天は高く空は澄み渡り、怖いぐらいに美しい快晴の下。
 紅葉に彩られた山道の帯を、荷車を引っ張ってえっさほいさと歩いて行く。
 踏みしめる落葉の大地から鄙びた秋の匂いが香り、都会では感じられない感覚に身を委ねる。
 そして、歩く。ひたすら、歩く。てゆーかそれ以外にやることがない。
 目指すは北東だ。
 風水によれば鬼は鬼門と呼ばれる北東の方角から出てくるので、鬼ヶ島もその辺りにあるらしい。
 そしてその北東と反対の方角に位置する動物、即ち逆鬼門を司る申(さる)酉(とり)戌(いぬ)の動物こ
そ鬼への対抗力となるのだとか。
 いままで何の意味もないと思ってた動物のチョイスだけど、こうしてお婆さんに知識を叩き込まれてみると
意外と面白い理由があってびっくりしたのだった。
 他にもお婆さんからは刀で大男を効率的に刺す方法とか相手を上手く罠にかける話術とか、そんなものも教
わったりした。

「……まぁ、使わないに越したことはないんだけど」

 着物(装備一式は揃えてもらった)の腰に吊るしてある黍団子を確認して、溜息を付く。
 なんにせよこれからやることを考えると憂鬱で仕方なかった。
 鬼とはいえ、怪物とはいえ、人型のものを退治しようというのだから。退治とはつまり、殺すということだ。
 現代に育った俺にそこまでやれる根性があるとは思えない。
 けど、行かなくてはならない。酷いジレンマだ。
 昔はヒーローに憧れていた。
 けど今は、ヒーローすらも悪役に対しての人殺しでしかないと、知っている歳だった。

「それでも、行くしかないか。他に道はないわけだし……夢なら、いつか覚めるだろ」

 そう、これは夢なのだ。
 どっからどう見ても現実と同じ感覚しかないが、起きていることそのものは夢としか思えない。
 だとしたらいつかはきっと覚める。
 それに痛みや意思で目が覚めない以上、この夢を終らせるには『桃太郎』を完遂させる必要があるのかもし
れない。

「はぁ……ちょっと休むか」

 思えば、お婆さんから離れたい一心で朝から休まずにずっと歩きつめていた。
 山の中は涼しいが、じわりと汗が滲む。
 日も高くなったことだしそろそろ一休みでもしよう。
 俺は山道の端っこで適当な大きさの木を探すと、荷車を足場にしてひょひょいっとその枝の上によじ登った。
 着物やら草履やら刀やらがかなり邪魔になったけど、足場があるから割と楽な作業だ。
 焚き火する必要がなければ木の上で休めとはお婆さんの知恵だった。日中でもこの辺りでは容赦なく猛獣が
出るのだ。
 太い枝の上に腰を下ろして幹を背にし、昼飯用のお握りを齧る。
 ひたすらに梅干の味がした。
 まともな飯でよかったと思いながらそれを齧っていると。
 ワンッ。

「ん?」

 なんか、足元で何かの鳴き声のしたような……。
 身を乗り出して木の根の辺りを見てみる。
 するとそこには秋田犬らしいちょっとむっくりした犬がお座りをして、こちらを見上げていた。
 見上げていた、メガネをかけた目で。
 メガネときましたか。

「お初にお目にかかります、失礼ですが桃太郎様でいらっしゃいますか?」

 しかも喋った。

「あ、はい。本名は浅野猛っていいますが桃太郎ってことになってます」

 思わず丁寧語で返事を返し、お握りを口に突っ込んでそそくさと地面に降りる。
 そうしなきゃいけないと思うぐらい犬は礼儀正しかった、どこかのサラリーマンみたいな印象だ。
 俺が目の前に下りるとその秋田犬はぺこりと斜め45度の完璧な角度でお辞儀をし、丁寧に前足で名刺……
らしきものを渡してきた。尻尾に挟んでたらしい。
 『ドッグワークス営業課係長』?

「私(わたくし)野口と申します、どうぞ今後ともお見知りおきを」
「これはこれはご丁寧にどうも。えっと、本日はどのようなご用件で……?」
「はい、実は……鬼ヶ島に住むという鬼はご存知ですね」

 おお、キタキタキタ!!
 早速仲間になってくれるのか!!
 喋る犬でも何でもいい、とにかく一人は心細かったのでめっちゃ嬉しかった。

「その鬼と契約を取ってくるよう上司に言われまして、つきましては鬼と関係の深い桃太郎さんにお口添え願
いたいと思い、お願いに参った次第です」
「えっと、つまり一緒に行きたいってこと?」
「はい、そうなります」
「やった! けど、……契約ってなんの?」
「先方の希望にもよりますが、ドッグフード関連で少々。大丈夫です、私の営業能力ならば確実に取れる相手
です。ああ、退治なさっても結構ですよ、その時は財宝の一部を報酬としていただきますが」

 キランと四角いビン底メガネを輝かせる秋田犬……もとい野口。

「はぁ……、まぁ何でもいいけど」

 とりあえず俺は野口と名乗る犬と握手(足?)をし、一緒に行くことにした。
 別に財宝とやらに興味もなければ独り占めしたいとも思わないし(夢だから現実には残らないし)。こいつ
にはこいつの理由があるのだろう。
 流石に黍団子ほしさに命をかけて戦ってくれるわけがないってことか。
 俺の持ってるのは別だろうけど、それは使いたくなかった。
 とりあえずもう一個のお握りは、歩きながら食べるとしよう。
 頼りになるのかならないのか微妙な線の野口をお供に、俺は再び歩き出した。
 仲間が増えてちょっとだけやる気が出たのだった。

