※この原稿は「無限のファンタジア」完全終了1周年記念 むげふぁんアンソロジー」(http://mugesoro.dousetsu.com/)に寄稿したものです。よろしければそちらもあわせてご覧下さい。



   『初めての冒険』

 それは、今から13年ほど前の話だ。
 陽気の気持ちよい春のある日、この日もまた希望のグリモアの前で「誓約の儀」が執り行われた。

 ひとつ、自らの民を守り、助ける為の努力を怠らない事
 ひとつ、自らの力を高めるべく努力する事

 「誓約の儀」とは、グリモアとの約束である。グリモアの前でこれを守ると誓うことにより、一般人は冒険者としての力を授かることができる。いわば冒険者となるための儀式だ。
 この日は、とあるヒト族の少年がその「誓約」を行っていた。
 大人の胸丈ほどしかない背中に小剣を背負う出で立ちで、いかにも「ぼくは新米冒険者です!」という雰囲気だ。黒髪黒瞳のどこにでも居そうな少年である。そんな少年でも、志さえあれば冒険者になれる。
 彼は静かに目を閉じながら、神の奇跡の結晶…… 希望のグリモアの前に立ち尽くしていた。
 そして誓約を終えた後も、彼はまるで魅入られたかのように巨大な宝石のようなグリモアを見上げている。 
「ほほう、まだ若いというのにもう誓約の儀を行ったのか。何か急ぐ理由でもあるのかね?」
 そこに初老の男性が声をかけた。きっとこの地の守る冒険者なのだろう。少年の行く末を案じてか『決して平坦な道ではないのだよ』と彼は付け加えた。
 少年はグリモアを見上げた姿勢のまま答える。
「……約束、だから」
 それは母と交わした約束。そして子供なりに一人で生きて行く方法を考えての結果でもある。
 答える少年の瞳を見て納得したのか、初老の男性は年の深みのある笑みを浮かべ、少年に道を譲った。
 すれ違いざまに会釈をしつつ、少年は何かに急かされるように歩いていく。あれほど熱心に見上げていたグリモアの大樹を振り返ることもなく、それはまるで友達に誘われた子供のような足取りだ。
「頑張れよ」
 その小さな後ろ姿を見送りつつ、その背を押すように、先達の冒険者は短く激励を投げた。少年もそれに手を振って答える。
 少年は足早に歩いていく。最果て山脈の麓へと続く街道を。1日も歩けば冒険者の酒場のある街へと着くだろう。
 旅立つ胸に抱えるのは、溢れる希望と、少しの不安。
 それが冒険者の心なのだろうか。
 ただ『何かがしたい』のだと、幼いも強い思いを胸に秘めて。
 歩き出す。
 それがファード・ランズバードが冒険者として踏み出した、第一歩だった。
 
――――――‐‐‐‐

 シャロンは一部始終を目撃していた。

 それはとある日曜日、シャロンがお爺ちゃんの家に遊びに行った日のことだ。
 その日、いつものようにお爺ちゃんとお花の絵を描いていると、夜だというのに玄関から無遠慮なノックが響く。
「お爺ちゃん、お客さんだよ?」
「ああ、そのようだね。……また彼らか」
 いつもは笑顔のお爺ちゃんだったのに、その日だけは何故か困ったような表情をしていた。
 ただ、シャロンに向き直ったときにはもういつもの笑顔で、「お客さんとお話をするから、隣で遊んでおいで」と言った。
 シャロンは大人しく頷く。
 部屋を出たその直後に、何人かがお爺ちゃんの部屋に入ってくる音が聞こえた。
 お爺ちゃんは偉い学者さんだから、こうして大人の人が尋ねに来ることはたまにあるのだ。今日もきっとそうなのだろう。
「次は何を描こうかな〜」
 シャロンは気を取り直して絵筆を握ると、部屋を見渡した。
 お爺ちゃんの家には宝の山みたいに色んなものがある。絵の好きなシャロンにとっては画題の宝庫である、そんなおじいちゃんの家も大好きだった。
 次はあの絵画の女の人を描いてみよう、そう思ったそのときだ。
「ゲホッ! ゲホッ!!」
 激しい咳の音が聞こえた。
 ……ただの咳じゃない、とシャロンは直感した。背筋が冷えるほどの、例えるなら血を吐くような激しい咳だ。
 音は隣の部屋から聞こえたと思うと急に静かになり、代わりに何か重いものが床に落ちる音が聞こえた。
 何かあったのだろうか?
 シャロンは恐る恐る隣の部屋へ続くドアに近付いていく。
「お爺ちゃん……?」
 とても怖い予感がする。この扉は、もしかすると開けないほうがいいのかも知れない。
 意味も分からず全身が震えていた。
 だが、シャロンは大人たちに怒られないようにそっと、ドアの隙間から部屋を覗き込んだ。お爺ちゃんが心配だったのだ。
 その先にあったのは―――― 

