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History Members 三国志編 第67回
「西の閻氏は馬超嫌い」

F「今回は、涼州の勇士・閻行(エンコウ)で行こうと思う」
Y「馬超に殺された役人だったか」
F「そっちじゃない。似た名前のもいるが、馬超を殺しかけた方だ」
Y「は?」
F「所属は韓遂軍という微妙な存在だが、心は魏に捧げていた人物になる。出自は金城郡、若い頃から偉丈夫と評判で、下級武官として韓遂に採用された。で、建安の初めごろとあるから196年以降、韓遂が馬騰と戦火を交えると、閻行もこれに従軍している」
Y「何で争ったンだったかな」
F「ぶっちゃければ、董卓死後の涼州の覇権争いだ。西方に強い勢力・影響力を誇った董卓が死んでから、涼州を抑えるのが誰なのか、で義兄弟だった馬騰と韓遂が仲違い。韓遂一度敗走するも、軍勢を糾合して反撃し、今度は馬騰の妻子を殺したモンだから、戦闘は悪化・長期化したワケだ」
Y「息子が馬超の他にも……あ、いたな。馬鉄馬休だったか」
F「その他にもいたことになるな。で、いつの戦闘かは今ひとつ不明だが、やはり偉丈夫と知られる錦馬超が従軍していたところ、閻行と一騎討ちになってな」
Y「並の武将では太刀打ちできん気がするが」
F「んー、演義では、張飛許褚と名勝負は演じるものの、名のある武将は討ち取っていないからなぁ。正史の注に引かれたこの一戦で、馬超は完膚なきまでに負けているし」
Y「負けたのかよ」
F「うむ。閻行の矛が馬超を貫いたところへし折れたので、折れた矛の柄で馬超の首筋をブン殴って、ほとんど殺すところだった、とある。郭援戦でも馬超は負傷しているけど、流れ矢に足をやられたそのときとはダメージが違うだろうね。196年だと馬超はハタチそこら、自分の武に慢心していた頃の油断だろう」
Y「その油断、結局一生涯続いた気もするが、よくそんな状況で生き残れたモンだ」
F「いつも通り龐徳がガンバったのかね? この後、曹操の仲介で両者が和睦したためか、閻行の行跡はちょっと途絶えて、209年まで出てこない。この頃馬騰は宮廷に出仕していたので、その様子見も兼ねてだろう、韓遂は閻行を曹操のもとに使者として送りこんでいる」
Y「韓遂からはそれくらい信用されていたワケか」
F「だが、結論から云えばコレが失敗だった。閻行に会った曹操は彼を気に入り、手厚くもてなして益州は犍為郡(けんい)の太守に任じている」
Y「何で南蛮?」
F「208年に劉璋が曹操のところに使者を三度も送っているから、曹操の側では益州諸郡の名義を得ていたつもりだったのかもしれん。これを閻行が喜んだ」
Y「なぜ喜ぶ?」
F「単純に官職だから、というわけではなさそうでな。閻行は『今度、父をこちらに送りますので、衛尉にでもしてください』と、自分の老父を人質に出すと表明したンだ。以前曹操は、馬騰に『馬超をこっちによこさんか?』と打診して結局断られているし、このあと馬超が宮廷の馬騰を見捨てて挙兵したのは周知の事実」
Y「それなのに、自分から父親を人質に出したのか」
F「この時点で閻行は、韓遂に採用されてからすでに三十年あまり経っていてな。涼州に帰って『民も兵も疲れ果て、領土も狭くなっているのですから、こちらから曹公にお近づきになるべきです。私は父を送りますから、将軍はお子を送りましょう』と韓遂を説得しているンだ」
Y「涼州の兵乱短からず、か」
F「天下が見えていたのかもしれない。それが見えなくなっていた老雄は『数年様子を見よう』と事態の推移を見守ろうとしたが、閻行が父だけでなく母親まで送ることにしたモンだから、結局折れた。閻行の父母といっしょに、息子と孫を曹操のところに送っている」