 …………。

 日が出ているうちはひたすら歩き通しでその後に焚き火を焚いて野宿した。
 星がひたすらに綺麗だった。
 そして一日が経過し、朝が訪れた。
 しかしこれだけ歩いても辺りはまだまだ紅葉した森の中だ、けど上り道ではなく下り道になっていたから山
は越えたのだろう。
 野宿の後片付けをして焚き火の残り火を踏み消していると、急に野口がくんかくんかと鼻をひくつかせ始め
た。
 
「どうした、また他社の犬のマーキングでもしてあったのか?」
「いえ、風に乗って少々臭いが……」

 くんかくんか。

「ふむ、間違いありません。このしょっぱくさい臭いは猿、そしてこの錆びた柑橘系の臭いは雉ですね」
「どんな臭いだよ。……って、猿と雉だって!?」
「こっちです」

 駆け出す野口に慌てて付いてい……こうとして引き返し、危うく置き忘れそうになった荷車を引いて再び追
いかける。
 ガタゴトと整備されていない山道でこれを引っ張るのは重労働だが、何故かオンロード仕様だったので引っ
張れないことはなかった。
 野口に追いついてみると、なにやら山道のど真ん中で喧嘩してる猿と雉がいた。
 ギャーギャーキーキーと物凄い声量だ。

「あんたまた浮気してたわね! マジ信じらんないっ! 超キモイよそーゆーのっ!?」
「へっ! 俺だって健康なオスなんだ、発情期に黙ってられるかよ!」

 ファンキーなサングラスをかけたリーゼントの猿と、とんでもなく化粧の濃いガングロ系の雉が。喧嘩して
いた。
 俗に言う修羅場ってやつだった。
 種族を超えた愛は今まさに崩れかける寸前だった。
 もういい、頼むからもう俺に突っ込ませないでくれ。疲れたよ。

「けしからんですね」

 しかしその場に救世主の如く飛び込む小麦色の影が現れる。
 野口だ。
 メガネを輝かせながら二匹の間に割って入っていた、浮ついた話は嫌いなのだろう。きっと。

「まぁまぁ、何があったかは存じませんが喧嘩はよくないですよご両人」
「アーン? 誰だアンタ、こりゃ俺たちの問題なんだよ。引っ込んでろ!」
「てかさー、マジKYじゃねー?」

 ほぼ同時に野口にガンを飛ばす二匹。こんなときは息ぴったりなのね。
 しかしガラが悪いって言うか、ほんと何時代だよここ。KY(空気読め)って……。
 けど、野口は怯まなかった。俺はそこに営業で鍛えた精神力を見た。

「失礼は覚悟の上で申し上げております、お二方とも恥ずかしくはありませんか? 桃太郎様のご前なんです
よ? ああ、申し送れました、私は野口と……」
「「桃太郎!!」」

 二匹が一斉に俺の方を向いた。
 ……ちょっと怖かった。

「えっ? ぁあうん、桃太郎だけど」

 それを聞いた途端二匹が気味が悪いほど擦り寄ってくる。

「いやーーハッハッハ、格好悪いとこ見せちまったな兄ちゃん! けどなんだ、俺たちってこれでも結構愛愛
(と書いてラブラブと読むべし)なんだぜ?」
「やだーー、ウッキーったら♪ もぅ♪ でもぉ、桃太郎さんも超イケメンっぽくなーい?」
「チェ、兄ちゃんと比べてくれんなよ。上杉三郎景虎(昔のイケメンらしい)みてぇな顔してるんだからさ。
よっ! 男前!」

 そして何故か壮絶なコンビネーションで褒めちぎる猿と雉。
 あまりにも白々しすぎて迫力すらある。
 思わず、たじろいだ。

「褒めても何もでないぞ……? 今はまだ何も持ってないんだからな」
「いーーっていーって! そんなんじゃぁねーよ!」

 バシバシと俺の肩に飛び乗って頭を叩きまくる猿。
 そして俺の首に長い手を回し、目の前でピーンと指を立ててみせる。

「けどさぁ、兄ちゃんに一つ頼みてぇことがあるんだ」
「鬼退治ってやつ、あたし達も連れてってー? マジお願い!」
「あーそれはつまり」

 なんとなく、下心が分かった。
 俺もピーンと指を立ててみせる。

「お宝は山分けでいいんだな?」
「よっ! そのとおり! さっすが話が分かる!」
「やっりー! これで機種換えできるわ♪」
 
 分かりやすいというかなんというか、目が$になってるぞお二方。
 というか機種って、なんの。

「分かったよ、連れてくよ。でもちゃんと働けよな」
「「はーい♪」」

 仲良く返事をする二匹。
 ……本当に大丈夫なんだろうか。けれど、いないよりはマシだろう。
 仲間は多い方がいいので二匹と握手(翼?)し。俺は二匹も連れて行くことにした。
 そしてまた歩き出す。
 一抹どころか一抱えぐらいありそうな不安を胸に、俺はお供を三匹ほど引き連れてまた山道を行くのだった。
 旅は一気に賑やかになった、その点だけは少し嬉しかった。
 野口の情報によると鬼ヶ島へはあと二日ほどで到着するらしい。
 ジワジワと状況が整い、近付いてくる戦いを前に一つの疑問が思い浮かぶ。
 ……本当にこの面子で勝てるのだろうか。
 うん、無理だ。考えるまでもない。
 こうなったら鬼もおとぼけキャラであることを願うしかない。
 案外ありそうだし。 

