<スコア7584>





 ふと、  気がつくと、     ………自分が誰なのか  


           分からなくなる


     ああ、目の前に広がる 
          この綺麗な景色は  何処  なのだろう



あれ 
              わたしは、  だれ  だったっけ……?



 

 

 まるで不意を突いて銃弾が頭を打ち抜いたかのように、記憶の昏倒と共に湧き上がる混
乱。
 誰だろう、何処だろう、何だろう、何故だろう、何時だろう、如何したんだろう。
 急に何も分からなくなって、なくなった分だけ怖くなる。
 それは津波のように強烈な恐怖を呼び込み……その小さな体を揺さぶる、それ故なのか
コントローラーを持つ手がガタガタと震えていた。
 他のPCから見ればただ息を呑む音が聞こえ、それきりAFKをしたかのようにキャラが動
かなくなっただけ。
 だが現実(リアル)はその様子とは大きく異なり、本物(プレイヤー)は激しい嗚咽と
共に崩れるようにベッドに倒れこんでいた。
 M2Dは取り落としている、コントローラーも同じくフローリングの床を叩く。……まだ
新品に近かった。
 バスン……と、小さくベッドが揺れた。
 柔らかいそれに埋没してしまいそうなほど小柄な身体に、長く白い長髪がマントのよう
にその背にそっと被さった。
 肩が震える。
 

「ええ……ぅ………ああっ!! ………ああ、ぅ………っ………ひく………」


 何か途轍もなく悲しいことがあったときの泣き方に似ている、枕に顔を埋めて紛らわす
その姿は。
 だがその実、それとは少々違う。
 この未久という名の少女の悲しみはある種、『発作』のようなものなのだから―――


「はぁー………ふぅ…」


 深呼吸をして、運動をしても居ないのに暴れる心臓を落ち着ける。
 そうすればちゃんと落ち着くのだ。幸いにして身体は健康体だったから、……ただまぁ
発育が遅いことは本人にとっては少々ネックな体ではあったが。
 それも些細なことだ。
 この精神の欠陥に比べれば、とても些細な問題に過ぎなかった。
 落ち着いてきたところで、枕から顔を離す。あごの辺りから水滴が一つ落ちて、白に灰
色の染みを作った。


「わたしは、鹿末 未久(かのすえ みく)……わたしは、この家の子供………わたしは、
ここにいる」


 落とした財布の中身を確認するかのように、記憶の中の自分のアイデンティティを唱え
てみる。
 念のため、二回唱える。
 ………大丈夫だ、忘れてない。
 師匠の顔も、家族の名前も、昨日の夕飯だって覚えてる。……だから、大丈夫だ。
 言い聞かせるように何度も心の中でそう念じた。


「はぁぁー………またやっちゃったか。……なんで我慢できないんだろう………?」


 落ち着いて唱えてみれば自分に何の変化も無い。
 うつ伏せの状態から転がって仰向けの状態となり、小洒落た電球の明かりにそう呟いた。
 終わってみればなんとも無い、喉元過ぎれば熱さを忘れてしまう。
 そして、思い出したかのように涙の跡を吹く。


「……寂しい、な」


 原因はそれだった。
 ……また、やってしまった。


 自分は何度泣けば、気が済むのだろうか?
―――記憶喪失のフラッシュバック。
 そんなような物なのだろうと未久は思っていた、この発作は。分かっていても止められ
なかった。
 今日もまた。
 もう一度お茶を飲んでこよう、そう思い立って自室から台所まで歩いていく。……これ
の後はどうしても喉が乾いてしまう。 ちなみに、自室から台所までは歩いて4分程度か
かる。ものすごーーーく広い家だった。 

