<霧に沈む理想郷>  月光は霧散した。  陽光は存在しない。  星の光は、ただ幽(かす)かに。  夜風は無常に霧を乱す。  そう、世界は霧に覆われていた。  常夜と霧の世界、それが全てだ。  霧の遙か上方に在るであろう満天の星空も、霧の足元に咲くであろう明美な月光花(メ トークス)も、只々闇の懐の深さと月光を鏤(ちりば)めし霧の美しさには敵わない。  薄い霧は常に喉を潤し、永遠の安楽を約束する。  濃い霧は常に邪を隠し、自身の罪悪を隠蔽する。  隠す事で美しく在る場所。  それが永遠に続く場所。  ただ霧が在るだけの場所。  そう、世界は全て夜の霧。  ここは霧に沈む理想郷である。  それが彼女の全てであり。  それが彼女の認める『唯一』であった。    月光花の花飾りを全身に纏った少女……、銀でもなく、金でもなく……、只、緩やかな 虹色の髪を揺らして。  彼女は歌う。  思いを伝える手段であるはずの歌、しかし歪かな。     彼女の歌は。      届ける相手が居ないのだから……。 「流れよ  流れよ我が血  枯れた涙の代わりになるならば  私にはもう何も無い  血脈もやがて枯れよう  嗚呼  嗚呼    独りは辛い  独りは寂しい    独りは空しい  独りは悲しい  この手に縁が有るならば  骸を砕き歩む旅路も変わるのだろう  されど周りは霧の迷い道  差し伸べた手は遠く交わらず  嗚呼  嗚呼  何故  何故  悪女の女神はきっと美を司る  だって誰かを惑わし私を貶めるこの霧は  こうして卓絶に美しい  血を吸うサクラの如くに」    安楽の死世界にて少女は手を伸ばし、それは空を切り、そして歌う。  涙の色はまだ無色。  それは乾くより先に霧の中に消えて行く。  また一つ、極彩にして無色な霧はその濃さを増す。 「ゲップ」  ……ん?  今なんか作者が雰囲気壊すなとか言って激怒したような気が……? ま、気のせいだな。  俺は今月7回目となる昼食のインスタントラーメンを食べ終わると、缶コーヒー(アウ ト・ロー≪無糖≫)を飲み干してポーンとゴミ箱にシュートする。  因みに今月はまだ、中盤だ。 「…………」  イソイソと外した空き缶をゴミ箱にダンクする、この瞬間ほど空しいものは無い。  一滴残らず飲み干す貧乏性で良かった、ちょっとでもゴミ箱の周りが汚れてると清掃の 竹内さん(46)がネチネチと煩いからなぁ。  そのまま何食わぬ顔で戻ってはバスン、とあてがわれた椅子に腰掛ける。因みに。伊達 に三十路後半をやってない、平よりは2,3レベル高いクッションが装備された椅子だ。  ただ未だに『cc』のロゴにコーヒーを溢して出来てしまった染みはしっかりと残って いるので、どこかみすぼらしい。  そんな事は別に良いのだが、どうせ俺自身パッとしない課長補佐だしさ。  っと、自己紹介がまだだったな。  俺は原田 憲弘(はらだ のりひろ)、こー見えてcc社管理部門監査部の課長補佐をや っている。………くせに何故か恵まれないんだよな、職場環境とか上司とかに。  時刻は午前二時。  こんな時間になると嫌な上司兼嫌な後輩を兼任しているスーパー人間の柴山と、お付の 斉藤くらいしか残って無いだろう。  残業といえば残業。今日も今日とてバグを修正していたのだが、それがサーバーの転送 装置に関わるものだったので修正に偉く時間が掛かっちまったと言うわけだ。  かー、仕事熱心だね俺って。  ……三島め、長くなると踏んで逃げやがって。  だが、それもここに来てようやく終わりだ。  ダンッ、とフィニッシュにEnterキーを叩いてン〜〜〜ッ! っと、思いっきり伸びを する。   「よっしゃぁーーー……! 仮眠室への移動許可GETぉ……」  ああ、仮眠室なんてホントはお世話になるべきじゃないのに。  何でこんなに愛着が湧くのだろうか?  なんで我が家の寝室は寂れる一方なのだろうか?  そこんとこどうなのよ、柴山よりも数ランク上に嫌な上層部の皆さん方。 「残念ながら、移動許可は剥奪させて頂きます。緊急のエラー報告が届きました、引き続 き修正作業を宜しくお願いします。原田先輩」  ……やっぱりコイツが一番嫌いだ。  少しは遠慮しながら遠回しに言っておくれよ、柴山…。 「今日じゃないと」 「ダメです」  鬼、鬼だ。  