「だからアケミはただの友達だって!」
「ウソ! だったらなんで頬にキスマークついてんのよ!?」
「まじっ!?」
「ほらっ、反応したってことはやっぱり」
「だから違うって!!」
「お二人とも、若いとはいえ痴話喧嘩はみっともないですよ。今のうちに身を固めて定職にですね……」

 暫く歩くとまた後ろで騒がしい喧嘩の声が聞こえてきたが、もう気にするもんか。
 ガタガタ、ゴトゴト。
 ガタガタ、ゴトゴト。
「はぁぁ」
 荷車の音が聞こえる中、もうどうにでもなれと思う俺なのだった。







「よぅおっちゃん、いい船持ってんじゃんか。ちょおぉぉぉっと俺たちにも貸してくれよ、なぁ。タダとは言
わないからさ」
「オジサマ、貸してくれたらあたし嬉しいなー? オジサマのこと好きになっちゃうかも♪」
「我がドッグワークスは水運も手広く扱っております。よく考えてみて下さい、我が社を敵に回してもいいこ
とは有りませんよ? 今後も仕事を続けたかったらの話ですが」
「……ドウゾオツカイクダサイ」

 ……こうして、付近の村から"善意で"船を調達することが出来た。
 優しい人たちだ。
 持ち主のおじさんはかなり涙目だったけど。
 と、いうわけで。
 俺たちは多大な犠牲をはたいて、いざ鬼ヶ島へと出発したわけである。
 ただ、それは楽な船旅ではなかった。
 日本海の荒波に盛大に酔いながら、リバースすること約二回。
 地獄のようなオール漕ぎをすること一時間ぐらい(やつらが手伝うわけがなかった)。
 長い長い船旅の末。
 壮大な景色を堪能する暇もなく、いつしか船は鬼ヶ島の浜辺に乗り上げていたのだった。

「うおおおおぇぇぇぇぇぇっっっ!!!!! えっぷっ」
 
 失礼、三回だった。
 だめだ、世界がぐるぐる回っていてまともに立つことすら出来ない……。
 地面に着いたのに波に揺られている感じがする……ああ、ここに鬼が来たらまず勝てないだろうな。
 こみ上げる嘔吐感を必死に堪えながら口を押さえ、鼻で深呼吸。
 俺は砂と貝殻の上にだらしなく跪いていた。きっと死んだ魚の目をしてることだろう。
 チラッと島の以外にも自然に囲まれた姿を目にしたけど、感動している暇もない。

「大丈夫ですか桃太郎さん」
「大丈夫なように、見える?」
「少なくともあちらよりは」

 野口が前足をさした先……。
 見れば。
 猿は浜辺に埋まるようにぶっ倒れていた、ピクリともしてなかった。
 猿に足を引っ掴まれて空を飛べなかった雉は猿の背中の上でへばっている。そういえば船の上でも喧嘩して
いたような。
 二匹とも見るからに虫の息だった。
 波にさらわれて今にも海の藻屑と消えそうだ。魂が抜け掛かっている。
 お前らもか。
 鬼といわずナマケモノにすら勝てる気がしない。

「……どっかに身を隠して休憩するか」
「それがよろしいですね」

 何故かぴんぴんしている野口に適当な場所を探してもらい、俺は最後の力を振り絞ってバカップル二匹を背
負って移動し始めた。
 幸いこの鬼ヶ島……美世夜島というらしい……はゴツゴツした岩だらけで隠れる場所はいくらでも有る。
 適当な海岸沿いの洞窟を見つけると、そこに二匹を放り込み、俺も中に入って倒れこんだのだった。
 戦う前から、だめぽ……。


 ざざーーん……
 ざざーーん……

 
 洞窟の中にまで吹き込んでくる潮風と波の音が、今では心地いい。
 夕方まで休んでいると流石に船酔いも治り、俺は薄暗い洞窟の中で携帯用の干し肉を齧っていた。
 死ぬほど硬くて、焼けるほど辛くて、悲しいぐらい不味かったが。
 ただ、そんなことも忘れて作戦会議をしていた。
 地面を掘って描いた地図を中心に、野口と顔をつき合わせている格好だ。
 
「雉さんの偵察によると、上空からは根城らしい建物は見当たらなかったそうです。ですが島の側面にいくつ
か大きな洞窟があったらしく……」
「なるほど、鬼の本拠地があるとすれば洞窟の中ってことか」
「そのようですね。噂によれば鬼は夜の闇を好み、若き美男子の肉が大好物で、山のように大きく暴力的と聞
きます。ですのでそれが居住するとなると広大なスペースが必要となりますから、発見した中でも特に巨大な
この東側の洞窟が怪しいかと」
「ここか……けど他のも怪しいな。出入り口は一つだと思うか?」
「思いません、しかし鬼のことですから裏口から入っても正門から入っても同じことでしょう。見つけたら踏
み潰してやる……程度の認識で、見張りなど立てていないかと。ですので正面から侵入すればいいはずです」
「おいおい随分と楽観的だな。論拠はあるのかよ? 見張りぐらい居るかもしれないじゃんか」
「鬼の愚鈍さは有名なことですよ桃太郎さん、そうではありませんか? いつの時代も弱者に悪さをしては正
義の味方に隙を突かれる、それが鬼です。我が社の収集した情報もそれが真実と訴えています、種族的な特徴
なのでしょう」