Y「どこまで曹操に惚れこんだのやら……」
F「ところが、武威郡の太守が叛乱を起こしたので、韓遂がそれの討伐に向かうことになり、留守は閻行に任された。討伐そのものは武威太守が焼身自殺して終焉したけど、帰ってきた韓遂は『ワシは馬超とともに兵を挙げるぞ!』と云いだしたモンだからさー大変」
Y「大変は判るが、いったい何が起こっているのかちょっと混乱してきた。まず、武威の太守は誰に叛乱した?」
F「あぁ、雍州刺史に対する叛乱だ。黄河の西の四郡はいまひとつ統治しにくいから司隷・涼州から独立した州を作ろうと建議され、実際にその四郡で雍州が設置された。のちに範囲は広がったが、新任刺史の邯鄲商(カンタンショウ、人名)は、時を同じく武威郡太守に任じられた張猛とともに任地に向かっていたンだが、道中でケンカになってな」
Y「ケンカ?」
F「同い年だったので普段からふざけあっていたンだが、このときは本気で罵りあってうらみ骨髄に達している。着任した邯鄲商は張猛を殺そうとし、それを察した張猛は先手を打って、邯鄲商の宿舎を攻めた」
Y「なるほど、叛乱だ」
F「屋根に上った邯鄲商が『てめえ、俺を殺す気か!? 俺は死んだら、魂魄だけになってもお前の一族を殺し尽くすぞ! だから、和解シテクダサーイ』と怒鳴りつけると、張猛は『うん、こっちにおいでー』と受け入れたものの、拷問のうえで軟禁、逃げようとしたところを殺害している」
Y「もとい。アホ同士のケンカか?」
F「かなり否定できない。これが209年のこと。翌年には韓遂が鎮圧に動員されたンだが、張猛が派遣した迎撃軍は韓遂を恐れてそっくり降伏し、矛を返して張猛のところへ攻め込んできた。最期を悟った張猛は『魂魄がないならいいが、あるならここじゃ死ねない。俺も魂魄になって親父の墓に行こうっと』と、焼身自殺している」
Y「親父はいったい何者だ?」
F「張奐(チョウカン)。ほら、『蒼天航路』の序盤に出てきた」
Y「アイツか!?」
F「張奐が武威の太守だったので、張猛も取り立てられたンだが、よく親父にあわせる顔があったものだと思う。まぁ、裴松之がわざわざ、屋根に上らず『2階で死んだ』と明記した辺り、邯鄲商の一件をやりすぎと自覚はしていたようだが」
Y「老いたる熱血にそーいう倅がねェ……」
F「話を戻すが、そういう次第で韓遂の軍勢は増加したところ、これに馬超が目をつけた。演義では曹操に反発していた馬騰が正史では親曹操派だったので、袁家と河北を争っていたころには、馬超は并州に出陣させられ、現場で負傷までしている。曹操が漢中征伐なんぞするとなると、地勢上また馬超に出陣命令が降ることは明白」
Y「いい加減、曹操のために働くのが嫌になってきたのか」
F「それでいて、関中方面責任者の鍾繇が、涼州軍閥各位の弱体化のため暗躍していた。董卓お墨付きの軍事力を野放しにできないという考えそのものは間違いではないが『野郎があっさり勝てたのは、張猛に通じていたからだ』と難癖つけて、馬超に韓遂を捕えるよう命じたらしい」
Y「戦勝軍の指揮官が勝って処罰されるのは、歴史上珍しくはないが」
F「明記はないンだが、どうもそんなことがあったようでな。韓遂の兵力が増したところに捕縛命令では、確かに危機感も抱くだろう。馬超はバカ正直に、韓遂のところに行って『鍾繇は私に将軍を捕えよと命じました! もう連中を信じられません!』とぶっちゃけているンだ」
Y「涼州をまとめあげるには、韓遂の助力が必要だと踏んだワケか」
F「そして、馬超はやっちまった」

