぁ、どのへんだったかな」

 そのメール。
 『招待状』と言う件名で送られてきたそれは、部活が終ったらその喫茶店に来て欲しいという旨が書かれていた。
 場所は知っているが、間違っても行きなれているわけではない。
 なんだかそこに行くことが不自然なことのようで、加えてほんの少し緊張していた。少し迷いそうになり、けれど何とか到着する。

「……むむ」

 『あみん』と言う控えめだが洒落た看板が目に入る、そしてその前で石像のように立ち尽くした。
 喫茶店なんて殆ど入ったことの無い空である、例え呼び出し主が真菜でもちょっとばかり緊張するというものだ。
 ……いや、呼び出したのが貴輔であったのならばここまで緊張はしない。
 真菜だから、それは原因の一つだった。
 一年間共に過ごした、血は繋がってないが今では本物の妹のように思えるし彼女も親しくしてくれる、しかし――――
 どうにも、2人だけで会うというのは気恥ずかしい。
 貴輔が居れば彼女は妹なのだ、家族の役割がある。しかし2人だけ、しかも家の外となると話は別になってくる。
 慣れた慣れた思っても、真菜が他の女子よりも遥かに親しく、そして愛らしい女の子であることに変わりは無いのだ。可愛さで言えば抜群だろう、どこの絵画から抜け出してきたと言いたくなるほどだ。
 激しい運動をした後の動悸が中々収まらない。
 せめて汗だけは何とかしようとタオルで拭き、コールドスプレーを撒き散らした。この際乱れた髪形は諦めよう、元々短いのだからさほど変わりは無いのだし。

「ぃよし」
 
 何故か戦場にでも赴くかのような面持ちで、空はその喫茶店に踏み込んだ。
 冷やりと体を冷ますきつめの冷房。
 ……観葉植物が映える洒落た内装に、別世界にでも踏み込んだのではないかと思わされるシックなBGM。ついでに言えば飛びきり美人なウェイトレスさんも目に入る。極め付けに、ガラスケースの中にずらりと並べられた色取り取りのデザートなどもはや理解の範疇を超えていた。
 言いえて妙であった。
 一剣道部員(たいりょくばか)にとって、そこが戦場以外の何物であるはずもないのだから。
 その戦場の名は『あみん』と言った。



 ウェイトレスさんに案内され、空は軽く手を振りつつ真菜の待つ席の向かいへと座った。
 待っていたのは真菜、肩の見えるキャミソールドレスワンピースに太ももを覆うレギンスと薄着だったので少しドキリとしたが真菜だ。
 会ってみれば、少し落ち着いた。

「部活動お疲れ様です空さん。……お兄ちゃん何か変なことしてませんでしたか?」
「あっちではあいつは俺以上に真面目だよ、俺なんて叱られてばっかりだった。竹刀持つと雰囲気変わるよなあいつって」
「あ、なら。……いいんですけど」

 もじもじと言いにくそうに言葉を濁す真菜。
 聞かれたから答えたが、空以上に貴輔がそういう性格だと知っているはずだ。
 だから、言いたいことは他にあるのだろう。
 あの……とか、その……で言葉が切れてしまう。そういった姿は可愛らしくもあるのだけど、同時に貴輔へのハキハキした態度も知っているだけに寂しくもあった。
 お互い心は開いてるけど、何か薄皮一枚で隔てられているんだと。

「それで、『招待状』って何の?」
「あ、それは『一周年記念』なんです」
「え? 一周年ってなんの」

 はて、七夕は過ぎてしまったし今日は何かのイベントがある日だっただろうか?
 空には思い当たるところはまるでなかったのだが、真菜は当然のように言った。

「忘れちゃったんですか? 今日は空さんが私達の家に来た日から数えて丁度一周年なんです。もう、空さんが家族になった大事な日なんですから忘れないでくださいよね」
「あっ、そういえば! ……そうなんだ、よく覚えててくれたな」
「当然です! 大事な日なんですから」

