―――――故に、 彼女は疎まれた


 世の中は子供を想わぬ親は居ないと言うが、それは嘘だ。
 人間の心には元来本能的な母性父性が存在するが、それは心という家を担う一対の柱に
過ぎない、……柱の一本や二本折れた人間などいくらでも存在する。
 そう、例えば『白羽沢・嘉向(かなた)』。

 彼女の母親がそうだ。

 赤色が好きだとしよう、その人間が赤色の毛蟲をみて好きだと思う確立はあまりにも低
い。
 赤ん坊は『赤』という母性の好む色を持っていた。
 ……しかし、嘉向という人間にはそれは蠢く赤い毛蟲にしか見えなかった。
 羊膜の代わりに『繭』に包まれ、へその緒の代わりに蚯蚓(みみず)が這い、胎盤の色
は赤ではない。
 赤ん坊は蟲のお陰か至って健康であった。
 だが、そんな蟲塗れなモノを無償で愛せるか―――?
 
 だから、嘉向は生まれたばかりの赤ん坊(蟲)を抱かなかった。
 しかし、父親は蟲であろうと我が子を愛し、赤ん坊(娘)を抱き上げた。

 思えば、この時から違っていたのだろう。
 そう、決定的に。
 この日。
 白羽沢家はこの事実を外部に対し完全隠匿することを決定し、クロエと名付けられた赤
ん坊は座敷牢の中で一生を暮らす運命を……。
 
 そう、決定された。
 籠の中の蟲となれと。




<理由―決定>



 この異常事態を前にした祖父は急遽、念入りに白羽沢家の歴史を調べた。
 すると一つのことが浮かび上がった。
 この家が遥か昔、世界結界の成されるより古の平安時代に霊媒師として名を馳せていた
こと。
 ……その霊媒において、蟲を仲介役にしていたことを。
 恐らく、近年の世界結界の緩みを受けてその血筋が覚醒したのだろう。
 そこまで推理すると、祖父は一層に末の娘の『封印』を厳重にするよう仕向けた。
 何故か?
 簡単な計算である、霊媒師ということは必然的に悪霊や呪いといった類のものと衝突す
ることになる。
 つまりいらないものを呼び寄せてしまうのだ。
 『金で解決できない危険因子は招くべきではない』
 ただ、それだけ判断であった。
 それでもクロエを排除するまでのことはしなかった。
 危険因子とは判断したが、やはり殺すには惜しいほど孫は可愛かったのである。
 それが。クロエにとって幸せだったかどうかは、別として―――。




<歳月(わたし)の転機>




 14年という歳月。
 ただ檻の中の遊戯を繰り返してのみ過ごすには、あまりにも長過ぎる時間。
 14年もあれば街ですら生まれ、国ですら滅べる。
 それを閉鎖された屋敷の中でのみ過ごすなどどうしてできよう。

 しかし、それは『屋敷の外』を知る我々の我々だからこそ知りえる感覚の尺度である。
 そもそも屋敷こそが地球であるクロエにとって、日常とは餌と回し車さえ有れば幸福な
モルモットと同じ――変化も痛みも喜びも無い流動(じかん)であった。
 起床し、勉学に励み、習い事に励み、就寝するのみ。
 それがクロエの『一生』だ。
 その合間合間に豪勢な食事と、有益な空き時間と、空虚な会話があった。
 生涯に接する人間は家族と使用人のみ、それも外界に興味を持たぬように著しく会話規
制をされた。
 マナーと礼節だけは無駄なほど叩き込まれたが、新聞すら読ませてもらえない。
 翼を奪われた鳥の如く。
 いや、羽をもぎ取られた羽虫と言うべきか。
 クロエにとって唯一気の置けない会話ができるのは、体内に住まう蟲だけだった。


 姉も、母も、祖父母も、使用人も……みんなゴキブリを見るような目で私を軽蔑する。
 ゴキブリにだって一寸の魂があるというのに、よく見れば可愛いじゃないかとも思う。
 ただ、そんなことを言うと打たれるから言わない。
 だから、誰かと話をするのは楽しくなかった。
 私は誰かに会うときは蟲を仕舞ってから、『何も質問しちゃいけない会話』をしなくちゃ
いけない。
 私はロボットなんだ。
 それを悲しむということも、私は知らないのだと思う。
 だってそれが、私という私だもの。
 そんな毎日、決定された一生。
 その周期の中の5時という時刻、私は11年間一度も乱したことの無いタイミングで、
ソファに体を預けた。

