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F「誰かに云われるまで忘れがちだが云われたら思い出すか納得する、ことを僕は長いこと講釈してきた」
A「そやね」
F「まぁ、正史か演義か読めばどっかには書いてあることがベースなんだから当然なんだが。つーワケで、3ヶ月ぶりのタイトルコール」

History Members 三国志編 第78回
「蜀を滅ぼしたもの・3 『その後』の阿斗サマ」


A「そりゃ最高責任者なんだけどね!?」
F「毛沢東は『人民は阿斗になってはならない』と発言している。先日来繰り返しているように、共産主義者とはマルクスとレーニンの教えを表面上しか理解していない連中を指す蔑称で、両者の教えを理解したら反共主義者になる、とロシアでは云われている。毛沢東にはいろいろ欠点が多いので積極的に論じる気はないが、実は蜀シンパなンだよ」
A「そりゃまた不名誉な!?」
F「より正確には演義好き。天安門事件を主導した楊尚昆を『アレは魏延だ』と云っていたのは有名だが、『長城に至らずんば好漢にあらず』とも発言している。人口に膾炙していた演義や水滸伝を引き合いに出して民心に訴えていたワケだが、正史での魏延が裏切者じゃなかったのは繰り返している通り」
A「だったな。だが、劉禅は嫌いだと?」
F「演義でも正史でも評価しにくい人物だというのは事実だからなぁ。しかし、以前触れたが、皇帝としての在位40年というのは始皇帝以後で11位タイと、著しく長い部類になる」
いつぞや:http://f-sinner.at.webry.info/200905/article_13.html
F「そして、コレ↑見てもらえば判るように、三国時代でエントリーしているのは劉禅ただひとりだ。長命の孫権でさえ在位23年。以下、孫皓16年(降伏)、曹芳15年(廃位)、曹叡13年、曹丕・曹髦(戦死)・孫亮(廃位)・孫休がいずれも6年、曹奐は5年で禅譲だ。劉禅の年季が並はずれているのが判ると思う」
A「改めて考えると、孫権除いて長期間とは云えない数字だな。どれだけの乱世だったのか、はっきり判る」
F「皇室がゴタゴタしてるから乱世だ、とは一概には云えんが、後漢皇帝の在位年数と年齢が低すぎたのが三国志の発端だったのを考えるとなぁ」
A「廃位された連中はともかく、孫皓や曹奐が降伏せずに皇帝の座にあったら……とも思うけど、それを云うなら劉禅の在位年数はまだ延びたかもしれんからなぁ。どれくらいまで生きたっけ?」
F「孫皓はわずか3年後だ、19年にしかならん。曹奐はけっこう長くて、303年まで生存していたからなぁ。260年即位だから43年になる可能性はあったか。可能性だけだが」
A「当時の情勢ではなぁ。で、劉禅は?」
F「271年、8年後に亡くなってるから、長じていれば48年というところか。万暦帝並だな。ちなみに先ほど、もうひとりについてはあえてハブいた」
A「誰や」
F「親御さん。221年4月6日即位、223年4月24日崩御、在位2年と20日は三国時代で最短だ。ウダウダ悪あがきせずにパッと散る辺り、あまりにもあっけなく、そして、劉備らしい在位年数だと云えよう」
A「劉備には劉備の都合があるんだよ! 黄巾の乱から四十年戦い続ければ疲れ果てるわ!」
F「ンなこと云いだしたら、孫権が孫家の家督継いだの200年だぞ。52年そんなモン背負っていたら酒びたりになっても無理はないっつー話になるわ」
A「フォローの余地は残そうよー!?」
F「劉備という男には欠点もあれば長所もある。だが、この在位年数はいくら彼らしくてもマイナスにしかならん。繰り返しになるが、皇室が長続きしなければ天下は乱れる。それを足がかりに劉備が名を上げ蜀を興したように」
A「ぐむぅ……」
F「それを考えると、劉禅は皇帝としてはけっこう問題がない。長期間政権を保っていられたのは誰のおかげかという気もするが、蒋琬が死ぬと劉禅自らが政権を執ったとの記述も見られる。孔明の死から12年後の246年のことだ。劉禅の在位40年のうち、孔明がいたのは初めの11年だけ。それも、4年後にはすでに北伐が始まっている」