この目の回りに浮かんだ隈が目に入らぬかっ。  ……よく見たら柴山の方がレベルが高かった。くそう。 「わぁった、わぁった、睡眠時間の為にもスピーディに解決するから睨むなって。お前も 早めに上がっとけよ」 「お気遣いどうも」  言う事を言ったのかさっさと柴山はドアに手を掛け。  思い出したかのように降る向く。 「――ああ、最近新人が2人ほどPCを削除され返された事例が有りました。先輩に限っ てそのような事は無いと思いますが、眠気で手元を狂わせないようお気をつけて」  いつもの調子でサラッと言っては自分の持ち場に戻っていく柴山。  あの声はもう二仕事ぐらい有るな。  またこの前みたいにぶっ倒れなきゃいいんだが……。  ったく、ユーザーが喜ぶのは良いんだが、大抵そういう時ってこっち側は大ダメージを 蒙るんだよな。  世の中幸せな奴が居れば必ず不幸せなやるが居る、大規模アップデート様様だぜ。  はぁ………、しゃぁーない。 「やりますか」  内線を繋いであるcc社特製のFMDを被る。  んで、The Worldを管理人権限を持ったデバッグモードで立ち上げる。  パソコンのスペックもソフトも特殊仕様だがログイン画面は実は市販のとそんなに変わ らなかったりする。……凝ったのに変えてる余裕も無かった、というのが現実ってもんだ。  ボタン一つで面白みの無いソース画面に切り替わるのである。  お馴染みの剣が突き刺さるモーションを経て、俺は眠気を訴える瞼を優しく顔面びんた という方法で叩き上げ、ログインした。  いつものことである。  こうして、俺は原田から重槍使いアラートへと変換する。  三十路の腹たるみ気味のオヤジからムキムキダンディなナイスガイへと大変身。いや、 大変身しなくたってナイスガイだが。    ログインしても俺の場合ルートタウンには出ない。  これは管理者権限と言う訳ではなく、ホームを持つ上級者の特権だ。と言う訳で俺はホ ームに出現する。  ズルはしていないのでいくらか安っぽいホーム、だが、否、だからこそ愛着のある我が ホーム。  ダークレッドの絨毯にブラウンのふんわりしたソファー、そして暖炉に厚手のカーテン ……まぁ、そんなところが俺の趣味である。  俺はいつものようにドカリとソファーに身を沈めると、報告書を取り出す。  黒い報告書。  何処となく不気味なそれには白く浮かび上がる文字で淡々と情報が記されている。これ から行くべき場所も、これからやるべき事も。 「えーと……、【Δァ;‘pん= 霧@  ̄¥ゥ>@_う】? 何じゃこりゃ、こんなんで エリアに飛べるのかよ」  だが、確かに報告書にはそう書いてあった。  こりゃなんなんだー、って聞きたい所だが誰が書いたのかは分からない。  cc社の重役だってプログラマーだって、この【手紙】を書く奴のことは知らないのだ。  いつの間にか届いていて、何故か放浪AIの居場所を知らせてくれる協力者の【手紙】。  その真意は謎で、このこと自体cc社は重要機密にしている。つまり下っ端は知らされ ないようなことっつーわけだ。  只言える事が有るとすれば、送り主は人の睡眠時間を省みない馬鹿野朗ってーことだ、 絶対ロクな奴じゃない。  とにかく、さっさと終わらせたい俺は管理者権限であるリープ機能(その場でワードを 打ち込んで移動する機能)を起動させ、さっさとそのわけの分からないワードをコピー& ペーストで貼り付けるのだった。  いつもはやらないんだが、今日は眠いので自分に許可。  一瞬、黄金の輪が出現しなかった。  やっぱりダメだったか……とヒヤッとしていたら行き成り黄金の輪が復活して俺の身を 包む。  時間差攻撃か?  この時間帯ならそこまで込みまくってる筈は無いんだが、と言うか管理者の移動はユー ザーよりも優先順位が高いので込んでいても遅れることはない筈だ。  少し嫌な予感をしながらも、俺は成す術もなく転送されていくのだった。  見慣れたホームの景色が歪んでいき、急速に暗転する。    ………。  しかし一向に、転じた暗から立ち直らない。  フリーズでもしたのだろうか……、そう思って試しに辺りを見回してみる。  右も左も真っ暗だ。  真っ暗なんだが……。 「はーー、ゲームの中でも目が慣れるって有るんだな」  時間が経つにつれて、それが真っ暗なのではなくただ単に暗いだけだと気付いた。  