 えへんと少し自慢げに言う真菜、こういった心配りは本当に頭が上がらないほど彼女は気が効く。
 そして彼女はこういったささやかな出来事を大切にする性格である。
 誰かと出合った日、何かを失った日、とても感動した日……そういった出来事を逐一大切に記録して覚えている。彼女ほど"思い出"を大切にする人を空は知らない。だから、真菜の管理するカレンダーは予定と思い出が折衷している特別製だった。
 この日を覚えていてくれた。それは胸が温かくなるようで、同時に毛筋ほども覚えていなかった自分が恥ずかしくなる。
 そう、今日でもう1年が経つのだ。
 事故で両親と弟……一緒に居た家族全てを失って空っぽになっていた空が拾われたのが、丁度一年前の1年前の出来事になった。
 あの時は泣き過ぎて何が何だか分からず、いや何が何になろうと構わないと自暴自棄になっていた。
 誰が近付いても噛み付いた。
 手負いの猟犬のように神経を尖らせていた。
 だから始めは貴輔と真菜の提案も必要ないと突っぱねたというのに………、このどうしようも無いお人好したちは噛み付いても噛み付いても諦めずに、手負いの傷を癒そうとしてくれた。
 いつだったか、いつの間にか根負けした日が、今日と言うことだ。

「……だから、今日は私の奢りなんです! パーッと奢られてください!」
「いや、でも仮にも年上の男として奢ってもらうのは」
「夕飯抜きでもいいんですか?」
「ありがたく頂きます」

 ……で、いつの間にか説き伏せられていた。
 真菜は空にはどこか遠慮したところがあるとはいえ、自分が正しいと思うことは頑としても曲げないのだ。そのくせ相手を屈服させるのが鬼才染みて上手い。






























 いつかの空もこうやって居候することを飲まされたのだった。
 それを思い出して、空は小さく笑みを漏らした。
 ―――ああ、負けて本当に良かった。と。

「どうしたんですか?」
「いや、嬉しくて。……ああ、けど今度の真菜の誕生日は俺が奢るからな? やられっぱなしってわけには行かないんだから」

 これでお会いこだと言い張ると、真菜は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ふふ、それじゃあ楽しみにしてますね。あ、オーダーお願いしまーす! イタリアンジェラードのキャラメルパフェとチョコレートパフェにスペシャルデザートセットとストロベリーヨーグルトにカプチーノを!」
「へ……? あ、俺はアイスコーヒーを……」

 カタカナの多さに圧倒された。なんだろう、アレはどこか異郷の地の言葉だろうか。
 ……そしてその量の注文、この2人のいったいどこに収納されるというのだろう? 今の、軽く見積もってこの丸テーブルの7割は埋まる量である。加えて高さもある。
 いや、好きなものだけ食べて残すという選択肢もあるのだろうが、真菜の前ではそんな選択肢は灰となって消える。お残しは外食でも許されない。
 空とて甘いものは嫌いではないが、それだけでテーブルの殆どが埋め尽くされると思うと流石に食べきれる自信は無い。
 今知りたいのは、あの注文のいったい何割が自分の分かと言う一点のみだった。
 
 






 ………5割だった………






(イメージイラスト→http://www5f.biglobe.ne.jp/~feud/sasi04.jpg
 胃の中が砂糖とその他の成分で染まりきる、きっと部活で消費した分を差し引いても3倍ぐらい余るだろう。イチゴを合計10個も食べたのなんて生涯で初めての経験だ。
 それでも、それでも何とか、食べきった。
 男の意地と言うやつだ、真菜が苦もなく食べてしまった量を自分が食べきらないわけにはいかない。だから食べきった、いや丁度空腹だったしまだ余裕もある。
 ……けれど。
 その後にお残しの許されない夕食が待っていると思うと、やりきれない空であった。

