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History Members 三国志編 第58回
「コラム 蜀の軍制について・3」

蜀の軍制について・1 http://f-sinner.at.webry.info/201104/article_3.html
蜀の軍制について・2 http://f-sinner.at.webry.info/201104/article_9.html

F「では、パターン通り蜀の軍制の3回めになる」
Y「うーん」
A「アキラがいるうちに済ませようってハラですね、判ります」
F「魏の軍制は曹休がキーパーソンだった、のは本人の回で触れた通り。今回のお題は姜維なんだが、この男については『私釈』で割と触れてあるので、人物的なオハナシはスルーするかたちになる。御題目にはなっても出番は中盤以降だ。まぁ、とりあえず、僕の尊敬する加来耕三氏の発言を見てもらうが」

 まず、大前提を述べたい。
「蜀漢」をひとつの国家と見誤ると、すべてを誤解してしまう。
 中原(黄河中流域)の人々にとっては、日常的な地理感覚の外にあった僻地――そこを武力で占拠していた地方の"一軍閥"と置いてみて、はじめて理解できることのほうが、はるかに多い。
(潮出版『人物 諸葛孔明』140ページより引用)

Y「ぶははははっ!」
A「ええぃ、笑うな!」
F「確かに、これは笑いごとではない。蜀(蜀漢)は国ではなく地方軍閥だった、という視点で考えると、軍事のみならず政治的にもあまりに異常だった劉備たちの行いにも説明がつくンだ」
A「お前はお前で、マジメに話を進めようとするンじゃなーいっ!」
F「コラムはいつも真面目にやってるぞ。僕らしくないのは認めるが」
Y「講釈は真面目にはやってないのか?」
F「この世はすべて絵空事。確認するが、政治と軍事の全権を預かっている大臣がいるなら、そいつと皇帝の関係が良好だということは稀だ。皇帝にしても大臣にしてもあとは帝位しか残っていない状態でいい関係を築けるほど、ひとの心は優しくない。血縁なり親族なりならなおさらだ」
A「外戚でもか?」
Y「娘(皇后)に子供がいるなら、その子供を帝位につけようとするだろうな」
A「あー……」
F「だが、孔明と劉禅の関係は異常なまでに良好だった。劉禅に讒言を吹き込む者もいないではなかったが、演義ではともかく、正史の劉禅はその声に耳を貸さずに、政治と軍事の全権を孔明にマル投げしている」
Y「同じような立場にあった曹操には、外戚が何度でも挑んできたし、そもそも簒奪者との悪評が根強いのになぁ」
A「孔明には野心がなかったンだから、その辺りの評判は差が出ても仕方ないだろう?」
F「そもそも『劉表から荊州を奪え』と劉備をそそのかしたのが天下三分の始まりだったと記憶しているが……」
A「ぅわーん、お兄ちゃんがいぢめるー!」
A2「(なでなで)……よしよーし」
F「聞け。劉璋はともかく、劉備は劉表から荊州を奪うことをしなかったし、息子の劉gを軽んじた形跡もない。にもかかわらず劉備の国を奪ったら、孔明の名は地に落ちるぞ。劉備はそれをやらずに国を興したのに、恩を受けた相手から国を奪っては民心を得られるはずがない」
Y「孔明より劉備の方が天下三分の計を理解していたというところかね。そもそもが、強大な曹操に対抗するために曹操の支配域にない土地をまとめ上げろという策だった。だのに民心を失っては元も子もなかろう」
F「孔明も判っていただろう。だからこそ、劉備から蜀を譲るとお墨つきを得ても忠実であり続け、劉禅も忠誠に応えて信を置いていた、という話じゃないかと」
A「うんうん、孔明と蜀の宮廷には誠心誠意での結びつきがあったのじゃねっ!」