 
 未久は、この中学生にしては小柄な少女は……記憶喪失を煩っている。
 逆行性 ―全生活史健忘(Generalized Amnesia)……という症状だ、つまり「ここは何処? 
わたしはだれ?」と自分に関する全ての記憶を失うことを指す。
 フラッシュバックと前記したがこれはそうそう何重にも起きるものではない、フラッシ
ュバックはまた別の症状だ。
 医師によれば未久の記憶喪失は心因性。つまり心が原因であるという。
 薬物や頭部への怪我が原因ではなく、精神的なショックが原因でそうなった可能性が高
いとのことだった。
 その判断が下されたことには、無論理由がある。
 記憶喪失には催眠療法による治療法が行われており、未久もその催眠療法を受けたのだ
が。………未久は、その治療の最中に先ほどのような『発作』を引き起こしたのだ。
 今回の物とは比にもならないような苦しみ方だった。頭を壁にぶつけ、叫び苦しみ、形
を成した恐怖に取り殺されんばかりな錯乱が―――
 失った記憶の部分に相当彼女を苦しめる記憶があり、その記憶の為に彼女は記憶を失っ
た、……と。その様子を見て医師はそう推測していた。
 無論、催眠療法はそこで打ち切られた。
 もしかしたら戻らないほうがいい記憶かもしれない、そんな不安を残したまま、未久は
孤児院へと預けられることとなった。
 手続きを済ませた未久の第一発見者である鹿末諒子(かのすえ りょうこ)が未久を引
き取りに来たのは、それから数日も経たないうちの出来事だった。
 未久は今でも薄れることなく諒子に、そして自分を受け入れてくれた鹿末家に感謝して
いる。
 


 ………ゴクゴクと人肌に暖めたお茶を飲み干して、やっと一息をつく。それだけですご
く落ち着いた。
 いつも思う、この姉の淹れてくれたハーブティーには魔法が宿ってるんじゃないかと。
あれほど悲しみに満ちていた心が今ではまるっきり落ち着いてしまっているのだから。
 今なら河童海老煎でも食べながら昼ドラの観賞をすることだって出来るだろう。やらな
いが。
 これも慣れという物なのだろうと思う。
 未久は先ほどのように一人でレベル上げをしているときなど……『不意に孤独を感じる』
という場面においてたまに発作を起こしてしまう。条件が分かっているのだ、だから慣れ
ることが出来る。
 それに何度もこの発作は経験したのだから―ー―
 何度も。
 ………何度も。
 だからもう、慣れたのだった。
 これは失った記憶によるものではない、と未久は思っている。いや分かっていた。『記憶
を失ったことへの恐怖』なのだと。


 記憶を失った瞬間、アレは地獄でも天国でもなかった。
 例えるなら窓も明かりも無い真っ暗な部屋で、自分という身体も、記憶も無く。……た
だ自分という意識のみがそこに存在する空間に放り出されたかのよう。
 何も無い、何も出来ない。……ただ自分がそこにいると分かるだけ、時が流れていくだ
け、ただそれだけを未来永劫永遠に不滅に続けなければならない………そう感じてしまう
ような絶対的不安の連鎖。
 瞬きも出来なかった。
 ただ目の前の病室の景色を見つめ、確かめるように自分の体を抱くしか………。
 あの状態が何時までも続いていたら発狂していただろうと思う。


 そう、未久には記憶を失うということ自体が恐怖として焼きついている。医者は失った
記憶に恐怖があるといったがそれとはまた別の問題だった。
 孤独は不安を呼ぶ、不安は……記憶を失ったあの日あの時の自分、そのものだった。
 だから孤独を感じると記憶を失ったあの時のことを思い出してしまい――――


