History Members 三国志編 第72回
「どうにもペースがつかめない」
F「お、おー」
A「発声練習か」
F「ん。気を抜くと、この音階はどう出せばよかったか、アタマでは判ってても実行できなくなってな。声の出し方忘れるモンだから、我ながら情けない」
A「重症だよなぁ……」
F「この世はすべて絵空事。つーワケで、無理ではないが無茶はやろう。今回のお題は王平で」
A「おぅ、やっと来たな」
F「おいおい課題は消化していかんと、僕の寿命が間にあうか判らんのよ」
A「………………」
F「アキラ、笑うところだよ。えーっと、後期、孔明の死後において、王平の存在は大きかった。時期によっては姜維よりも、だ。そのことを否定する余地、というより余裕は蜀にない」
A「残念ながらその通りであります」
F「益州は巴西郡の出自だが、生年は不明。母方の何氏に育てられたため何平とも名乗ったが、のちに王姓に戻った、とある。察するに、小さい頃に父親を亡くして母方に引き取られたというところだろう。曹操が張魯を降すと、同じく帰順した異民族の首領にくっついて洛陽に赴き、校尉に叙されている」
A「異民族の領域に住んでたのか?」
F「当時巴・巴東・巴西郡には7つの蛮族が割拠していて、そのうちの2人が張魯が降ってから、曹操に降っているンだ。この2人に巴東郡・巴西郡が与えられたモンだから、黄権が『三巴を失えば蜀は手足を失います』と進言したところ、劉備はそのまま黄権に対処を委ね、軍を率いて黄権は北上した」
A「えーっと、215年のことだったか」
F「だな。蜀書には黄権はこの2人が打ち破ったと、武帝紀では住民を挙げて帰順したとあるが、どちらにせよこの2人は領土を失って曹操に連れられるまま洛陽に入った。その際に、同行した中に王平もいた、と」
A「どのタイミングで親御さんが亡くなったか、微妙だな」
F「黄権の北上戦で死んだなら、さすがに蜀には降らんと思うぞ。ともあれ、この辺りの経緯は演義にはない。演義では七一回、漢中争奪戦で、曹操の本隊を離れ、漢水に赴く徐晃の副将として起用される、という初登場になる」
A「だったな」
F「ところが、徐晃は漢水を渡り背水の陣を敷くと云いだした。王平は諌めるが聞き入れず、漢水を渡った徐晃は案の定、夜襲されて逃げ戻ってくる。王平『だから云ったじゃありませんか』となじるも徐晃が『お前が助けに来なかったのが悪いんだ!』と罵倒し、王平を斬ろうとする。経緯は書いてないが、斬られずに済むが」
A「まぁ、夜襲に負けて逃げてきて、留守番斬り捨てたら話にならんだろうね」
F「お怒りの王平は、その夜、魏軍の陣地に火をかけた。連夜の夜襲に慌てふためいた徐晃は逃げ、その間に王平は漢水を渡って蜀軍に降っている。迎えた劉備は『お前さんのおかげで漢中は手に入ったよ!』と喜んだ」
A「何年か前に馬超に云ったような台詞だよなぁ」
F「正史では漢中争奪戦で蜀軍に降った、としかなくてどういう経緯かは不明だ。そのまま228年の第一次北伐まで記述がない。演義では、上庸攻めに加わったあとは南蛮攻めまで出番がない。夷陵にも不参加だな」
A「いれば渋く戦ったとは思うけどなぁ」
F「否定はしない。ちなみに、王平は正史に『戦場で育ったため字を書けず、知っているのは十字足らず』となぜか明記されている。ただし、口述筆記させれば文書は筋が通り、史記や漢書をひとに読ませて筋は知っていたので、議論すれば本質からは外れなかった、とある」
A「理解力はあったってコトか」
百姓の子「知識と教養は別物だというのを理解していないと、この時代に限らんが学術レベルは正しく把握はできんからなぁ。当時の文化についてはちまちままとめてるから、期待しないで待っとけ。それはともかく、そんなワケで王平、南蛮で困った事態に陥る。クチが利けなくなってな」
A「え」
