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History Members 三国志編 第61回
「魏における九品官人法の性質変化とそれに伴う君主権力の弱体化についての一席」

A「いつになく真面目なタイトルでアキラすっげェ帰りたいンですけどー!?」
F「ここ、お前ンちだよ。今回は九品官人法に関するオハナシなんだが、お題としては陳羣になる」
A「けっこう渋めのネタと人選で来たなぁ……」
F「後半、というか本題が長くなる予定だから、オープニングジョークはさておいてテンプレに入ろう。陳羣の出自は豫州穎川郡、ご存知名士の産地だな。祖父の陳寔(チンショク)は清流派番付にエントリーこそされなかったものの名士と知られ、豫州の家々ではみな陳寔と息子ふたりの肖像を飾っていたという」
A「生まれながらの名士だったワケか」
F「そうだな。陳羣は、そんな祖父から『この子は我が一族を必ず発展させてくれる』と目をかけられて、孔融にも認められたことで世間に名を知られるようになった。その縁で、豫州時代の劉備に召し出されている」
A「劉備と孔融に交流があるのがむしろ不思議なンだけどねェ」
F「違いない。仕えて『陶謙殿が亡くなったからといって徐州に入れば袁術との戦争になりましょう。そのとき呂布がアナタの背後を衝けば徐州を維持することもできませんよ』と献策はしたものの、劉備がこれを容れなかったモンだから、呂布に敗走しても同行せず、そのまま見捨てている。劉備は『聞けばよかった』と後悔しているがもう遅い」
A「このレベルの智略を備えた名士が劉備を支えていればどんなにか……」
F「智略を備えていたからこそこの段階での劉備には愛想を尽かしたンだろうな、という泰永が大喜びしそうな事情はさておいて。それから、呂布の死後になるが、陳羣こんどは曹操に召し出されている。陳羣の妻は荀ケの娘なのでその縁だが、当時司空だった曹操は陳羣を司空西曹掾属、判りやすく云えば人事担当に任命している」
A「大抜擢かな」
F「うむ。いくら荀ケの娘婿で名士とはいえ、仕えてすぐの人材に人事を委ねるのは尋常ではない。陳羣はこの抜擢によく応え、曹操が起用したがった人物を『アレらはいずれ道義に反します』と諌め、聞かずに登用したらホントに罪を犯したので処刑する羽目になった、なんてエピソードがある。人物鑑定眼では曹操を凌いでいた感もあってな」
A「劉備のときは諌めても聞かなかったら見捨てたのに、曹操にはちゃんと仕え続けたのは、荀ケとの都合?」
F「んー、父(陳寔の息子のひとり)が亡くなるといったん官職から退いているンだわ」
A「ヤスの歯ぎしりが聞こえそうですねっ!」
F「いや、職を辞して喪に服すのは当時の習慣として珍しくない。これは親族に限らず、件の祖父・陳寔が亡くなった折には、李膺らとともに陳寔から教えを受けたことのある荀爽(ジュンソウ、荀ケの叔父)は3ヶ月の喪に服し、師を偲んで3年の喪に服した教え子は3ケタを数えたというからな」
A「どこまで慕われていたのさ」
F「正史の注では『天下の人々は弔意をあらわし、葬儀には四方から車数千台、3万人が集まった』とか『大将軍何進は部下をやって文範先生と諡した』とある。穎川に、羊飼いの少年が読んで感銘を受けたという『文は世の範たり、行いは士の則たり』という碑文があったのを本人の回で触れたが、これが陳寔を偲んだものでな」
A「あぁ、アレがコレなんだ」
F「前後関係から考えると何進が碑文を撰したことになる、という笑えないオハナシはさておいて。裴松之の間違いだろうとは思うが、187年のことだとゆーのに『葬儀には郭泰まで駆けつけた』と正史の注にあるくらいだ」
A「頭巾が化けて出たー!?」
F「そんな評判が立つくらいの名士だった、と。それはともかく、ということで陳羣は曹操のもとを離れているが、この間曹操軍の人事を担当していた崔琰(サイエン)は処刑され、毛玠(モウカイ)は免官されている」
A「……曹操のお気に召さなかったのか」
