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History Members 三国志編 第60回
「本音としては還暦な回は9月15日に持っていきたかった」

F「問題は、その日が僕の誕生日だということでな」
A「当時の敬老の日に生まれてちゃ、親を祝えばいいのかお前を祝えばいいのか判断に迷うな」
F「祝ってもらった覚えはないが、人生の汚点を思い出すのはさておこう。今回は張臶(チョウセン)になる」
A「……演義には出てこないよな?」
F「いないな、確か。正史三国志に享年の明記がある中で、いちばん長生きしたヒトだな。実に105歳。僕が四十までもたないことが医学的に確定しているから、倍以上ということになるが」
A「翡翠ちゃんがもー少し早く生まれてたら、お前の寿命ってどうにかなったのかなぁ……」
F「この世はすべて絵空事。そも、その場合、アレの母親が僕に預けたかどうかが疑問だし」
A2「……諸行無常」
A「それで諦めがつくかい。……しかし、当時で105歳って尋常じゃないな?」
F「そうだね。冀州鉅鹿郡(きょろく)の出自なんだが、生年が136年。後漢王朝第八代順帝(劉保、在位125〜144)の御世だ。128年生まれの郭泰(カクタイ)よりは若いが、アレと比べられる時点ですでに尋常ではない」
A「あのヒト、党錮の禁の年に死んでたか。例によって?」
F「いや、清流派番付にはエントリーされていない。『若年から大学に学んだ』とはあるが、学んだ内容がまず神秘学、次いで儒教だったモンだから、思想的に清流派とは距離を置いていたようでな。しかも、時期の明記はないが官学を捨てて帰郷しているンだ。どうも、党錮を回避した感がある」
A「目端の利く世捨て人、というところか」
F「そうだな。ところが、それでいてある程度の名声は得ていた。時は流れて……といっても、こちらも時期の明記はないンだが、袁紹が張臶を招聘しているンだ。袁紹が冀州を得たのは191年ごろだから、それ以降にはなるか」
A「名士好みだからなぁ」
F「人材起用に際して実より名を選ぶ傾向があったのは否定しない。だが、張臶は招聘に応じなかった。何度も招聘されているうちに煩わしくなったようで、上党郡(じょうとう)に移住している」
A「并州だったか?」
F「覚えてたか。代を治めていたのは高幹だが、こちらは張臶に県令のポストを用意して着任するよう求めている。上奏までしたとあるからには、一時的に曹操に降っていた204年前後だろう」
A「これにも応じず……?」
F「今度は常山(冀州)に逃げているが、門弟数百人も張臶に同行しているンだ。郭泰が死に第二次党錮の禁が起こった166年から40年近く経っているが、その間ずっと野にあって門弟を育成していたようでな」
A「完全な世捨て人だな。この時点では」
F「そんな世捨て人でも曹操に招聘されると応じるのがパターンだが、張臶にはそれが当てはまらなくてな。丞相に就任した208年に、曹操は張臶を召しているが、応じなかった理由さえ書いていない。まぁ、高幹経由の情報で興味を持った、くらいの扱いだったようで、今度は繰り返し招聘した形跡はないな」
A2「……ある意味硬骨」
F「というか、老骨でね。太和年間とあるから曹叡の代になって『世に出ぬ学者で天下の災厄を除き変異を治める者があれば推挙せよ』という勅令が出され、当時広平郡(こうへい、冀州)にいた張臶を推挙する声は多かったンだが『ワシはもうトシでおまけに病気ですじゃ』とやっぱり応じていないンだ」
A「太和……確か曹叡が即位してからの年号だったか?」
A2「……即位した227年だとしても、すでに90オーバー」
F「年齢が年齢だけに、ドS様ならまだしも曹叡では、無理強いしかねたようでな。まぁ、曹丕が何かしたという記述は見当たらないが」
A「隠れてこっそりとか」
A2「……究極的には庶民だから、あのヒトが害するとは思えない」
F「そう思えるよなぁ。だが庶民でも、張臶はある程度以上の敬意をもって扱われていた。広平郡に着任した太守は張臶のところへ自らアイサツに行く慣習があったくらいだ」
A「若い頃にそういう慣習を叩き潰したことがあると聞いているが」
F「泰永からの情報なら聞き流していいが、その妻からなら聞かない方がいい」
A「追求しちゃいけないってことですね、判ります」
F「その慣習を叩き潰したのが盧毓(ロイク)だ。ドS様ににらまれて広平郡に左遷されてきた盧植センセの倅は『あの老人は皇帝でも臣下にできず、諸侯でも友人にはなれない。それなのに挨拶しても、あの老人の名誉になろうか』と、部下に酒と肉を届けさせるにとどめている。何でにらまれたのかが判るような態度と云えよう」
A2「(くすっ)……世渡り下手は父親直伝?」
A「さすがは盧植センセの息子だな、オイ」
F「喜ばしいことに翡翠には、僕の不器用さは受け継がれなかったみたいだけどねェ。というか、云ってることがほとんど范滂(ハンボウ)の郭泰評と同じな辺り、この老人への評価の高さがうかがえる」
A「あー……」
A2「……覚えてないなら素直にそう云おうね」
F「あとで確認しとけ。そんな老人は240年、自分ちの門の陰にカッコウが巣を作ったのを見て『カッコウは陽の鳥なのに、門の陰に巣を作るとは……!』と、お琴を手にして詩を二篇吟じ、十日後に亡くなった。享年105」
A「最後の最期でボケたのか?」
F「そんな感じではあるが、この年に広平郡の太守として着任した王粛(オウシュク)は、張臶を惜しんでいる」