F「朶思大王攻めの最中、先鋒を張って行軍していたが、毒水にやられて声を出せなくなり、本陣に戻ってきたが報告もできない有り様だった。演義では十字の設定はなかった気もするが、孟節に解毒してもらわなければ十日でお陀仏になっていた。ちょっと情けないエピソードだな」
A「字が書けんのに喋れなくなったら……えー、あー」
F「ん、握力弱まってて声も出しにくいな、僕。まぁ、気にするな。ともあれ、南蛮攻めのあとの出番は、正史でも演義でも228年の第一次北伐までない。蜀軍の本隊を離れ、街亭を抑えに行く馬謖の副将として起用される、というついさっき聞いた起用法だが」
A「考えてみれば、何このあからさまな負け戦フラグ!?」
F「案の定、上官は兵法に反するアホな布陣をすると云いだしたので、必死こいて諌めるものの今度も聞き入れられない。馬謖には馬謖の云い分もあろうが、何年か前に同じボケかまされている王平は、馬謖の下から離れて、自分だけしっかりと陣をかまえた。このため、馬謖を破った張郃も、警戒して攻めなかったので退却にこぎつけている」
A「やったなー」
F「敗残兵をまとめて引き揚げてきた王平を、孔明さん大喜び。馬謖や他の武将は斬り捨てたが、王平は昇進させて、異民族部隊の指揮も委ねている。皮肉な人事ではあるが、負け戦の蜀軍にとっては明るいニュースだろう」
A「やかましいわ」
F「このあとも王平は北伐に従軍していたと思われるが、正史での記述は231年まで飛ぶ。演義では、王双に蹴散らされる軍をまとめて引き揚げたり、陰平郡を攻略したり、野戦で張郃相手に激闘したり、第三次・第四次では先鋒を張ったりと、けっこう働いているが、その辺りはフィクションだな」
A「仕方ないかなぁ」
F「で、231年、祁山で蜀魏激突。孔明・仲達が本隊同士で交戦していた南で、王平は別働陣地を守って張郃の攻撃を退けている。この戦闘での蜀軍の戦果は首級3000。うち王平の功績がどれくらいかは明記がない」
A「何か、張郃とは相性がいいみたいだな」
F「何だろうねェ? そして、時は流れて234年。孔明の死後に勃発した魏延の乱に際して、蜀軍主流派のメインを張ったのが王平だった。なぜか何平と書かれているが、魏延に与した兵士を『丞相が死んで間もないというのに、お前らは何をやっている!』と怒鳴りつけて四散させている。魏延の首級を挙げたのは馬岱だったが」
A「……遠慮したのかね?」
F「そういうタイプではないと思うが……。陳寿は『一戦で魏延の乱が治まったのは王平の功績である』と正史に書いている。この功績から、王平は安漢将軍に任じられた。漢を安んずるというから絶賛だな」
A「関羽か張飛か趙雲にくれてやれよ、そういう肩書きは……」
F「関さんにはやれんだろ。で、漢中方面を率いることになった呉懿の副将として現地に留まったが、漢中の太守は王平だ。事実上の、魏延の後任だな。呉懿が死んだのは237年だが、そのまま王平が漢中方面軍将に繰り上がったものの、翌年には大将軍の蒋琬が移ってきたのでその補佐にまわっている」
A「軍事の主導権争いってワケじゃないよな?」
F「そういうタイプには思えんな、やはり。243年に、病状悪化から蒋琬が北方軍を離れると、改めて対魏前線の指揮を執ることになった。王平最大の見せ場はその翌年」
A「244年か」
F「この年、魏の大将軍曹爽が10万を超える軍勢(魏書では6万ないし7万)で攻め入ってきた。迎える漢中方面軍は3万足らずと劣勢であったため撤退を進言する者もいたが、王平は劉敏らを派遣して街道をかためさせる一方、自らは一千の兵を率いて迎撃に出て、ゲリラ戦で曹爽を翻弄した」
A「やっぱり、どうにも寡兵が似あうンだよなぁ」
F「以前触れたように、この戦闘で魏は補給に不安があった。姜維・費禕が援軍を率いて駆けつけたこともあり、魏軍は撤退。すべて王平の作戦通りであった、とは陳寿の談になる」
A「かなり高く評価してるなぁ」
F「だな。そして248年に死去するまで、漢中で魏をにらみ続けた。四猛将ではいち早く亡くなったことになるな」
A「充分優秀な武将だった、という認識でいいンだよな?」