F「その辺の事情はさておくが、おそらく3年後に復職した陳羣は監察系の役職につき、魏の建国後は侍中、曹操の死後に曹丕が後を継ぐと尚書に転任。この頃、九品官人法を建議し容れられているが、それはあとで触れることにして。曹丕が皇帝になったら尚書令に昇進し、皇帝親征に際しては、司馬仲達が留守を守り陳羣が同行するというスタイルになっていた」
A「それくらい重用されたのか」
F「それだけに、曹丕が臨終の床につくと曹真や仲達とともに後事を託され、236年12月に亡くなるまで、曹叡に軍事活動や宮殿造営にかける予算の縮小を進言して、宮廷で重きをおかれていた。正史では『名誉と道義を重んじ、高潔な人柄で高い声望を得ていた』とある。生年不明なモンで享年も不明」
A2「……以上、陳羣の人生についてダイジェストでお送りしました」
F「では本題に入ろう。改めて云うが、九品官人法とは、220年に魏の尚書・陳羣の建議によって成立した官吏登用制度だ。ひと言で云えば能力主義による人材登用法で、官位を九段階に分け、人材を『最終的にはこれくらいまで昇進できるだろう』という目安で評価するというもの」
A「官位を序列化し、それに応じて人材を登用・活用するシステム、だったか」
F「具体的には、各郡および国ごとに、現地出身の適任者を選んで中正官に任命する。中正官の下には清定訪問(これも役職名)などの役人もいて、これらが、官吏や官吏候補者に関する郷里での評判を調査する。これを郷論と呼ぶが、郷論と本人の才能や人格を評価して、一品から九品までの採点を行った。これが郷品だ」
A「一品というのはまずいないンだったよな」
F「そうだな。で、郷論に中正官からの寸評も加えて朝廷(総責任者は司徒)に送るが、朝廷でも官吏のポストを、上は一品官から下は九品官までに分けておいた。こっちが官品で、郷品の4つ下のポストに起用される(人材配置は尚書が担当)。官吏に起用されることを起家と云うが、郷品が最高位の一品だったら官品は五品で起家され、最終的には三公や大将軍まで昇格するというわけだ」
A「それじゃ、まずおらんわな」

九品官人法による官位モデル図
官品・郷品主な官職分類起家官品
一品三公、大将軍公卿大夫
皇帝が任命
五品郷品が一品と査定されたら
二品驃騎・車騎・衛将軍、四征・四鎮将軍六品↓ 下がって
三品九卿、四安・四平・四方将軍、司隷校尉七品↓ 下がって
四品州刺史・州牧、各種中郎将・校尉・都尉八品↓ 下がって
五品郡太守、一品官付き軍師九品ここで起家される
六品大規模県の県令、一品官付き長史・司馬上士
大臣が任命
枠外でも、郷品がここ以下だと
七品中規模県の県令、一品官付き主簿・参軍枠外↓ 下がって
八品小規模県の県令、中正官下士
長官が任命
枠外↓ 下がって
九品その他雑職枠外↓ 下がって
枠外その他部下(八・九品級の役人のさらに部下)ここから始まり、上がれないこともある

F「このシステムには、陳寔も避難を余儀なくされた党錮の禁が無関係ではない。その当時、清流派知識人、すなわち名士は宦官によって官僚から締めだされていたが、名士間の人物評価とは、そもそも官僚となるために必要とされる才徳の評価なんだ。つまり、名士層での評価をどれくらい容れるかは君主権の確立にかかわってくる重要な案件でな」
A「えーっと……?」
A2「……名士を軽んじる君主は名士層での評判が悪いから、政権の支持基盤が揺らいでしまう」
F「だが名士層での評価、権力に拠らない社会的権威をそっくり容認することは、君主権の弱体化につながる。孔融の云うことをそのまま受け入れたら国家は滅ぶだろう? 曹操の権力と名士の権威が手を取りあえる間は共存できたが、袁家を倒した辺りからこの辺りの共存関係は崩れはじめていてな」
A「判りやすいターニングポイントだな、オイ」
F「ということで、曹操軍団の初代人事課長たる陳羣は、魏が後漢王朝から禅譲を受けた220年に九品官人法を建議している。後漢時代の官僚起用は地方から選ンデ挙ゲルため地方色が強かったが、九品官人法では中央からの指名で中正官を任命して登用するので、中央集権的なシステムになったと云える」