――――――‐‐‐‐

 酒場には大きく分けて2つの種類がある。
 ひとつは飲んだくれの集まる酒場、そしてもうひとつが冒険者の集う酒場である。
 ファードはもちろん後者の「冒険者の酒場」の前に来ていた。
 「冒険者の酒場」とは冒険者に仕事を斡旋してくれるお店である、お酒さえ頼まなければファードのような未成年の冒険者でもちゃんと利用できる。
 冒険者が最初にすることはここで依頼を探すことだ。(……と、兄が言っていた) 見れば軒先にはメニューと一緒に『依頼承ります!』と看板も出ている。
 新米冒険者のファードはもちろん此処に入るべきなのだが……
「…………」
 何かに迷うようにファードは入り口で立ち止まっていた。
 恐る恐る入り口に近付くも、入らない。気になって顔だけ中を覗いてみると、やっぱり引っ込める。そんなことの繰り返しをかれこれ半時間近くも続けている。オマケにお客が通るたびに物陰に隠れている。
 そう。彼は人見知りする性格だった。
 今までファードは冒険者である義理の兄と行動していたのだが、このようにあまりにも引っ込み思案であるため、「1人で誓約から依頼まで全部こなして来い、一人前になりたいのならな」と蹴り出されたのである。
 ゆえにファードはこうして1人で酒場に来ているのである。
「……どうしよう」
 誓約のときは溢れる期待感でなんとでもなったが、いざ人の多いところにくるとやはり怖い。これならドラゴンズゲートでグドンに囲まれていたほうが楽だと思うのがファードという少年だった。
 対して酒場の中は明るい活気に満ちており、酒飲み客ばかりでなく老若男女がカウンターで談笑していたり、武装したグループが真面目な顔で相談したりと、実に社交的で賑やかだ。決して入り難い雰囲気ではない、必要なのはちょっぴり勇気を込めた一歩だけだろう。
 でもその一歩が中々出ないわけで。
「おい」
 ビックゥッ! と飛び上がらんばかりに反応するファード。慌てて振り向くと、いつの間にか大男が背後で見下ろしていた。
 でかい、それに強そうだ。でも頭は…… 程々かもしれない。それがファードの第一印象だ。
 居たのは腕組をして見るからに豪胆な雰囲気のエルフである。エルフと言えば華奢なイメージだが、その男は筋骨粒々で肌は浅黒く、オマケに無骨な大弓まで担いでいた。
 変なエルフ、そう思って警戒するファードを他所に大男はニカッと笑う。
「おっとスマンスマン、驚かすつもりはなかったんだ。どうした坊主、ここは初めてかい?」
 ファードが頷くと、大男は「そうか、じゃあ着いて来い!」とファードの肩を掴む。
 そしてそのままズンズンと酒場の中に小柄なファードを引っ張り込んでしまう。
「え、あの。ちょっと」
「よう、リゼル! 新顔連れてきたぜ〜」
「いらっしゃーい。あら、可愛い新顔さんね」
 リゼルと呼ばれたメガネの女性が振り向いてファードを見つけると、彼はビクリと反応してアーザスと呼ばれた大男の後ろに避難した。まるで小動物のごとく警戒心満載な様子にアーザスは苦笑する。
 ファードはその背中からすこし顔を出してリゼルの腕にある霊査の鎖を確認すると、また顔を引っ込める。
「……なんですっごい警戒されてるの?」
「あー、人見知りっぽいんだよこいつ。それか、何か怖かったのかもな」
「失礼しちゃうわね。私よりユリシアさんの方がよっぽどこわ……」