「ああ、もう仕方ないのにっ! お父さんもお母さんも仕事、お姉ちゃんは大学なんだし
……」


 分かっていても、「はぁ」とため息が出てしまう。誰も居ないこの家は『寂しい』場所だ
った。
 寂しさを紛らわすためにこのゲームを始めたのはいいけれど、The World R:2がいくら
世界最大のネットゲームだといっても平日の、それも昼間にログインしている人間なんて
たかが知れている。
 奥手な未久のキャラ……チェリーの友好範囲は狭い。……従って昼間は大抵はソロでレ
ベルを上げるしかやることが無いのだった。
 いいのか悪いのか微妙だけどこの時間ならPKも少ないから安全だ。
 ……けれども、さっきのような発作も起こしやすい。
 ネットゲームのソロのレベル上げほど空しい物は無い、これは前世紀からの鉄則だと師
匠も言っていた気がした。
 全ては学校に通っていない自分が悪いとは分かってはいるのだが……。
 未久の学校生活は春から始まる予定だった、そのほうが切がいいし記憶喪失のショック
からの回復を考えてのことだった。
 一応、名目として中学二年生の肩書きはあるけれど、未久の中学校生活は三年生からス
タートする予定なのだった。

 論点を戻そう。
 つまり今、未久は暇だった。
 暇とは言え発作を起こした以上The Worldに戻るような気分ではない。
 だとしたら………。


「うん、散歩にでも行こう!」


 中学生とは思えないぐらい安直な未久なのだった。
 いや身体検査でそのぐらいの年齢と分かっただけで、本当に中学生かどうかは謎なのだ
が。
 少なくとも、こうしてルンタッタと上着をはおりハンチング帽を被り、玄関まで行くと
靴をはいてスキップで家を出て行く姿は……小学生にしか見えない。
 この溢れんばかりの能天気さは、先ほどまで重大な悲しみに暮れていたなどと微塵も感
じさせなかった。だからこそ、彼女は今を楽しんでいるのだろう。
散歩―絡まれ―助けられ

 お気に入りの薄桃色のジャンパーを揺らして商店街を歩いていく。長い白髪……心的ス
トレスによって脱色してしまったその髪も今は生き生きと踊るように揺れていた。
 未久は基本的に人がたくさんいる場所を歩くのが好きだった。
 散歩といえば静かで自然があって綺麗な場所を歩くのが良いと多くの人は言うだろう、
だがしかし未久の場合それは逆に拷問である。
 土地勘が無い上にほのかに方向音痴なのもあるが、そんな孤独の極みのような行動は絶
対に避けたい。自室で発作を起こすならまだしも外出先で起こすのは流石に恥ずかしかっ
た。
 というわけで、未久は自分のお気に入りの賑やかな2番通りを歩いていた。流石にスキ
ップではない。


「あ、お財布………は持ってきてる、ね。良かった良かった」


 独り言が多いのは気を紛らわすため、そのついでに財布を確かめるという行動をする。
 さて、未久の歩く『千象寺商店街』と呼ばれるこの商店街は、中々に面白い商店街であ
る。
 名古屋の片隅に有るそこそこ人通りの有る商店街なのだが(※実在はしません)、若者を
狙った店舗が多く、ファッション関係の店や電気部品の店、それと飲食店やゲームセンタ
ーなどが主に幅を利かせている。
 それとなく歩いているだけでも色々な興味深い商品が目に入るし聞こえてくるというお
得な場所だ。
 現に、今もお菓子の叩き売りという未久の気を引いて止まない威勢のいい声が聞こえて
きている。ブチシリーズを4つまとめて200円なんてそんな、せっしょうな。
 未久はグッと、買いたくなるのを飲み込んだ。
 安いとは言えこの商店街に来るたびに衝動買いをしていたら毎月のお小遣いなどすぐに
すっからかんになってしまう。
 鹿末家はセレブな名古屋の中でもかなり裕福な位置にあるが、決して子供を甘やかした
りはしない。小遣いの金額は並であった。
 さらに言うと、昨日はあの威勢のいい甘い誘惑に負けてしまったのだ。……だから今日
は負けられない。
 ここを歩くのは一種精神修行に近いものがある。……と、未久は思っていた。まだまだ
である。