F「ために、蜀は国と呼べない感があるンだよ。劉備というむしろの御旗を頼りに、曹操の天下からあぶれた連中が集まった地方軍閥。上下関係が君臣というより任侠のそれに近い。関羽張飛を相次いで失った劉備の暴走を誰も止められなかったのはそういう状態だったからなんだろう」
A「あーんっ!?」
F「劉備から蜀を託された孔明がやったのはその辺りの制度改革なんだが、後回しにして。孔明が率いた北伐軍とはどんなものだったのか、を確認しよう。正確には蜀軍の漢中都督が率いていた軍勢と、孔明が自ら率いて漢中に動員した軍とがいるが、指揮権は漢中都督の魏延ではなく丞相の孔明にあった、のは魏延の回で触れた」
A「そりゃ面白くないでしょうね」
F「もともとこの軍は、曹操が死ぬまで天下三分を保つため益州の北を守り、曹操が死んだら呉と呼応して魏に侵攻する役割を担っていた。しかも、攻撃目標は旧都・長安だ。そのため衆目は、荊州が関羽ならこちらは張飛と思っていたが、劉備は魏延を大抜擢している。注目すべきはこの人事、驚いた者はいても反対の声が上がったという記述がない」
A「ない!?」
F「うむ。肝心の張飛を含めて、魏延に北方の守りを委ねるのを誰も反対していない。演義に云う通り孔明が本当に、魏延のうしろ頭に反骨の相を見ていたのなら反対しただろうが、正史ではそーいう声は上がっていないンだ」
A「ぅわー……」
F「だが、北伐が始まると漢中に丞相が出張ったために、漢中都督の役職はこの期間なくなっている。孔明が死んで北伐が一段落したあとには呉懿(当時、車騎将軍)や王平(安漢→鎮北大将軍)が任じられるが、北伐が行われていた時期、この役職は失効していた。指揮系統を統一する目的と見ていい」
Y「しかし、魏延でなくても文句のひとつは云いたくなる真似を」
F「云えなかったンだと思うぞ。正史王平伝に『漢中軍の定数は3万だったが、王平の時代にはこのラインを下回っていて、曹爽の進行を受けたとき漢中を放棄しようという声が上がった』とある。つまり、魏延や呉懿の時代には3万の兵がいたことになるが、孔明が北伐に動員した兵は10万前後というのが定説だから」
A「北伐に動員された兵の大部分は孔明が連れてきたものだったのか……」
Y「上役率いる2倍以上の兵がやってきては、先住権は主張しにくいだろうな」
F「そして、3万もいなかった可能性もある。正史魏延伝には出陣のたびに兵1万を自分に指揮させるよう魏延が求めていたと記述があってな。この1万という数字はどこから来たのかと考えたが、もともと漢中都督(つまり魏延)の下で魏への抑えを張っていた部隊の兵数だったのではないか、と思えてな」
A「ぅわっ……!?」
Y「たった1万で8年以上、魏への抑えになっていたと?」
F「孔明は法家の徒だ。言動に対して、理論的には是非を唱える余地を残さないのが法家だが、そういう相手に対するいちばんの対処法が感情論になる。魏延は常々『ワタクシ魏延の、もともと部下だった兵たちをもって別働隊とさせていただきたい!』と求めていた、としたら?」
A「……劉備相手ならまず通るおねだりだね」
F「だが、孔明相手には通らない。長年魏への抑えを張っていた、蜀軍有数の熟練兵だ。入蜀から漢中争奪戦を戦い抜いて現地に配属されたとしたら、これらに匹敵するベテランは、わずかに永安軍、夷陵での生き残りしかいないンだから。たとえそもそもの指揮官にでも渡すわけにはいかないンだよ」
Y「そんな熟練兵、絶対に渡せんわな。仮に渡して全滅でもされたら蜀軍の根本が揺らぐぞ」
F「だから、魏延の手元から離して懐柔する必要があったワケだ。でなきゃ、孔明の死後に魏延の部隊が、王平に怒鳴りつけられただけであっさり四散した説明がつかない。アレは、漢中都督の時代から魏延が率いていた兵ではなかったとしか考えようがなくてな」