A「孔明が成都でしっかり宰相していたのは、たった4年だけか」
F「蒋琬・費禕・董允がしっかりするのに4年で済んだはずがない、のは蒋琬伝からも読み取れるが、国政を任せられる人員がいなかったなら、それは全権を握っていながら後継者育成がうまくいかなかった孔明の責任だ。端的な表現をしてしまえば、鎌倉幕府の執権を育てるのは朝廷の役割じゃない」
A「そういう表現やめませんかね?」
F「劉禅と孔明の関係は、日本の天皇家と幕府の関係と考えると判りやすいンだよ。だが、246年には劉禅もすでに39歳(207年生)だ、ちゃんとした皇帝と扱われるべき年齢であろう」
A「で、残り17年はけっこうまっとうに政治を見ていました……とは云えんわなぁ」
F「そうだな、258年に黄皓が政治に口出しを始めたと陳寿は明記している。ちなみに、蜀には史官がなかったとよく云われるが、この258年に『おめでたい星が現れましたー☆と史官が上奏した』と書いてあるが、これを最後に、蜀では史官がいなかったことになっている」
A「黄皓がその部門を取り潰したって認識でいいのか?」
F「だとしたら焚書以来の暴挙と云っていいが、原因は不明だ。黄皓の重用に限らず、マイナス点は数えれば多い。たとえば、劉琰の妻が宮中に参内したら一ヶ月ばかり引き留められたモンだから、劉琰はお手つきがあったと邪推して妻を暴行し、妻が劉琰を告訴すると劉禅は彼を処断している」
A「お手つきがなかったとは思えない日数だし、それがあって妻の訴えを採用したとしか思えんよなぁ。家臣の妻を奪ってその家臣を殺しちゃ、演義通りのボンクラだぜ」
F「劉禅には李昭儀という側室がいてな。蜀が滅亡すると、魏とあるからケ艾か鍾会、たぶんケ艾が、劉禅の後宮の女たちを、魏将で妻のない者に与えようと云いだしたンだわ。この時代、敗戦側の子女は戦利品と扱われていた。敵の皇太子にとらわれ世継ぎを産んだ甄氏の前例もある」
A「男って奴ァ……」
F「李昭儀もそのパターンだったようで『2回も3回もそんなことされてたまるモンですか!』と自害している。1度めは耐えていたと思われる辺り、どーも劉禅は女受けはよかったようでな」
A「まぁ、魔的なまでのカリスマを誇る劉備の息子だしなぁ」
F「女癖がよかったとは云えないからトントンだろうか。ともあれ、国を失ったのは確たる事実だ。だが、評価すべき点もあるっちゃある。たとえば、劉禅には少なからぬ子がいた」
A「あー……」
F「劉備には肉親がいなかった。正確を期すなら、蜀には劉備の優性親族がいなかった。血縁で自分より下になる親族しかおらず、藩屏足り得る血縁者に恵まれなかったのが劉備の人生における最大の問題点のひとつなのは周知だな」
A「だから、頼れる義兄弟がいたンだろうな」
F「その義兄弟で下の弟はあからさまな外戚と化したし、子孫は国の滅亡に際してなーんにもしなかったがな。血縁という脆弱な根拠しか持たない上下関係が家族制度だと何億回でも繰り返すが、劉備はそれに頼らず、自分で義兄弟だの養子だのを得ていった。で、最初に得た純粋な意味での家族が劉禅だ。その下にも弟ふたり」
A「それでも3人は子がいたのか」
F「男児に限れば。劉禅は、これを上回る7人の子に恵まれている。魏では曹操の息子たちが小さからぬ揉めごとを巻き起こし、呉では孫権の息子たちのせいで元勲・陸遜まで死んでいるが、蜀ではそういう揉めごとは起こらなかった。揉める前に蜀が滅んだから、という見方もできるが、少なくとも国に忠実な息子はいた」
A「敵に降るのを潔しとせず親を面罵した挙げ句に自害した息子がいたな」
F「つまり、劉備が物理的にできなかった子育ても、ある意味では成功しているンだよ。劉禅は確かに国を全うできなかったが、魏との国力差を考えれば降伏は避けられない状態だった。劉禅は生きて悪評を残したが、息子が死んだことで劉家、この場合は劉備一家の名声も維持できたと云える」
A「それを褒めたくはないなぁ」