A「中央の意向が反映できるワケな」
F「さらに、官位を明確に序列化し、郷品と官品を連動させることで郷論を無力化している。地方で評判が高くても官職につけなければ意味がないということは、国家での査定基準を作ったに等しい。一見、君主権力を強化しているようにしか思えないが、裏を返せば名士層での評価を国家査定に吸収し、従来は社会的な権威でしかなかった郷論を国家権力に組み込んだ、とも云えるンだ」
A「えーっと、名士の人物評価に国家のお墨付きを与えたとも取れるってことか?」
F「そゆこと。というわけで、と云っていいだろう。中正官の権力は強すぎるンだ。しかも、中央で任命した中正官による評価を採用の規準に切り替えたはずだったのに、もともと地方で推挙の権限を握っていた豪族が中正官と癒着して、地方に都合のいい人材ばかりが採用される状況にほとんど変化はなくてな」
A「まぁ、そうなるよなぁ」
F「中正官について……えーっと、陳羣の死後のことになるが、夏侯玄が仲達に意見した文章が正史にあってな」

「庶民が国家の権限に口出しすることが混乱の根源で、上下の職分をはっきりさせ越権行為を禁じなければなりません。九品官人法の制定後、中正官が才能の等級づけをするようになってから、マトモに機能したことなど聞いたことがありません。中正官の職務は人物の行動を同じランクの者と比べるだけに限定し、人物選考の権限そのものを与えるべきではなく、三公九卿それぞれの長官たちも中正官に人材登用をマル投げするのをやめるべきです」

F「実際にはもっと長いが、冒頭部を抜き出すとこんな具合」
A「中正官は朝廷に『人事のことは我々に全権をください』と要求し、朝廷はそれに応じていたってことか?」
F「会社勤めしたことがあるなら実感として判ると思うが、人事課とは会社でもっとも強い権力を握っている部署で、ここににらまれると働いても働いても評価されずに使い捨てられる。最終的な評価の権限を人事課が握っているなら三公も九卿もいらんじゃないか、と夏侯玄は主張したンだ」
A「云ってることは正論だな」
F「中正官がいらないとは夏侯玄でも云っていない。彼はむしろ、中正官に官吏登用の是非をマル投げしている朝廷を批判している。朝廷がちゃんとした査定を行えば、中正官に権力を与える必要はなく、社会における上下関係がしっかりするはずだ、とごもっともな発言をしているンだ」
A「法のもとの平等とかは考えようもない時代だからなぁ」
F「1800年前ではな。が、そもそも九品官人法が220年に制定されたことを忘れてはいけない。このトシ、後漢王朝から禅譲を受けて魏の帝室が始まっている。九品官人法には、官吏の身分を後漢から魏に移すのに併せて、評価そのものをやり直す意図もあった。つまり、魏に忠義を誓う連中は高く、後漢に未練があるなら低くする、ワケだが」
A「魏という国のためなら仕方がないとは認めるが、やってることがまずかろう、あからさまに」
F「漢王朝への忠誠を根強く持つ者ならまだマシだが、地方には蜀や呉を恃んで魏に面従腹背する公孫淵のような輩もいたワケだからな。こういう輩が選ンデ挙ゲル連中が、魏に忠誠を向けるかと考えてみれば、やはり疑問を覚えていい。官吏が魏に否定的だったら政治が混乱するのも無理からぬオハナシになる」
A「夏侯玄の発言は的外れじゃないワケか」
F「上記文章がいつのものか明記はないが、曹爽(曹真の子)の蜀侵攻より『しばらく』前のことだった、とはある。アレが244年のことだから、5年前だとしても20年足らずで九品官人法が有名無実化していたことになってな」
A「何でそんなにあっさりと?」
F「理由は割と明らか。魏という国はそれほど強国ではなかったから」
A「……えーっと?」
F「まぁ、国力としては蜀や呉よりは強いけどね。曹爽の時代ということは皇帝が曹芳くん、つまり幼帝なんだ。曹丕は短命で崩御し、曹叡は孔明の死後にボンクラ化してあっさり死んだ。建国20年と経たずに幼帝が治めることになったやたら広い国では、地方が中央の制御に従わないのも無理からぬオハナシになる」