 野口の言葉はぶっちゃけ過ぎかと思ったが、いわれて見ればそんな気もする。
 不安は拭えなかったがそれを拭う術を思いつかない。
 なので頷き、正面から行くことを決定する。
 野口は俺が頷いたのを確認し、前足で器用に線を付け足した。
 線はこの洞窟を出て海岸沿いをぐるりと迂回し、途中で一つ丸を描き、そのまま洞窟の中へと吸い込まれて
いく。
 潜入経路だった。

「この丸の地点まで船を移動させてから侵入しましょう、軽く落とし穴でも掘っておけば逃走経路としていく
らか安心が置けます」
「なるほどな。それじゃあ鬼は夜型らしいし明てから決行だ、ここに船を移動させて潜入しよう」

 ここまで決めて俺は野口の方を見る。

「というか、やけに慣れてるな。こーゆーのも仕事でやるのか?」
「ハハ、それは企業秘密ということでご勘弁を」

 軽く愛想笑いを浮かべてキラリ、とメガネを掛けなおす野口。
 何て犬(やつ)だ……、本心が読めない。
 もしかしたら鬼より野口を敵に回さない方がいいのかもしれない。
 いやもう鬼は敵に回ってるけど。
 底の見えない野口の笑い方にぞくりとするものを感じ、すぐに視線を外す俺だったが。
 
「それにしても……」

 野口の後ろ、風の当たらない暗がりの方を見る。

「ZZZ……よぅ姉ちゃん、俺と夜のワンダーランドに旅立たないかぃ? ウキキ……」
「やーん、また抜け羽……やめて、丸焼きはいやーん……ZZZ…」

 そこには、二匹の哺乳類がお互いの体を布団代わりにして仲睦まじく寝ていた。
 無理を言って雉には偵察に行ってもらったが、二匹ともここに到着した昼からずっと快眠中で御座いました。 
 何か不公平なものを感じる俺なのだった。


 …………。

 
 頭の中で潜入系ゲームのBGMが流れていた、気分は某蛇のオジサンだ。
 逃走経路に船を移動させた俺たちは静かに、そして素早く、まるで鬼が大口を開けているような洞窟へと入
っていった。
 ……波が岩肌を削ったのだろうか? それとも地下水が穴を開けたのだろうか?
 理科も社会もダメダメな俺には分からなかったが、暗闇の中に飛び込むとそこには意外なほど広い空間が広
がっていた。
 天上はどこにあるのか分からないほどに高く、薄暗い。燭台はあったが蝋燭には火が灯っておらず、片手に
持った提灯と入り口から差し込む朝日だけが頼りだった。
 入り口こそ浜に繋がっているので湿っていたが、奥に進むごとにしっかりと踏み均された地面になっていっ
た。
 人の気配は、まるで無い。
 ただ、整えられた壁や道が、人工物の息吹を感じさせる。

「ウキャッキャッキャ、もう入り口を越えちまったぜ。鬼ってやつもまさか攻めて来られるとは思ってねーみ
たいじゃん?」
「鬼さん油断しすぎーって感じ? これで見た目ブサ系だったら超最悪だよねー」
「おいおいあんまり声出すなって、気付かれたらどうすんだ」
「ハァ? 何言ってんだ桃太郎さんよ、気付かれたら正面から戦うんだろ? あんた桃太郎だろうが、暗殺で
もすんのかい?」
「う。まぁ、それはそうではあるんだけど……」

 正直思いっきり寝込みを襲いたいです。もしくは財宝だけ盗み出します。
 勝てる気がしないもん。
 一応腰に刀は提げているが、金棒と戦って折る自信200%ってところだ。

「その……なんだ、要は財宝さえ持ち帰ればいいんだ。戦わずに頂くもの頂けばそれがベストだろ?」
「チッ、根性のねぇ桃太郎も居たもんだ。なぁ?」
「そうよぉん、もっと骨のある美男子を想像してたのにぃ〜、折角迎えに来てあげたのにガッカリ。これじゃ
詐欺だわハズレだわ意地悪だわっ」
「悪かったなヒョロヒョロの凡人で……、え?」

 いつの間にか、お隣に赤い肌をさらした足がズドーンと聳え立っていました。スネ毛処理も完璧なスベスベ
の大黒柱みたいな、足が。
 まさか、と振り返ってみると。
 鬼。だった。

「でたぁぁぁあああああああ!!!!」
「あら、でたとはお言葉ね。そっちが気付かなかったんじゃない」

 ズザザザザッと飛びずさりながら、その全貌を思わず見上げてしまう。その瞬間冷や汗が顎を伝った。
 ありえないぐらいデカイ。
 その足をつつーー…と、見上げてみる。
 虎皮のパンツとブラジャーが鋼のようなムキムキの肉体を引き立てつつ、……そして首が痛くなるぐらい高
い場所に、牛の角を生やした真っ赤な頭があった。
 その化粧の濃い顔がニッ、と牙を剥き出しにした笑みを浮かべる。
 どっからどう見ても鬼でした、しかもおネエ系。
 おネエ系。

「はぁい、桃太郎さんとお供の皆さぁん、痕煮血我(+ハァト)。赤鬼のベニーちゃんでぇす! 独身二百十
六歳、彼氏募集中だったりっ、キャッ♪」
「………」
「………」
「………」
「………」

