History Members 三国志編 第70回
「喉自慢ならぬ喉試し」
F「娘から許可が出たので久しぶりに講釈してみる」
A「『南海覇王』講釈するだけしておいたのが……かれこれ3ヶ月前か? 確か5月も末だったよな」
F「だね。僕のテンションはさておき、喉の調子をだましだましだからちょっとやりにくいのは勘弁で」
A「仕方ないとは思うが。で、今回のお題は?」
F「顔良で行こうかと思う。まだ体調的に坑儒ネタは無理だし」
A「興奮すると喉が詰まるからなぁ」
F「です。えーっと、袁紹軍の二枚看板の片割れで、三国志ではトップクラスに数えていい武勇の持ち主とされる。演義での初登場は第7回、ただし名だけなら第5回で挙げられている」
A「7回ってーとぉ……どの辺りだ?」
F「袁紹の冀州奪取だな。ほとんどだまし討ちで韓馥から冀州をもらえることになって、ホクホク鄴に乗り込んだ袁紹だが、韓馥と袂を分かった耿武・関純(正史では閔純)が襲いかかってきた」
A「韓馥は降伏を決めたのに部下の強硬派がそれを是としなかった?」
F「そゆこと。耿武は顔良が、関純は文醜がそれぞれ討ち取っている。このふたりと沮授が韓馥に徹底抗戦を持ちかけたのは正史にもあるが、殺されたという記述は後漢書袁紹伝の注にしかない。しかも、田豊による謀殺」
A「あらら。つまり、実際には顔良の手柄ではなかったと」
F「そうだな。そのままコーソンさんとの戦闘になるが、界橋の戦闘で顔良はあまり目立たず、相方文醜がいいところで趙雲に退けられている」
A「相手が悪いな」
F「この辺りは192年頃のオハナシだが、時は流れて200年。官渡の決戦に先立つ白馬の前哨戦で、顔良は袁紹軍の総先鋒となった」
A「で、曹操軍を苦しめる。宋憲と魏続だったよな」
F「だ。呂布軍から降っていた宋憲・魏続を相次いで討ち取り、横山三国志ではカットされていたと思うが徐晃まで蹴散らした」
A「末席とはいえ五将軍のひとりまで退けられては、もはや切り札を出すしかなかったワケだな」
F「そういう次第で、当時曹操のもとにいた関羽が呼び出され、あっさりひと太刀で斬り捨てられる、と」
A「……他の説明のしようがないか」
F「フォローの余地がなくてな。顔良の陣を俯瞰した関羽が『何だこの程度』と笑うのを曹操や張遼が『敵を見くびるモンじゃない』と諌めるのにズンバラリでは」
A「徐晃がいい面の皮だよなぁ」
F「しかも、困ったことにこの死にザマは正史でもほぼ同じ。単身ブっ込んできた関羽に斬られるという、正史にあるまじき最期だ」
A「一騎討ちって正史では珍しいンだっけ」
F「うん。正史ではほとんどいない、一騎討ちでの戦死者になる。やってることが正史の通りとはいえ、羅貫中が顔良に科した役割とは、関羽の引き立て役だったというワケだ」
A「強いは強いが上には上がいる、ってオハナシか。ザコ武将が蹴散らされ顔良ひとりに苦戦している曹操軍に、颯爽と現れ窮地を救う関羽、と」
F「相方の文醜にしても、趙雲相手にほぼ同じことをさせられているからね。羅貫中の考えは明らかなワケだ。上の上こそが劉備一家だと。それを如実に表しているのが、実は第5回」
A「演義での初登場、と云ってたか。名のみ?」
F「そう。反董卓連合軍が華雄ひとりに苦戦していたときに、総大将の袁紹が云った台詞だ。我が軍の顔良・文醜のひとりでもいればあんな野郎にデカい顔はさせんのに、と」
A「……ぅわー」
F「その華雄のみならず、顔・文を斬ったのは誰だったか。さりげなくまったく同じことを繰り返して、関羽の箔付けとしているワケだ」
A「呂布亡きあとの三国志世界最強の武将だからなぁ」
F「そうやって考えると、顔良が本当に強いのかは微妙に思える。『真・恋姫』での武力評価3(関羽が5)はあながち間違ってないように思えてね」
A「いや、そこまで弱くはないと思うが……」
F「うん。正史での話に入るが、孔融は『顔・文は三軍に冠たる勇士』と評しているが、それを聞いた荀ケは『あんな匹夫すぐに捕えられますよ』と断じている」
A「評価が二分されてるな。まぁ、孔融と荀ケなら無条件で荀ケを信じるべきだろうけど」
F「で、正史の記述を信じるなら、顔良と文醜が袁紹軍の将軍に任命されたのは199年なんだ」
A「前年!?」