「………さて、何をしようか?」

 数え始めてから11年間、その答えが出たことは無かった。
 蟲たちは私に賛同して応援してはくれるものの、それ以上の意思や思考を持たないから。
 だから私はこの台詞を言った後は決まって窓の外を見る。
 そして代わり映えの無い中庭の風景を見て(外側の窓は無い)、絵筆を握るのだ。
 答えの無い答えの代わりに。

「マカちゃん、赤と青、10:1でお願い」

 小振りな毛蟲が私の指先から這い出ると、体内に取り込んだ鮮やかな絵の具を吐き出し
ていく。
 数秒もしないうちに落ち葉の色、立派な臙脂色が完成する。
 こんなふうに蟲を使ってパレットに色を作っていく………そう、私の趣味は絵を描くこ
と。
 と言っても、描くのは今日もまた寂れた中庭だけど。
 これだけはお爺様も許してくれた、唯一の趣味。
 たぶん絵の内容を見て私の精神を判断してるのだと思うのだけど……。それでも、絵を
描くのは好きだった。
 真っ白なキャンバスを自分で別のものに変えてしまう過程が面白くて。
 それ以外に好きなものは、知らなかった。
 ちなみにマカちゃんとは、この子がマカロニに似てるからつけた名前だったりする。

「………」

 言葉も無く、在るが侭に景色を描く。
 陽だまりに鳥が温まれば鳥を、風が強ければ無色の風を、雪が降ればその結晶を描く。
 同じ景色でも描くものは無限に存在する。
 物事は追求すれば果てなく深淵が続くように、例えば一つの林檎にさえ画題は無限に存
在する。
 だから、私は飽くなき絵画の追及を止めないし、辞める理由も無かった。
 今日もまた蟲達と絵を描いていく。
 いずれお母様に燃やされてしまうとしても。

「今日はあの木でも、…………?」

 そのように窓際から中庭を覗いていたら、見慣れない人影が見えた。
 影は2つ、1つは見慣れていて嫌いな影、もう1つは見慣れないけど大好きな影。
 お爺様と、お父様だった。
 背の低い顎鬚が立派なのがお爺様。背は高いけど体格は良くなくて、それでもとても優
しそうなのがお父様。
 2人はなにか重要な相談をしているらしく2人とも眉根を寄せて難しい顔をしている。
どうやらお父様が何かを訴えているようだけど、お爺様は首を振っているけど、内容は聞
こえなかった。
 いいこと……ではないみたいだ。 

「何を、話してるんだろ……?」

 とても気になった。
 いつもは他人の会話なんて嫌いな私だけど、お父様だけは別だった。
 お父様はただ一人甘えても優しくしてくれる人で、……でも、いつもお仕事で日本に居
ない人だから。
 だから……今日だけはいいよね?
 私はそう自分に言い訳をして、頑丈な鉄格子の覆い被さる窓を開けた。
 窓枠に寄りかかってギリギリ格子の間から手を出して……

「マカちゃん、……よろしくっ」

 そう、そこから指を伝って一匹の蟲を窓の外へと出し、壁を這わせていく。
 『お父様達を追って』
 と、念じながら。小さな白い蟲はちょこちょこ壁を這って目的の部屋へと移動していく。
 それを確認すると私は窓を閉じ、静かに目を閉じる。
 そしてマカちゃんと精神を同調させるために深く、長く、深呼吸をした。
 自分をアンテナのように無機質に、心を空のバケツのよう空っぽに、意識をマカちゃん
と繋がる一筋の糸へと変える。
 ……ピクリとも動かずに精神統一を続けていると、やがてマカちゃんの見ている複眼の
映像が脳内に描かれてくる。
 (※非公式設定です)
 そこにはさっきの2人の姿があった。
 お爺様は難しい顔で高級そうな安楽椅子に腰掛け、お父様はテーブル越しに立っている。
調度背中が見えて顔は見えない。

「(ここは……お爺様の私室かな。マカちゃん、ナイス潜入ね)」

 暫くするとマカちゃんが聞いている音も聞こえてくる。
 その第一声は。

『Why is it!? That .... Chloe should be free!』(何故ですかっ!? あの子は……クロエは
自由であるべきでしょう!)

