History Members 三国志編 第71回
「短くてスマン」
F「じゃぁ、きょうは文醜についてー」
A「……え?」
F「ん、なんか不満か?」
A「いや、人選に不満はないがオープニングジョークは? つかみは大事だろ」
F「気持ちと理屈は判るが、内輪の事情による。僕の体調が望ましい状態だったら、顔良と文醜はまとめてやっておきたかったンだ。当時もいまもそーはできんから2回に割った次第で、オープニングはすでに済んだと思ってくれ。何ヶ月遅れかはさておいて」
A「アキラに流れるお笑いの血が納得するのを拒むのですが」
F「ちょっとテレビに出る用事があったンだけど、『嫌なら見るな』とご挨拶したらその部分カットで放送されたよ」
A「そういうものがほしかった! さぁ、文醜だ!」
A2「……ほしがっちゃダメ」
F「この世はすべて絵空事。といっても、テンプレは相方同様。出自・生年は正史・演義、ついでに後漢書のいずれにも記述がない。とりあえず演義だが、初登場は第7回で、名のみなら第5回」
A「コレについては前回参照?」
F「で、済まそう。武勇に関してははっきり顔良を上回っており、事実上のデビュー戦ではまずコーソンさんと一騎討ちを演じる。惜しくもカバーに入った趙雲のせいで取り逃がしたが、異常なコトやってんのが横山三国志」
A「横山光輝の? ……何だっけ」
F「コーソンさんを逃がすまいと、持ってた槍を唇、たぶん前歯で挟んで弓を引いてるンだ」
A(ポーズをとっている)「……あ、あれ?」
F「うん。走行中の馬上で身の丈ほどある槍を半ば辺りで咥えて支えるってのも無茶だが、そんなモン咥えて的の方に目をやろうとすると、横に伸びた槍が弓を引くのに邪魔になるンだ」
A2「……半弓じゃなかった?」
F「いくら短弓でも、実質肩までしか引き絞れないようじゃ、槍投げた方が破壊力出るぞ。それでも矢を射て、コーソンさんを落馬させてるンだ。首がほとんど動かせないから、コーソンさんがほぼ見えない状態で」
A「……考えてみると無茶だな」
F「横山氏があまり武器に詳しくない、のは常々云っている通り。ただし、実際のところ、文醜の弓勢は確かなものなんだ。ときは流れて官渡の決戦。緒戦で顔良を失っていた文醜は復讐に燃え、10万の軍を率いて黄河を越えた。ところが、曹操軍の輸送隊と遭遇したモンだから、兵は略奪に走っていうことを聞かない」
A「弓は?」
F「ここから。さあ攻めろと曹操が命じたモンだから、収拾がつかない文醜は単騎で逃げるしかなかった。張遼と徐晃が追って来たモンだから、槍を弓に持ち替えまず張遼を狙う。鞍上で身体を低くした張遼だが、その姿勢を見越していて、矢は兜に命中」
A「おいおい」
F「キレた張遼はそれでも文醜に向かっていくが、将を射んと欲さばまず馬を射よ。今度は乗馬の顔面を射抜かれ、張遼地面に放り出される。文醜が馬を寄せてきたので徐晃がフォローに入ったが、文醜の兵が集まってきたので、張遼を回収して逃げるのが精一杯だった」
A「どーにも演義の張遼って弓に弱いな。そういう最期だったろ」
F「逃げるふたりを追う文醜だったが、そこへ関羽が駆けつける。二合か三合しただけで『ぅわ、コイツには勝てねェ……』と、馬を返して逃げようとするが、赤兎相手ではそれもできず、あっさり追いつかれて背後から斬り捨てられた。顔良同様の最期でした、と。享年不明」
A「ごしゅーしょーさま」
F「さて正史での扱い、はほぼ顔良と同じでな。やはり199年の袁紹軍の軍制改革に際して将に任じられた、のが最初の記述だ。その時点で荀ケが名を知っていたンだから、ある程度の人物だったと見ることもできなくはないが、先の顔良での失敗があるので、出陣に際して劉備がつけられた」
A「先鋒に使える人材じゃないから誰かつけろ、という沮授の進言だったか」
F「で、輸送隊をエサに、喰いついてきた袁紹軍を叩くという策は演義と同様。というか、演義が同様。乱戦の中で討ち取られたのもな。討ったのは関羽じゃないし、兵数も5000か6000というところだが」
A「乱戦の中では、誰に討たれたか判らんでも仕方ないだろ」
F「正史では『荀攸が歩兵・騎兵を駆り立てて討ち取らせた』とあるが、まさか荀攸が槍振り回してたワケじゃないだろう。いちおうフォローしておくと、文醜が物資に気を取られたのにも伏線はある。沮授が事前に『持久戦なら物資の多い我が軍が有利』と袁紹に進言していたンだから、敵の物資を積極的に減らすのは間違いではない」
A「それはそうだろうけど、物資と引き換えに首級挙げられたのはフォローできんだろ」
F「無理だねェ、それは。ともあれ、そんな次第で袁家の二枚看板はあっさり退場し、ここから袁紹は衰えていく。演義ではあるが余人ならぬ主君袁本初は『関羽がこっちに来てくれれば顔・文の10倍頼りになるねっ!』と評している」
A「とことんあの野郎はヒトを見る目が……あるのかないのか?」
F「どーだろうねー。短くて悪いが、ところで」
A「まぁ、まだ本調子じゃないしな」
F「ん。前回みたように、顔良については後世彼を祀るエピソードがある。ところが、文醜にはない。こちらはあくまで関羽の引き立て役に過ぎない漢と書かれている。武勇は顔良よりひと回り上の、だが」
A「なぜか、って話か。演義では兄弟分なのに、なぜ顔・文で扱いが違うのか」
F「もったいぶっても喉の負担が引くワケじゃないからぶっちゃけよう。たぶん単純な理由だ。さっき云ったように、実史で文醜を討ったのは関羽じゃないから」
A「……まぁ、華雄が化けて出るとかいう話もないか。アレだって正史では孫堅だったよな」
F「うん。関羽が直接手にかけたと確認できる敵将、だな。直接でなくていいなら龐徳も該当するが、コイツは息子が関家を滅ぼすという、ちょっとやりすぎなことをしているから、さすがに後世からも同情されなかったンだろう。だが、顔良は違った。関羽が武人の鑑として奉られると、そのアンチテーゼとして惜しまれたようでな」
A「顔良は、本当に関聖帝君に斬られたことが確認できる、ある意味特異な男だったワケか」
F「そうならなかったことは、果たして文醜にとってよかったのかどうなのか。僕には評価しかねる」
A「……難しいオハナシで」
F「続きは次回の講釈で」
文醜(ぶんしゅう) 字は不明
?〜200年(乱戦の中で斬り死に)
武勇5智略3運営2魅力2
出自不明の袁家の武将。こちらも生年の明記はないがお若いはず。
演義では抜群の武勇を誇るが、その死を惜しむ声はあまりない。