A「……それがすべてだったかはともかく、1万の兵が漢中都督の指揮下にあったのは疑う余地がないね」
F「兵員輸送の困難さと拠点としての重要性を相殺して考えると、熟練兵は1万、土木工作用の工兵を含む熟練でもない兵数がもう1万以上いた、というところだろう。例の長安急襲策にしても、緒戦だからと妥協して半分を所望したと考えれば、この切りのいい数字に説明がつきやすくてな」
A「アキラとしては、この数字全面的に受け入れます」
Y「孔明と魏延の死で北伐が一段落したあとで、防御を固めるため定数が3万になった、と考えるほうがしっくり来るか。永安軍もほぼ同数と見ていいか?」
F「いや、呉との国境では戦闘が起こりにくいのみならず、迂闊に兵数を増やせば呉を刺激することになりかねない。こっちは定数1万で、何かあったときは江州軍からの援軍に頼る手はずだったと思う。戦闘が起こらないという前提の都市に3万の兵を張りつけておく、軍事的な余裕は蜀にはなかったから」
A「台所事情考えるとねー……」
F「昨日云ったように、江州軍はそんな事情から定数未定。南中軍も2万を数えただろう。孔明時代は蜀の国力すべてが北伐に動員されていたような状態だから、たとえ政情不安定な南蛮にでもそれ以上の数は割けない。ために、国内での他の地域の抑えやいざというときの援軍として、成都に3万は残していた」
Y「数は同じでも、劉璋のときとは使い方が違うな」
F「漢中軍含めてここまでで8万。益州の動員可能兵数が、この頃は15万を維持していたと仮定できるから、北伐には残る7万、それに戸籍外の異民族部隊が動員されて、数字としては10万を確保できたと考えられる。だが、やはりこれは益州一州で維持できる経済力を超えていたようで、次第に蜀の国力が先細りしていったのは以前触れた」
Y「263年時点で、経済的に蜀は破綻していたンだったな」
F「戦える、つまり社会一般での就労可能な年代の男どもが兵士として戦い、死んでいったせいで、軍を支える社会そのものが衰退していったワケだ。これじゃ蜀の領内で厭戦ムードが起こっても無理はない」
A「まぁ、仕方ない……か」
F「さて、この北伐軍にはさまざまな部隊が編成されていた。前回のコラムで触れた飛軍(ひぐん)がそのひとつで、これは、西羌一万戸を移住させてその中から編成したものだが、単純計算では一千ということになる」
Y「精鋭が多数用意できるなら苦労はないな」
A「まったくだ」
F「お前の云うことはときどきグウの音も出ないから始末に負えない。他にも、特殊部隊として赤甲軍(せきこうぐん)がいる。3000の精鋭を選抜して連弩の運用法を修得させたンだが、この秘密兵器が外に漏れるのを警戒して、赤甲軍の家族は漢中に移住させられたという。機密管理にも気を使うワケだ」
Y「それがザルじゃ困るだろうなぁ」
F「いつの間にか魏の馬均(バキン、技術者)の手に渡ってたけどな。戦闘中に鹵獲でもされたのかね? 兵数・国力に劣る蜀軍が魏に善戦できた根拠のひとつが装備にあった。馬均のアイディアは必ずしも実用化されてはいないが、孔明の考案した連弩、手で持って振り回す槍、筒袖鎧などなどは、蒲元(ホゲン)という優秀な技術者がいたおかげで実戦配備できている」
A「その最たるものが神刀か」
F「だ。鉄の粒を詰めた竹を斬っても刃こぼれひとつしないから驚きでな。ちなみに『かたな』と読むなよ。漢土の刀は日本刀と違って反りのない直刀で、基本的には突かないで斬るのに使っていた。長さはこれくらい」
Y「手を広げるな」
F「あぁ、済まん。相場としては70から120センチだが、神刀は80センチくらいだ。3000本生産されたがどこの部隊に渡ったか、の記述はない。精鋭に持たせたのは疑う余地がないが、それなら劉備は、劉禅や他の皇子に蜀帝八剣を渡さんと、魏延にも与えていればよかったのに……と本気で思う」