 か、勝てねぇ……!!
 勝てねぇよ!!
 なんか知らないけどあらゆる意味で勝てねぇよ!!
 全身に身の毛もよだつような恐怖が走った、刹那。
 「うふ」とベニーちゃんは笑うと、金棒を地面に叩きつけた。次の瞬間に地面が大きく揺れ。
 ――轟音に、耳が破れるかと思った。

「痛っ!!」
 
 ド派手に砕けた岩の破片が当たり、腕に鋭い痛みが走る。
 血が出ていた……。
 ベニーちゃんにしてみれば重かったのでただ下ろしただけの動作だろう、だが俺たちには死刑宣告の鐘の音
が鳴ったように聞こえた。
 これが鬼。
 これが戦おうなんて馬鹿なことを考えてた、相手。
 圧倒的な力の差、なんてものではない。
 比べることすらかなわない、そもそも違う次元の相手だった。そう、例えば象と蟻の力比べと同じ。あんな
金棒を振り下ろされた日には技も装備もへったくれもなく一発でお陀仏だろう。
 勝負にならない。
 俺の三倍は有りそうな高みから、ベニーちゃんは優々とこちらを見下し、指を鳴らしている。
 勝てない、殺される。
 勝てない、無理だ。
 嫌な夢だ。
 これは、とても、嫌な夢だ。
 早く、早く、終ってほしい……今すぐ終ってほしい。
 体がガタガタと震えていた。これが桃太郎なのだ、笑いたくなる。
 しかしベニーちゃんはすぐに攻撃する気配を見せず、それどころか腰を屈めてこちらの顔を舐めるように覗
き込んできた。
 その恐ろしい形相が目の前に現れて、思わず、震えた体すら凍りつく。

「うふふふふ……、でもまぁ、許してあげよっかしら。よく見ればボウヤ可愛い顔してるもの」
 ぺろりと、舌なめずりする。
 異様に長い舌だった、鼻の頭まで余裕で届いている。プリンを食べるのに便利そうだ。
「ムッハー、美味しそうだわぁ……!」
「お、美味しそうって……」

 どっちだ、どっちの意味なんだ!
 いやどっちにしたって絶対に嫌だが!!
 そこに、絶体絶命の危機を払拭するかのように、頼もしい声が響いた。
 それを聞いてハッとなる。

「ウキキ……こりゃ大物じゃんか、見くびってたぜ。仕方ねぇないくぜヤロウども!!」
「承知しました、行きましょう」
「あたしヤロウじゃないもーん! もぅ!」

 鬼を目の前にして一歩も動けない俺に代わって、後ろから動物たちの駆け出す音が聞こえる。
 それは頼もしく、そして勇ましい音。
 そうだ、俺は一人じゃない……!
 こいつらと一緒なら!

「撤退だぁぁ!!!!」
 
 動物たちは一斉に駆け出していた。
 物凄い勢いで走る足音が響く。
 ただし――――出口に向かって、だが。

「って、まてやこらぁっ!!?」

 鬼かお前らっ!?
 しかし振り向いたらもう、誰もいなかった。

「あらあら、薄情な友達ねぇ」
「………」

 まったくだった。

「まぁいいわ、あたしったらボウヤにしか興味ないもの。ね? これから可愛がってあげるわぁ、も・も・た・
ろ・う・さん」

 投げキッスのあと。
 迫り来る、太い腕。
 こっちも体毛処理は完璧だった。
 この瞬間、俺は生きる希望を根こそぎ奪い取られた気がした。


 ………。

 ……。

 …。
  
 ―――ぴちゃり。

 天上から滴った水滴が頬に当たって砕け、その冷たさに朦朧とした意識が呼び戻される。
 ここはどこだ、あれ、俺は何を……。
 ズキリ
 目覚めた瞬間、両の手首に焼けるような痛みを覚えた。
 呻きと共に目を動かすと、両手首はそれぞれ別々に荒縄で縛られ、高い天井から吊り下げられていた。お陰
で皮膚が破れている。
 肩が、抜けそうだ……。
 痛みを感じる中、背中に当たる石壁が際限なく体を冷やし続けている。目の前には人間相手にしてはやけに
物々しい鉄格子が嵌っていた。

「あら、もう起きちゃったの? 意外と頑丈なのね、線が細いからひ弱だと思ってたのに。やっぱり男の子ね
ぇ〜」

 そしてその"内側"に、あの赤鬼がいた。
 それを見た瞬間また震えが走る。
 鍵を開けて中に入ってきたらしい、その手には金棒ではなく黒く長い鞭が握られていた。
 というか見たくは無いが格好も……その、なんていうんだったか。あの、黒い衣装。
 ボンテージ姿になっていた。
 衣装がマッスルな筋肉に食い込んでいて見るも無残……じゃない、世にも恐ろしい姿になっている。

「俺を……どうするつもりだ?」
「あらぁん、見て分からない?」
「分かりたくないです」

 俺は精一杯抵抗しようともがくが、釣られた魚が踊ってるようにしかならない。
 それどころか自分の体重で余計に結び目がきつくなり、血が止まる。そういう縛り方をしてあるのだ。
 赤鬼はそれを見て牙をむき出しにして凶悪な(恐らく自分では可愛いと思っているであろう)笑みを浮かべ
た。
 
「ムッハァー! 健気で可愛いわぁ、前の子よりずっと活きもいいし。お姉さんドキドキしちゃう」
「前の……? そうか、そうやって何人もの人間を食って来たんだな」
「そうよぉ、人間って可愛いんだもの。もう大好き。食べちゃいたいぐらいにね。……まぁ、あんまりにも好
き過ぎて彼氏には愛想尽かされちゃったけど。でも止められないのよねぇ」

 ナンデスト?

