History Members 三国志編 第59回
「今回、短いです」
F「第八芸術という言葉を知ってるか?」
A「えーっと……?」
A2「……無声映画」
F「あー子さん、正解。芸術はいくつかの分野に分かれ、諸説あるが文学・音楽・絵画・彫刻・演劇・舞踊・建築、そして第八の無声映画が芸術と総称される」
A「書道は入ってないのか?」
F「諸説あると云っただろうが。ただ、僕も入れないのに賛成だ。書道とか料理とかは日常生活の延長上のものだからな。芸術家が日常生活を顧みてどうする。出家者に似た高潔な態度を求められるのが芸術ってモンだろうが」
A「最近では日常生活で筆は持たんけどな。まぁ、日常で芸術を意識することのがそもそもないか」
F「そゆこと。さらに、各分野も細かく分類できる。三国時代の文学者と云えば三曹こと曹操親子だが、曹植が云うまでもなく詩人だったのに対し、曹丕は世界初の怪談全集を編集したことで知られるように本質は文章家だった。詩のできばえでこの兄弟の資質を比べるのは、馬と牛のスピードを比べて『馬のが優れた生物だ』と云っているに等しい」
A「スピードで云えば馬のが速いのは当然としても、その一点で馬が牛より優れているとは考えちゃいけないのね?」
F「そゆこと。『馬は速足だがひとりしか運べない。牛の足はのろいが、運べるのがひとりなんてことがあるか?』と云ったのは鳳センセだが、詩人と小説家を比べるだけでなく『詩の出来がいいから曹植のが上』と考える奴のことを、正しい日本語ではバカと云う。ゲイジュツを少し知っている奴によく見られる態度だな」
A2「(くすっ)正確には、少ししか知らない奴に、だね」
F「えくせれんと。さて、今回は三国時代の音楽について、杜夔(トキ)という人物をベースに見ていこう」
A「とき?」
F「演義には出てこないな、確か。『恋姫』に出すならアタマ緑色で、『真・恋姫』ではポニーテールになるかと」
A「は?」
F「いや、コンシューマ版からだったか? テンプレ入るが、生年は不詳。河南郡の出自になる。宮廷音楽家の一員だったンだが、188年に病気で官職を去った。黄巾の乱のゴタゴタが収まらないどころか新たな戦乱の時代が始まろうって矢先だったので、各地から招聘されても戦禍を嫌って、比較的安定していた荊州に逃れている」
A「劉表のところか」
F「うん。仕えることになった杜夔に、劉表は漢王朝の宮廷楽団を再現するよう命じた。献帝を迎えるそぶりも見せなかった劉表が何でそんなことを命じたのか、は割とあからさまで、できあがった楽団を見て『よし、演奏させてみようぜ!』とのたまっているンだ」
A「お前、何やっとンね」
F「それを杜夔は『天子のための楽団を、ご自分のために演奏させていいモンですかねェ?』といさめ、恥じたのか劉表は演奏をとりやめさせたという。これがいつのことか明記はないが、劉表が死んでから荊州が曹操に降ると、杜夔も曹操の幕下について、宮廷音楽を執り仕切る役割に就いている」
A「ちゃんと登用されたのか」
F「才覚を認められたワケだ。音楽センスと優れた聴覚を誇った杜夔は、8種類あった当時の楽器すべてを使いこなした。宮廷音楽家のトップになって、技芸を研究して音楽家を養成し、陳寿に『先代の音楽が復興され後世まで引き継がれたのは、すべて杜夔の努力のおかげである』と云わせている」
A「はー……」
F「また、楽器の作成も統括していた。部下に柴玉(サイギョク)という職人がいたンだが、杜夔は銅のドラを作るよう命じたのに、音階がずれたものばかり作っていたのでリテイクを命じてブチ壊す、のが何度も繰り返された。逆ギレした柴玉は『野郎の耳は節穴だ!』と反発し、曹操の前で杜夔と互いに罵りあうまでに事態が発展している」
A「上司にそれはなかろうに」
F「似たようなことをした身としては何とも。そこで曹操は、正規の音階のドラを持ってこさせると、順番をごちゃごちゃにして『正しい順番に直してみろ』と命じる。すると、柴玉はまるでダメだったのに、杜夔はちゃーんと音階を自分で聞き分けて並べ替えに成功した」
A「あ、絶対音感?」
F「のようでな。音階なり音程なりを正確に聞き分け、それを再現する技術を備えていたらしい。正史ではっきり『優れた聴覚』を明記されているからには、そういうスキルは持っていたンだろう。聞き分けるだけならまだしも、再現するのは難しいからな」
A2「聞き分けるだけならまだしも、再現するのは難しい」
A「うぉっ!?」
F「モニタをご覧の皆さまには、お聞かせできないのが残念です。あー子は絶対音感の持ち主で、聞きとったの声の音階なり音程なりを再現することを得意としている。急に僕と同じ声を出されると心臓に悪いが」
