History Members 三国志編 第66回
「蜀漢戦隊ゴコレンジャーNo5、サツリクシルバー」
F「ではでは、なにごともなかったよーに、本日は趙雲について一席」
A「おー」
F「日本では孔明に次ぐ人気の蜀将、と云ってもあながち過言でもない人物になる。演義では、関・張に引けを取らない武勇を誇るのに高潔で義理がたい、男の中の男をいう扱いだからな」
A「その割には、横山三国志ではなぜかドカ○ンなんだよな」
F「何だろうね、アレは? 甘寧並に年齢を無視した外見で描かれることが多いのに、横山版ではごついおいちゃん。コーエー(現コーエーテクモ)の無双で人気投票したら『イケメンだから』と票が集まるのに」
Y「無双を三国志に数えるのはやめるべきじゃないかとマジ思う」
F「どっちの無双だ? 返答次第では僕の講釈の根底を否定することになるが。実は、本場では黄忠さんと並ぶ老将という扱いなんだけどね。成都の武侯祠にせよ趙雲廟にせよ、白髭の老人姿で祭られてるから」
A「おいおい!?」
F「正史では生年不詳だけど、演義では227年の第一次北伐の折に数えで70歳とあってな。158年の生まれという設定なんだわ。劉備は161年生まれだから畢竟関羽・張飛より年上になり、演義では148年生まれの黄忠さんと10歳違いということになるモンだ」
Y「あぁ、演義ではトシが判ってるのか」
F「三国志演義の九二回にはっきり書いてあるよ。ここでテンプレ入れると、出自は冀州常山郡、の真定県。演義では趙範と同郷ということになっている。周知の通り、当初はコーソンさんに仕えている」
Y「君主を見る目はなかったのか」
A「コラ」
F「いや。正史の注によれば、この頃冀州の人士は袁紹になびいていたのに、趙雲が官民連れてコーソンさんに帰属すると、ヒトをヒトと思わぬコーソンさんでも喜んだとある。『冀州の連中が袁紹についているのに、どうしてお前は正気なんだ?』と聞かれると『仁君に従っているだけで、別にアンタが正しいと思ってるワケじゃない』との返事」
A「コーソンさんがアホならすぐに見捨てるぞ、と」
Y「そもそも仕えるべき主ではないンだがな、あの白馬は」
F「事実、兄が死ぬと趙雲はコーソンさんの下を離れているから、その最期に殉じずに済んだのね。ある程度、ヒトを見る目はあったと云える」
Y「次に仕えたの劉備だぞ」
F「お前だとそれがネックになるのか。趙雲がコーソンの下を離れると聞いた劉備は『戻ってこないだろうな』と察して、手を取って別れを惜しんでいる。日頃から深く交流していたので『絶対に劉備殿のことは裏切りませんぞ』と趙雲も応えた。で、官渡のドサクサで劉備のところに馳せ参じたモンだから、喜んだ劉備は同じベッドで寝たとある」
A「寝所に入れるほどの信頼を寄せていたワケだ♪」
F「演義では、コーソンさんの下からは離れず、コーソンさんの死後は野に降った。たびたび袁紹から仕官の誘いは受けたものの断って、劉備のところに向かおうとしたら徐州が陥落。どーしよーかなーとうろついていたら裴元紹に襲われたので返り討ちにし、お山を乗っ取っている」
Y「何やってンだ」
F「周倉も蹴散らしたモンだから劉備・関羽が自ら乗り出すと、お互いに馬から飛び降りて再会を喜ぶ。三兄弟に趙雲まで加わって、劉備一家は再起に乗り出す、というシーンだな。殺された裴元紹がいいツラの皮だが、演義での趙雲は登場するたびにザコ武将を殺す悪癖があって」
A「気がつくと斬り散らしてる感があるよなぁ」
F「ところが、コーソンさんを袁紹軍の追っ手から助け、文醜を退けるというのが演義でのデビューなんだが、この文醜や許褚・張郃といった武力90クラスの武将は、一騎討ちになっても討ち取れない。簡単に討ち取られても困るが、そのレベルだと逃げられるか混戦になって勝負がつかないかなんだ」
A「強い奴とはいい勝負で終わるのか」
Y「ホントに強いのか微妙に思えるところだな」