霧だ。  元々夜のエリアな上にかなり濃い霧が立ち込めてるから途轍もなく暗く見えたのである、 だが人間の目ってやつは偉大なもんでそれでも慣れればある程度見えてくる。    そこは悲しい場所だった。  足元には仕様書にも載って無い儚げな白い花、大地は黒ずんだ赤茶色。  空には多分満天の星空、ただしぼやけて何がなんだか分からない。    悲しいが、それでも美しい世界。  夜露に濡れた白い花には希望とも言えるほんの僅かな輝きが宿り、暗黒とも言える深い 霧は夜空の光を抱き込んで闇に艶を持たせている。  悲しい思い出を美化させて嘆きたくなるような場所だった。  何故だろうか、わけもなく悲しくなる。  霧の向こうには霧しかない。そんな虚無が心に虚脱感を生み出し、記憶から意味のある 痛みを引き出そうとする。  とにかくどんな手段を使ってでも自分がここに居るのだと確かめたくなる、だから痛み を求めてしまうのだ。  暗いのに眠くすらならない状況、と言うのが異常だ。  本能がここには静かな危険があると告げている、いや、元より仕様書には全く無いエリ アなのだ。  静かどころかいつバグに汚染されるか分かったものではない。危険はバッチリとそこに 有る筈だ。  勿論の事のように縮小マップは表示されない、エリアのステータスも開けない。ついで に言うと何故かログアウトの項目も消えている。  ははは、やっべぇ。  何だか知らないがいつの間にかエラーだらけだ。  試しにソース画面にしてみたら、わけの分からないプログラムがびっしりと表示された。  どれもとんでもなく複雑な記述で……つーか人間が書いたとは思えない支離滅裂な書き 方でとても俺ではいじれそうにない。  ここの雰囲気に圧倒されている間にエラーに染まってしまったらしい、発生する前に止 めるからアラート(警告)っていうPCネームにしたのにこれでは面目丸潰れだ。   「でーい、取り合えず進むしかないな」  何しろどれだけ見渡しても霧しかないのだ。  どこかにこのバグの原因である放浪AIが居るはずなのだが、見て見つからないなら手 探りで探すしかない。  とにかく俺は霧を掻き分けるようにして、ちょっと気を使って花を踏まないように進ん で行った。何となく、汚してはいけないような気がするのだ。  灯りになるようなものは何もない、本当に視界は霧ばかりなので俺は唯一表示される座 標だけを頼りに足で地形を把握する。 「誰かーー、居たら返事しろー!」  我ながらアホな方法だが、そんな言葉を叫びながら。  叫ぶアホウに答えるアホウ。  これで見つかったらそいつこそ俺以上の本当に真のアホなんだろうな。  まぁ、やらないよりはマシ。  そう思って俺は一抹の空しさを感じつつも、この漆黒のエリアをリアルだったら寒いだ ろうなーとか考えながら歩いていく。  因みに声量には少々自信がある。  極偶に同僚を引き連れて行うオールナイトカラオケ地獄では、毎回俺の番になると張り 切れんばかりの拍手(恐らく自棄)と全員一致の笑顔(統一的苦笑)が贈られる程なのだ。 (影でジャイ○ンと呼ばれている)  そんな訳で石焼芋のおっさんみたいに練り歩く。自分の存在を誇示して歩く。  俺としては存在に気がついて逃げてくれた方が有り難いのだ、見つけてしまったら削除 するしかないのだから。  怯えて逃げる奴を消していくのはどうも正しくないと思う、だから俺はこういった行動 を取っている。もっとも、立ち向かってくる相手には容赦しない。  騎士はお互いに剣を構えたとき、初めて戦いを始めるのである。    歩く、歩く、迷う、歩く、迷う、迷う  霧は……、何処まで歩いても薄くなる気配すらない。  闇も晴れる事はなく、足元の花も途切れない。  まるでこの世界は永遠に美しいのだと思わせるかのように、いつまでも同じ場所が少し ずつ違って次にある。  俺がソフトウェア開発部門の人間だったら間違いなく『手抜きだー!』と作った奴を叱 り飛ばしていただろう。そのくらい長くそれが続く。  すると ―――独りは寂しい  ……どこからか、そんな声が聞こえた。  歌うようなリズムでそれは、消え行くような儚くも美しいガラスの鈴のような声だ。  つまり、悲しい声。  一晩中泣き腫らした少女が何もかも諦めて最後に呟くような声。  