F「この年、コーソンさんを破って河北を制したことで、袁紹は軍制を改めているンだ。冀州奪取は平和裏に進んだし、界橋戦での記述に顔・文の名はない。コーソン攻めで功績があって昇進したンだとは思うが」
A「ちゃんとした地位に就くのは決戦の直前か……それじゃ、評価されたのか微妙なモンだな。決戦前の景気づけとも取れる」
F「しかも、顔良を先鋒として使うことについて袁紹軍の内部から、沮授が『アイツは武勇はありますがせせこましい性格ですから、単独で外には出せませんよ』と反対しているンだ」
京都生まれ大阪育ち「せせこましいって東京弁で通じるか?」
ロシア人「どうだろう? えーっと、セコくて心にゆとりがない、みたいな」
A「猛将ではあってもセコくて、余裕を持てない性格か」
F「セコいってのは物資に気を取られて死んだ文醜にも云えるが、後半が問題でな。先鋒の重責に耐えられる人材じゃないから誰か補佐をつけろという沮授の発言は、叙任から間がなく任務に耐えられないという評価にもとれる」
A「重職に抜擢された新人の指導にベテラン回すのは当然だが……」
F「ただ、この当時、袁家首脳部では派閥争いが起こっていた。官渡の決戦を前に田豊が投獄されたのもその一環だが、というわけで沮授の意見は容れられず、顔良は先鋒として黄河を渡った」
A「そして、悲劇は起こった」
F「荀攸の策を容れた曹操は、一軍に黄河を渡らせ袁紹軍の背後を襲う素振りを見せつつ、本隊はそのまま白馬津に直行。慌てた袁紹、自ら指揮する本隊は黄河を渡った部隊に向かう」
A「取り残されたかたちの顔良隊が曹操本隊とぶつかる……と思われたが、突っ込んできた関羽にズンバラリ、と」
F「正史にも『関羽と戦える者はなかった』とある。やはり、任命されたての顔良では荷が重かったと云える。麹義が生きていればなぁ」
A「惜しいひとを亡くしました……でいいのかな?」
F「ところで、以前触れたように、顔良の死には劉備が絡んでいるという異説がある。劉備が『関さんを見かけたらオイラが探していると云ってくんな』とことづけていた、というものだが」
A「聞いていた特徴通りの関羽を見かけて、声をかけようとしたが、聞いちゃいない関羽はそのまま斬り捨てたってアレか。ちゃんと戦っていたら勝負は判らなかった、というオハナシだな」
F「揚州は丹陽郡、要するに呉に、顔良を祭る祠があったという」
A「何でやねん」
F「清代の中ごろのオハナシになる。呂蒙が建てたという呂城の近くに顔良の祠はあったが、由来は不明。ただし、地元民はこの祠を篤く信仰していて、この祠から十五里以内に関帝廟を造ってはならないとされていた」
A「清代なら、どこにでも関帝廟あっただろうに」
F「ところが、赴任してきた県令はこの話を信じず、顔良の祠で祭祀が行われる当日、よりにもよって三国志モノの芝居をやらせたのね」
A「……どうなった」
F「旋風が巻き起こって幔幕や大道具は空を舞い、地面に叩きつけられて全壊。役者にも死傷者が出たのみならず、祠から十五里以内の土地で疫病が蔓延。人や家畜の多くが死に、ことの元凶となった県令も重体に陥ったという」
A「そんな妖力、白馬津で使われなくてよかったよ……」
F「風は呼んでも雨は呼べないようではまだまだだがな。演義での呂蒙は関羽に呪い殺されたモンだから、関羽のせいで死んだ者同士という因縁で、そんな民間伝承ができたらしい。意外と、顔良を惜しむ声は強かったようでな」
A「劉備がいらんことしたからだーとか、ひともあろうか関聖帝君をも凌ぐ霊験とかという伝説が後付けされている辺り、ただの一発屋で済ませるには惜しい人物と思われている?」
F「らしい。正直な本音、何でここまで、と思えるレベルでな。民間伝承すべてが劉備一家を贔屓しているものではない、という生き証人……もとい、死に証人のひとりが顔良なワケだ」
A「劉備が負けたら泣いて悲しむンじゃなかったのかよ……」
F「続きは……ちょっと判らん。ので、またいずれということで」
顔良(がんりょう) 字は不明
?〜200年(一撃でズンバラリ)
武勇4智略1運営2魅力4妖力3
出自不明の袁家の武将。後漢書・正史を通じて生年の明記はないが、たぶんお若い。
一騎討ちで死ぬという正史にあるまじき最期を遂げるが、後世でその死は意外なまでに惜しまれている。