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History Members 三国志編 第74回
「せっちゃんやカザミよりサトリがいいと思います」

F「つい先日出たばかりの三國志3DSには、いろいろ武将が追加されておってな」
A「また水滸伝とか中国史の連中だろ?」
F「それだけじゃなくて信長とか出てる」
A「いっそ大航海時代の新作出せよな」
F「オンラインいまどうなってるんだろう。何考えて『1ターンで白起に10回攻撃する』なんてイベント条件作ったのか、どーにもコーエーとの間に埋めようのない溝を感じてならない」
A「繰り返すぞ、養生しろ。それが嫌なら仕事しろ」
F「この世はすべて絵空事。今回は鍾離牧について一席」
A「……項羽の配下にそんな名前のがいなかったか?」
F「アレは鍾離昧だな。子孫らしいが、正史三国志にはその辺の記述がないのでさておいて」
A「はっきりせんのな。……つーか、俺が知らんてことは演義には出ないか孔明死後のキャラだろ」
F「だな。生没年不詳だが主に孔明の死後活動した、演義には出ない武将だ。それこそ三國志3DSでは、なぜか藤甲もってるが」
A「南蛮武将か?」
F「出自は呉なんだ、揚州は会稽郡。父は官営造船所の役人で、兄は会計官。この兄が顧譚(顧雍の孫)と並び称された賢才なんだが、マキさんは幼い頃から愚鈍で口下手」
A「お前さっきまでショウリボクと発音してなかったか?」
F「タイピングするのが手間だなーといま気づいた。ともあれ、それほど評価されていなかったンだが、兄は『弟は僕より立派になりますよ。軽んじられちゃ困りますねー』とマキさんをフォローしていた。真に受ける者はなかったが」
A「賢兄愚弟というタイプかね」
F「いや、実はこの兄、マキさんをフォローしたほかに何かしたという記述がない。ために、賢兄かどうかは不明だ。父も同様。ともあれ、そんな郷里に嫌気がさしたのか、マキさんは郡内の永興県(晋代の呼称、266年までの余曁県)に移住し、県長さんの好意から、土地を開拓して稲を作る生活を始めた」
A「晴耕雨読に入ったのか」
F「ところが、稲刈りの時期になったらもともとこの辺に住んでいた百姓が『ここは俺の土地だ!』と云いだした。余所者を排斥するのは百姓の性質だが、マキさんしれっと『荒れてた土地を耕しただけだしねー』と、稲が実ったままの土地ごとそいつにくれてやっている」
A「……もともと官僚の家系なら、物欲に頓着しないのも判らんでもないが」
F「何のために耕したのだろう、と百姓の子として悩まずにいられない。この話を聞いた県長さんは、難癖つけた百姓を呼びつけて獄に叩き込み、法にのっとって処罰しようとした。県長として当然の措置なのだが、それに異を唱えたのが余人ならぬマキさん」
A「待てや」
F「本人の土地を勝手に耕したワタシが悪いのですとフォローしたのだが、県長さんは『私は県長としての職務にのっとり、法をもって裁かねばならんのです』と突っぱねる。対してマキさん『アナタの好意に甘えてこの地に留まっておりましたが、わずかな米で住民が殺されるなら、立ち去らねばなりません』と云いだした」
A「まぁ、米と命とどっちが大事だって話だが……」
F「土地の所有権の問題だと思うンだが、米の話と矮小化させ、そんな理由でヒトを殺すなと諌めたワケだ。マキさんが実家に帰ろうとしたもんだから、県長さん慌ててマキさんちまで乗りこんで引き留め、やむなく百姓を解放する。百姓は妻子を連れて、取れた米をマキさんのところへ持っていったが、マキさんは門を閉ざして受け取らない」
A「どうなんだ、この男」
F「百姓は米をその辺に置いて帰ったが、マキさんとーぜん拾わないので、米の所有権は宙ぶらりんになってしまった。このことから、マキさんの名は知られるようになったとあるが、この百姓はもちろん、県長の名も伝わっていない」
A「だろうな、としか云いようがねえよ」
F「正史本文の記述は、このあと242年まで飛ぶ。この年、孫権は三男の孫和を皇太子に立てているが、それに伴いマキさんも皇太子付き校尉を経て南海郡太守に昇進した。隣接する合浦郡で山越が暴れていたら、郡境を越えて十日でこれを降し、南海郡内で十年以上反発していた山越もあっさり懐柔している」