問答無用に涙を誘われた。  この世に魔術と言うものが有るとしたら、多分この声はそんなものの一種なのだろう。  あの歌声は純粋に、ただ純粋に悲しすぎる。 ―――独りは悲しい  ガツンと頬を殴る。  あ、舌切れた。  ともかく、眠すぎて眠気を感じないくせに催眠にはかかりやすくなっていたらしい。  気合を入れ直すと俺は『振り向いて』そのアホに言った。 「誰か、居たみたいだな」  いつの間にか霧の中に有った陰がピクリと揺れた。  その右手辺りには僅かな、……刃物特有の輝きがある。形状からして刃渡り20cm程 度のナイフだろう。  まぁ、状況からしてアレでブッスリいこうって腹だったのは見て簡単に予想できる。  相手さんはまだ俺が気付いた事に驚いているようだった。 「なんで……」 「昔から勘だけはいい人間でね、刃物を向けられると何となく分かるんだよ」  実際は緻密な計算と戦闘経験の賜物なのだが、ここは格好を付けてこそナイスガイ。  こういった不断の努力がいい男を作り上げるのだ。  ニヤリとダンディな髭を曲げて笑うアラート。  対して隠れる必要のなくなった相手……虹色の髪をした少女はその姿を現して、これ見 よがしに不快そーな顔をなさった。  そんな顔も可愛いと思わせる美少女なのだが、どこか薄幸な雰囲気は闇に溶けていた事 も納得しそうなほどのものだった。  彼女が明るく笑ったら、周りはどれだけ幸せになるだろうか。  ふとそんな事まで思わせられる、引き寄せられる美貌。  たかがバグ、……なんて切り捨てるのはおおよそ不可能なほどに人間らしさの感じられ る深みのある表情だった。 「……あなた、強いわね」  少女は本当に残念そうに言った、その一言一言が崩れ落ちそうなほどの危うさを孕んで いて。  思わず返す言葉を忘れさせる。 「可哀想、きっと最後まで苦戦して苦しんで死ぬわ」 「……って忘れてられるかい! 決め付けるなって、『人生終始楽勝ムード』ってのが俺の 自慢なんだからな」  嘘ですよ、へっ。  どうせ俺は人生負け組さ、負け組キャプテンさ。  だがそれでもこの寒空の下で生きてるんだ、今更不吉な事を言われたって屁でもないぜ。 言い返してやった。   「………」 「突っ込む所だ、そこは突っ込む所だっ!(泣」  くそぅ、これだからシリアスなキャラって奴は……。  無理やりギャグに引っ張ろうとしてみたが、所詮無駄な努力だったらしい。  少女は相変わらず無常情なのにとんでもなく悲しげにしている、涼しい顔を通り越して 寒々としている。  笑った表情、見てみたかったんだけどなぁ。 「構成情報解析………完了。構築パターン・タイプ3………完了」  俺の周りで、風のせいでうねり続けていた霧が水を打ったかのように静かになった。  その癖にうねり続けていた影は止まらずに。 「実働、開始」  そのまま、少女の声に応じて3つ確固たる存在へと変化した。  まぁ、この状況からしてどう見ても敵だろう。  大きさは俺と同じぐらい……いや、俺と全く同じか?  3つの影は全く均等な動きをしながらも、まるで糸人形でも操っているかのようにユラ リクラリとバラバラに移動して俺を取り囲む。  その動きは有る意味滑稽だが、速さだけなら俺と殆ど同じだ。見るからに手強い。  と言うか、よく見たら黒いだけで俺と全く同じ形をしてるし。  さっき影が動いたかと思ったけど、なるほどそういうことか。  気付いた時には、もう遅い。  3つの影は同じ構え、同じ武器で、同じスキルを発動させていた。  3つの槍は白光を放ち輝き、間違いなく3つとも俺に狙いを定めている。  三角を描いて囲まれている立ち位置の関係からして前後左右どこに逃げてもヒットする。 突き出し過ぎても仲間には当らない。  そんな状態で発動させるスキルなんて一つしかない。 「デバッグスキル、『神槍ヴォータン』……!」  影は、俺と同じ性能をしているらしい。それが3つ。  反則だろそれ。  こうなったらどう足掻いても避けるしかない、俺はとっさにコマンドウィンドウを表示 させて管理者専用のウィンドウを開いた。 「騎士だったのね。それなら、すぐに片がつくわ。……やりなさい」  3つの影は命令された瞬間、恐らく0.1の間を空けず俺と同じスピードで腰溜めから バネの様に体を弾いて槍を突き出した。  その勢いは弓矢、いや銃弾に近い。  