「彼氏ぃっ!? いたのかよ!?」

 今日一番の驚きだった。
 ……鬼の世界はあれなんだろうか? 世界は広いのか。

「まぁね、けど、それも昔の話。今は……」
「今は?」
「あ・な・た・に夢中っ、キャッ♪」

 全身の毛穴が全開になるぐらい、鳥肌が立つ感覚がした。
 いろんな色の恐怖が混ぜ合わせて青汁みたいになって、無理やりぶっとい注射で喉に流し込まれるような、
感覚。
 お願いだからそんなにハートを飛ばさんで下さい、それだけで窒息できそうだ。
 死ぬのか?
 死ぬよりも、苦しくて痛くて恐ろしいことになるのか?
 ダメだ、一瞬でも先のことを考えると絶望してしまう。
 夢の中でも、死んだら……死ぬのだろうか?
 いつの間にか赤鬼は目の前に立っていた。
 可愛らしく(と自分では信じて止まないのだろう)ウィンクを一つすると、硫黄臭い息が掛かるぐらいの距
離まで顔を寄せ、ツツー……と太ももから胸元までぶっとい竹の子みたいな指を這わせていく。
 そして身悶えしている俺を尻目に、帯の結び目を解き。
 刀、包囲磁石、弁当箱、……そしてあの黍団子の入った巾着袋と、次々と装備を外していく。
 それだけで、拷問のようだった。

「うふふ……て、あら? なんかいい臭いがするわね」

 鬼は次の段階に行こうと袴(はかま)に手を伸ばしたその時、片手に奪った荷物から甘い臭いがするのを敏
感に嗅ぎ分けていた。
 流石というか、あらゆる意味で食欲旺盛のようだ。
 器用に細い紐を解くと、袋の中から卵の黄身のような形の黍団子がコロコロと出てくる。
 あの黍団子だった。

「あら、あららー、美味しそうじゃない! あたし甘いものも大好きなのよねー、食べちゃお♪」
「ま、待て! 悪いことは言わないからそれは、止めておいた方が――」
「なに?」

 ギョロリ。と、金色の目玉が、俺を刺し殺さんばかりに射抜いた。目線で人が死ぬなら、三回は死ねただろ
う。

「どうぞ、お召し上がり下さい」
「そ。じゃ、いっただっきまーす!」

 もう、どうなっても知らないからな……。
 ああ、鬼の胃袋が勝つか、婆さんの邪術が勝つか。
 可愛らしい動作で(しつこいが本人はそうだと信じている)手を合わせてクネッと腰を躍らせ、……豪快に
袋ごと口の中に黍団子を放り込む赤鬼。
 そのままくっちゃくっちゃとほお張ると、美味しかったのか目が細くなり頬がでれっと緩む。
 暫くその動作が続く。
 やがて満足そうにそれを嚥下すると、器用に袋だけペッと吐き出した。
 そして、雄叫び。
 
「あっっっまぁぁぁーーーーーーいっっっ!!!!!」

 芸能人みたいなリアクションが洞窟を突き崩さんばかりに轟いた。俗に言うカメラ目線で。
 そんなに美味かったのか……。
 そうだよな、甘い団子ほど中には毒があるんだよ。
 赤鬼は叫んだ後も暫くウットリとした表情のまま、どこか遠いお花畑に飛び立っていた。
 目がキラキラしてるまま動かない。

「……だ、だいじょうぶだった、のか?」

 百秒ぐらい間を空けて、猛犬に近付いていくときのような心境で恐る恐る……訪ねてみる。
 訪ねてもしばらく反応は返ってこなかった。
 十秒ぐらい経っただろうか。そこまでしてやっと反応があった。
 ゆらりと。
 赤鬼はゾンビみたいな動作でゆっくりと、振り返る。
 目が。
 ヤヴァかった。

「――ないの」
「はい?」

 空ろな目で、赤鬼がまた近付いてくる。一歩、また一歩。山が迫ってくるかのような威圧感。
 ただ今度は雰囲気が違う。
 文字通り鬼気迫るような形相で――

「ないのっ!! もっと、もっとこの黍団子はないのっ!? ちょうだい、あたしにキビ、団子をっっ、チョ
ウダイ、チョウダァイ!!」
「ガッッ!?」

 首を、絞められた。
 ―――。
 い、き、が……でき……。

「か、…かは……っ!?」
「頂戴、チョウダイチョウダイチョウダイッッ!! きびだんご、――ハァハァッ……きびだんごぉぉ!」
「わ、たす……」
「ホントッ!? チョウダイ、キビダンゴチョウダイ!!」
「から、……てをっ、は、……なせ」

 ぐるりとぐるりと回っている目のまま、赤鬼は身を引いた。
 そのまま足がもつれて尻餅を突く。
 立つのもままならないようだ。お婆さん、あんたって人はなんて物を持たせるんだよ……。

