<きっと、気のせい>  リコリス。  その名前を知って、勿論何も調べなかった訳じゃない。  勿論と言う辺り俺は花には詳しく無い人間だ、雑学は得意なので名前くらいは知ってい たが。それでも深い知識は全く無かった。  有名な花だからネットで調べればその知識はすぐに拾うことができた。  リコリスは、Lycorisと書く。  ギリシャ神話の海の女神に由来するらしい。言われてみればどこか他の花とは違ってあ の花は神秘的だ、青い種類もあるのだから丁度いいネーミングだろう。  因みにリコリス=彼岸花ではなく、リコリスの一種として彼岸花がある。  最近では観賞用として人気が高く、忌み嫌われた昔の話は忘れられようとしていると言 えるだろう。  日本でも海外でも人気がある。    季節は9月〜10月の初め。  俺が丁度散歩に行きたくなるような、秋晴れの季節に咲く花だ。  玄関で大きく伸びをする。  朝の空気を吸う習慣なんて何年ぶりの復活だろうか。  今日はそのまま散歩に出かける予定だ。 「いざ、暇が出来てみて、やることが散歩とは。俺も暇を持て余すのに慣れて無いな」  一人心地に呟く。  思えば大学の卒論がPluto Kissで吹っ飛んで死ぬ気で書き直した辺りから、度会一詩と 言う人間に暇などと言うものは無かった。  徳岡潤一郎と言う偉大にして極悪な先輩に出会ってからは、寝る時間も奪われたような 気がする。  今思い返してみると後悔はしていないが、とんでもない苦難の道程だったと誰もが言い そうだ。俺は苦難慣れしている。  だから、こうぽっかりと暇が出来てしまうと、落ち着かない。  働いていないわけではないが、今はまともに連休がある仕事だ。  何も無いはずなのに仕事を残しちゃ居ないだろうかと心配になる、……これも職業病の 一つだろうか。  だから、何もせずに部屋でじっとしている気にはなれなかった。  となると、人生において初めてかと思われる、何の意味も無い散歩にも出たくなると言 うものだ。  したいならすればいい、それが連休。何と素晴らしい事か。  俺は思い立って即実行に移したのだった。  なんせ久々に寝不足ではないこの頭は秋晴れの朝日で目が覚めたのだ、それを一杯に浴 びてみたいと思うのは人間として当然だろう。  ルートは、そうだな……。風下にでも歩くとしよう、風のままに歩くというのも一つの 夢だった気がする。  そう決めて、風を頼りに玄関からフラリと歩き出して行く。  何度も歩いた道も風に任せて歩くということで新しい道を歩くような楽しみができる。  地獄のように続いたテストプレイ、あの時ディスプレイの光が焼きついた目で窓を見上 げるたびに『風になりたい』と願ったものだが。  絶対に叶わないだろうなとも思ったんだが。叶ってみると案外素っ気ない。  風は気紛れに変わったから、俺も気紛れに歩いた。  目的も無く歩くとは新鮮だ。  気紛れ本屋など冷やかす暇もある、それだけで贅沢を感じるのは俺だけだろうか。  ただ歩くだけ。手を引く者は居ない。  三日以内に交通事故が起きそうな交差点を曲がって、夜には野良猫が歩いてそうな細い 裏道を抜ける。新しい発見として此処があのぶち猫の住処なのかと知った。  そして近くなのに案外知らなかった酒屋を通り過ぎると……見知った川に出た。  残念ながらマク・アヌのような洒落た川ではなく、それなりに大きな都会らしく水の濁 った川だ。流石に匂っては来ないが。  川沿いの車通りもけっして少なくなく、良い川かどうか聞かれたらたぶん悪い川に入る だろう。だけど一番慣れ親しんだ川であることは間違いない。  何の変哲も無い川だ、だけど今の時期は土手に咲く花がとにかく綺麗だった。  それは遠目でも分かるほど。  ……風は唐突に此処で止んだ。まるで案内を終えたかのように。    川の水は今は高いようだ。  俺は暇に物を言わせてたっぷりと信号を待ち、ゆっくりと車道を越えて土手の方に歩い て行った。  別に花が好きと言うわけでも興味が有るわけでも無いが、歩くなら鉄筋コンクリートの 横よりも野花の隣の方が良いに決まっている。  人間は自然を壊すくせに自然に共感を持つ生き物だ。  だから俺は気が向いたとしか言えない偶然でその土手の隣まで歩き、そこに咲く花を偶 然見つけたのだった。  少ない緑のスペース、その一面に。  紅いものもあれば、黄色いものもある。  今は十月の頭だ、だから見つけても何の不思議も無い。ただ少し失念していた俺は面食 らう。  俺は、所狭しと咲き並ぶリコリスたちを見つけた……。   ―――『AIだから?』―――  そう言えば、あの時もデジャ・ヴを感じた。 ―――『AIが、人を装い、しゃべるな。この<ザ・ワールド>を混乱させるな』―――  これを見て思い出さない訳が無い。  少し、胸が痛む。  今までは意識しなかったが、今更この土手はリコリスの咲く土手だと気付いた。 「そうか……、もう10月に入ったんだったな。もう、彼女の季節か」  こうして見てみると、現実とネットとは幾ら似ていてもやはり違うものだと思わせられ る。  