「都でも名を聞く張老人に会えると思ったが、私が着任したこの年、すでに張老人は亡くなられていた。世情から隠遁しながら学問熱心で、俗世とはかかわらず道家の生き方を楽しんでおられた張老人は、老いてなお努力を続けながら名誉も恩張も受けなかった。だが、私は張老人を惜しむ。役人よ、彼の家を慰問せよ。門扉には表彰の意を書き記して恩恵を与え、過去の名声を守り、未来へ張老人の名を伝えるのだ」

A「絶賛じゃね」
F「ところで、時代は236年までさかのぼる。この年、黄河の支流が氾濫して、川底から瑞兆をうかがわせる石が見つかってな。曹叡は『麒麟や鳳凰が描かれ、白く光り輝く石だ! これは魏の嘉運の象徴として、宮殿で代々大事にしないとなー!』という布告文を天下に頒布しているンだ」
A「この皇帝、孔明が死んでからアホになってないか?」
F「県令が見せにきたそンな布告文を見て、張臶は『そもそも神秘学は未来を予見し、過去は追わないものじゃ。瑞兆が先に現れ、そのあとに興廃が起こる。漢はとっくに滅んで魏が起こっておるのに、どうして過去の瑞兆がいまになって現れようか。これは将来への瑞兆であって、魏の嘉運を示すものではない』とのたまっている」
A「本当に魏が発展する瑞兆なら、この時代じゃなくて曹丕の即位前に出てくるはず、ってことか」
F「魏が曹叡の代で事実上終わっていたのを、張臶は察していたようでな。後漢末の動乱から郭泰が身を退いていたように、それに巻き込まれないようある程度の距離を置いていたらしい。だが、統一王朝だった後漢の末期とは違い、三国時代は戦乱期だ。どこでも有能な人材は求められていた」
A「郭泰のように隠棲するのは、時代が許さなかったということか」
F「郭泰がもう少し生きていたら群雄たちからどんな具合に扱われたか、が予想できるワケだ。それでも張臶は戦争に巻き込まれるのを拒否した。政治情勢には通じていても戦乱も政争も回避し続けたワケだ」
A「気持ちと理屈は判る。平和主義者なのか世捨て人なのかは微妙なモンだが」
F「だな。魏の滅亡を見ずに世を去った世捨て人が、三国志の片隅におりました、というところで本日はここまで」
A2「……割と短い」
F「あまり長引いてアキラが翡翠に怒られちゃかなわん」
A「いやいや」
F「続きは次回の講釈で」
A2「……いあ、いあ」


張臶(ちょうせん) 字は子明(しめい)
136年〜240年(数え105歳での大往生)
武勇1智略3運営3魅力5
冀州鉅鹿郡出身の世捨て人。
正史に明記のある中では最年長となる105年の人生を野で過ごした。

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