「ッッッハァッ!! ハァーー、はぁ……ふぅ」

 その瞬間生き返った、思いだった。
 そして息を整えながら、焦点の合わない目で見上げている赤鬼のほうを見やる。
 まるでいつか見たお爺さんのような。
 これは……もしかして?
 赤鬼は、ジッと俺を見ていた。

「いいか、これから俺の言うことをよぉく聞くんだ。聞くんだぞ? そうすれば黍団子をいくらでも食えると
ころに連れてってやる、いいな?」

 コクン、と。
 赤鬼は小鹿のように首を縦に振った。
 何度も、何度も。


 …………。


「いやぁーー、ほんっと流石桃太郎の兄ちゃんだ! 俺は絶対勝つって信じてたぜ! よっ、日本一っ!」
「あたしもー、見直したっていうか? 今ちょっとマブく見えるかもっ♪」
「申し訳ありません、あの時は急な仕事の連絡が入ってきたもので。いやしかし流石桃太郎さんですね、私が
ちょっと目を離している隙に鬼を生け捕りにするとは」

 ………こいつらってやつは。
 ベニーちゃんをけしかけて追い払ってやろうかと一瞬考えたが、止めた。
 べつに期待していなかったし、ここまで来る道のりの間に多少なりとも役には立っていたからだ。
 ちゃんと待ってたんだから、その点だけでも評価しよう。
 それに、ベニーちゃんと二人きりの帰り道なんて絶対嫌だった。それがなくなるなら山分けでも安いものだ。

「……お世辞はもういいから、この金銀財宝を運ぶのを手伝ってくれ。そうしたら山分けにするから」
「「「はーい!」」」

 他人の操り方がなんとなく上手くなっている気がした。
 ガタガタ、ゴトゴト。
 ガタガタ、ゴトゴト。
 そして、何日かしてあの場所に帰ってくる。
 しょぼくれた何の変哲もない村の一角にある、魔窟……もといお爺さんお婆さんの家。二人は玄関の前でお
出迎えしてくれた。

「おやま! 生きてますよお爺さん!」
「オオ、スゴイノウ」

 って、それが命からがら帰ってきた人に言う言葉ですかっ!?

「予定では鬼と一緒に黍団子まで食べられて、巾着袋の裏側に描いておいた地図を頼りに鬼がここまで一人で
やってくる予定だったんですけどねぇ」
「ええぇっ!?」
 
 俺、捨て駒ですかっ!?

「まぁ。おまけも含めて生きてるなら別の使い道もできますねぇ。ほんに、喜ばしいこと。今日はご馳走にし
ましょう」

 と、お婆さんは驚きながらも嬉しそうに迎えてくれた。人間不信になりそうだ。
 その瞬間俺は悟ったのだった。
 ……財宝と一緒にトンズラすれば良かった、と。
 お婆さんは笑顔だ、お爺さんも。
 少女のように純粋な笑顔だ。ただし純粋に真っ黒だが。

「さぁ、立ってないで中においでなさい。……クク」

 ここまで来てしまったらもう、逃げられなかった。
 日没を迎える。
 ベニーちゃんはどこにあるか分からない地下室に連れて行かれ、俺は物凄く落ち着かない気持ちで豪勢な夕
食を平らげた。
 因みに動物たちはこの家に来る寸前に財宝の一部を持って逃げ出している、きっと本能が何かを察したのだ
ろう。
 飯を食い終わり、足をだらっと伸ばして旅の疲れを癒すべくマッサージしていると。

「よっこら、せ。ふぅ……歳は取りたくないものだねぇ」

 その真後ろの畳を持ち上げて、お婆さんが出現した。
 バックアタック!
 桃太郎は不意を突かれた! お婆さんの先攻!

「……知らなかった。ここ、忍者屋敷だったんだな」
「忍者屋敷? ほっほっほ、子供は無邪気な発想ができて羨ましいねぇ」

 ……そうですか、そんな生半可な表現じゃ追いつかないですか。すくなくともショッ○ーの秘密基地と肩を
並べられるぐらいでしょうか。
 畳を元に戻してお婆さんはその上に正座した。
 何故か白衣を着ている。似合わない。
 
「さて、と。桃太郎や、ご飯は美味しかったかえ?」
「へ? あ、ああ。今までに無いぐらい凄く美味しかったけど……」

 そこまで言われてハッとなる、もしや、あの飯にもへんなお薬が……!?

「そうかい、それじゃあ次の任務の話をしましょうかねぇ」
「……次の任務?」

 ないよな、うん。多分、そうだと信じたい。
 懐疑的な視線を向けている俺の前に、お婆さんはどこかで見たことのある地図を広げた。
 そういえば鬼ヶ島に行く前もこんな風に地図を広げられて道筋を叩き込まれたような……。

「合流地点はここじゃ。三日後の二○○○をもってこの松の木の下で合流しなさい」
「海……だよな、ここ。何の任務だよ」

 任務とか合流とか、もう突っ込む気力もない俺だった。
 断れないんだからせめて鞭で打たれる前に真面目にやろうと、地図の上に目をやる。
 どうも、海沿いの漁村らしいが……合流ポイントは人のいなさそうな浜辺の近くだった。
 お婆さんは合流ポイントに○印と時間を書き、何故か次は海のほうに印を入れた。

「次の任務は竜宮城への潜入ですよ」

 はい?