F「褒められないこともしてるしなぁ」
A「長男か?」
F「戦火のドサクサに巻き込まれて死ぬという劉備の孫にあるまじき失態を演じた長男より、まずい真似を、そして劉備の孫だとはっきり判る真似をしでかしたのは六男だ。その前に確認するが、実は、降伏後の劉禅について、蜀書後主伝も晋書もあまり多くのことは書いていないンだよ」
A「あらら。まぁ、捨て扶持与えられて余生を過ごしたようなモンだしなぁ」
F「正史に明記があるだけでも一万戸の領土に絹一万匹、奴隷100人与えられてたぞ。禅譲を受けた曹丕が献帝に対した処遇と大差ない扱いになる。孫皓は田畑三十頃に絹五百匹その他だから、孫皓より厚遇されていたのが判るな」
A「あ、あらら……」
F「ただし、蜀に劉備の血筋がいてはまずいことになるのは明らかなので、封地は正反対の幽州だったが。劉備の生地である涿郡からはちと遠い安楽県に封地を得て、安楽公に叙されている。現地に赴いた形跡はなく、晩年まで洛陽で過ごしたようだったが、この爵位は皮肉なのか何なのか」
A「笑い話だよなぁ」
F「で、逃げられなかったという劉備の血筋にはあるまじき失態をしでかし、長男は成都で死亡済み。通常なら次男が劉禅の後継ぎになるはずが、劉禅は六男の劉恂を太子に立てている」
A「何でまた?」
F「寵愛していた、としかないな。蜀の旧臣やその親族・遺族を晋に仕官させた立役者のひとりが、陳寿の兄弟子に当たる文立だが、この男が諌めたにもかかわらず、劉禅は劉恂を太子に立て、そのまま安楽公の座を継がせている」
A「60年くらい前にそれやって家滅ぼした袁紹や劉表のこと、忘れたンですかねェ……」
F「劉禅そのころ生まれてないぞ。袁家が滅んだ年に生まれてるから、劉表のも下手すれば間にあってない」
A「あぁ、なるほど。だが、孫権も同じことしでかしてるだろ?」
F「だよなぁ。劉禅が隣のノンダクレについてどう思っていたのか、正史にも晋書にも記述はないが、ともあれ劉恂に後を継がせてそのまま亡くなっている。さっきも云ったが271年のことで、さて劉恂は傲慢で乱暴だった。家臣に制止されても道義を損ねる言動を繰り返す放蕩ぶりでな」
A「そんな孫を劉備と一緒にするなー!」
F「蜀の民もそう思ったらしい。いや、蜀はもうないし、統治の都合で益州そのものも分割されたが、かつて蜀だった二州の民は、そんな輩が劉備一家を受け継いだのは耐えられないと、晋の皇室に廃位を上奏しようとしている」
A「そこまでダメな息子だったのか!?」
F「具体的にどうダメだっつー記述はない。上奏をやめさせたのは人もあろうか文立だった。劉恂の立太子には反対した彼だが、安楽公を継いでしまったら諦めたようで、民衆を『確かにアレは劉備一家のツラ汚しだが、民百姓には迷惑をかけていない。お父上のおかげで放蕩できるだけなんだから』と説得し、危険な真似は控えさせているのね」
A「……あぁ、暴君というより親の名を汚すだけのチンピラなのか」
F「中山靖王の名を汚したのか本人に似てるのか、判断しかねる祖父によう似たこのボケ孫は、亡き長兄に似た失態をしでかし、永嘉の乱に巻き込まれて一族郎党皆殺しになっちまった。劉禅の異母弟の孫だから、劉備のひ孫がたったひとり生き延びて、李雄のところに逃げ込んでいるが、劉禅の血統は途絶えた次第になる」
A「きちんと、劉備の逃げ足を受け継いでた子孫もいたワケか」
F「男一代、幽州から漢土を駆け巡り益州で死んだ劉備。荊州で生まれ益州で皇帝となり洛陽で死んだ劉禅。今度は政治的なことはさておき、劉禅個人について掘り下げてみたが、男としてはともかく皇帝としての素質は、意外にも劉備よりマシだったように思える。国を滅ぼしたことはさておき、きちんと子を成し家名は残したワケだから」
A「だが、終わりはまっとうできなかった、と。やはり、子育ての方向性がずれてたのかね?」
F「阿斗になってはならない、のはあくまで演義ベースでの悪意だと思うが、陳寿は劉禅をして『白い糸は何色にでも染まる』と評した。忠実にして賢明な家臣がいれば名君たりえ、バカに政治を壟断されれば暗君になる。自分の色を抑えこんで主張しない、ある意味で、そして悪い意味でオトナだったのが、劉禅だ」