 ―――――チャリ……

「なんでもない、なんでもないわ。うん、ユリシア様はヤサシイナー」
「どっから聞こえたんだ今の音」
 不思議そうな顔をしているファードに二人は揃って「なんでもないったらない」と説明した。
 さて、とリゼルが一息つく。
「で、君はここに何のご用かな? あ、あたしはリゼル、こことか色んな冒険者の酒場で霊査士をやってる冒険者よ」
 彼女は持てる限りの笑顔と愛嬌を駆使し、六角メガネの輝度も落としながら目線も下げて挨拶する。
 するとようやくファードも警戒心が解けたようで、おずおずとアーザスの背中から出てくる。
「僕は、ファード。新しく冒険者になったから、依頼を受けに着た」
 よろしくと頭を下げるファード。人見知りと言えど一度話してしまえば慣れる程度であるらしい。
 おお、初冒険か、初々しいわねー。とリゼルは頷くと、よろしくねと付け加えた。
「オッケー、それじゃ依頼を探してみるわね」
「おう、俺も一緒に頼むぜ。最近派手に使っちまったから路銀が心許なくてよ」
 はいはーい、と手をヒラヒラさせると奥に引っ込んでいくリゼル。そしてすぐに両手に瓦版のようなものを抱えて戻ってくる。
「えーと、グドン退治…… は昨日出発してるし。お宝の発掘…… はガセネタだったし。……あれ?」
「どうした?」
「あははは。ごめん、お仕事無いみたい」
「なにーっ!? ど、どうすんだよ店のツケ来週までに返す約束なんだぞ!?」
「それは知らないけど、最近平和だからお仕事無いのよ」
 因みに現時点ではまだリザードマンの侵攻は起こっておらず、同盟は比較的平和な状態だ。これから10年も経たないうちに世界を巻き込んだ戦いが始まるとは、このときはまだ誰も知る由も無いことである。
 アーザスがボサボサの頭を抱えていると、依頼の束を眺めていたファードがカウンターに身を乗り出し、依頼の1つを指出した。
「……これは?」
 そこには他の依頼に埋もれるように、ひとつだけ『未出発』と書かれた依頼が残っていた。
「ああ、これかー。これ緊急性ないから置いておいたののよね。忘れてた」
「どんな依頼なんだ?」
「えーと、確かお化け屋敷の調査よ。最近誰も居ない洋館に幽霊が出るって噂が流れてて、不気味だから調べて欲しいって依頼ね」
 まぁ何かの見間違いなんだろうけど、モンスターとかだと危ないから酒場に依頼が回ってきたのね、とリゼルは付け加える。
「これ、引き受けてみる?」
「おう、依頼があるなら何だって引き受けるぜ」
「ファード君は?」
「……やってみる」
「オッケー、それじゃあ手配しておくわね」
 リゼルはその依頼書にサインを書くと、依頼の詳しい説明を始めた。