「私は父を捨て将軍を父とします。将軍も子を捨て、私を子としてください」

Y「子が親を選ぶか」
F「選べるならオレの人生はもっとマシなものだったンだがなぁ。韓遂はこれを容れて、涼州を挙げ曹操に対抗することにしている。当然、閻行は立場からも心情からも馬超との連衡を諌めるが、老雄は『今回の一戦は天に意思を問う。ヒトの話など聞かん』と突っぱねている」
Y「老いたな、韓遂」
F「そんなワケで211年、長安攻略を皮切りに、曹操と馬超の戦闘が始まった。長引いたので巻くが、曹操軍は、潼関では窮地に陥ったものの黄河を渡り渭水の北に陣取ったために、戦略的に優勢に立っている。ために、馬超はいったん講和を打診し、曹操はこれを受け入れた」
Y「その間に、涼州勢を分裂させようと画策してだったな」
F「うむ。曹操自ら韓遂と馬を並べて話しあう、というのは演義でも見られるエピソードだが、正史の注ではこのとき、後方に控えていた閻行にも、曹操自ら『孝子となることを考えねばならんゾ』と声をかけた、とある。韓遂のみならず副官的な部下までコレでは、馬超でなくても疑心暗鬼に駆られるだろう」
Y「オツムのデキが違うからなぁ」
F「かくて馬超が敗れると、閻行は韓遂に従って金城郡に逃げ帰っている。だが、曹操は馬騰や韓遂の子・孫を処刑しても、閻行の父母は殺さなかった。のみならず『キミのお父さんは生きてるけど、牢屋は親を養う場所じゃないからね?』という趣旨の、自筆の書簡を送っている」
Y「入れておくべき親もいるがな」
F「オレのとかな。この書簡の内容を知った韓遂は、自分の末娘を閻行に娶せている。縁をつなぐことで曹操の疑心を招き、閻行の父親も殺させ、閻行に曹操を諦めさせようとしたンだが、確かに曹操は『疑念を持った』とあってな」
Y「父親を殺したかどうかは?」
F「明記がないが、このあとの事態から察するに殺してはいないようでな。閻行を信頼していると内外に表明するためか、韓遂が西平郡を閻行に任せると、閻行はついに挙兵して韓遂を攻めているンだ」
Y「そこまでして曹操に尽くした、と」
F「だが、金城郡を夜襲したものの、攻略できずに返り討ちにあい、そのまま曹操軍に落ち延びている。このとき家族を連れていったとあるが、この中に韓遂の末娘がいたのかは不明。閻行を失った韓遂は『ワシが窮地だというのに、それにつけいる輩が姻族とは……』と漏らしている」
Y「長年の部下で娘婿に裏切られては、さしもの老賊もここまでか」
F「こうなったら蜀に落ち延びるか、と韓遂でも弱気になったものの、成公英の『曹操が自ら遠征してくることはなく、来るのは夏侯淵です。アイツなら逃げきれます。しばらくは西羌に頼って夏侯淵が去るのを待ち、その間に兵力を整えましょう』という進言を容れて、数千人の男女とともに西羌の居住区に避難している」
Y「西羌がよく受け入れたな」
F「以前から誼をつないでいたので保護してもらえたらしい。韓遂一行を取り逃がした夏侯淵は長居を避け、軍を残して自分は引き揚げたが、西羌と韓遂の抑え残ったのは閻行だった」
Y「おい、ちょっと待て」
F「それなら勝てると踏んだのか、韓遂は西羌数万の軍勢で攻める気配を見せ、閻行は閻行で潔く逃げる準備を始めた。が、実際に戦闘になることはなく、韓遂は麹演に討たれている。215年のことだった」
Y「命拾いしたワケか」
F「この後、閻行(と父母)がどうなったのかは記述がない。だが、個人としての武勇はともかく、いざというとき頼れない人材なので、魏で出世できるタイプではなかっただろうな」
Y「馬超を殺しかけた一件がピークみたいだからなぁ。そのあとの空回りぶりが何と云うかで」
F「違いない。ところで、血縁は確認できないが、魏書には閻温(エンオン)という人物の伝がある。閻行は立伝されていないが、こちらはちゃんと立っていてな」
Y「そっちが殺された方か」
F「うむ。曹操に敗れた馬超が天水郡に落ち延びてくると、受け入れようとした民衆を制した役人でな。民衆が制止を聞かなかったので、涼州治所の冀城に逃げ込んだ。のだが、再起した馬超の軍は今度は冀城に押し寄せる」
Y「順番としては正しいが、やってることは群盗だな」
F「冀城を多重に包囲した馬超軍に、州のお役人は夏侯淵に助けを求める使者を出すことにしたが、ここで選ばれたのがなぜか閻温。夜に堀を抜けてなんとか包囲からは逃れたが、水跡を発見されて追っ手がかかった。逃げるは逃げたが、顕親の県境で捕縛されている」
Y「援軍はどうなった?」
F「随員がいたのか、それとも何らかの手段で連絡をとったのか、援軍そのものは来ることになったらしい。連れてこられた閻温に、馬超は縄を解いて『救援は来ないと城に伝えてくれ。な?』と頼み、閻温はそれを了承した」
Y「だが、従うわけではない」
F「城壁の前に囚人車で出された閻温は『3日もすれば援軍は来るぞ! もう少し頑張れ!』と呼ばわる。城内が閻温バンザイと沸き立つ中、お怒りの錦馬超は『命が惜しくないのか!』と怒鳴りつけるが、閻温は返事をしなかった」
Y「他人を害して喜ぶのは、自分が強いと勘違いして安心したいから、だったか」
F「何の標語だ? まぁ、窮鼠と呼ぶには強力がすぎるが。だが、馬超でもすぐには閻温を殺そうとしなかった。冀城の抵抗が意外と頑強なので、閻温の利用価値がまだあると考えてな。城内に、馬超軍に呼応しそうな者はいるかと聞かれた閻温だったが、またも返事をしなかった。怒った馬超はまたも怒鳴るが、閻温はここで返事をしている」

「主君に仕えるなら死んでも裏切らぬものだ。だのに私に、私の上官たちに不義を働かせようとする。私は命を惜しむ男ではありませんぞ」

F「ということで、殺された」
Y「それだけで立伝されているンだから、たいしたタマだよな」
F「閻温伝はこのあと、遺族について何の記述もなく、涼州の兵乱について割かれているからなぁ。ホントに、コレだけで立伝された人物になる。閻温は役人だが、死んで立伝された。閻行は武人だが、生きて立伝されなかった。どちらも馬超を受け入れなかったが、その生き方と評価にはちょっと差ができている」
Y「どうにも馬超は閻姓と相性が悪かったようだな」
F「続きは次回の講釈で」


閻行(えんこう) 字は彦明(げんめい)
生没年不詳(魏で列侯に叙されたものの、晩年どうなったかは不明)
武勇3智略2運営3魅力2
涼州金城郡出身の偉丈夫。
個人での武勇は高く評価されるが、急場ではいまひとつ頼れない面が目立つ。

閻温(えんおん) 字は伯倹(はくけん)
?〜210年(馬超に殺害される)
武勇2智略2運営2魅力4
涼州天水郡出身の、魏のお役人。
馬超の侵攻に反対し続けて非業の最期を遂げ、その功績で立伝された。

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