A「そーじゃねェ……」
F「他にも、名称がはっきりしないが虎軍という部隊がいた。蜀に降った姜維が最初に預かり、訓練するよう命じられたのが中虎歩兵隊だったのが確認できるンだ。孔明直属の部隊がそんな名称だったのかもしれん」
A「ふつう、虎なら西方だよね」
F「うん。虎軍の中央部隊の歩兵隊、という感じだと思う。虎歩監(こほかん)・虎騎監(こきかん)という役職の武将が見られるから、この虎軍は歩兵と騎兵で編成され、それぞれに総監とおそらく前後左右中の各部隊長がいた、ンだろう。ちなみに虎騎監を張っていたのは『孫の代まで弓馬が得意』と書かれた糜竺の孫そのひとだ」
A「世が世なら、糜竺も外戚だったのにねェ。この頃ではいち部将扱いか」
F「世知辛い世の中だ。ということで、姜維が話題に上ったので唐突に本題に入る。魏延は漢中周辺に強固な防御ラインを設置していた。さっきちらっと触れた曹爽の侵攻を王平が退けることができたのはこの防御ラインのおかげだと、余人ならぬ姜維伝に明記がある。魏延の能力査定で運営に4がついてるのは、コレが根拠」
Y「政治的な手腕でなく防御建築に通じていたからか」
F「何しろ、費禕の援軍が駆けつけるまで、3万足らずで十数万の魏軍を防いだのだから、魏延印の防衛ラインがどれだけ優秀だったか判ろうというものだ。北伐期には10万の兵が漢中にいたが、何万を漢中に残したのか明記はないものの、3万の定数を割っていたと考えられる。それくらい、この防衛ラインは信用されていた」
A「信頼、ではなく?」
F「229年に孔明が修正しているンだ。漢中本拠の西(陽平関の手前)に漢城(かんじょう)、東に楽城(がくじょう)というのを建設している。王平の部下は曹爽の一件で『現在の兵数では敵を防げません。ここは漢・楽城にこもって防御を固めましょう。そうすれば(ふ、漢中の南)の本隊もやってきて、関城を守ることができます』と進言したが、王平はそれを突っぱねた」
Y「魏延と戦ったとはいえ、魏延の力量を知っていた王平は、歴戦の魏延の防衛ラインを信じたのか」
F「だが、部下たちは孔明の城をありがたがってしまったのね。孔明の死後に王平がいなかったら、蜀の寿命はかなり短くなっていた感がある。だが、姜維はこの逆をやった。王平の死から10年後の258年、姜維は漢中を放棄し、先の一件で王平の部下(誰かは記述がない)が主張した通りの守備を敷いている。しかも、兵数を両城で1万に削減して」
Y「アホか?」
A「うぐぐ……」
F「なぜ姜維がこんな真似をしでかしたのか、については割と明確な目的があった。漢中都督を前線から遠ざけようとした……というか、遠ざけたンだ」
Y「魏延が死んでから何年経つと思ってるンだ?」
F「あー、いやいや。漢中軍から魏延の息吹を葬ろうとしたわけじゃない。漢中軍の兵も北伐に駆りたてようとしたンだ。さっきも云ったが、15万という軍勢は蜀の国力では維持できない。身の丈に合わない軍を動員して敗戦を続けていれば、国家そのものが衰退していくのも当然だ」
A「いや、まぁ、姜維の北伐はお世辞にも上手く行ったとは云えないけど……王経(オウケイ戦くらいか? 大勝したのは」
F「うん、255年のことだな。蜀書姜維伝には『数万を討ち取った』とある大勝利だが、この翌年がまずかった。256年には『ケ艾に打ち破られ兵は散り散りに逃げ惑い、多数の戦死者を出したため、人々は姜維を非常に恨み、隴西は騒乱で不安定になった』と蜀書でも酷評される大敗をしでかしている」
A「……相手が悪かったアレか」
Y「王経は相手がよかった事例だからなぁ」