――――――‐‐‐‐

 なんでも、今回の依頼主はこの近辺を牛耳る豪商であるらしい。話によると最近新しい店舗を建てるために空き家を買い取ったのだが、そこにお化けの噂が立ち始めたせいで作業員が怖がってしまい、解体作業が進まなくて困っているとのことだ。
 お化けの正体はモンスターである可能性もあるため、作業員が怖がるのも無理はない。なのでその原因を調査・解決するのが今回の仕事である。危険度の割りに実入りの良い仕事よー、とはリゼルの弁だ。何が起こるかわからないけどね、とも付け加えていたが。
「ほーう、ファードは兄貴と旅をしてるのか」
「うん、でも今は1人。コクトに色々と教えてもらって、そろそろ一人前だから1人で依頼受けて来いって蹴り出された」
「ハッハッハ、蹴り出すとは豪快な兄貴だな」
「上段回し蹴りだった、痛かった」
 どんな兄貴だ、と突っ込みながらアーザスとファードは件の幽霊屋敷へと歩いていく。
「ま、何かあれば俺様に言え! このアーザス様が全て解決してやるからよっ」
 ガーーッハッハ、と笑いながらアーザスはばしばしとファードの背を叩く。豪快と言えばこの大男も大概に豪快である。聞けば里での狩人生活に飽きて冒険者になったのだと言う。聞くほどに本当にエルフか怪しくなるが、とりあえず信頼は出来そうだとファードは思った。背中は痛むが。
 そんな身の上話をしているうちに、件の洋館が見えてきた。
 それは、小さな教会ほどもある立派な建物だ。貴族の別荘だと言われても納得できそうな作りだが、今は誰も手入れする人間が居ないのか荒れ放題である。その石壁には血管のように蔦が這い回り、広い庭も雑草だらけ、一階の窓は全て割れて髑髏の眼窩ののようだ。まさに幽霊屋敷といった雰囲気である。
 オマケに近付いてみると、ガーッ! と大きなカラスが目の前を飛び去っていく。あまりに出来すぎた演出にアーザスは引きつった顔をした。
「おうおうこれはまた…… おいファード、ビビんじゃねぇぞ、こういう所に突っ込むのが俺たちの仕事だからな」
「……え?」
 返事は既に建物の中だった。
「って置いてくなよコラッ!? お前実はお化け屋敷とか大好きなタイプかっ!?」
 慌てて建物に入っていくアーザス。ドアの仕組みなのか、それとも何か別の力なのか、2人を飲み込んだ洋館の扉は独りでに閉じた。
 アーザスは落ち着いた動作でカンテラに灯りを点す。
「へぇ、外観の割りに中はしっかりしてるな」
「最近まで、人が住んでたみたい」
 内部は意外なほどに整然としていた。よくある廃墟のような破損が殆どないのだ、せいぜい窓ガラスが割られて破片が盗まれている程度である(ガラスは高級品だ)。中にある絵画や調度品の類は普通に残っており、明かりさえ点ければ今でも人が住めそうなほどである。
 割れた窓とアーザスの灯りを頼りに暫く探索してみるが、特に不審なものはなかった。
「なんだよ、お化けの「お」の字も無さそうじゃねぇか」
 ズカズカと入り込んでトイレを覗き込んだり厨房を覗き込んだりしながら、アーザスが呟く。
「けど、作業員の人の話だと女の人の声が聞こえたり物が動いたりするって……」
 一応ファードも期待を込めて物置を開けたり書斎を覗いたりしてみるが、何もないし起きもしない。
 やはりただの噂だったのだろうか。2人で更に1時間ほど探索をしてみるが、結局何も出てこなかった。
 探すべきところもなくなり、何か期待していたのかファードが残念そうにため息を吐いた、そのときだ。
『立ち去れ……』
 掠れた、甲高い女の声が、響いた。
 アーザスの長い耳がピクリと動き、視線を送る。それを見てファードは頷き、急いでアーザスの元に駆け寄る。
「誰だっ! 出てきやがれっ!!」
『立ち去れ……』
 思わずファードが耳を塞ぐような音量でアーザスが叫ぶも、不気味なほど反響する声は何度も響く。
『立ち去れ……』
 ロビー、エントランス、食堂、書斎、一階にある施設を駆け回ってみるも、声の主らしきものは見当たらない。どうも、上の方から聞こえるようだが、そもそも階段らしきものは見当たらなかった。
 そうしているうちにも2人が駆け回るのをあざ笑うかのように声は響き続ける。
『立ち去れ……』
 それはもう何度目だろうか。必死で探してるのに見つからない、そのくせ声だけは聞こえる。しかも執拗なほど繰り返してくる。
 普通の人間なら、ここで諦めていただろう。何もない部屋なのだ、対処できることもない、ならば帰るしかないのだから。
 だがこの状況でもアーザスは諦めなかった、というか業を煮やして終にキレた。
『立ちさ』
「じゃぁかましぃ!! こちとらプロの冒険者だ! 誰が帰れと言われて帰りますかいっ!! ぺっぺのぺーっ!」
 声のする天井に向かって中指を突きたてベロベロベーの表情をするアーザス。
「アーザス……」
 この人本気でバカだ、ファードは心底思った。
『ッブ! た、タチサレ……』