「あ、そうだ。新しくゲームセンターが出来たんだっけ……」


 雑念を振り切る為に思考を切り替えると、最近まで工事していた一角があったことを思
い出す。
 確か工事の看板にはかなり大型のゲームセンターが出来ると書いてあったはずだ。
 なんでもCC社監修の元に作られた対戦ゲームが入荷されるとかで噂になっていた、たし
かThe Worldのキャラクターの外見をインストールして自分の操作キャラとして使えるら
しい。
 外見だけで能力が変わるわけではないけれど、相互得点で格闘対戦で勝利ポイントを貯
めるとThe Worldで特殊なアイテムが貰えるのは面白い。
 見た目に面白そうなのは確かだし………と、判断したところで早速未久は足を進めてい
た。
 奥手ではあるが妙に好奇心の強い性格である。そんな話を思い出したら行ってみないで
はいられない。
 ああ、それと天然も入っているかもしれない。
 なぜならば90度ほど間違った方向に歩みを進めていったから。
 付近を歩いていたロの付くお兄ちゃんたちを何人か振り向かせつつ、未久は15分ほど
気付かずに進み続けた。……その後、5分で戻ってきた。そして自分の迂闊さを恥じなが
ら正しい道を進む……。


 で、その建物を前にしてぶったまげた未久だった。
 商店街の端、いや少し離れた場所に有るとは言えこの大きさは予想外だったからだ。…
…まるでマンションである。
 ゲームセンターといえば高くても3階建てくらいが相場だがこの『Spielplatz(遊び場)』
と名づけられた建物は、陽光をも遮る6階建てになっていた。更に言えば横にも広い。
 背面は駐車場になっているにしてもかなりの規模だ、……この商店街のライバル店を一
気に潰してしまうつもりなのだろうか?
 が、未久にとっては潰されようが生き残ろうがどうでもいい話である。
 ワクワクしながらそのセンスのいい電飾の輝く店内に、足取りも軽く入っていく。自動
ドアの脇には噂の格闘ゲームがでぇ〜〜んと大きく宣伝されていた。
 ………案外と割り切りのいい性格である。
 彼女の悩みは、記憶喪失なことを除くと、かなり量が少なくなるかもしれなかった。






 そんな訳で、例の対戦ゲームはあきらめた。





 『40分待ち』とか言う看板と長蛇の列を見つけたからだ、ゲームセンターでこれはか
なり馬鹿馬鹿しい。加えて未久は多少質は落ちても色んな場所を回ろうとする性格である。
 それにどの道見学だけでプレイする気はなかった。なので、さっさと人のざわめきと巨
大なBGMに満ち溢れる6階を後にした。
 確か3階辺りにクレーンゲームのコーナーがあったはずだ、あそこなら取れなくても見
た目に面白いかもしれない。
 そう考えて未久は階段を降りていく。エスカレーターは使わない。
 行動も思考もドンクサイと自分でも感じている未久だが、それでもこのような場所で密
室に入る気はしなかった。
 警備体制があるといっても決して治安がいい場所ではないのだ、エスカレーターは以前
変なお兄さんにお尻を触られたので懲りていた……。
 何が楽しいのだろうとは思うが身の危険は自分で守らなければいけない。



 さて、クレーンゲームというものは見た目に楽しいゲームである。
 多種多様な縫いぐるみやお菓子、時には金魚などをボタン操作で捕まえようとする光景
はプレイヤー以外だって楽しいものだ。
 見てるだけで楽しいのだ。
 うん。けっして自分が取れないからといって拗ねているわけではない。……未久はまた
もやそう自分に言い聞かせていた。