 初めて聞いた、……お父様の怒声だった。

『英語で話すな、言葉足らずでも構わんから日本語で話せ。話し合いを持ちかけてきたの
はお前だ、合わせるのはどちらか心得ているだろう?』

『……失礼しました』

 お父様は生粋の英国人だ、だからたまにああして英語が出てしまう……のだけど。
 あのお父様が取り乱すなんて。
 それも……私のことで?
 私の記憶の中にある父の像は、覚えている限りどれも笑顔か、悲しげな笑顔しかない。
 だから今の言葉も態度も、私にはショックだった。

『先ほどの返事だが、やはりこの家の方針に変更は無い。それが最も安全な選択であり、
この家の人間の総意だからだ』

『安全? 危険なんてあるものですか。あの子はもう子供じゃない、14歳の女の子なん
ですよ。もう……籠の外に出してあげてもいいでしょう、飛び方を忘れる前に……』

『ふん、飛び方を教えるつもりなど無い。我が家の「汚点」を如何して世の中に飛びただ
せることができる? ……蟲の噂の一つでも立てば、白羽沢の信頼は瓦解する。悪い蟲も
寄ってくるやもしれん』

『……分かりました、その返答が変えられないのであれば、僕がこれ以上言うことは御座
いません。下らない事にお時間を割いて申し訳有りませんでした、仕事に戻ります』

 悔しさを噛み殺すかのような無表情で一礼すると、お父様はそのまま回れ右をして出口
の方に歩いていった。
 その背中を見てお爺様がフムと溜息をつく。

『クロエには会っていかんのか?』

『いえ、時間ですので。……あの子に会うと時間通りに帰れる自信がありませんから』

 それだけを答えて、お父様は部屋を出て行った。
 ツカツカと足音が響くような無機質な動きで……ドアが閉まる前に、私はマカちゃんを
部屋の外に出した。
 そしてそのままお父様の後ろを付いていってもらうことにする。
 もう少しお父様の顔を見ていたかったから。
 そういえば2年ぶりだったなぁ……と思いながら眺めていると、お父様はある程度出口
に向かって歩みを進めたところで、何故か立ち止まって。
 さっきよりも一層険しい顔でUターンしだした。
 踏まれそうになってマカちゃんを慌てて移動させる。
 ……忘れ物でもしたんだろうか?
 しかし、そうではないらしくお父様はすぐに曲がると赤い絨毯の敷かれた階段を上って
いく。
 手すりから壁画まで装飾を尽くしたそれを上って、お父様は私の檻(部屋)がある階に
出て……。
 ……あれ? 私の部屋の方に向かって歩いてくる?
 お父様は使用人に適当に挨拶を送りながら部屋の前まで来ると、3重の施錠を解いて静
かに私の部屋の扉をノックした。
 ここで私は意識を自分に戻す。
 すると自分の耳にノックが聞こえてきた。

「Chloe -- may I enter?」(クロエ、入ってもいいかい?)

「Yes, please enter.」(ええ、どうぞ)

 私は自分でドアを開けると、さり気無くマカちゃんを足に這わせて回収した。
 そしてドアの先には……いつもの笑顔を浮かべるお父様の姿があった。
 さっきの険しい表情が嘘みたいに優しさに満ち溢れた笑顔。
 でも、私は知ってるよお父様?
 それは、ホントは寂しいときの顔だよね。

「……おっと、コホン。日本に来てるんだから日本語を練習しなきゃな」

 だけど、おどけてそう言うお父様の笑顔はやっぱり大好きで。
 私は久々にその胸に飛びついた。

「お帰りなさいっ!」

 ぎゅっと、今だけはぎゅっと、離さないように……。
 体内で圧されてるマカちゃんたちにちょっぴり謝りながら。

「ハハハ、手厚い歓迎だな。まったくいくつになっても君は……おや? でも少々重くな
ったかな?」

「……レディに対して重くなったはないでしょ、重くなったはぁ」

「レディならタックル気味に飛びついては来ないと思うけどね?」

 そこで、二人そろって笑い声を上げる。
 こんな時だけだ、私が笑うのは。
 仕事のこと、イギリスのこと、なんでもない世間話。
 お父様のお話はいつも面白くて、夢に溢れていた。私にとっては朝日のようなものだ。
 そんな感じで暫く談笑すると、お父様は何故か胸ポケットから……お札……の様なもの
を取り出して、私の手を握った。

「……? なにしてるの?」

「偽身符を作ってるんだ、……そのうちわかる」

 10分ぐらいそうしていただろうか。
 すると見る見るうちにお札は私とまったくいっしょの姿になって、ソファに腰掛けなが
ら絵筆を握りだした。
 えっと……何が起こったのかはわかったけど、これはなんなのだろうか?
 お父様に聞いても答えてくれない。
 これから大切なことをするから喋らないでって。
 その後、お父様はいつものように部屋の中に入ってこようとはしないで、何故か私の手
を引いて足早に館の外へと向かった。
 ずっと昔、『館の外に出たいかい?』とお父様が聞いてきたことがある。
 『うん、旅行ってしてみたい』と、そのとき私は答えた。……そんなことがあったから
だろうか?
 お父様は私を館の外に出そうとしているみたいだった。
 使用人が歩いていないタイミングを見計らって、足早に歩いていく。
 出ては見たい。だけど、この館から出るのはとても難しい。
 なぜなら外壁が殆どドームみたいに館全体を覆っているし、唯一の正門には常に監視が
居るからだ。
 白羽沢は外的が多いからこんなつくりになってるらしい。
 それでもお父様は、事前に計算していたのか巧く難関をすり抜けて正門の前まで私を連
れてきてしまった。
 すぐさま、警備の人たちが私たちの前に立ち塞がる。
 体格のいい中年の男性が2人、意外そうな顔をして出てきた。