A「加えて、漢の王権を簒奪したという評価もまだ消えてないからか」
F「それも大きい。確かに曹家は前漢屈指の功臣たる曹参の末裔、曹操本人で云えば夏侯嬰の流れも汲んでいる。血筋を考えるなら劉備はともかく、孫家や四世三公ごときとは比べものにならないが、これはあくまで臣としての評価だ。劉家の血筋に取って代わったことを、異民族の石勒(セキロク)にも悪く云われているくらいだからな」
A「皇帝が幼く、外敵は強い。それでいて国の根幹が確たるものとは云い難いワケか」
F「そして、石勒から曹操と並び称された司馬仲達。これまた、主に取って代わる意志と能力を備えているとみなされている家臣がいるようでは、朝廷人としては、人格者より自分の与党となり得る人材を求めてしまうわけだ。誰と組み誰と争うにしても、自分の派閥の人数は多いに越したことはない。行いはともかく考え方は間違っていない」
A「だからこそ、九品官人法は20年と経たずに有名無実化してしまった、か」
F「夏侯玄は中正官の権力を弱め、宮廷人が自分の職責を果たすことで、魏の復興を模索している。まだ滅んじゃいないが。だが、違う方法で魏を再興させようとした者もいた。誰あろう大将軍曹爽そのヒトで、曹爽は政権を握ると部下たちを尚書に任じ、自他ともに認める腹心の何晏(カアン、何進の孫)に官吏任用権を委ねているンだ」
A「権力を牛耳ろうとした?」
F「悪く云えばな。だが、中正官が持っていた人事権を中央に取り戻した、という見方もできる。地方に移りつつあった官吏採用の権限を九品官人法本来の中央集権方式に戻そうとした、と」
A「……えー?」
F「曹爽にはどーしても悪い評価がぬぐえんが、魏を思う志はあったと云えなくもない。いちおうは魏の藩屏だし」
A「いや、良いように云えばな。この男がもーちょっとしっかりしていれば仲達の台頭、ひいては晋の成立はなかったワケだから、魏にとってこれほどの害は他にないとも云えるが」
F「劉備と孫権はどうした、という歴史的事実はさておくのか? 歴史的な敗者であるため、曹爽はボンクラとか阿呆という評価が根強いが、自分の与党で政権を握るため仲達を名誉職に称薦し、人事権を掌握して、曹氏による中央集権体制の復活を目論んだのは事実なんだ」
A2「……それが魏のためか自分のためかはさておいて」
F「そこをさておかなかったのが仲達だ。曹爽に政権は任せておけんと、老体に鞭打って曹爽や何晏らを族滅。これが249年のことだが、この年のうちに九品官人法の改正を行っているンだから、石勒ににらまれても仕方ない」
A「何したのさ……」
F「州大中正の設置だ。これまでの中正官は一名をして郡中正、郡単位での人材登用を行っていたが、その上に州そのものを管轄する州大中正の官職を設置している。つまり、夏侯玄の建議の正反対で、中正官の権力を強めたのね」
A「曹爽を除き、夏侯玄を退け……これじゃ魏の帝室が弱まるのも無理はないな。豪族に藩屏が無視されては」
F「ちなみに夏侯玄は『郡なんて行政単位はいらないから、州だけにしましょう』とも云っている。仲達に州大中正という役職を思いつかせた原因と責任の一部が、夏侯玄のこの発言にあるように思えてならない」
A「お前、何やっとンね!?」
F「ところで、割と真面目な話をしよう。石勒は見誤っているようだが、魏における仲達の地位は後漢における曹操のものより不利なんだ。何しろ、末期の後漢王朝には、曹操に対抗できる藩屏なんて外の皇叔くらいしかいなかったが、魏の一門衆には曹爽や夏侯玄が残っていた。家臣の中の第一人者ではあっても、曹操ほど有利な立場にはなくてな」
A「漢王朝末期と魏王朝末期には多少ならぬ差があった?」
F「そゆこと。天下は天下の天下なんだが、曹爽もそうだったように、誰もが『自分が魏を率いなければならない』と思っていた時代だ。司馬家が魏での地位を確立するにはどうしたらよいか、ということで行ったのは、恐ろしくまっとうな方法だった。敵を減らして味方を増やす、たったそれだけ」