「あぁ……おしぃ…」


 ポトン、と。
 いっそ清清しいほどに穴の目の前でアーム外れていく縫いぐるみ、……グランティを模
したそれはあざ笑うかのように縫いぐるみの山の上に立っている。
 かなり、これはかなり悔しい。
 失敗回数は2回、500円を入れたので後1回だけ挑戦できるのだが未久はこーゆー『最
後の一回!』というプレッシャーにめっぽう弱かった。
 500円だ。そう、500円も入れてしまったのだ。
 50円のゲームならなんと10回も遊べてしまうというとんでもない大金を僅か5分程
度のこのゲームに注ぎ込んでしまったのだ。それが……残りあと1回、外せば何も残らな
い。
 なんと言う絶望的なプレッシャーであろうか、……未久にとってこれは全人類の命がこ
の1回に託されたぐらいのプレッシャーなのだ。
 ドキドキする。
 かなり、心臓がバクバクと脈打っているのが分かる。どうしてこう自分はこんなに小心
者なのか。
 ああ、でもゲームのBGMは無常なほど流れていってしまう、アームが動き出してしまっ
たからにはボタンを押さなくてはならない。
 いやな緊張ではないが指先は小さく震えていた………。
 そんな未久の真剣な顔を見て、目つきの悪いこのグランティはあざ笑っているかのよう
に見えた。
 そのグランティの瞳と格闘していたときだ。
 

「………クソッ!! っんだよこの機械、アアァッ!?」


 人目を気にしていないかのような叫び声と、機械が壊れそうな程それを蹴り上げる音が
聞こえてきた。
 すぐ隣の高級腕時計が景品になっている台だ。そこで茶髪を逆立てドクロのピアスを何
重にも重ねてつけているいかにもガラの悪そうな男が喚いている。
 そういえばさっきから2000円くらい使っていたような気がする、悔しいのは分かる
がこれは論外だ。
 反射的に逃げようとした未久だが、残念ながら500円は命の次に大切だった。鎖のよ
うに動けない。


「おらっ! 落とせコノ……お、揺らせば落ちそうじゃんか」


 しばし機械を蹴飛ばしていた男だが、それで箱が揺れたのを見たのだろう。今度は両手
で機械を揺さぶって景品を落とそうとしている。
 確かにそれが可能なほど背は高いしガタイもいいのだが……馬鹿なことである、そんな
ことをすれば警報機が鳴るのは時間の問題だ。
 そして、未久はそういった類の音は非常に嫌いだった。サイレンの音は古い記憶を揺さ
ぶるらしく、不快なのだ。こんな場所で聞きたくはない。
 それに、放っておけなかった。
 みんな、ズルをしないで遊ぶから遊びは楽しいのだから……。師匠だってチートやRMT
は論外だって言っていた。
 自分のボタンは適当に押しておいて、最大の有りっ丈の勇気を振り絞って、自分より何
倍も大きそうなその男に食って掛かる。
 

「だ、ダメですよそんなことしちゃっ!? 警報機鳴っちゃいますよ? 自分に勝てなく
なりますよ?」

「知るかっ。よ、コノッ」


 50cm近くある身長差で未久が見えていないのだろうか、男はまったく止まる気配を
見せない。それどころかこつをつかんだのかよりいっそう激しく揺すり始める。
 未久はそれを止めさせようと必死にその片腕をつかんだ。


「ダメ、ダメですっ! 」

「チッ……っ放せ、邪魔だ」


 両手を使われるまでもなく、つかんだ右腕を振られるだけであっさりと床に転がる未久。
あまりにも体格が違った。
 その様子を見て反省するでもなく、あまつさえウザそうに一瞥する男の目線。


「ったく、身障が……」


 男にとっては、その一言は常用語の1つのようなものだろう。
 未久の真っ白な髪と細い身体を見て言ったに過ぎない。
 だがしかし、その一言は銛のように深く未久の心に突き刺さり、……えぐり返した。な
により、言われたくない言葉だった。
 反射的なものだ、その単語を聞いただけで色々なことを思い出してしまう。何度もそう
呼ばれたことを……何度も悲しんだことを……だがそれが失った記憶だとは分からない。
 それでもまだ止めようと身体を起こすが、だけど声が出てこない。
 寂しさとは違う、怒りと悲しみのこもった嗚咽が声を遮っていた。何でそんな酷いこと
を言うのか、何で止められないのか、ダメだ、ダメだ……。
 ああ……今日は泣き過ぎだ。
 上半身を起こした状態で泣きそうな目で男をにらむ事しか出来ない自分が本当に、情け
なかった。
 