「……ん?」
 呆れていたファードだが、声の変化に気付く。
「ねぇ、今ふき出したよね?」
『………』
 声をかけてみると、唐突に不気味な声は消えた。まるで失態を隠すかのように。
 首を傾げるファードを見て、アーザスが得意げに胸を張る。
「どうやら、仕掛け人は人間のようだな。ふっ、どうよこの高度な頭脳プレー! さすが俺様!」
「……あ、本棚の後ろに階段が隠してある」
「聞けよコラッ!?」
 ファードが書斎の本棚の一つに手をかけると、その隙間から階段が見えた。そこにアーザスが加わってフンッ! と力を込めると、滑るように本棚が動き、階段が姿を現す。
 声は上から聞こえていた、と言うことは恐らく犯人はこの上に居るのだろう。
 そう、犯人は幽霊などではなかったのだ。
 そうと分かれば2人は迷うことなく階段を駆け上がっていく。
「何も無いな、よし、上がってこい」
「うん」
 アーザスが顔だけ出して2階の周囲を確認すると、先導して階段を上りきり。それにファードも続く。
 2階は1階よりもさらに綺麗な状態だった。こちらは窓も壊れておらず、せいぜい足元に埃が積もっているだけで今でも人が住んでるような感じである。
 つまり、人の気配がある。
 2人は警戒しながら高級そうな絨毯の敷かれた廊下を歩くと、急にアーザスが屈み込む。先に進もうとするファードを片手で制し、見てみろと足元を指差す。
「これは、人の足跡?」
 アーザスが指でなぞった部分を見てみると、確かにそこには埃を踏んだ人の足跡があった。
「足跡から得物を判別するのは基本だ、覚えとけ。でだ、ここで一番新しい足跡は…… この小さいのか。子供ぐらいのサイズだな、埃の踏まれ方が平坦だし恐らく履いてるのは木靴。貧乏人のガキが調度品目当てに忍び込みでもしたかね」
 そういえばこの人は牙狩人だっけ、とファードは今更になって思い出した。
「と言うことは、犯人は子供?」
「かもしれないし、子供のようなモンスターかもしれない。何にしても油断するな、こっから先は気をつけて進むぞ」
 頷き、ファードはアーザスの後ろについていく。これから実戦があるかもしれない、そう思うと嫌でも緊張した表情になった。アーザスも何気なくズカズカと進んでいるように見えて、片手は弓に手をかけている。
 暫く廊下を進んでいくと、突き当たりに女性の肖像画が見えてくる。そこから左右に一つずつ部屋があるようだ。
「アーザス、あれ。女の人が泣いてる」
「ああん? どうした、そういう絵なんだろ」
 そうじゃなくて、とファードが肖像画の顔の部分を指差す。すると流石のアーザスもギョッとした。
 肖像画の女性の目から赤い液体がダラダラと流れているのだ。
 まるでこちらに向けて怨念を垂れ流しているかのように、とめどなく流れ、それが床にまで達して溜まりを作っている。
 それは背筋が凍るほど不気味な光景だった。いよいよもってアーザスが弓を構え、油断なくすり足でそれに近付いていく。ファードもそれに続こうとした、そのとき。
ブピュッ!
 何か、間抜けな音がした。出がらしのケチャップを無理やり出そうとしたら空気が出ちゃった的な。
「…………」
 無言で近付くと、ファードがその絵画の液体を舐めた。そして何か納得したかのように頷く。
「夕飯はトマトサンドがいいな」
「残念ながら干し肉だ」
 アーザスも肩をすくめる。
 そしてまたしてもネタバレするや否や、赤い液体の流出は止まった。
 少しずつだが犯人を追い詰めているようだ。脅かし方も雑になってきている。
「アーザス、足音が右のほうに行った」
「よし、追うぞ」
 2人は犯人を追って右側の部屋に飛び込んでいく。
 そこは執務室のようだった。大きな作業机のと安楽椅子があり、それを囲うように本棚が幾つも並んでいる。客人を迎え入れるためか、対面になったソファーやテーブルも用意されていた。
 夕暮れがカーテンを橙に染め、吹き込む風がそれをさざ波のように揺らしている。どこか懐かしく、物悲しい光景だった。
 アーザスは油断なく弓を構えつつ、身を低くして辺りを見渡す。
 ファードは籠手をつけた左腕を前に出しながら、アーザスよりも前に出る。即興の隊列だ。
 ……やはり、この部屋に人の気配がする。
 本棚の奥だ。アーザスが声に出さず、口の動きと視線で言葉を伝える。ファードは頷きつつすり足でそちらに向かっていく。まだ剣は抜かない、ファードの剣は太刀に近い形なので抜き打ちが出来るからだ。
 一歩、二歩と近付くのに比例して緊張の糸が高まっていくのを感じる。
 果たして出てくるのは子供なのか、モンスターなのか、それとも……
「う〜〜らぁ〜〜〜めぇ〜〜しぃ〜〜やあぁぁぁ」
 本棚の後ろから白い影が飛び出してきた。
 突進のような勢いで出てきたそれを慌ててかわすと、ファードは抜き打ちの姿勢を取る。
