History Members 三国志編 第63回
「そして歴史は繰り返す」
F「うし」
A「……ちーちゃん?」
F「本人(泰永の三妹)には云うなよ。云ったのが僕でなければ娘でも殴るから。あそこまで育てたの僕だが。それはともかく、三国志に馬姓は多いけど、牛姓はほとんどいない」
A「牛輔と牛金……くらいか?」
F「いちおう正史にはもう少しいるけど、ほとんどそのふたりしかいない。今回のお題は牛金の方」
A「ザコっぱちだったかと記憶しているが、正史だと活躍してるとか?」
F「そんなことはないな。先に演義だが、初登場は五一回。周瑜と曹仁の荊州争奪戦で、曹仁の部下としてともに江陵に駐留していたが、周瑜に敗れて曹仁とともに襄陽に逃れている。以下、ほとんど出てこない……まったく出ないンかな? ちなみに、生没年・出身地は不明で、字も定かではない」
A「演義ではほとんど記述がない、と」
F「正史でもそんな扱いだ。江陵を守る曹仁の部下、正確には部曲将として、数千からの呉軍にわずか300での迎撃を命じられている。衆寡敵せずという言葉を知らんのか、曹仁は」
A「えーっと、演義だと牛金が自分から討って出るのを進言したはずだけど」
F「正史だと『城壁の上から呉軍を見た曹仁は、兵300を募って牛金に迎撃を命じた』とあるンだ。とーぜん劣勢な牛金隊はあっさり包囲され、それを見た長史の陳矯は真っ青になり、征南将軍(代行)の曹仁は怒り狂って『ワシの馬を引け!』と声を挙げた。オイちょっと待て、と誰もが思うだろう」
A「お前、何やっとンね」
F「陳矯たちは慌てて『あの数には対抗できませんよ! 数百人くらい見殺しにするのも仕方ありません。それに、将軍が自分で出るのは危険です』と制止するけど、曹仁は返事もしないで直属の精鋭数十騎とともに出陣。堀を越えて呉軍の包囲網を突破し、牛金隊を救助している」
A「だったらハナから出すなよ」
F「正確には二回に分けて救出したが、牛金隊300のうち死者は数人と明記がある。この勢いに呉軍は撤退し、陳矯らは帰ってきた曹仁を『将軍は天人のような御方じゃ』と感嘆して迎え、三軍その雄姿に心服した……らしい」
A「……ひょっとしてパフォーマンスか?」
F「だと思う。この戦闘、曹操が赤壁で敗戦した208年中に起こっているから、曹仁配下の軍勢は当然士気が低い。そこで、ちょっとどころでない演出をしでかしてでも全軍を引き締める意図があったンだろーな、と。わざわざ寡兵を呉軍に突っ込ませて包囲させ、司令官自らの突貫で助けだす」
A「陳矯と打ち合わせがあったかは疑問だが、牛金にはその旨伝えていたンだろうな。すぐに助けに行くからナニがあっても持ちこたえろ、みたいな」
F「それを成し遂げるだけの力量が、牛金にはあると期待されたワケだ。応えた牛金は数人だけを失ったので、隊をまっとうした云っていいだろう。……ま、その割には、正史三国志での牛金のはたらきはここだけなんだが」
A「コラ」
F「陳寿からちょっと冷遇された感がある。曹仁が決死隊を預けたほどの男なんだから、もう少し活躍はしていてもおかしくないンだが、正史三国志の他の箇所には牛金の戦功の記述がまったくないンだ。いちおう『曹仁の子孫はみんな列侯となった。牛金も後将軍まで昇進した』とあり、夏侯惇にとっての韓浩みたいな扱いは受けているンだが」
A「韓浩はしっかり記述があるンだよな?」
F「うん、そっちは。張遼の下にいち時期牛蓋なる男がつけられた記述はあるンだが、コイツがどーいう武将なのかまったく不明で、四声からも画数からも牛金の書き間違いとは思えないが、仮に書き間違いだったとしても正史三国志では二ヶ所しか書かれていないことになる」
A「実質一ヶ所だけの武勲かよ。それも、表面上は上官に助けられる間抜け役……扱い悪いのかホントはザコなのか」
A2「……正史三国志、では?」
F「気づいたねー。実は、晋書ではもう少し記述がある。仲達配下になってだが」
A「何で仲達の配下?」
F「曹仁の死後、夏侯尚を経て南方軍を預かっていたのが仲達だろうが。で、曹叡の代になって曹真の死後に西方軍に転任したとき、牛金もついていったらしい。仲達が西方軍将となったのが231年だが、この年の第四次北伐において、牛金は軽騎兵を率いて孔明をおびき出す役割を担い『漢陽で両軍は接触したがそれ以上の戦闘には発展せず、孔明は退いた』とある」
A「おびき出すのには成功したのか」
F「晋書宣帝紀(仲達伝)の記述はあからさまに魏軍有利で書いてあるが、この戦闘では蜀軍が終始押し気味だったのは当時触れた通り。牛金に目立った功績はなかったらしい。で、235年……孔明の死の翌年になるが、この年に攻め込んできた馬岱の迎撃に出されたのが牛金だった。馬岱を打ち破り、千あまりの首級を挙げている」
A「馬岱、そんなことしてたの?」
F「うん。正史三国志にはこの戦闘についてまったく記述がなく、晋書でも他に詳細はないンだが、実際のところ、正史三国志・晋書、ついでに後漢書……には記述がないだけだが、その辺り通じて馬岱が兵を率いたと確認できるのは、魏延の乱とこの敗戦だけだ」