「よいしょ、と。……大丈夫?」


 そんな背中を軽く支えて、立たせてくれた腕があった。誰かは知らないけれど後ろから
走ってきて手を差し伸べてくれたらしい、芯の強そうな女性の声だった。
 立ってもその豊かな胸(未久から見れば)の辺りしか見えないので、顔を上げる。する
とこそには、未久を見てニッと笑いかけてくれる女の人の顔があった。
 知らない人だ、だけど信頼できる人だ。その笑みを見ただけでそう思った。
 「まかせて」彼女はそれだけ言うと離れてしまう。
 その女性はツカツカとロングブーツを鳴らせて男に近付くと、さっきとはまるで違う表
情で男に食って掛かった。


「ちょっと、いい? アナタ、何してるの?」

「………」


 その尋常ではない迫力に男も少し驚いたようだが、特に何も言うことはなく男は機械を
揺らし続ける。シカトという奴だ。
 この男、完全に人をナメくさっている。
 その対応に彼女は更に険しく眉をひそめた。「……ふぅん」と、なにやら不穏な呟きまで
もらしている。


「ごめんなさいね、なにしてるか聞くまでもなかったわ。……そこのブ男、警備員呼ばれ
たくなかったらさっさとお家に帰りなさい」

「……んだと?」

「帰れ、って言ったのよ。女の子に手をあげるようなサイテー男は表を歩かないで」


 それに続いて堰を切ったように怒涛の如く吐き出される言葉、それを受けて目を細める
男。
 男もキレていれば女性もキレている、いや彼女の口上はとてもハキハキしていたし押し
ているのはさっきの女性のほうだ。頼もしいのだが未久にはかなり不安だった。
 いくらあの人も女性にしては背が高いほうとは言え、男との対格差は雲泥の差なのだ。
暴力など振るわれたらひとたまりもないだろう。
 それは、嫌だった。
 何か、何か自分に出来ることはないだろうか……?


「え、ええと……そうだ、警備員さんっ」


 自分にしてはいい閃きだった、思い立つとすぐに1階のインフォメーションセンターに
向けて走り出す。
 その背に男女の激しい口論の声が聞こえた。
 アレは、自分のせいなのだ……。声は未久の背中に圧し掛かるかのように、中々消えな
かった。
 臙脂色の服を着た係員を見つける、暴れる息を強引に押さえ込みながら未久は必死に言
葉を紡いだ。


「す、すみません。3階で喧嘩がわたしのせいで爆発して、女の人が頼もしくてあの、で
も怪我すると危ないから……」


 激しく支離滅裂な言葉だったが、係員はとりあえず警備員を3階に向かわせることにし
た……。 






 
ゲーセン、カラオケバトル! ……再開の別れ

 暫くして警備員と未久たちが3階に到着してみると、そこでは未だ激しいデッドヒート
が繰り広げられていた。
 とは言え、男は辛うじて反論しているだけという感じだった。
 声の7割近くがガトリングガンのように打ち出される女性の声で占められており、男の
声はドスを聞かせてあるものの押さえ込まれている。
 意地を張ってはいたが男のほうはもう涙目になりそうである。手を出すことも忘れて丸
め込まれてるといった感じだ。
 ここに来るまでに未久に話を聞いていた警備員は若干呆れながら、それでも厳しい顔つ
きでそこに割って入っていった。そして男のほうの腕を掴む。


「この、んだよ? 俺がなんかしたか? 手、放せよ」

「あら、お勤めご苦労様です。警備員さん」


 男と女、表情は暗と明でとても対照的だった。……とは言え、女性のほうの変わり身は
一種芸術的なほどだった。
 第一印象に命をかける女の鏡に近い。……未久はそう思った。