A「異民族対策は万全なのか」
F「正史の注には『威厳と恩愛が配下にゆき渡り、智略と武勇がはっきり示された。行いは純粋で古人の風格がある。いや、いままで見損なっていたよ』という羊衜の言葉が引かれている。4年後、病気で中央に戻ったが、丞相府長史から中書令に昇進。しっかり出世コースは進んでいたようでな」
A「兄の見立ては正しかったワケか」
F「もっとも、内勤ではなく外征で使うべき武将とは思われていたようだが。南海・合浦は建業の南だが、西南の鄱陽郡などでも山越が叛乱したので、マキさんが監軍として派遣されている。平定された山越の兵を呉軍に編入させた功績で越騎校尉にも任じられた」
A「賀斉に続く、山越対策のスペシャリストか」
F「賀斉が死んでから間が空いたから跡取りとは云えんがな。さて、マキさん最大の見せ場となるのが263年、すなわち蜀滅亡の年のこと。魏はもと蜀将の漢嘉県長郭純に命じて、国境近くに兵を進め、武陵の五谿蛮に魏について呉に叛するよう勧めさせた。これに乗った連中が出たモンだから、武陵郡全体が恐慌したとある」
A「その鎮圧に動員されたのか」
F「平魏将軍・武陵太守として現地入りしたマキさんは、現地役人の『連中を刺激しちゃいけません。恩賞を約束して恭順させましょう』という意見を一蹴。『魏の侵略が民衆にまで及んでいる現状では、迅速に対処するのが筋です。根が深くなる前に叩き潰して抜きましょう』と出陣準備を命じている」
A「慎重論をはねつけたのな。まぁ、目前まで魏軍が来ていたらそういう手段には頼れんだろうな」
F「部下には強硬論への反対意見も根強く、撫夷将軍の高尚が『かつて潘濬殿は5万の兵と蜀のフォローがあればこそ、異民族どもを討伐なさり、呉への教化を受け入れさせることに成功されましたが、いまや郭純は拠点を構え、蜀の援護もないというのに、たった3000の兵でどう戦われるおつもりです』と諌めている、のだが」
A「のだが?」
F「マキさんは『そんな昔の話は知りませんのだ!』と突っぱね、反対意見を唱える部下は軍規に照らして処分している。高尚がどーなったのか明記はないが、ともあれすぐに兵を駆り立てて、昼夜兼行で山岳地帯を突破し二千里を行軍。五谿蛮の集落に乗り込むと頭目以下一千あまりの首級を挙げたモンだから、郭純は大慌てで逃げ出したという」
A「大勝利だなぁ」
F「この功績で、今度は揚武将軍に昇進し、武陵が安定したら濡須の守りを任された。ついに北方で魏への抑えに回された次第だが、そのまま在官で死去している。享年・没年、いずれも不明。長男が職務と兵権を受け継いだがその後の記述はなく、次男は呉の滅亡に際して水軍に属し、戦死している」
A「呉の末期を支えた武将だった、と。惜しい人を亡くしました」
F「惜しいか?」
A「いや、真顔で聞かれても」
F「陳寿はさておき、裴松之はいまひとつこの男を評価していない感がある。最初に見た田んぼ明け渡しについて『身分の卑しい者が自分の労働でもないのに、他人の米を自分のモノだと主張した。それなのにマキさんは米をくれてやり、しかも罪を救ってやるとは、正義に反し道理に背く』という趣旨の文を引用している」
A「相手の身分が卑しいのかはさておき、それについては認める」
F「ヒトにできないことをしたからといってそれが立派だとは云えないのである、と裴松之は引いているが『孔子とマキさん、どちらかが正しいならば孔子だろう』とはさすがに云いすぎじゃないかと僕は思う。だが、僕は百姓の子だ。米を置いていったときの百姓の気持ちがはっきり判る。お前、お米様をなんだと思っている、と」
A「先に奪おうとしたの誰だ」
F「余所者には何をしてもいいというのが念頭にあるからな。命より大事なお米様を奪ってやるが、余所者の味方は誰もいないぞと思い上がっていたのに、当然法律で裁かれる。ところが被害者に助けられるという屈辱だ。妻子を連れていくから俺を許させてやる、と乗りこんだのに顔も出さないでは、百姓がキレるのは当然でな」
A「ところどころ考え方が間違ってるように聞こえるのはアキラの気のせいか!?」