A「悪い意味、か。社会の歯車として自己主張しないオトナは、現代社会では珍しくないが……」
F「劉禅に歯車たる覚悟があったのは疑う余地はないぞ。それこそ現代社会よろしく、酒の席で本音をブチまけている。蜀は楽しくなかったのだ、とな」
A「ンぶっ!?」

 洛陽の宴席で、蜀の音楽が演奏された。郤正ら蜀の人々は望郷の念に哀しんだが、劉禅はご機嫌に笑っている。
司馬昭「少しは、蜀を思い出されるかな」
劉禅「いやいや、この地は楽しくて、蜀を思い出すなどありませんな」
司馬昭「……然様か」
郤正「(ひそひそ)……陛下、陛下」
劉禅「んー?」
郤正「(ひそひそ)今度そんなことを聞かれたら、涙流して『先祖の墓が蜀にあるので、一日たりとも思いださぬ日はありません』とでもお応えになりませい。蜀に帰してくれるかもしれませんぞ」
劉禅「んーなこと云われてもなぁ……」
司馬昭「で、蜀を思い出されるのかな?」
劉禅「先祖ノ墓ガ蜀ニアルノデ、一日タリトモ思イダサヌ日ハアリマセン……あ、涙が出ねぃ」
司馬昭「……郤正の云うことにそっくりだな」
劉禅「まったくもって、おっしゃる通りでございます、ハイ」
郤正「…………………………」
司馬昭「……こりゃダメだ。これじゃ孔明が生きていても、蜀を保つことはできなかっただろう。まして姜維などでは……」
賈充「ですが、こうでなければ蜀を得ることはできなかったでしょうな」

F「改めて考えてみると、この会話はいまひとつ奇妙なんだ。なぜ司馬昭は同じことを、それもその場で2度聞いたのか。おそらく司馬昭は、洛陽が楽しくて蜀を忘れるという劉禅の発言を信じられなかった。というより、信じたくなかったンだろう。亡父亡兄そして自分が戦い続けた男が、そんなボンクラとは思いたくなかった」
A「だから、家臣からの注進を聞いた劉禅が違う返事をすると期待して、同じことを重ねて聞いた?」
F「そう考えれば『これじゃ孔明が生きていてもなぁ……』と見限るのも無理はないだろう。天寿だったのか、いまとなっては確認するすべはないが、少なくとも晋王朝が劉禅を危険視しなかったのは確かだ。本当のことを云って自分を守った劉禅は、それでも滅ぼされるまでは、父の興した蜀の皇帝の座からは逃げなかった」
A「歯車なのかそーでないのか、はっきりしてほしいンだけどなぁ……」
F「白黒どうにでも染まる男だとは、陳寿の評価だよ。ま、ひとつ云えるのは、劉禅の軍事的才覚は一切評価しようがないが、最低限の資質は備えていた。敗軍の将は兵を語らず、という最低限のマナーはわきまえていたワケだから」
A「そうかい」
F「ところで、冒頭で触れたが、劉禅の幼名は阿斗という」
A「母親が妊娠中に北斗七星を飲みこむ夢を見たっつー由来だったな」
F「それ自体は演義由来のエピソードなんだが、北斗が死を司る凶星なのはいいよな?」
A「どーしてそういうことに気づくっつーか思い出すの、お兄ちゃんは!?」
F「あまりにも人口に膾炙しすぎている事実なだけに、かえってスルーされがちな事実だな。『阿斗は北斗に由来』と『北斗は死凶星』を並べて書いてる三国志本って、伏見健二氏の『奇書三国志』をおいて他に記憶にないんだが、これじゃ蜀が劉禅の代に滅んでも仕方ないよなぁ」
A「そんなモン仕込んでおいた羅貫中が悪いのか、ほとんど一般常識なことを思い出したコイツが悪いのか……」
F「さすがにそこまで僕のせいにされたら本気で困る。続きは……杞の空が愛で落ちてこなければ、またいずれ」
A「ゆあ・しょーっく……はっ、蜀だけに?」
F「座蒲団没収!」


劉禅(りゅうぜん) 字は公嗣(こうし)
207年〜271年(晋の保護下で余生を過ごした)
武勇1智略?運営?魅力?
荊州出身でいいのかなぁ? 蜀の第二代皇帝。
ぶっちゃけると、どーにもよく判らないヒト。

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