A2「こんな声ならいい?」
F「なおさらよくねェよ!? えーっと、漢代は五声といって5音階だから聞き分けやすいと云えば云えるが、それなら、それすらできなかった柴玉が何だって話になるな。処罰されて、連座で子供もろとも馬屋番になっているが」
A「曹操の部下にも問題児がいないワケじゃないのは、常々お前が指摘してることだろ?」
F「曹操に登用されながら『オレを重用しないから働きませーん』と獄にブチ込まれて、でも態度が悪いまま死んだ医者もいるからなぁ。実は、杜夔も問題児チームの一員でな」
A「そーなの?」
F「うん。ある宴席で、曹丕の前で楽器を演奏することになったンだが、不満そうな顔をしていたためにドSサマにらまれているンだ。厄介なことに、曹丕は柴玉のパトロンだったから、杜夔の失敗を願っていたらしい。粗探しされて、罪状が記述されないくらいどーでもいいことで獄にブチ込まれている」
A「あの野郎はホントに……」
F「だが、後漢の音楽を救ったとされる音楽家だ。曹丕でも惜しんで、獄中に、先の宴席で一緒に演奏した連中を送りこんで教えを請わせている。対して杜夔は『ワタシは古来の由緒正しい音楽を学んだのであって、君たちのような俗人の音楽など知らないね』と、不満そうな態度だったという」
A「曹丕が嫌いなのか?」
F「勤皇派だったみたいでな。漢王朝をないがしろにする奴は劉姓でも叱りつけるし、国政を壟断するようならパトロンの宴席でも不満な態度を崩さない。身は曹操に降っても心までは降っていない、みたいな」
A「ぅわー……それじゃ魏では長生きできんな」
F「うむ。結局『君たちは宮廷楽団にいるンだから、音楽の素養はあるはずだ』と何も残さずに、免職されて死んでいる。これじゃ演義に出られるワケがなくてな。類稀なスキルは身につけていても曹操のためには使わず獄中で死ぬと、演義での華侘そのものの人生なんだから」
A「正史での華侘は自分の腕を高く売ろうとした偏屈な医者だったけど、こっちは正史でも高潔な態度だった?」
F「高潔そのものさ。弟子たちは『音楽は巧妙だったが奏でるのは低俗な電波ソング』だったと酷評されている。が、杜夔本人は『古き良き音楽の復興に尽力した功績は、杜夔の右に出る者はいない』とあるから」
A「曹丕に逆らってでも、漢王朝の音楽を守り抜いたのか」
F「意地を通して身を滅ぼした後漢王朝が誇るべき音楽家の名を、演義は何も記さない。演義での華侘は曹操に仕えたワケでなく、往診に行って殺されたンだから、出せない理由はその辺りもあるだろうけど。ちなみに杜夔さん『楽器は得意だったが歌や踊りはダメだった』ともある」
A「絶対音感で楽器での音楽は再現できても、歌声はダメだったワケか」
A2「……楽器より肉声の方が再現しにくいよ」
F「顔色ひとつ変えずにできるアンタが云うな。ところで、音楽に関連した行跡を残した者がもうふたりいる」
A「蜀と呉に?」
F「泰永がいたら笑っただろうが、魏と呉になる。魏の繆襲(キュウシュウ)と呉の韋曜でな」
A「……韋曜はともかく、繆襲って何者だ? 初耳だが」
F「完成させることはできなかったが、魏書の編纂に携わった史家だ。韋曜はいいと思う、正史の注によく使われる呉書の著者だな」
A「ふたりとも歴史家だが……」
F「ふたりとも、それぞれ魏と呉の鼓吹隊、つまり軍楽隊の行進曲を作詞しているンだよ。軍隊と音楽は切れない関係にあって、士気高揚、ひいては国威発揚のために勇壮な軍歌は必要不可欠だ。また、三国時代では自分たちの国の正統性を主張する手段のひとつでもあった」
A「互いにぶつかりあう戦場でどちらの歌が残るかは、どちらの国が正しいかに密接したオハナシだ、と」
F「そゆこと。ために、自国の歴史に通じた者が作詞することになるのは必然でな。そして、魏と呉では軍歌を作りなおさねばならなかったが、蜀では漢王朝のものをそのまま使っていたというのが定説になる」
A「杜夔が残そうとした、そして、守ったものを、か」
F「蜀書に残る音楽家はいなかった。漢王朝の歌をそのまま引き継いだからだ。だが、魏ではそれを引き継がなかった。だからこそ、杜夔は命賭けで守ろうとしたワケだ。魏が受け継がなかった漢王朝の息吹をな」
A「……惜しいひとがいたものだねぃ」
F「続きは次回の講釈で」
杜夔(とき) 字は公良(こうりょう)
生没年不詳(曹丕ににらまれて死去)
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司隷河南郡出身の、後漢王朝の宮廷音楽家。
音楽を通じて、さりげなく魏に逆らい続けた。