「……ふぅ、こんなにデザートを食べたのは初めてだ」
「でしょ? よかった、この日の為に頑張ってお小遣いを貯めてたんですから。空さんに喜んでもらえたなら一葉さんも報われます」
「あ、ああ、うん。いい経験になった、一様さんにも感謝だ」

 ニコニコと笑顔の真菜の前で頷く。
 世の中には色んな食事があるのだと、とても深く見聞が広まったというものである。いやもちろん美味しかったのだけど。
 今夜はケーキの海で溺れる夢を見るに違いないと、空は悟った。

「凄く美味しかった、今度貴輔のやつも道づ……教えてやら無いとな」

 甘党と敵対する政党に所属するあいつのことだ、さぞや面白い反応をしてくれるに違いない。
 お替りしたコーヒーを傾ける。

「それで、俺に何か話したいことが有ったんじゃないのか?」
「え……ぁ、はい」

 話しを戻す。
 真菜は最初空に何かを言おうとしていた、きっと一周年と言うのはそれを言うための口実だろう。
 この日は大事な日だとは空も思っている。
 ただ、貴輔を人払いしたのには意味があるはずだった。
 
「実は……」

 少し俯き加減に視線を泳がし……それも一瞬のこと、真菜は何かを決意したかのように顔を上げる。
 そして空に目を合わせて離さない。大きな瞳が、空の瞳に印象深く残った。

「空さん、私達と……本当の家族になってくれませんか?」
「本当の? ……えっ」

 それを聞いて、噛み締めて意味を理解してからやっと、驚きが全身を打ち倒した。
 居候ではなくしたい、ということか。
 家族じゃないと思ったことは無いし、この小さな壁もいつかなくして見せるとは思っている。
 だけど真菜が言いたいのはそうじゃなくて、法的な手段でのことだろう。だとすると……。

「え……と……? そ、それはつまり、真菜と……?」
「え――――?」

 ただ、予想したその言葉こそ真菜には意外だったらしく。
 顔から火炎放射でもしかねない勢いでグングンと顔を赤くしていき、やがては真っ赤にした。

「ち、ちちちち違いますっ!? その、今は……じゃない! よ、養子縁組で苗字を英(はなぶさ)に変えないかってことですっ! ことなんですっ!」
「養子……あっ、そ、そうだよなっ! 俺ってば何を恥ずかしい勘違いをしてんだ! ゴメン」

 お互いにわたたたっと真っ赤になりながら傍から見ればかなり面白くゴメンいやこちらこそと謝り合戦を演じ、……やがて不毛だと気付く。
 コホンと咳払いをして、赤い顔のまま話を戻した。

「養子か……けどなんでわざわざ? 俺、名前には拘らないし、今でも真菜たちとは家族だって思ってるけど」
「それは……」

 ――苗字が違うと、いつかあなたが何処かに行ってしまいそうで。
 その言葉は、飲み込む。真菜はジッと空を見つめて話す。

「……その苗字だと昔を思い出しちゃったり、しませんか? 辛い記憶を思い出すのは辛いですし、過去を引き摺ってしまうと思うんです」
「………」

 確かに、それはその通りだった。
 空は今でも過去の悪夢に苛まれ、自分が井端の子供なのだと意識すればするほど胸が痛むのは事実である。
 現に今朝まで、その夢に苛まれた。

「それに苗字が同じになると今よりもっと連帯感が生まれますし、堂々と英の表札の下で暮らせます。垣根がなくなると思うんです」
「けど、そういうのは心の問題じゃないか? 確かに俺はまだ過去を引き摺ってるけど、井端のままでもそれは克服できるし、垣根だって――」
「……あの、ゴメンなさい。だったら、これは私の我が侭です」
「あ……」