「とにかく、奥で話を聞きましょうか」


 警備員は最後まで厳めしい表情を崩さず、二人を奥の従業員用スペースへと連れて行っ
た。
 
「それじゃ、またね」

 未久とすれ違うときに、そう言うと女性はウィンクを残していった。
 ドキリとする気分だった。
 わたしのせいでこんなことになったのに、あの人は何であんな笑顔をわたしにくれるの
だろうか……?
 ああっ、それにお礼すら言ってなかった。
 ……そこで、待つことに決めた。
 どうしてもお礼を言わないといけない、そう思ったからだ。それに、彼女とはもう少し
話がしたかった。



 携帯を開いたり閉じたりしていること、およそ30分。
 


 意外にも早々と解放されたらしく、彼女は軽く「んぅ〜〜〜っ」と言いながら伸びをし
て出てきた。
 そしてすぐに意外ではないことに気付く、彼女なら適切に状況を説明して警備員を論破
するぐらいはして見せそうだ。逆に、男のほうはもっと時間がかかることだろう。
 少しかわいそうだが仕方がない。
 改めて見てみると……この人はだいぶ美人、というよりは男前というか勇ましくも可愛
いと形容すべきなのか。
 少し硬めなショートヘアや意志の強そうな瞳が特徴的な人だった。年の頃は大学生くら
いだろうか。それでもどこか子供っぽい雰囲気を残している。
 伸びをしている姿勢で歩いてきて彼女は、そこに未久がいることに気付くと「イエイッ」
とVサインをして見せた。
 思わす笑みがこぼれた。待っていて良かったと。


「待っててくれたんだね。律儀ねーあなたも、気にしなくていいのに」

「い、いえ。せめてお礼ぐらい言わなきゃダメですし……その、ありがとう御座いました」


 芸能人を前にしたかのように妙に緊張している未久を見て、彼女は柔らかく笑った。太
陽みたいな笑顔だった。


「いえいえどう致しまして。あなたが先に説明しておいてくれたおかげでこっちも助かっ
たわ……っと、呼びにくいよね。あたしは赤羽雲雀(あかはね ひばり)、呼び捨てでいい
よ」

「い、いえいえいえいえいえめっそうもないです! それじゃあ、雲雀……ちゃんで。あ、
わたしは鹿末未久って言いますです」

「(な、なんでこの反応から『ちゃん』になるの……?)」


 笑みを崩さず心中で突っ込む雲雀。
 未久としては『呼び捨てでいい』を『さんやさまをつけてはダメ』と理解したわけで、
でも呼び捨ては忍びない……と思ったわけで。妥協案として『ちゃん』を選択したまでな
のだった。
 未久の思考回路を侮ってはならない。彼女のそれはワンダーランドと直通している。


「ま、いっか。……そうだ、これ、未久ちゃんのでしょ?」


 言うと、雲雀は手提げのバッグから見覚えの有る目つきの悪いグランティの縫いぐるみ
を取り出すと未久に渡した。
 見た目以上にふかふかでふさふさで、手触りが良かった。


「え……、でもこれは」

「プッ、ククク……あいつ自分の台は揺らしても落とせなかったくせに、隣の台では落と
してたなんてマヌケよね」


 ああ、なるほど。そういえば物凄く絶妙な位置に立っていたことを思い出す未久だった。


「あ、ちゃんと警備員さんには話をつけてあるから大丈夫。これは未久ちゃんの"戦利品"
よ。『知らせてくれてありがとう』だってさ」


 真面目一辺倒な顔をしていた警備員のおじさんだったが、どうやらイキな性格をしてい
たようだ。
 縫いぐるみを抱きしめ、色々な人の温もりに心が温まるのを感じる未久だった。


「さぁてと、良かったらあたしと一緒に遊んでいかない? 1人じゃ危ないっしょ、えっ、
この不良少女ぉ〜」


 どうやら、この人は1つ誤解しているようだ。
 そして、この人ならその事情を話しても構わないようだ。
 未久は弾むように返事をし、雲雀と一緒にこのフロアを回ることにした。