「既に海ガメをスパイとして潜り込ませてありますから、漁師に変装して乙姫の財宝と玉手箱を奪ってらっし
ゃい……いえ、頂いてきなさいな」

 いい直さなくていいです。
 次は竜宮城か……。
 
「偽名は、もしかして浦島太郎とか?」
「おやまぁ、よく分かりましたねぇ」
「そりゃ分かるよ」

 次は金太郎とかになるんだろうな。
 俺が勝手にシリーズ化していく運命を呪っていると、不意に……転んだ。体が勝手に倒れたのだ。
 胡坐をかいて座ってたくせに急に力が抜けて、畳に倒れこんだ。
 畳はホコリ臭い匂いと、味がした。
 BGMがあれば今まさに止まって、シン…となっただろう。

「……え」

 全身に力が入らない、どう足掻いても、瞼すら動かせなかった。
 まるで脳と体を切り離されたみたいに、全然動けない。
 そのくせ思考だけが残っていて。
 ああ、何てことだ。仰向けに倒れるんじゃなかった。
 お婆さんのベニーちゃんを悠に超える黒い笑顔を、直視しちまったじゃないか。
 その瞬間俺は全てを悟り、自分の甘さに絶望しかけた。

「今回の働きは中々に優秀でしたよ、桃太郎や」
「………」

 声も出ない、ただ弱々しく辛うじて息ができるだけ。
 それだけなのに全力疾走したかのように息苦しい。
 だがそんなことはどうでもい。
 ただ、目の前のこの極悪なマッドサイエンティストの暗い瞳だけが、純粋に恐ろしかった。
 解剖台に乗せられた蛙の気分だった。
 やっぱり、毒入りだったのか……夕飯。

「これからは使い捨てではなく継続して使ってあげるから安心おし」
「………」

 むしろそっちの方が嫌ですが。

「ただ、そのためには今のままの体では不便でしょう? 色々と使いやすくしてあげますよ」
「………」
「ちょっとだけ、痛いかもしれないけどねぇ」

 一歩、お婆さんがこっちによると。怪しい白衣が揺れる。
 感覚もないくせに鳥肌が立った。
 いやだ、いやだ……っ!!

「大丈夫、最初にチクッとするだけだから……」

 そんな丸太みたいなぶっとい注射器持って何を言うかっ!?
 想像するまでもなく痛いわっ!
 やめろ、やめてくれぇぇぇぇっ!!!
 俺はまだ改造人間になるには若すぎるっ、享年17歳なんて死んでもいやだぁぁぁっっ!!
 そこに、お婆さんが容赦なく腕を掴み取る。

「ほら、捕まえた。さあ――――」

 割り箸並みの太さのある針が肘の裏側を舐めるように滑り、お婆さんは空いた手で血を止める。
 そして。
 ゆっくりと、鋭い凶器のような針の先端が。
 人を悪魔に変える悪魔のエキスみたいなものが詰まってると思われる注射器が。
 肉を貫いて中へと……。

 いやだーーーーーーーーっっっ!!


 ………。

 ……。

 …。

 チュンチュンと、どこかで聞きなれた音と。
 懐かしい匂い。

「いやだーーーーーーーーっっっ!!」
「うわっ、起きてたのアニキっ!?」

 布団を全力で蹴っ飛ばして飛び起きる俺と、蹴っ飛ばされた布団を避けつつも引っ掴んで半回転、そして投
げ返してくる従妹の加奈。
 びゅーん。
 考えるまもなく当社比一.五倍速になった布団が顔面を直撃した。

「ふがべぅ!?」
「せっかく起こしに来てあげたのに、勝手に起きる上に布団を蹴飛ばしてくるとは不届き千万! 天誅と知れ
いっ」

 ああ、今朝は羽毛の味がする。

「ぷはっっ、……って、あれ。……ここ、俺の部屋?」

 見れば、確かに俺の部屋だった、質素な家具がほんのりと佇むだけの四畳半の部屋だ。
 そして目の前で腕を組んでる気の強そうな女の子は、従妹の加奈だ。そういえば居候してるんだっけ。
 鳥のさえずりが聞こえる。
 車の走る音が聞こえる。 
 うん、いつもの朝だ。
 朝なんだ。
 それを確認して、夢から覚めた……ことを。実感した。
 最高の目覚めだった。

「おはよう、アニキ」
「……おはよう」

 泣きながら従妹に挨拶をする俺。
 朝っていいね、多少涙目でも気付かれないんだから。あくびをしてカモフラージュ。
 平和ってこんなにいいものだったんだ……。
 もう鬼退治しなくていいんだ……。
 二十一世紀の日本って素晴らしいよ。
 ひとしきり感動している俺を加奈はちょっと不思議そうに見つめていた。 
 
「やな夢でも見たの?」
「ああ、小説に出来そうなぐらい酷いのをちょっと」
「ふーん」

 容赦なく窓を開け放ちながら俺の顔を見る加奈。それに気付いて慌てて涙を拭う。
 ちょっとかっこ悪い。
 しかしそれも乾いた、冷たい風が乾かしてくれる。

「まぁ、目覚めてよかったじゃん」

 いつもの加奈ならここでもう少し追い討ちが来るのだけど、今回ばかりは察してくれたらしい。
 それだけを言うとさっさと部屋を出て行こうとする。
 と、半分戸を閉めたところで止まり、ひょいと顔を出した。

「アニキー、そういえば今日の朝ごはんさ。昨日の余った桃でいい?」
「ぜったい嫌だ」

 思わず即答した。
 デカイ桃だけはもうこりごりだった。
 覚めない悪夢ほど、恐ろしいものはないのだから。



―了―