とてもではないが交わせない、何しろ俺はこいつらと同じ速さでしか動けないのだから 3倍相手に避けられる道理が無い。  だから 「反則には反則しかないよな」  ……デバッグモード、リープ機能を使って少女の真後ろまで瞬間的に移動した。座標指 定をして移動というやつだ。  黄金の環の演出もなく文字通りパッと瞬間移動する職人技。  全てが全て同じ勢いで空振りし、お互いにぶつかる寸前で踏みとどまる3つの影。  あまりにも鮮やかに消えたので踏ん張りが聞かなかったらしい。  そして驚愕に大きな目を更に大きく見開く、虹の髪の少女。  驚いた時はもう既に遅し、俺はその華奢な肩に右手を置くと、その細い首筋にヴォータ ンの穂先を向けている。  少女自体は弱い、この程度策を巡らせれば余裕だ。 「ぁ……あ…………っ」  何が何だか分からない、だけど自分が負けたということは理解したらしい。  言葉になら無い言葉。  声にならない悲鳴の絶叫をあげ、少女はガクガクとその身を震わせている。  当然だ、影に槍を使わせたということはその意味も知っているということ。こちらの新 人を2人も消しているならその性能を知らないわけがない。  この槍から迸る恐怖を知らないわけがない。  だから、少女は震えている。  少なくとも俺はそう思った。    ……近くで見ると改めてその端正な顔つきに驚かされる。  まだ十分に幼さを残して入るが、弓なりに細く美しい形をした眉やすっきりとした鼻立 ち、淡い桜色をした小さな唇などどれをとっても芸術品なんて足元にも及ばないとすら思 えてくる。  そして何よりも薄く光っているようにすら見える虹色の長い髪、どんな仕様なのかは分 からないがそれは水のように艶やかで細く風に溶けて流れるかのようだった。  悲しさをどれほど孕んでいようと、芸術家が泣いて己の未熟を思い知らされるような美 しさを壊すことは出来ない。  あまり認めたくは無いが、それは生きているからだろう。  生きていなければ、どれほど美しくても精々芸術品どまりなのだから。  だからだろうか。  俺はそのまま突き刺すべき槍を持った手を、未だ動かせない。まるで腕が石のようだ。  たぶん、この純粋すぎる瞳は魔目なのだ。  だから腕が石になる。  これほど人間らしいAIに会ったのは、初めてだった。 「……どうして」 「あん?」 「どうして殺さない、……いえ、どうして消さないのですかっ! 良いでしょう、私の負 けです、さっさと消しなさい! い、いつまで私を脅し続けるつもりですか……っ」  堰が切れたらしい。  いや、もう我慢の限界だったようだ。  その水晶を割ったかのような美しいトルコブルーの瞳から、大粒の涙が溢れ出しては地 面の白い花の上に落ちていく。  膝の震えがついには止まらなくなり、カクリと尻餅をつく。  必死に漏らすまいとしていた嗚咽が、喉にしていた蓋を突き破って少しずつ漏れ出す。  今までの少女は無表情で毅然としていた、けれど今は。  どうしようもないように纏っていた『悲しみ』は、この瞬間『悲しさ』に変わったよう だった。 「う……ぅぅ……、ふあぁぁぁ……っ!」  どうするべきか分からないのに感じ続けていた悲しみ、それを悲しさとして吐き出す術 をようやく思い出したかのようだった。  死を恐れた少女。  人間のように泣きじゃくり、人間のように生きたいと願っている。  それは演技なのだろうか。誰かがプログラムしたのか。  ……違う。  今のは生の反応だ。  ……だったら。  俺は不覚にも思ってしまった、これではもう彼女はAIではなく。  普通の少女じゃないか、と。      何がゲームバランスを破壊する悪質なバグだ。  バグとはそもそもプログラムを書き間違えて発生する虫(綻び)の事を指す、ここまで 完璧な存在を前にして虫だとは到底呼べないじゃないか。  もうハッカーが潜り込ませた可能性なんて毛筋ほども信じられない。人間に完璧なAI なんてそもそも作れない。  作れるとしたらそれは『神』だけだ。  それならまだ、信じられる。 「度会……、お前が辞めた理由。分かった気がする」  槍はいつの間にか俺の手から滑り落ちていた。  だから右手は空っぽだ。  そう、次は何を握ろうとも自由。  だから俺は。  彼女の手をとって、立たせる事にした。