F「ともあれ、劉備が荊州入りすると趙雲はこれに同行。そのせいでもないが袁紹が敗れ、河北が曹操のモノになると、趙雲一世一代の見せ場がやってくる」
A「長坂坡の一騎駆けじゃね」
F「うむ。劉備を慕う民衆を連れて逃げるが、曹操の軍勢に追いつかれ、兵士は散り散りになってしまう。劉備の妻子を任されていた趙雲は乱戦の中に取って返すが、それを見た誰か(明記はないが、演義では糜芳)が『趙雲が寝返りました!』と云っても『アイツが俺を裏切るものか!』と劉備は怒鳴り返している」
Y「本人がそう云ったのを信じていたワケか」
F「で、実際に劉禅と甘夫人を回収して戻ってきた。演義では、甘夫人は先に張飛に預けてまた戦場に駆け戻り、劉禅を抱いて負傷している糜夫人を発見する。足手まといになるのを恐れた糜夫人が枯れ井戸に身投げしたので、趙雲は生まれたばかりの劉禅を懐に入れて、曹操軍の真っただ中をひた走った」
A「晏明・鐘縉・鐘紳、その前に夏侯恩と、曹操軍の名だたる武将を50人討ち取っての一騎駆けに、曹操は『殺すな、生け捕れ! それができんならいっそ行かせてやれ!』と感嘆したとか♪」
F「いつぞや云ったが、張郃と戦ったのはこのときでな。張郃は趙雲の左手の中指に傷を負わせ、その傷を恥じた趙雲は中指に指輪をつけて隠した。で、それを見た荊州の民衆は、真似して指輪をするようになったとか。長坂古戦場に残る趙雲像には、左手の中指に指輪がついている」
A「だから、見に行くときはアキラを誘わんね!」
F「あっはは。で、この功績から、たぶん赤壁戦の後だろうけど、趙雲は牙門将軍に叙されている。益州攻略戦では当初荊州に残っていたものの、孔明率いる本隊として益州入り。その前に、孫尚香が劉禅を連れて呉に帰ろうとしたので、張飛とともに船団を指揮してこれを捕捉し、劉禅を奪い返しているが」
A「末娘とはいえ、呉に水上で勝ったのかよ」
F「コーエー(同上)の三國志Vで、趙雲の水軍指揮能力(83)が蔡瑁(85)並みになっているのはこのエピソードのせいなんだろうな。ともあれ、益州の郡県を攻略した功績で、蜀が平定されると翊軍将軍に叙されている。これが214年のことなんだが、次に趙雲が昇進するのは223年のこと」
A「……9年後?」
F「うむ。もちろん、この間何の功績もなかったワケじゃない。漢中争奪戦では包囲された黄忠を救出し、追撃してきた魏軍を空城の計で返り討ちにしている。劉備から『アイツは全身肝っ玉だな』と賞讃されて、でも昇進ナシ。周知の通り、劉備が漢中王に就任する(219年)と他の五虎将は前後左右の四方将軍に叙されたのに、趙雲はハブられた」
A「まぁ、中将軍ってのがなけりゃ同格の役職がないからなぁ」
F「あったとしてもそれは魏延にやったと思うぞ、劉備の評価からして。221年に劉備が帝位に就くが、それまでに関羽・黄忠は死んでいて、張飛が車騎将軍、馬超が驃騎将軍に叙されたのに、趙雲は今回もハブられた」
A「衛将軍にしてもいいだろうになぁ、今回は」
F「(確認中)……247年に姜維が叙されるまで、蜀の衛将軍は空席だね。223年、劉備が死に劉禅が後を継ぐと、張飛・馬超ももう死んでいたためさすがに昇進している。中護軍・征南将軍だが、ここからなぜか鎮東将軍になった」
Y「降格だよな」
F「うむ。四征または四鎮から四方将軍に"昇進"、というケースはよくある。そもそも漢王朝の序列では、四方将軍のが権威があった。ところが、戦乱の時代が続いたせいで、実戦部隊の四征・四鎮、および四平・四安将軍位に権力が移行したンだ。だが、慶事における権威としてはまだまだ四方将軍のが上だった」
A「劉備が漢中王になったとき、趙雲を除く五虎将が四方将軍に叙されたのはそういう事情があったから、と」