A「……まぁ、曹爽も夏侯玄も除かれてるな」
F「敵を減らす、はそんな具合だ。幼帝に取って代わる意志がある者を除くのは国の宿老としてなすべき行いだ。これについては、曹爽の野心そのものがあまり知られていないのに加えて子孫が晋を興しているせいで、仲達にも野心があったとされるのも無理からぬことでな」
A「なかった、と考えるのが難しい状況だからなぁ。曹爽を騙し討ちして公職追放、のちに処刑。自分の死後にとはいえ息子たちが魏を実効支配して、孫の代には滅ぼしてるようでは」
F「ところが、後漢から魏へのときより、魏から晋へのときのが政権移譲はスムーズだった。前年に蜀が滅んでいたとはいえ呉が健在だったのに、魏の内側から司馬家に牙を剥いたのはひともあろうか曹髦くらいで」
A「皇帝が家臣を討てと命じて従われなかったンだから、魏の帝室も軽いモンだな……」
F「司馬家が狡猾だったのは歴然たる事実だ。州大中正の役職、というか地位には当然ながら有力な名士・豪族層しか就任できなかった。これにより、人材の登用と評価には本人の才徳ではなく親や一族の地位と役職がモノを云うようになり、富める者はさらに富むようになっている」
A「だから、司馬家の味方は増えた?」
F「さっき云った通り、味方を増やすのは間違いではない。まして司馬家は魏の一門衆でも累代の家臣でもなく、ただ実力があるだけの名士にすぎないンだ。となれば、魏で勢力を維持するには、皇帝権力を弱めてでも味方を増やして敵を減らしていく必要があった。その手段と正反対の主張をしていただけに、夏侯玄も除かねばならなかったワケだ」
A「んーむ……」
F「ずいぶん長くなったから、正始の政変劇に関してもうひとつ重大な点は残ってるがそれはさておいて、まとめる。陳羣が建議した九品官人法は、当初、名士層での評価と宮廷での登用基準を一致させつつ、官僚を後漢から魏へと移行させるふるいの役割を担っていた。中正官の役職そのものが八品官と低い位置にあることから、皇帝権力がちゃんとしている間は、まぁ上手く行っていたと考えられる」
A2「……ところが、曹丕・曹叡が相次いで亡くなって幼帝が即位すると、派閥抗争のために宮廷から人材登用を制御する意義が薄れてしまい、中正官の増長を招いた」
F「その現状を憂いた夏侯玄は『中正官の権力を弱め、宮廷人はもっと権力者たる自覚を持つべきだ』と主張。その通りに、曹爽は中正官ではなく腹心の何晏に官吏登用の全権を握らせ、中央集権体制の復活を模索した。だがやりすぎて、帝位まで伺ったモンだから司馬仲達による掣肘を受けている」
A「で、仲達は逆に、中正官の権力を強めた」
F「魏の宮廷を、名士や豪族による支配体制に移行させたワケだ。能力主義による人材登用法という九品官人法の趣旨は249年をもって完全に崩壊した。名士層に都合のいいように改悪されたことで、西晋時代には『上官に庶民はいないし下官に豪族はいない』とまで云われている」
A「陳羣が聞いたら泣くだろうねェ」
F「だが、これがのちの貴族社会の基礎となったのは歴史的な事実だ。陳羣によって始まった九品官人法は、魏にとっては害になったものの歴史には必要なものだった、という悲しいオハナシになる。自ら作りだしたもので国の滅亡に加担し、それでいて歴史を動かしたのだから、陳羣の政治手腕は確かなものだったとしか云いようがない」
A「本人が意図していないのは明白だけど、陳羣にも文句云いたいだろうな、夏侯玄や曹爽は」
F「続きは次回の講釈で」


陳羣(ちんぐん) 字は長文(ちょうぶん)
?〜236年(惜しまれての大往生)
武勇2智略4運営7魅力4
豫州穎川郡出身の、魏の重臣。世界史の教科書に掲載される有資格者。
九品官人法を建議し魏の建国と統治に貢献したが、これがのちに魏を滅ぼす遠因ともなった。

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