 この3階には、クレーンゲームのほかにビデオゲームのコーナーがある。未久たちはそ
こを制覇することにした。
 ビデオゲームといってもレバーをガチャガチャやるタイプではなく、体感4Dシューテ
ィングやら脳を鍛える天才トレーニングやらパンチングマシンやら、バラエティに富んだ
タイプのゲームコーナーだ。
 こういったゲームは初心者でも楽しめるのが嬉しい。
 ちなみに、未久の財政難は雲雀があっさりと解決した。……大人は偉大だと思った。


「へぇ、記憶喪失とはまたとんでもないことになったも………うわっちゃぁ!? あぁー
……」


 未久の意外な告白を聞いて油断した瞬間に、雲雀のキャラのライフがゼロになる。
 このご時勢にも根強い人気を残しているゾンビを打ちまくるタイプのシューティングゲ
ームである。
 ちなみにM2Dを使うことでより臨場感のあるプレイが可能とのことだった。
 さらにちなみに、未久のキャラは2ステージほど前に立派な戦死を遂げていた。もしか
したら雲雀は未久に合わせたのかもしれない。
 それほどに、恐ろしい射撃センスだった。最初こそドロドロしたゾンビが怖かった未久
だが、後半は雲雀の強さが恐ろしかった。


「ま、でも今に満足してるんでしょ? それならいいじゃない、……それともその怖い過
去を思い出したいわけ?」

「ええと、思い出したいわけじゃないですけど。過去に物凄く悪いことをやったりしてた
ら……、やっぱり思い出す責任があるのかなって思ったりはします」
「それは、ない」


 銃を所定のテーブルの上に戻しながら、雲雀は何気なく即答して見せた。


「未久ちゃんが罪を犯すわけないでしょ、犯してても無効よそんなの。未久ちゃんは十分
酷い目に遭ってるんだから……今掴んでる幸せを奪うようなことは、このあたしが許さな
いわ」


 冗談なのか本気なのか分からない口調で雲雀はどーんと胸を叩いて見せた。
 冗談か本気かは問題ではないのだろう。彼女なら冗談でも本気でやりそうだ。
 良く分からない根拠だったが、それでもその言葉は少しだけ未久に自信を持たせた。


「さぁて、次は脳トレで勝負よ! ……クックック、頭脳戦であたしに負けたらそーとー
恥ずかしいぞぉ」


 自信満々になにか間違ってることを言う雲雀だった。
 とは言え身体能力であちらに勝てるわけもない。さっきから勝負をしているのだが、4
連敗中なのだ。
 だからせめて次の勝負ぐらいは勝たなければ……!
 未久は雲雀の隣に座った、何時しか寂しさも忘れて。


   <スコア>

ヒバリ………75点
ミク ………84点


 激戦の末に、どうやら知能戦ではミクが勝利したようだった。
 負けていた分思わず笑みと共に両手を万歳してしまう未久と、ショックのあまり台に額
をぶつける雲雀が対照的だ。
 ちなみにこれ、300点満点中である。1ステージ100点満点で採点されるのを3回
繰り返した合計得点なのだ。


「や、やるねぇ……我がライバル」

「フッフッフ……いえいえ、雲雀ちゃんも善戦してましたよ。でもちょっとだけ、わたし
に運があったみたいですねー」

「くぅぅ、言うようになったなこの小娘ぇ〜」


 そんなやり取りをしつつ、未久はこっそりとそのスコアの数字を携帯にメモした。

 75・84

 ちょっと苦しいかもしれないけど、『ナカヨシ』と読めてしまったから―――。








「さて、と。またいつでも、寂しくなったら携帯に連絡よこして。あたしはこの近くだか
ら講義中だろうがなんだろうがすっ飛んでくるわ」

「そこまではしなくていいですけど、また遊んでくださいね」



 携帯のアドレスを交換した二人は、子供っぽく手を振りながら分かれた。