F「当時、馬超は平西将軍、黄忠は征西将軍だったのに、だ。魏では張遼(征東将軍から前将軍)、呉では潘璋(征北将軍から右将軍)の実例があるから、これは降格と扱わないのが通例になる。詳しくは以前触れたが、四征から四鎮では明らかな降格だ」
以前→ http://f-sinner.at.webry.info/201010/article_9.html
A「うーん……」
F「ともあれ228年、第一次北伐の失敗により孔明が丞相から右将軍に降格されたのに併せて、趙雲も鎮軍将軍に降格されている」
Y「軍人が処罰されるのは処罰されないことより正しいのだ、だったな」
F「翌229年に亡くなっている。演義を信じるなら享年七二。それから32年後の261年に順平侯と諡された、と。長いコト仕えていた割にはあまり報われなかった人生になる」
A「だよなぁ……」
Y「現代社会で云えば、そういうタイプは世渡り下手か無能かだがな。能力はあるのに上司や人事にウケが悪くて出世できないタイプか、それともそもそも能力がないか」
F「当時だと身分も重要だけどな。趙雲について、正史三国志では『黄忠・趙雲は果敢で勇猛(陳寿評)』『柔順で賢明、慈愛と恩恵を備えた者を順と、事にあたって秩序あることを平と称するので、趙雲には順平侯と諡するべきでしょう(姜維評)』『オレはガキの頃死ぬ思いをしたが、アイツのおかげで助かった(劉禅評)』と、評価が高い」
A「当然だな」
F「のだが、楊戯の季漢輔臣賛では陳到と並べられて『趙雲は重厚、陳到は忠誠と知られ、ともに精兵を率いて猛将と名を馳せた』とされている。この陳到が演義に出ないせいで知名度が低く、ために意地の悪いは『趙雲なんて陳到の上にすぎない』と意図的に低く下げる発言のネタにされていてな」
Y「陳到がどのレベルか周知がないからできる悪口だな」
F「ただね、趙雲は五虎将の3番じゃなくて5番なんだよ。全体の序列としては低くないけど、演義で思われているほど高くもないというのが実情でな」
Y「魏延より下、という認識でいいのか?」
F「あんまり間違いではないな」
A「いいのかよ?」
F「ちくま版正史三国志の8巻には人名索引があるが、これを確認すれば当時の趙雲の知名度が間接的に証明される。関羽・張飛・馬超は蜀書のみならず魏書・呉書でも出るが、趙雲・黄忠・魏延は蜀書にしか出ないンだ。ただし、魏延は晋書宣帝紀(司馬仲達伝)にも出るから、趙雲や黄忠よりちょっと上になる」
Y「敵対した国の歴史書で名が挙がらないというのは、武将として致命的じゃないか? たいした脅威とは思われてなかった傍証なんだから」
A「それはいくらなんでもー!?」
Y「張遼や曹仁の名が呉書にないと思うか? というか、なかったらどう思うよ?」
A「むむむ……」
Y「何がむむむだ。夏侯淵や張郃が蜀書にどれだけ出てくるか知らんのか、お前は?」
F「そのふたりが蜀書に出るのって、はっきり云えば討ち取られたからなんだけどね」
Y「……むむむ」
A「何がむむむか! でも、呉書はともかく、魏書にも記述がないなんて……」
F「そこで冒頭に戻るが、趙雲は武力90以上の武将を討ち取っていないンだよ」
A「……いや、まぁ、武力90あったらザコじゃないからなぁ」
F「そういう話じゃないが、何を云いたいのかは伝わったようだな。趙雲のはたらきで蜀軍が勝利した、ということはないンだよ。確かに、長坂坡では劉禅を救ったし、漢中争奪戦では黄忠を救い空城の計で曹操の度肝を抜いた。だが、それはあくまで局地的な勝利に過ぎず、全体の勝利に貢献したワケではない」
A「長坂は敗走中だったから仕方ないけど、漢中争奪戦の勝利には貢献してるンじゃないか?」
F「貢献したなら、劉備が報償しないと思うか?」
A「ぬぐっ……」
F「劉備という男の公平さあるいは公正さをどう評価すべきかはともかく、趙雲を高く評価していたあの男が高位高官につけなかった事実が、劉備存命中の蜀における趙雲の立場そのものを証明しているンだよ。趙雲は、武将としてはいまひとつだった」