 出てきたのはテルテルボウズのような形で、子供が白いシーツのようなものを被った感じの小柄な幽霊(?)だった。というかまさに白いシーツなのだろう。ご丁寧に両目の部分に穴が開いていて手足も縫い付けてあるが、灯りがある中で出てきても材料モロバレである。そんなものが両手をパタパタ動かしながら迫ってくる。
 しかしその必死の突撃も叶わず、ファードは意外に素早い動きでマタドールのようにいなしてしまう。豚グドンに比べたらこれぐらいは簡単だ。
 ただ、それだけかわしてもお化けは諦めずに突撃を続けてきた。
「はぁ、はぁ…… う、らめし……っ」
「おい」
 そうしているうちに大男はシーツお化けの頭をムンズッ! と片手で掴み、ポーイッ! と擬音が付きそうな勢いでそのシーツを剥がしてしまった。
「きゃんっ」
 剥がされ、その勢いで尻餅をついたお化けの中身は…… 女の子だった。
 年の頃はファードと同じぐらいだろうか。身なりは質素なものの、どこにでも居そうな可愛らしい感じの少女である。相当走ったせいか肩で息をしていて立ち上がるに立ち上がれないといった様子だ。
 流石にモンスターではなさそうである。
「あの、君。どうしてこんなことを……?」
 ファードが心配して手を差し伸べてみるも…… 少女は親の敵のように彼を睨み、叩きつける様にその手を弾いた。
「触るなっ、どろぼうっ!」
「……どろぼう?」
「そうだっ、お前たちはまたお爺ちゃんの家を横取りしに着たどろぼうなんでしょっ!」
「いや、僕らは」
 問いかける間もなく、少女は困惑するファードを押しやり、ふらつきながらもアーザスの足にしがみついた。
 まるでこの先には一歩も行かせないと言うように。
「お爺ちゃんに、手を出すな……っ! 帰れ、……どろぼうっ! ……かえれぇぇっ!!」
 その様子があまりにも必死で、アーザスは一歩も動けなくなっていた。
「おいおい嬢ちゃん、俺たちは味方だ、冒険者だ。……つっても聞いてくれなさそうだな」
「嘘だもんっ! 大人はみんな嘘つくもんっ!」
 アーザスは困ったように頭をかくと、オイ助けろ、とばかりにファードの方を見た。
 振られてファードの方も少し戸惑ったが、このまま何もしないわけにもいくまい。今まさに困っている子が居るのに何もしないのは冒険者ではない。考えた末に、ファードはまず話を聞くことにした。
「そのお爺ちゃんに、何かあったの?」
「殺されたっ、殺されちゃったんだ……っ! 毒を飲まされて…… それからここには泥棒しか来ない。だからもうみんな、追い払うんだっ……!」
 だから、あんなふうに脅かしていたのか。ようやく事件の全貌が見えてきた。
「どんな人が着たの? 僕たちみたいな人?」
「……違う、偉そうな服を着ていて、帽子で顔を隠していた」
「だったら、僕たちはその人たちとは違うよ。僕たちは冒険者なんだ、領民を襲うことなんてしないし出来ないし」
「嘘だっ! だってさっきその剣を構えて……っ」
「……じゃあ」
 ファードはするりと腰の小剣を抜き放と、少女の眼前に突きたてる。キンッ、と子気味良い音がした。 
 それを見てビクリと少女が反応する。
「な、何する気! 脅されたって怖くなんて――」
「ふっ!!」
 そのまま、愛剣をへし折った。
 少女は目を丸くする。
「僕たちは、君にも、そのおじいちゃんにも、危害を加えない。信じて欲しい」
「……」
「それで、えっと。良かったら何があったか、もっと詳しく聞かせて。僕は君の、力になりたい」
 敵ではないことを何とか伝えようと、ファードは少女に向かって一生懸命に言葉をつむぐ。
 人見知りとか言葉が下手とか、そんなことは関係ない。心を込めて話せば伝わるんだと、そう信じて。
 ひたむきに、真っ直ぐに。
 それが彼の信じる冒険者の姿だから。
 ……伝わった、だろうか?
 見れば、少女は戸惑っているようだった。切羽詰った状況でいきなりやってきた男2人を信じるか、信じないか。迷うのは当然だ。
 だからファードは、もう一度その手を差し伸べた。
「大丈夫」
 少女はその手を見つめた。
 自らの剣を折り、代わりに自分へと差し伸べられたその手を。
 迷った末に…… その手は、掴まれた。
「僕はファード、君はなんていうの?」
「……シャロン」
 ファードはその手をしっかりと握り返し、笑みを浮かべる。……いつかファードが初めて出会った冒険者が、彼にそうしたように。
 その手の暖かさ、これが冒険者の背負う責任なんだ。
 それは誇らしく、暖かくもあり、そしてとても重いものだ。だから笑みを浮かべるのだと、ファードは気付く。
 決して傷つけてはならないものなのだから。 
 ファードはシャロンの手を引いてとりあえずソファに座らせる。すると、彼女は今まで溜め込んできたものが堰を切ったかのように大粒の涙を流し始めた。
 そして涙ながらに、今までの経緯をぽつぽつと語り始める。
「お爺ちゃんが、悪い大人に毒を飲まされたの……」