F「死んだじいさん(実父)ならどういう言動だろうと考えれば、百姓の心理を手に取るように理解できるのがオレの罪深さだな。日本の、と上にはつくが、百姓が余所者をどう見下し、どう迫害するのかはっきり判る」
A「お前のじいさん、ロシア人だろ」
F「だから、だな。というわけで、マキさんにしてみればすでに施したという認識のようだが、百姓よりプライドの高い人種は地上に存在しないからな。余所者の施しは受けないと、この百姓は米を捨てていった。捨てた物だから誰も拾わない。最終的には県長さんが収容したとは思うが」
A「何か、アキラには判らない意地の張り合い……」
F「判らない方が幸せだ、オレは不幸だが。ところで、正史の本文がすっ飛ばした部分を、裴松之はほかの史料から補っている。時期は不明だが、陸遜が鄱陽の山越を討伐した際にはマキさんも従軍していたし、高尚の挙げた潘濬の五谿蛮討伐にも三千からを率いて軍中にあった、とある」
A「なんだ、実際に打ち破った前歴があったのか」
F「のだがなー、マキさんが敵中に孤立すると、"出ると負け皇帝"は『よし、見捨てろ』と断じたそうで」
A「お前、何やっとんね!?」
F「酒の席だが本人が云うには、マキさんの部隊を敵中に残し、他の部隊は助けに行くな、という朝廷の決定が伝えられたらしい。日本人には判ってない者が多いが、シビリアンコントロールとは軍事行動を後方の文官が左右することじゃない。現場での作戦指揮に後方が介入したら失敗するのは、ベトナム戦争での米軍を見ても明らかでな」
A「や、アキラ生まれてないので」
F「僕もだが、そういう理由づけくらい知っとけ。ともかくこのとき……呉主伝によれば231年だから孫権か張昭かは知らんが、孤立したマキさんは見捨てろと詔勅が出たモンだから助けに行かなかったらしい。マキさん助けに行ってほかの部隊までダメージ受けたらかなわん、ということだろうか」
A「何と云うか、いかにも豪族の寄り合いらしい決定だな」
F「ただし、相手は硬骨の潘濬だ。またストレッチャーに乗って乗り込んだのか朝廷の決定は覆って、上意によりちゃんと救出されている。マキさんがそれを『昔の話』と叱り飛ばせるようになるのには時間がかかったようだが」
A「笑い飛ばせないなら『昔の話』にはなってないと思うンだ」
F「濡須に移ったある日、同郷の朱育と酒を呑んでいたマキさんはついつい溜め息を重ねていた。北上すれば有利な戦況を作れると踏んだはいいが、それを上奏するのは躊躇っていたので、日頃の鬱屈がたまっていたのね。朱育は『功績に対して恩賞が少ないのが不満ですかね』と持ちかけるが、そうではないとマキさんは首を振る」
A「いや、功績も不満もあるだろ」
F「謙虚なんだ、このヒト。『たいした功績もないのに過分な恩賞はいただいていますよ。ただ、陛下(この時代は孫休)とロクな知遇がないせいで朝廷の連中から嫌がらせをされるから、魏への侵攻策も上奏できずに、防御かためてくすぶってるしかありませんのがねー』とぼやいている」
A「あー、根に持ってたのか……何もかも」
F「笑い飛ばせる日は結局来なかったンだよ。重ねてこうぼやいてるンだから」

『陛下がワタシに寄せている信頼は、秦の昭襄王が白起に寄せていた信頼の深さには及ばず、それなのにワタシを貶めようとする者は白起を貶めた范雎よりも強大な権力を握っているのですから。大帝(孫権)の御世に見捨てられたことを思うと、ワタシが空気読まずに上奏したって「じゃぁお前行ってこい」と三千の兵で送り出されて、負けるに決まってるじゃないですか』

F「マキさんを貶めていたのが誰だったのか、陳寿も裴松之も記していない」
A「陶璜とか吾彦とかもそうだけど、こういう連中をないがしろにしてちゃ軍備は弱体化するよなぁ……」
F「続きは次回の講釈で」


鍾離牧(しょうりぼく) 字は子幹(しかん)
生没年不明(孔明の死亡前後から武将として活動していた)
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揚州会稽郡出身の、呉の武将。山越対策のスペシャリスト。
民法は無視するくせに軍法には厳しいのってどうなんだろう。

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