 そこまで言われて、空はやっと自分のどうしようもない馬鹿さ加減に気が付いた。
 彼女は確かに自分のために、と言う形で提案してくれた。
 けれど、男ならば気付くべきだ。
 彼女が今でも敬語で喋っている理由と、『さん』をつけている理由を。
 我が侭だと。そう言わせてはいけなかったのだ……自分の無神経さに剣を突き立てたいほど腹が立つ、1年も一緒にいて何故気付かなかった。
 彼女は気配りが出来る人間だ、自分にとっては些細なことにも気になってしまうのだろう。

「……悪ぃ、でもそれは。できない」

 そうと分かってなお、拒絶した。

「……そ、そうですか。そうですよね、急に言われたってそんなこと出来ませんよね。あ、あはは、……ごめんなさい変なこと言い出して」
「いや謝るんなら俺のほうだ、絶対に。真菜は好意でそう言ってくれたんだから謝っちゃだめだ。謝るのは、本当に自分のための我が侭で断った俺なんだから」
「でも」

 目に見えて落ち込んでしまう真菜を見ると心が挫けそうになる。
 だけどこれだけは譲れなかった、だから謝るのは自分のほうだ。

「俺はね、井端家の墓前で誓ったんだ『立派な人間になる』って。立派だった両親のように、そしてそうなるはずだった幸樹の代わりに。……だから俺は『井端空』じゃないといけない」

 この責務は井端の家に捧げるための……生き残った自分に出来るせめてもの慰めだった。
 両親がこうで欲しいと願ったもの、幸樹がこうでありたいと願ったもの。
 その『理想』を叶えることこそ、死者への手向けだと信じている。
 無念を果たすことは出来ない、何が無念だったかなんて聞くことは出来なかったし、恐らく死に際に願ったであろう『生きたい』と言う無念はもう叶えることは出来ない。
 だからせめて家族がたどり着くはずだった明るい未来を、幸せな家族の結末を、こうなりたいと思っていた理想を手にしたい。
 天国の家族が望んでいたものをこの手で掴み取って、いつか自分がクソ爺まで生きて運良く地獄に落ちなかったらあの世でそれを見せてやりたい。
 それはきっと、井端空じゃないと出来ない。

「分かりました、空さんにも今のままで居る理由があるんですね。……うん、分かりました、それは私の我が侭なんかよりずっと重要です」

 どこか悲しそうに真菜は言った。けれど、それはなぜか自分の願いが叶わなかったことに対してではなく、"空の言葉に対して"のように聞こえた。
 なまじ理解力があって頭の回転も早いせいで、反論なんてしない真菜。
 ゴメンなさいとさえ言わなかった、空がさっき謝るなと言ったから。
 その物分りのよさが、空には痛々しく思えた。
 その原因が自分にあるのだから、それはなおのこと己の痛みにもなる。

「ゴメンな譲ってやれなくて。でも、俺が居なくなったら『井端』は消えてしまうからさ」

 両親の想いを、途切れさせたくは無いと。それは絶対に貫くと誓った空が生きる理由だから。
 けど、それとこれとは別なものもある。
 例えば目の前で悲しそうにしている少女に冷たくするのは、空の流儀じゃない。
 何より、譲れないもの以外はなんだって譲ってもいいのだから。
 だから大好きな家族に、空は答える。

「あ、でも今以上に家族になる努力はする! 俺だって真菜ともっと仲良くなりたいんだ。名前なんて気にならないぐらい家族になってやるんだから、遠慮なくいくから覚悟しとけよ?」
「あ……」