A「残念な結論なんですけど……」
Y「『武将としては』と保留がついたのが気になるンだが」
F「武人としては最高品質だからな。多勢を率いるには向かないタイプというだけで、能力そのものは否定していないぞ。人格や智略という点でも正史の注に引かれるエピソードは事欠かない。例の桂陽太守趙範から美人の兄嫁(未亡人)を勧められても『天下に女はいくらでもいる』とオコトワリする、のは有名だな」
A「演義だと、劉備に勧められても断るからねェ」
F「当の趙範が逐電した、のは本人たちの回で触れた通り。博望坡で夏侯惇と戦った折に、同郷で昔馴染みの夏侯蘭を捕虜にしたンだが、趙雲は彼が法に詳しいと助命を嘆願し登用するよう勧めている。劉備は勧めに従ったが、だからといって趙雲は夏侯蘭となれあうことをせず、自分からは接触しなかったという」
Y「純粋な夏侯一族じゃないな、その夏侯蘭は」
A「冀州の出自ではなぁ。袁家が滅んで魏に降ったヒトかな?」
F「だから、正史での博望坡の戦闘は203年で、まだ袁家滅んでないっての。ともあれ、厳格な性格を買われてか、劉備は趙雲に奥向きのことを任せている。『シャオは孫呉のお姫様だもん!』とワガママほーだいの孫尚香の相手をさせたワケだが、先に見た劉禅救出劇はその任務の一環だな」
A「ちゃんとした武勲なんだけどなぁ」
F「張飛とともに、がポイントなんだろう。奥向きの事を任されたとはいえ階級が低いから、孫権の妹に手を上げたら不敬を問われる。ために、上役で高官な張飛の出馬を請わねばならなかった、みたいな」
Y「ここで身分が問題になる、と」
A「かたちの上では、張飛は孫尚香の義弟だからなぁ」
F「形式だけだけどな。さて、益州攻略後になるが、成都城内の家屋や城外の土地・田畑を諸将にバラまこうという建議がなされた。趙雲はそれに反対し『それらは民衆に返すべきです。戦禍にあった民衆でも住居と職場を与えれば民心を得られます』と主張し、劉備はその意見に従っている」
A「まずは民心を得ることが大事だよな」
F「こういう主張をする辺り、趙雲の出身はそんなに高い身分じゃなかったように思える。だが、荊州に自ら攻め入ろうとする劉備は『国賊は曹操であって孫権ではありません!』という趙雲の諌めを聞かなかった。それがどんな結果になったのか、は歴史が記す通り」
Y「野郎のアホさ加減を如実に表すエピソードだな」
A「わーわーわー。ということで、いざ北伐となると勢い込んで出陣する?」
F「したはしたが、正史では功績はない。祁山の孔明本隊が馬謖の失策で敗走すると、斜谷道で曹真の軍を引きつけていた趙雲別働隊も撤退する羽目になり、趙雲自ら殿軍となって撤退を指揮したので、軍需物資を放棄せずに済み、軍を全うして帰還できているが」
Y「いつぞやお前が触れたように、趙雲はどうにも負け戦での働きが顕著だな」
F「正史に記述されている趙雲の功績には『負けそうになった(もしくは負けた)けど、趙雲のはたらきで大敗はしないで済んだよ!』というのが多くてな。で、これについてけっこう洒落になっていないことを坂口和澄氏が書いている」
A「ん?」
F「正史趙雲伝に引かれている裴松之の注釈は、すべて趙雲別伝(原文では雲別傳)なる資料からのものなんだが、この趙雲別伝は、趙雲の子孫が書いた家伝に基づいていてな。演義での趙雲像はほとんど正史の注での趙雲像なんだよ」
Y「つまり、子孫が大げさに書いたものを羅貫中が採用したモンだから、その虚像が蔓延した?」
A「ヒト聞き悪いな!?」
F「そう考えられても仕方がない。ついさっきの殿軍のエピソードだが、正史の注と演義ではこのあと同じイベントが起こっている。軍を全うしたことを感謝した孔明さんが軍需物資の一部を趙雲に褒美として授けようとしたンだが、趙雲は『負け戦に功績などありませんぞ』とオコトワリするものだが」
A「だが?」
