戻る

History Members 三国志編 第64回
「バカもここまで来れば犯罪だ!」

 私が和平に来たと思うな。私は全ての親子・家族関係を叩き潰すため、剣を投げ込みに来たのだ!(イエス・キリスト)

F「ひとの目を見て話せない奴は嘘つきだと盲目の父に云われて育ったのが僕だ」
A「……因果関係って明らかなんだなぁ」
F「嘘つきの子供めと石を投げられたからな、子供心に『こんな大人になるもんか』と誓ったモンだ。誓いは果たされて、僕は父とは違い嘘つきではないと社会的に認められるようになっている。ザマぁみろ
A「いや、視覚障害者は嘘つきだという考え方が間違ってるぞ」
F「そンなことは僕に石を投げた奴か父に直接云ってくれ。だいたい、障害者自らが云ったことなンだから健常者が口出すことじゃないだろう。望み通りに扱ってやれよ」
A「悪いのがお前の親なのははっきり判るけど、お前が正しいのかは疑いたい……」
F「この世はすべて絵空事。ということで、今回は顧悌(コテイ)について。どういう立ち位置の人物か、は以下参照」

顧雍関連家系図

A「顧雍の一族なんだね」
F「だ。正史の本文には記述がなく、注に引かれた呉書(呉の韋曜が編纂したもの)に記述があって、つまり、陳寿は史書に残さんでいいと判断したものの裴松之が『これを載せないなんてとんでもない』と拾った人物、になる」
A「で、お前は否定的な見解だと。何者?」
F「忘八と云えば仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つだが、顧悌は孝と悌で知られていて、さらに清廉と評判だった。孝は父、悌は兄への礼儀だが、それと清廉さが両立するのは不可能だと思う」
A「お前には不可能でも他のヒトには可能だぞ、たぶん」
F「順番には注意すべきだと儒教と完全に無関係の第三者としては思うがね。ために、15で郡の役人に採用され、のちに呉の朝廷に召され郎中、さらに偏将軍と昇進している。二宮の変では孫和を支持し『嫡子を立てるべきです!』と上奏したため、朝廷では彼をはばかったという」
A「偏将軍程度で皇太子の選出に口出ししたのか?」
F「孫皓の代だったら孫呉名物ヴェトナム送りになったろうな。だが、裴松之が顧悌のエピソードを拾ったのは、その辺りの清廉さが理由ではない。まずは、韋曜に云わせれば『礼にかなった態度』で接していたという妻との日々」
A「夫婦生活ですか」
F「そう云っていいのかなぁ。夜遅くに妻の部屋に入ると、ヤるだけヤって明け方にはもう出て行っていたンだよ。ために、息子が4人いたというのに、妻は顧悌の顔をほとんど見たことがなかったそうな」
A「礼儀もクソもないな」
F「ある日、顧悌が重い病気にかかって床に伏していると、妻が見舞いに来た。すると顧悌は側仕えに手伝わせて頭巾をかぶり、寝巻の上に衣服を羽織って、起き上がって妻を追い払っている。韋曜はこの態度を『顧悌が常に貞潔さを心がけていた様子はこの通り』と、肯定的にとらえているから驚きで」
A「呉では妻にそう接するのが正しいのか?」
F「坂口和澄氏によれば、儒教では、妻が男の前に姿を見せることが非礼らしい。この態度のがよっぽど非礼だと思うし、呉でなくてもこの態度は間違っていると思うぞ」
A「だよなぁ……」
F「しかも、顧悌の愚行はこんなモンでは留まらなかった。父の顧向(コキョウ)は四県で県令を歴任し、年齢を理由に退職した。その父から手紙が届くと、顧悌は正装に着替えて、部屋を掃き清め文机と敷物を用意し、そこに手紙を広げて拝礼し、跪いて読み上げるンだ」
A「お前、何やっとンね」
F「しかも、1フレーズごとに『はい、判りました』とうなずきながら読み進める。『前略、息子へ』『はい、判りました』『父は病気です』『はい、判りました』『早々 父』『はい、判りました』という具合だ。読み終わったらもう一度拝礼するというから尋常ではない。父から手紙なんて届いたら『汚物は消毒だぁー! ヒャッハー!』が正しい態度であろうに」
A「焼くな! ……ちょっと待て。そういう息子なのに父親が病気なのには無関心なのか?」
F「いやいや、そんなワケがない。手紙を前に涙流して嗚咽し、声も出なくなったらしい。結局病気は治ったらしく、顧向は天寿を全うしたンだけど、死んだら死んだで顧悌は5日に渡って一滴の水も口にしなかった」
A「ホントに何してるの、このヒト……」
F「これがいつ頃のことかは明記がないが、どうも冬だったらしい。見かねた孫権が、綿を裏地に詰めた麻布の服を作って『これに着替えろ、いいな!』と強く命じている。しかし江南だ。冬でも死体はいたみやすいので、埋葬しないといけない」
A「離れたくないとダダこねるのか?」
F「しぶしぶ葬儀は行ったがいつまでも父を惜しむあまり、壁に棺の絵を描いて、その下に祭壇を作り、そこに向かって声をあげて泣き叫んでいたという。結局、喪が明けないうちに顧悌本人も死んでいる」
A「もうどうしようもないね、このヒト」
F「バカにつける薬はない、という人類の警句を思い出したのは僕だけではないだろう。ところで、顧悌の手紙に関するエピソードを韋曜に、つまり呉の宮廷に伝えたのは誰か」
A「……少なくともカミさんじゃないよな?」
F「前掲の坂口氏は『彼自身に違いない』と云い切っている。『自分の行動が世間に伝わって孝子の名声を得たいから』とな。確かに、本人の性格からして父からのお手紙を拝見させていただくときに、誰かを周囲に置くとは思えん。いるとしても息子たちくらいだろう」
A「そこまでして孝行息子と思われたかったのかね?」
F「僕にはまったく判らない感情だが、パフォーマンスなのかそれとも本気でやっていたのか(主とイエスと聖霊に誓って正気ではない)は判らんが、少なくとも呉の宮廷での評価は得られたらしい。韋曜の呉書ではその辺りのエピソードがしっかり採用されたワケだから」
A「だが、陳寿はばっさり切り捨てた」
F「正常な反応だと云っていいな。坂口氏曰く『礼教の怪物』を、裴松之が何を考えて採用したのか判りたくもないが、長い長い三国時代にはこんなバカがいてもいいと気の迷い? があったのかもしれん」
A「でなきゃこんな奴エントリーさせんよなぁ……」
F「続きは次回の講釈で」


顧悌(こてい) 字は子通(しつう)
生没年不詳(天罰覿面)
武勇1智略0運営3魅力1(智略はゼロでも過大評価に思える)
揚州呉郡出身のバカ。もとい、呉の文官。
「バカは死ぬまで治らない」という人類の警句そのままの人生を送った。

戻る