 落ち込んでいたところに急に吹きかけられたこの言葉に、ほんの少し目を白黒させ。
 自分が何をしたかったのかを思いた。
 思い出したから答える。

「――はい! 遠慮なくどうぞ! 私も諦め切れませんから努力します、私だってその」

 空の覚悟に比べれば、私の感傷なんて目の上のたんこぶ程度の話でしかない。
 だったらそんなもの、努力次第でどうにでもなるじゃないか。"心の問題"なんだから。

「……空と仲良く、なりたいですから」
「えっ、あ―――うん、サンキュ」

 驚いた顔で妙な礼を返す兄が、妙に可愛かった。
 だから、今日のところはそれで許してあげよう。
 一周年記念のプレゼントは、その実私が貰い受けてしまったみたいだ。説得しにいって説得されてしまったような気もするけど、最後に勝ったのは私なんだから問題ない。
 うん、だけどもう少し……お会計は後にしよう。
 答えは出たのだから、今は一葉さんの出費に見合った報酬を噛み締めていたい。
 こうして彼と顔を突き合わせてお互い真っ赤になる機会なんて滅多に無いんだから、長居して頭に焼き付けたってきっとバチは当たらないだろう。
 何より、こんな幸せな時間をどうして自分から壊せるだろうか。
 そう、唯一の不安にも、それで答えが出た。
 知らず、笑みがこぼれる。

「―――ふふ」
「な、なんだよ真菜、そんなに笑わなくたっていいじゃないか。あ、それとも俺の顔になんか付いてるか? クリームとか」
「いいえー、なーんでもありません」

 唯一の不安……英ではない空は、大人になったらいつか何処かに行ってしまう。この家の人間じゃないから、縛られるものは何も無いから。
 『立派な人間になる』という言葉通りもの凄く勉強しているし、もしかしたら私の手の届かないどこか遠くの大学に行ってしまうかもしれない。そのまま戻ってこないかもしれない。
 それが不安だった、……だけど、答えは出た。


 だったら、いつか私の方から『井端真菜』になってやるんだから、と。



 

 


















 そのころ………。
 貴輔、いや赤帯を締めた拳術士であるORZは予定通り神社のようなエリアにログインしていた。
 体育会系であるこの男は割りと冗談で口にしたことでも有限実行する、そんなわけで容赦なく空を置いてきぼりにしてやるべくソロでレベル上げに来ていた。もちろん、前回の徹を踏んでキオスクのNPCから買えるだけ回復アイテムも買ってある。
 部活をみっちりやってきたせいで体は疲れているが、ゲームは別腹、意気揚々と雑魚中の雑魚たちを一掃してエリアを進んでいく。因みに雑魚中の雑魚で無いと勝てないぐらいのレベルである。
 わざと罠に引っかかってみたり、無性にチムチムを追いかけるのが楽しくてついオーバーキルしてしまったり。
 ムラの多い進み方で進んでいくと……その先に、癖のある赤髪を両サイドでツインテールにしているチマっこい人影が目に付いた。瞳も赤ければ革鎧に刻まれた炎の紋も赤、空とは対照的なカラーリングをしている。
 ジョブは双剣士……先日このORZと空をに襲い掛かってきた、自称PKの奈々々である。
 彼女は何故か物憂げな表情で自分と同じく真っ赤な鳥居に持たれかかっていた。そしてORZに気付いてすら居ないのか「……バカ」などと呟いている。

「……思ったのだが、カオティックPKを目指しておる割には小物狙いだなお主。そのレベルならもう少し格上の相手も望めよう、何故このような低レベルエリアにばかり居るのだ?」
「あたしは、あたしは絶対"最強"に……」

 聞いて、無い。

「おーい、気付いておらんのかー? チムチム投げるぞぉー?」
「へ? あわぁっ!?」

 割と近い位置から枕投げみたいなノリでチムチムを投げつけるORZ、投げられて顔面にクリーンヒットする奈々々。ボカンッと顔を真っ赤に腫らさせながら宙に浮いて地に落ちるチムチム。
 そしてポワッと浮かび上がった光が奈々々に吸い込まれた。なるほど、この場合奈々々に行くらしい。
 奈々々は片手で腫れた顔を摩りながら、もう片手をワナワナと震わせている。頭から湯気でも出てきそうな勢いだ。

「なにすんだこのアンポンタンーッ!!」
「なにすんだ? フム詳しく答えると、お主が呼んでも返事をしなかったのでこちらに気付かせてやろうとスキルでも使おうかと思ったのだが、それでは芸が無いと思いたまたま近くに居たチムチムをぶつけてみたら何か面白いことになるに違いないとこの明晰な頭脳で一瞬で判断し可愛そうではあったが御免とチムチムを掴んで放り投げてみた、と言うわけだが」