俺の頭に焼き付いて忘れる事のできないリコリスの花は、この現実の花とは形は似てい ても何かが違っていた。  何かが違う。  だけど、自分の意思でこの“世界”に咲いているのは何も違わない。  それは確かな事。彼女はこの世界に生きたいと言ったのだから。  ふと、足元のリコリスたちを見つめる。  緑の面の中に所々咲いている花たち、珍しい事にリコリスは葉が出る季節と花が咲く季 節が違う。  見つめ返されたような気がした。  不思議な花だ、西洋的な美しさを持ち、同時に東洋的な深みを持っている。  それは決して原産が中国だから、と言う訳では無いだろう。まるで誰かの瞳のように不 可解。  リコリスにはそんな不思議な雰囲気が有る、勿論、この足元の花にも。  彼女にも。 ―――『ほんとうは泣いていたの』―――  涙は流れたのだろうか……。 ―――『……そうだったのか』―――  空振りした感想を押し込める。どうも、このリコリスたちは俺に囁きかけるようだ。  紅い花と黄色い花のコントラストはいかにも派手なのに、奥ゆかしさ……いや、寂しさ をこの花から感じるのは何故だろうか。  彼岸花という名前のせいではあるまい。  とは言え花が何かを感じているわけが無い。少なくとも此処の、花は。  だとしたら……なんだ、簡単なことだ。 「俺が、感じていただけか……」  いつの間にかもたれていた手摺にグッと力を入れ、空を見上げる。  どうしようもないくらいに頭上のドームは晴れ渡っていた。それは神の作り上げた一つ の芸術作品と言って過言ではないだろう。  しかし此処に神は居ない。  現実に『世界記憶<アカシックコード>』は存在しない。  これは人の想像だ。  だが<ザ・ワールド>にはプログラムと言う名でそれが存在する、だからあの場所では こんな晴天すらもプログラムされている。  それを思うと酷く、存在する神を感じる。  あまり好きにはなれそうも無いあの世界の神を……。  ほんの少しだけ残った薄い雲が悠々と流れていく空はまるで、『ザワン・シン』が倒され た時の空にそっくりだ。  何かの迷いが晴れたかのような晴れ。  あの時、あの場で彼女もきっと同じ空を見ていた。  ついでにほくとも、詩のネタでもメモしながら見ていたことだろう。 「平原に在るは朴訥の草、皆うしなびて其は踏みしめる  草、萌え立つこと忘れず、されど踏まれるが其の定め  其は永久の定めなりしか。  一輪の花。是に嘆く  悲しみはやがて種と生り、希望と成る  種、萌え立つ其の輪に加わり、希望と成る    其の赤、永久に草、導かん。  一輪の花。是を支え」  ……ほくとの影響だろうか、どうも最近詩を詠むことに凝っている。  ふと口が勝手に動くかのように言葉を紡いだ。  とは言え、彼女のように行かないのが詠んでみてあらかさまに分かるのが痛いと言えば 痛い。 「修行不足だな」  もう一度足元のリコリスたちを見る。  こちらは、一輪と言わず仲良く仲間たちと一緒に咲き誇っていた。気持ち良く晴れてい る分その陽光を浴びるだけで絵になる。  そう思うと今度は楽しげに咲いているように見えるから不思議だ。  どうやら俺は移り気らしい。  花たちを見ていると自然、ほんの僅かに笑みがこぼれた。  悲しい記憶である、だが大部分は楽しい記憶だったと俺は思っている。  彼女と歩いた事、ほくとに乱入された事、オルカやバルムンクと出合った事、何一つ『悪 い記憶』は存在しない。  紅い少女との記憶は俺の中で何かを壊し、何かを彩った。それは良いことだ。  だからその結果に首を切られようとも本望と言うもの。  そんな事で悔いるような記憶ではない。  一輪のリコリスは悲しげに咲いてはいなかったのだから、俺だってもう悲しげにするも のか。  リコリスは最後に笑っていた。  何かと雑音が聞えてくるのが都会と言うものだが、昼間のせいか今は不思議と車の音す らしない。  まるで時間が止まったかのような静寂。  あの聖堂のように静かだった。    ゆらゆら、ゆらゆら。  不透明な川の水は、不透明だからこそ揺れるその水面にリコリスたちの咲く姿を映し出 している。不出来な鏡のように。  そこにはアルビレオのような表情をした男が佇んでいる。  こうして見ると、仏教面をしているもんだ。  止んでいた風が唐突に吹いた。今度は何を導くのか。  水面がぼやける。  そのぼやけた姿の中に。  小さな姿。  何となく紅い少女の幻を見た気がした。  相変わらずアルビレオのとなりで、手を繋いでいる―――。 ―――『ありがとう』――― ―――『ん?』――― ―――『ありがとう、アルビレオ』――― ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー リコリスが咲いている風景を見てからと言うもの、ずっと度会さんのお話が書きたいなぁ と思っていた私。 もう枯れてしまう頃合ですけど、やっと連載ものに区切りが付いたので書くことが出来ま した。 詩の文法が間違っていないか物凄くハラハラしているのですが、どうでしたでしょうか? …………………………………お題合ってない事はどうかお許しを。(ぁ