F「とは思うが、どうにも大軍を率いる才覚に長けていたというイメージはない。孔明存命中から別働隊は率いていたし、功績はきっちりあげてもいるが、現場での叩き上げという感が否めなくて」
A「ノンキャリアを軽視しちゃいかんぞ」
F「そのつもりはないンだが、実はこの男、蜀書でしか名が見えない。魏書・呉書・晋書には見られないので、どうも敵国や隣国では話題にならなかったようでな」
A「……えー?」
F「敵国で話題にならなかった、話題に残らなかった武将、というレベルなんだよ。趙雲の回でも触れたが、ちょっと武将としてどうなんだ、と思える。演義では、孔明の死後に呉が国境線に数万の兵を出したので、王平は白帝城に入っている。これはフィクションだが、同盟国でも話題にあがらなかったワケだし」
A「う、うーん……国内だけでの評価か」
F「でな、趙雲とは違って季漢輔臣賛にもいないの、このヒト」
A「えー!?」
F「うん、蜀の遺臣列伝……でもないが、それに近い位置づけの季漢輔臣賛にエントリーされてないンだわ。蜀でも評価が高かった、と云っていいのかマジ疑問。少なくとも、同時代のひとからはあまり評価されてなかった感がある」
A「魏や呉だけでなく、蜀でも……!? 何で……?」
F「さーてなー。姜維とか夏侯覇とか、王平とか、魏からの降将が孔明の死後の蜀軍を支えていたとか、云いたくない気持ちでもあったンかね?」
A「………………そーれーはー、どうだろうなぁ……?」
F「能力はあった、それは確かだ。だが、大軍を率いる将才があったかと云えばやや難しい。将才というより人望だろうか。現地人でありながら他国に採用されて、寝返り、叩き上げで重鎮になっては、そりゃ評価はできんだろうな」
A「……改めて考えると、何やってンだコイツの人生って感じだなぁ」
F「蜀の視点で考えると、どう評価したものか悩むところじゃないのかな。ところで、以前触れたが、蜀の四猛将はいずれも北伐に否定的だった」
張嶷「敵の降将を信じるモンじゃない。いや、誰とは云わんが」
廖化「どーしてワシの生まれる前か死んだあとに、今日の事態が起こらなかったモンかなー」
張翼「ワシははっきり云うぞ、北伐反対、と」
A「王平も、そういう言動があったのか?」
F「いや、言動はない。正史に記述はないが、反対していたのは確かだ」
A「その心は?」
F「こいつ、費禕派なんだよ」
A「……あー、そのひと言で何もかも納得した。費禕派であることも、反対していたことも」
F「うん。まず、王平が費禕の派閥なのはいいな。魏延の乱を嚆矢に、孔明の死後から費禕の時代にかけて、もっとも重用されていた武官が王平だ。重用というのがポイントで、きちんと高位高官に取り立てられてもいる。云い忘れたが、最終的な役職は安漢侯・前監軍・鎮北大将軍、漢中方面軍軍団長(仮称)だ」
A「ちゃんと功績に報いているのな」
F「244年時点の姜維が鎮西大将軍でありながら固有の軍備を許されず、蒋琬の麾下にあったのとは裏腹にな。費禕が姜維を軽んじた、理由はいまさら確認しなくてもいいだろう。彼が北伐支持者、つまり、費禕とは異なる政治思想の持ち主だったからだ。志を異とする者に対して費禕が厳しかったのは周知の事実」
A「前後というより上下の関係からして、王平が北伐を支持していたはずがないのな」
F「そゆこと。文字通り斬り捨てられた魏延のことも考えれば、内心ではさておき表面上は北伐に反対していたはずだ。そして、魏延に立ち向かったのが誰だったのか考えれば、どうにも内心さえ反対していたように思える」
A「あくまで故郷を守るために戦っていたのかねェ……? それなら劉備に降ったのも判るが、それじゃ確かに人望は得られンだろうな。費禕同様に」
F「続きは次回の講釈で」
王平(おうへい) 字は子均(しきん)
?〜248年(蜀を守りぬいての大往生)
武勇4智略4運営2魅力2
益州巴西郡出身の蜀将。いわゆる四猛将のひとり。
能力は問題ないようだが、どーしても人格面は評価しかねる。