 アンポンタンとは心外だな、などと言いながら『なにすんだ』と言う問いにぺらぺらと実に無駄なほど詳しく説明するORZ。
 昔から口だけは口八丁である、真菜と相当数の舌戦を交えてきたからだろう。
 間違いなくおちょくっている。
 が、この攻撃は割りと奈々々の弱点を突いていたらしく、ごちゃごちゃした言葉に怒りがかき乱されたような顔をしていた。

「ぅ……な、なにしたか説明しすぎだ、……バカ」

 難しいことは苦手らしい。恐らく活字を読んでいると眠くなるタイプだろう。

「フッ、からかい甲斐があるなお嬢さんは。いや愉快愉快」
「……ってあんたはこの前のゴキブリ男! またあたしの邪魔をしに来たのかっ!?」

 一瞬で抜刀した双剣が左右から鋭くORZの胸を裂いた、鋭く鮮やかな一撃だったがそろそろ反撃して来るだろうなと予想していたORZはそれを紙一重で避ける。
 此処に来て漸くORZの存在を認めたらしい。そして、認めたからには即PKであるらしかった。
 ORZはバックステップを踏みながらその赤い瞳と目を合わせる。そこには、少女の顔に相応しくないような激情の炎が宿っていた。

「待て待て! 倒されるのは吝かではない、だがせめて理由ぐらい聞かせてくれんか? なぜお主はこんなレベルの低いエリアでカオティックPKなどを目指しておるのだ? あれはより高レベルなPCをより多くキルしてこそなれるものだと聞いているが」
「…………」

 双剣を構えたまま黙り込む奈々々。
 これには深い、喋ることすら適わぬ理由があると言うのか。

「………そ、そうだったの? てっきりただ倒した数の多さなんじゃないかと」

 あったのは、喋ったら恥ずかしい理由だった。

「数も大事だが強さも大事だ、現存のカオティックPKを自分で倒せばさらに可能性も開けよう。こんなところで遊んでないでレベル上げをして上を目指すべきだと思うが」
「……ぅ、うるさい! とにかく足しにはなるんだから今はあんただけでも倒す!」

 そしてあえなく説得は失敗する。
 このまま言いくるめてご退場願おうという腹のORZであったが、流石に奈々々もそこまでバカではないようだ。恥ずかしさを隠すかのように剣を突きつけてくる。
 そして、まずいことに冷静に対処されるとORZに勝ち目は全く無い。
 レベルで言えば20は違うのだ、ここは大人しく倒されておくべきだろうか。
 なんとなく、この真面目にPKを続けようとする少女の邪魔をするのも申し訳ない気がした。

「フッ、仕方あるまい」
「もう降参したって許してあげないんだからね、……覚悟っ!」

 疾風のように踏み込み、双剣……竜のレリーフの刻まれた1対のレイピアで胸を貫こうとする奈々々。
 両手を挙げ、無抵抗な姿でそれを受けようとするORZ。
 静かなる社のエリア、緋色の鳥居の基にPKの刃が閃……

「そこまでだっ!!」

 ……かなかった。
 それは突風をなお上回る暴風の如き速度で踏み込んできた巨大な影にせき止められた。


「何っ!?」
「?」

 ――いや、正確にはそれの持っていた白銀の大鎌によって食い止められている。
 それはともすれば山のように巨大な鎌だった、直径3mはありそうなそれはまともに振れるのであればありえないほどの攻撃範囲を誇るであろう。
 ……そして、それは事実軽々と使いこなされていた。山を扱うのは熊なる者の技か、巨大で毛むくじゃらの男がそれを操っている。