 それはたまたまシャロンが此処に遊びに来ていた日だった。あの日、客人が来るからといって隣の部屋で遊んでいたシャロンは、この部屋で誰かが咳き込んで倒れる音を聞いた。
 心配になってドアの隙間から部屋を覗きこんだら、お爺ちゃんが胸を押さえて倒れていた。そしてその周りには何人かの大人たちがいて、偉そうな男が命令して何かを探させていた。
 泥棒だ、シャロンはそのときそう思ったと言う。でも自分が飛び込んだところで何もできないことは彼女にも分かった。
 だから苦肉の策として孤児院の友達とやっていた「お化け屋敷ごっこ」をやってみたのだ。それで思いのほか大人たちは慌てふためいたのだと言う。
 大人たちはそのまま何かを探すのをあきらめて急いで逃げていった。
「プロでもなきゃ人殺しの後は神経が過敏になるからな。そこに得体の知れない声が聞こえたとあっちゃ、そりゃ逃げるだろ」
 アーザスがそう付け加える。……でも、とシャロンは続ける。
 大人たちに言っても犯人は捕まらなかった、それどころかお爺ちゃんが亡くなったのは持病の発作が酷くなったのが原因だと言われたのだ。
 恐らくは発作を引き起こす強心剤などを使ったのだろう。だが証拠がなかった。シャロンの証言も子供だからと言う理由で憲兵には届かなかった。
 シャロンはただ悔しくて泣きはらしたという。
 それから、シャロンは大人を信用しなくなった。
 そして…… 幾ばくもしないうちに、この洋館は不自然なほど急に売りに出され、それをある豪商が買った。それから怪しい男たちが洋館に出入りするようになったという。それを見かけたシャロンは慌てて洋館に忍び込み、大人たちを脅かして追い払うようになったのだ。
 それが毎日、毎日と続いた。
 そこまで語り終えて、シャロンは崩れ落ちるように両手で顔を覆う。
「どうすればいいの……」
 ファードは何とか元気付けようとその背を摩るが、具体的な言葉が出てこない。この手の事件に関しては彼もまだ経験が少なく、シャロンと同じ程度の考えしか思い浮かばない。
「依頼人の豪商の人が怪しいと思うけど……」 
「ああ、だが証拠が足りねぇ。急にこの家が売りに出された経緯なんかをせっつきゃ何か出てくるんだろうが、その程度じゃだめだ」
「うーん…… 大人たちが何を探してたのか、分かる?」
 シャロンはいったん首を振るが、何かを思い出したかのように呟く。
「この家がどうとか、言ってたと思う」
「この家に関係するもので、この部屋の中を探さなきゃいけないものか」
「探してみよう、シャロンも手伝ってくれる?」
 彼女が小さく頷くのを見て、三人は手分けして部屋の捜索を始めた。
「あいつらは机の上とか、引き出しとかを調べてた」
 シャロンの言葉に従って、まずは執務机の周辺から調べていく。机の上には山のように辞書や建築物に関する研究所が積まれていて、その"お爺ちゃん"が余程の知識人であったことが見て取れる。
 アーザスなどはその中の一冊を手にとってパラパラめくるだけで一瞬眠っていた。「未知のアビリティだぜ……」とか言っていたが絶対違うとファードは思った。
 引き出しを全て引っこ抜き、鍵があるものも強引に壊して取り出し、中の書類全てに目を通していく。
 最近字を覚えたばかりのファードだったが、それでも事件にはあまり関係無さそうな書類ばかりだということは分かった。
「ないなぁ……」
「お! これじゃないか」
 鍵の掛かった引き出しを強引に開けていたアーザスから声が上がる。その手にあるのは、小さな封筒だ。見たところ何の変哲もない封筒だが。
 アーザスはそれを開くことなく、シャロンへ渡した。
「『シャロンへ』って書かれてるぜ」
 シャロンは若干面食らった表情をしながら、ゆっくりとその封筒を開く。中には折りたたまれた手紙が入っていた。手紙を開くと、そこにはシャロンにも簡単に読める文字でこう書かれていた。
『この家をふくめ、私のいさんはすべてシャロン・フォークナーにゆずるものとします。こじいんのみんなと、仲良くくらしてください』
 裏側には難しい法律に則った文章で遺産相続について書かれており、最後に血判とサインが書き込まれている。
 そしてその中にはあの豪商の名前も書かれており、彼が遺産を狙っているので気をつけるようにとの記述があった。お爺ちゃんは、全て気づいていたのだ。
 シャロンはそれを最後まで読むと、大事そうにその封筒を抱きしめる。
「遺言書か、確かにそんなものがあったら空き家を掠め取ることもできねぇな」
「……アーザス」
「大丈夫だ、そいつはリゼルのところに持っていけば上手く取り計らってくれる。だから心配すんな」
 ポン、と、アーザスはシャロンとファードの頭に、その大きな手を乗せる。
 そしてこういった。
「後は任せとけ」
 その言葉。そしてファードが「帰ろう」と差し出した手。
 それらを得た少女が再び泣き出すまで、そう時間は掛からなかった。
 シャロンは封筒を大事に抱えると、3人は手を繋いで冒険者の酒場に帰っていく。
 