A「ぅわあ」
F「だのに、何で演義ではあんなに大活躍なのやら。嫌いじゃないがハラ立つね。また、牛金は燕王攻めにも従軍したと記述があるが、こちらでも功を挙げたという記述はない。どーにも、軍功には恵まれなかったようで」
A「その割には後将軍か。……どれくらいなんだ?」
F「それが、魏の他の後将軍には朱霊や文聘などのいぶし銀の名が並ぶンだ。その辺りに見劣りしないことはしているはずなんだが、曹仁の下でも仲達の下でも、手柄を立てたという記述が見えにくくて」
A「いぶそうにも火種がないのかよ」
F「後々の混乱の火種にはなっている。今回も短くてアレだが、ところでと云ってしまおう。冒頭で云った通り生没年不詳で、死因は仲達による毒殺」
A「待てやオラ」
F「という説がある。仲達は、蓋のついた樽をふたつ用意して片方の酒を呑んで見せ、鴆毒を仕込んだ方を牛金に呑ませて殺した、というオハナシ。まぁ、仲達の性格からして殺すにしても毒殺はない。殺るなら春華さんか司馬師だろう」
A「何で仲達が牛金を殺さにゃならんのよ?」
F「曹操が、三頭の馬が同じ飼い葉桶からまぐさを食んでいる夢を見て、曹丕に『司馬親子に心を許すな』と話したというエピソードがあるよね。ところが、当時……いや、いつごろかは明記がないンだが『牛が馬の後を継ぐ』と書かれた黒い石が見つかってな。ために、仲達は牛姓を忌み嫌ったとされているのね」
A「ほとんど同じことが起こってるンかい」
F「魏書明帝紀(曹叡伝)の注には黒ではなく青い石の記述がある。その石には、白い石で十三頭の馬と一頭の牛などが描かれ『大いに曹を討ち水中に適く(大討曹適水中)、甲寅』と書かれている。討という字が気に入らなかった曹叡は削り取って計の字に替えたが、ひと晩すると元通りに戻ってしまう。時代が晋になると、その文字はくっきり鮮明になったという」
A「叩き割れ」
F「あっはは。晋王朝は、西は四帝、東は十一帝だけど、東七代廃帝司馬奕(シバエキ)と東初代元帝司馬睿(シバエイ)を除けばちょうど十三になってな」
A「廃帝はまぁいいが、何で東の初代を除く?」
F「困ったことに、史書にはっきり『牛金の子です』と書いてあるンだな、これが」
A「……は?」
F「といっても、南北朝まで時代が降って北魏の史書で、なんだが。えーっと、仲達の子の司馬伷(しばちゅー)、の息子が司馬覲(シバキン)。コレの妻が、夏侯淵四男夏侯威の次男夏侯荘の娘(つまり、淵のひ孫)の銅環でな。夏侯荘の妻が司馬師の妻の姉(羊祜の姉でもある)だったので、その辺りの縁で銅環と司馬覲は縁組したらしい」
A2「……割と複雑」
F「だな。ところが、司馬覲は35歳と、司馬一族にしては若くに亡くなっている。あるいは身体が弱かったのかもしれんが、ために銅環、いろいろタマっていた。そこで牛金と密通して、できた子供を何食わぬ顔で司馬の子として育て、ついにその子は東晋の初代皇帝になってしまった……というオハナシ」
A「ちょっと待て。司馬睿が生まれたのは……」
F「276年」
A「赤壁から70年近く経ってますが!?」
F「だよなぁ。あるいは『銅環は小役人の牛何某と密通した』とする史料もある。とりあえず、司馬睿の父親が司馬覲だったのか、なぜか疑われているという状況でな。ホントに牛氏の子だったら、以降、つまり東晋王朝の皇統ぜんぶに司馬の血は入っていないことになる」
A「洒落になってないなー……信憑性はさておき」
F「問題はその信憑性だ。この説が北魏(386−534)の頃にはすでに信じられていたが、陳寿の頃にもこの不義密通は口の端に上がっていて、そのせいで牛金に関する記述を減らさねばならんかったとも考えられる。司馬睿の生まれた276年は、陳寿が正史三国志を書き始めたとされる時期の直前なんだよ」
A「絶妙のタイミングだったのか……」
F「史書の端々に見られる記述の残存から察するに、牛金はそこそこの武将だった。だが、時代とタイミングが悪すぎた。馬の後が牛と噂される時代に、しかもそーいう真似をしでかしたかもしれないヒトがいるというタイミング。これでは、正史三国志で詳しく書かれるワケにはいかなかったのも無理はない。曹髦の死に様同様にな」
A「噂であっても広まるのを回避するために、か」
F「陳寿はその辺りしっかりしてないからね。魏の王室がもう少ししっかりしていれば、曹仁の部下に関する記述を減らさせるような真似はしなかっただろうけど、時代はすでに晋だった。ま、晋の被害者のひとりに挙げていいだろう」
A「……情けなきは晋の王朝、司馬の子孫は羞じて死ね」
F「続きは次回の講釈で」
牛金(ぎゅうきん) 字は不明
生没年不詳(長生きはした模様)
武勇3智略1運営1魅力2
出身地も不明な魏の武将。
そこそこ(かなり>まっとう>いっぱし>それなり>そこそこ……)の武将とは思われるが、時代のせいで史書にはほとんど記述がない。