「ケビン様? どうなされたのですか、クロエお嬢様を引き連れて。……外出は硬く禁じ
られているのはご存知でしょう」

「申し訳ありませんがお引き取りください、この事は内緒にしておきますから」

 2人は人がよさそうにそう答えたけど、私を見る目は……とても冷たかった。
 お父様にだけ遜って媚を売ってる感じだ。
 それが普通……なのだけど、お父様は静かに二人の前に歩み寄った。

「すまないね」

「……なにが、でしょうか?」

「明日まで、眠っていてくれ」

 お父様はまたスーツの胸ポケットに手を入れると、素早く拳銃のようにお札を引き抜い
て、両手で同時にそれを放った。
 銃弾みたいに飛んだ札はまるで生きているかのように二人の額に張り付いて、そのまま、
二人の警備員の意識を奪ってしまった。
 ドスンッと、体格がいい分大きな音を立てて崩れ落ちる二人を尻目に、お父様は悠々と
私の手を引いて屋敷の外に出た。
 2人はがーすかと鼾をかいて眠っていた。

「……お父様って、もしかして忍者とか?」

「近いね、クロエほどじゃないが」

 そういうと、お父様は手提げ鞄から……瑠璃色のキャスケットを取り出して、私の頭に
ポスッと被せた。
 ちょっと地味だけど可愛い感じ、サイズはピッタリだった。
 それを見て『似合う似合う』と、お父様はにっこりと笑った。

「初のお出かけ記念、遅れ馳せながらバレンタインデーのプレゼントかな。外に出るとき
はそれを被っておきなさい」

「えっと、はい」

「さて、それじゃあ――――」

 笑みを、……その言葉を遮るかのように、その時けたたましい程ののサイレンがウーー
ッウーーーッっと怪獣のように鳴り響いた。
 まるで大火事のように赤く染まる館、軍隊のように響き渡るコールの声……。
 それらが全て、私を捕まえろと命令していた。
 意表を突かれたかのように表情を曇らせるお父様。
 私はぎゅっと、その袖を掴んだ。

「……実の娘に発信機を仕掛けるとは」

 悔しそうにそう呟くと、お父様は私の体をちょっとだけ調べて……革の腕輪をナイフで
引きちぎった。
 それと同時にバタバタと人間が走ってくる音が聞こえる。
 追っ手、なのだろう。

「クロエ、よく聞きなさい……」

「……何処に行くの?」

「鎌倉に有る『銀誓館』という場所だ、銀に誓うと書いて銀誓館……忘れないように、そ
こに向かうんだ」

 そういうと、お父様は10枚くらいお札を取り出して私に握らせた。
 カードだと居場所が割れてしまうからといって……。

「お父様は……?」

「私は、後から行く。あの分らず屋たちを説得しなきゃならないからね」

 ポケットからさっきのお札を取り出しつつ、お父様は振り返って背を向ける。
 迫り来る追っ手たちを受け止めようと。
 ……このとき、私にはなんとなく分かっていた。
 行っても、行かなくても。
 お父様とは、もう会えないんだと。

「ありがとう、お父様……」

 だから、文句は全部しまっておこう。
 お父様の最初で最後のわがままは、私の幸せを願ってのことだから。
 男の人って自分勝手だ。
 でも、私にだって我慢できないことはある。
 涙ぐらいは、……見せてもいいよね?

「さぁ、行っておいで。……君は翼を取り戻した。もう、自由に羽ばたけるんだ」

 片手で涙を拭い、無駄使いするなよとか駅はあっちだとか言い続けるお父様を背に、私
は駆け出した。
 ―――イグニッション。
 虫達の力を借りて、誰にも追いつけない速度で駆け出していく。
 飛ばされないように、キャスケットを抑えながら。
 振り向かない。
 それがお父様との約束―――








 そして、色々有ったけど銀誓館へとたどり着けた。
 電車なんて使ったことも無い私がここまでこれたのは、ひとえに奇跡だと思う。
 でも、一つだけ問題があった。


「………これから、………どうしよう?」

 
 何も、持ってはいなかった。
 目的も無い。
 これからを……創っていかなくちゃいけないという、問題が。