 余談だが、アーザスは後にその豪商の邸宅に殴りこみ、豪商をフルボッコにしたうえで遺言書を突きつけて犯行を自白させるという凶行に走る。ファードもその補助に当たったのだが、せいぜい豪商が再起不能になる前に憲兵の下へ連行するぐらいしかできなかった。
 凶悪な笑みを浮かべながら守衛の男どもを薙ぎ倒すアーザスを見て、ファードはこんな冒険者も居るのかとしみじみ思ったと言う。
 以上が。ファードが1人の冒険者としてこなした、初めての冒険のあらましである。

――――――‐‐‐‐

 その事件から十余年。
 ファードは冒険者としての活動を続け、やがて星煌騎士団の副長となり、あの六年も続いた戦いにも身を投じた。
 その戦いの中で、兄と慕ったコクトは命を落とした。
 だがその一方で、アクアラルという女性に出会った。
 アーザスは今でもあの調子で冒険者を続けていると言う。
 シャロンはなんと一児の母になったという手紙がきた。

 ……そして、今。

 ファードは冒険者としての一線から身を引き、戦場復興活動を行う集団のリーダーとして働いている。
 毎日が忙しく、冒険者として戦いに身を投じたときとは別の苦労も多い。だが人々を支える仕事であることは変わりないと、彼は思っていた。
 冒険者を辞めたわけではない。有事の際はもちろん戦うが、今は戦いよりも人々に必要なことがあると考えている。
 だから、こうして冒険者の酒場に顔を出すのは久々のことだ。
 なぜ今日になってこの場所に顔を出したかは分からない。ホームシックにでもなったのかな、とファードは内心苦笑する。
 久々にリゼルやアーザスといった面子の顔を見たかった。それに冒険者としてはユリシア様の今後の動向も気になるところではある。
「……ん?」
 だが、酒場の入り口には先客がいた。
 扉の後ろに張り付き、心臓をバクバク鳴らせているような表情で恐る恐る酒場の中を覗いている、小さな男の子だ。
 その背には一丁前に小剣が背負われている。
その様子を見て、ファードは悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「キミ」
 ビックゥッ! と飛び上がらんばかりに反応する少年。
 警戒心も満載に振り向くその表情を見て、ファードは思わず声を出して笑ってしまった。
「ゴメンゴメン、驚かすつもりはなかったんだ。どうしたの、ここは初めてかな?」
 少年は物怖じするように一歩下がりながら、それでも逃げずにこくりと頷いた。
 一緒に入ろうか、ファードが促すと、少年はもう一度だけ頷いた。
 恐る恐る酒場の中に踏み出す少年。それにファードも続く。

「やあ、リゼル。新しい仲間を連れてきたよ――――」