F「コレがあからさまにおかしい。本人が云う通り、どうして負けておいて報奨があるのか。法家の徒である孔明がこんなことをするはずがない、趙雲別伝は子孫の褒めすぎだ、という声がある。確かに、孔明は自ら降格し、その余波で趙雲も降格したのに、報奨が出るのは本気でおかしい」
A「ムチだけでなくアメも出した……というのは、ないだろうなーってアキラも思うわ。孔明さんだし」
Y「孔明だからなぁ。考えてみればありえん」
F「ということで、趙雲別伝をどこまで信じていいのか判断しかねるところなんだ。もちろん、信用に値しないとまでは云わんが、本当にあったにしては陳寿が正史の本文に残さなかったのはおかしい、というエピソードをどう説明したものか。孫尚香から劉禅を奪い返した一件なんか特に」
Y「警備していた奴が処刑されてもおかしくないからなぁ、ンなことがあったら」
F「趙雲だが」
Y「……だからおおっぴらには残せなかったンじゃないか?」
F「ともあれ、陳寿から見れば黄忠以下で、五虎将としては末席。楊戯も関・張を併記したのはともかく、馬超・黄忠・魏延はそれぞれ単独で書いているのに、趙雲は陳到と併記だから、当時のひとたちにしてみれば1ランク下という認識だった。それが気に入らない子孫、たぶん趙統(息子)が趙雲別伝を遺した、と」
A「それが裴松之を経て羅貫中に採用されたせいで、趙雲の席次は五虎将ナンバー3にのし上がった、か……」
F「それがいいか悪いかというのは論じる必要もない。だが、趙雲が順平侯と諡号されたのは261年。関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に諡が送られたのは260年と、前年なんだ。その一件だけを考えても、趙雲が他4人より劣って見られていたのは事実でな」
A「どうにも、納得しかねるオハナシなんだが……」
F「ところで、蜀には重度の趙雲スキーがいる。余人ならぬ劉禅陛下そのヒトだが」
A「命を救われたことそのものは事実なんだろ?」
F「長坂でのエピソードは正史の本文にあるから、信じてはいいと思う。趙雲が奥向きを取り締まったなら、劉禅との関係はさらに深くなっただろうし。そう考えると、征南将軍から鎮東将軍に降格されたのは劉禅の気遣いとも取れるんだ。アンタもトシなんだから前線には出ないでくれよ、と低い将軍位にする」
A「演義では『廉頗が何だ、馬援が何だ!』と出陣をせがむけど、当時70ではなぁ……気も遣うか」
Y「それで納まる男ではないが、そのまま死んでりゃ世話ないぜ?」
F「趙雲が劉禅からどう思われていたのかをはっきり証明する事実がある。223年に趙雲が就任して以降、蜀には征南将軍が誰もいないンだ」
A「あぁ……」
F「蜀に丞相・益州牧は孔明しかいない、のは以前触れたが、それと同じ扱いと見ていい。現に、楊戯の季漢輔臣賛では、趙雲は征南将軍としてエントリーされている。蜀で最後の、そして、唯一の征南将軍と扱ったワケだ」
Y「……他に、そういう扱いを受けた奴は?」
F「もうひとりいるが、そいつのことはさておこう。例の趙雲別伝が出典になるが、趙雲に諡号をと云いだしたのは劉禅なんだ。それに応えるかたちで姜維(ら)が順平侯ではどうでしょうと建議して、それが容れられた。死後30年経ってからだったのはともかく、皇帝自らが諡号を欲したのだから、やはり惜しんでいい人物ではあったようでな」
A「武将としての力量はともかく、個人としては惜しむべき人物だった、と」
F「続きは次回の講釈で」
趙雲(ちょううん) 字は子竜(しりゅう)
158年?〜229年(大往生。なお、演義での生年)
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冀州常山郡真定県出身の蜀の武将。五虎将の末席。
武将としてよりは武人としての功績が大きく、直接救われた劉禅からは特に惜しまれた。