「ハッ!」
「――っ!」
 
 そしてその巨体がひとたび手首を捻って力を込めると、それだけで奈々々の小さな体はポーンと打ち返したテニスボールのように鳥居の辺りまで弾き飛ばされた。
 ……レベル差がある、と言うレベルではない。自身のレベルを十倍にしても足りるかどうか、それほどまでの実力差があった。
 そのサングラスを掛けた獣人の巨体は、静かに弾き飛ばされた奈々々を睨んでいる。
 彼は自称PKK、そして先日会った時は『奈々々を追っている』と言っていた獣人だ。だからこうして出会うのは偶然ではないのだろう。
 だがしかし……解せないものがあった。

「まずは礼を言おう、いつかのPKKどの。……だが一つ聞いて言いか」
「何かね?」
「……何故彼女のような小物を追っておるのだ? 今のThe Worldの治安は悪いと聞く、あれ以上に厄介なPKKは山と居よう。少し気になっていたのだが、正義感をかざすならそのレベルに相応しい相手を追うと思うのだが」
「……彼女とは因縁つきでね」
「然様か」

 男たちは疑問を投げ、答え、短くその場を理解する。
 獣人が朴訥であれば、ORZも深入りはしない性質だ。
 そしてその間に奈々々は立ち上がり回復を済ませていた。その目にはORZなど映っていない、その赤い瞳の激情は全てこの巨大なサングラスの獣人に向けられている。
 なるほど、因縁付きと言うのは事実らしい。

「また、また邪魔をする……! あたしの邪魔をしないで、パパ!!」
「それは聞けん。お前が帰ってくるまで、私は何度だってお前を止める」



 それは、緊迫した会話だった。とても深い意味と事情が飛び交っているのだろう。
 だがそれでも、そんなシリアスな空気だと言うのに大口をあけてぽかんとしている男が居る。

「ぱ、……パパ、ですと?」

 言うまでも無い、ORZである。
 パパと来ましたか、いやキャラであるから似てないのは当然なのだが、その言葉だけで空気が妙になるのは魔法か何かだろうか。
 パパと呼ばれた獣人が舌打ちして振り返る。

「……あ、ああ互換はしないで欲しい。ただ、私の名前が……その、なんだ」
「名前が、どうしたのだ?」
「……コホン。パパラッチョスーパーアルマゲドン三世、……という名前であるだけだ、だからパパと」
「………」

 ORZはリアルで口を押さえ、腹を押さえるのに必死になった。

「い、いやこれは断じて私の趣味嗜好などではなく、トイレに行っている間に娘が勝手に改名イベントを……」
「バーカ、油断する方が悪いのよっ! ……じゃあね、あんたなんかに邪魔されるあたしじゃないんだから」
「あ、こら待ちなさい!!」

 一瞬、ほんの一瞬このパパラッチョスーパーアルマゲドン三世というらしい獣人が隙らしきものを見せた隙に奈々々は逃げ去っていた。
 距離を取っていたのだ、双剣士である彼女が逃げるのは容易い事だっただろう。
 それを横目に、パパラッチョスーパーアルマゲドン三世は盛大な溜息を付いた。

「また、逃げられてしまったか……」

 その巨体、そのレベルの高さに似合わず弱々しく肩を落とす。
 それは気弱な少年のようにも、疲れきった大人のようにも見えた。
 少なくとも日々を何も考えずに生きているような人間には出来ないような仕草だ。

「まぁ、なんだ。此処に居合わせたのも何かの縁、お互い彼女に嫌われている者同士であろう。何があったかは知らんし言いたくなければ聞かん、だが俺様にできる事なら手伝うぞ?」

 丁度暇だったしな、と。
 そんな獣人に手を差し伸べる男がいた――――。







<つづく>

―――――――――――――――――――――――
結論として、あと2,3話で終るのは夢物語となりそうです。
人物の設定を練りすぎてしまいました……(汗)
今後リアルとネットが6:4ぐらいの比率で描かれることになりそうです。
6に増えた理由?
妹に決まっている。