F「この敗戦は魏書ケ艾伝でも『理にかなった計略でふたケタの将、4ケタの首級を討ち取った』と書かれていて、蜀軍の被害が甚大だったのが判る。にもかかわらず翌257年にも『数万の兵を率いて駱谷道を超え……』とあるンだ。いったいどこからこの兵士は出てきたのか、と思えるほどの再生能力でな」
Y「まさかゾンビじゃなかろうに」
F「そう。漢中軍を事実上解体し、漢中都督の胡済(コセイ)を前線から退け、その兵士だけ北伐に動員していたンだ」
Y「アホだ」
A「うぬぬ……! 文官連中は何をしていた!? 前線の兵士を途絶えさせてどうする!」
Y「責任転嫁するな。そもそも費禕の考えから逆行したのは誰だ」
A「費禕が北伐を断念していなければ、兵が足りなくなるなんてなかったはずだろーが! ちゃんと各地の防備をかためてまだ北伐に動員できるだけの兵数を確保する手腕がなかったとは思えんぞ。費禕になかったのは政治手腕じゃなくて交戦意志だ!」
Y「まぁ、野郎の下で姜維が無聊を囲っていたのは否定せんが……」
F「見落としがちではあるが、と注釈しよう。蜀には人事的空白期間があってな」
A「人事的……? なに?」
F「限りなく透明に近いグレーゾーンだ。張裔(チョウエイ)の死後から蒋琬・費禕・董允らが一人前になるまで間が空く。それを埋めるために孔明は、口だけの馬謖や不平分子の李邈(リバク)、君側の奸の楊儀を使わねばならなかった」
A「…………夷陵の敗戦か」
Y「あぁ……」
F「馬良黄権が埋めるべき中間世代が抜けたせいで、孔明の肩と胃袋にかかる負担が増したンだ。このふたりのどちらかでもいれば、張裔→黄権・馬良→蒋琬・費禕という具合に、引き継ぎがもう少しスムーズに行えたはずなんだが、孔明の次の世代を育てる時間が足りなかった」
Y「当時、蒋琬は尚書令だったはずだが」
F「ことを行うに右往左往し、前任者(孔明)に及ばない、と称されたがな。蒋琬自身が『そりゃそうだ』と達観していたから次第に頼りにされるようになっていったが、当初は孔明の腰巾着としか思われず、反対派の筆頭と化していた楊儀は『後輩のくせに!』と不満たらたらだった。蜀を率いる貫目が足りなかったンだよ」
Y「劉備のアホさ加減がここで響いたのか」
A「惜しい連中を亡くしましたよね……」
F「武官はさらに顕著だぞ。五虎将亡きあと蜀軍の主力となることを期待されて従軍した馮習(フウシュウ)・張南傅彤(フトウ)らがそっくり抜けたから、趙雲の死後、四猛将が成長するまでを、魏延がほとんどひとりで支えていたような状態だから」
Y「うわぁ」
A「いやひとりって、いやいや!?」
F「関興張苞馬岱は正史にほとんど記述がない。他の武将は育成途中で、かろうじて呉懿が数に入る程度だが、実戦経験で考えると魏延とは比べるべきもなくてな。孟達がいてくれればいかばかりだったことか」
Y「今度は、王平辺りがちゃんとした年代じゃないか?」
F「うん、四猛将で彼だけはひと世代早い感がある。だが、蜀全軍を背負える人材だったかと云えば、粒が小さいとしか云いようがない。孔明の死後にケ芝張翼も昇進しているが、これは論功行賞というより軍の再編成の都合だ。姜維が蜀軍を率いる立場になるまでのつなぎ世代、蜀軍にはそれが欠けていた」
A「……限りなく透明に近いグレー、か」
F「演義で、魏延は『丞相亡きあと、ワタクシ魏延の他に誰が蜀軍を率いることができる!?』と豪語しているが、これに『ここにいるぞ!』と応えた、応える資格のあった者はいなかったワケだ」
A「五虎将から四猛将へのつなぎが、魏延くらいしかいなかった……」
F「姜維の不幸は、費禕の下で不遇の日々を過ごしていた反動で蜀軍を取り返しのつかない惨状に追いやったことじゃない。北伐をしたいのに、楊儀に乗せられ魏延を討ってしまったことなんだ。孔明の遺志を継ぐなら魏延に与して楊儀を除くべきだった」
Y「死ぬぞ」
A「志に反して生きるのと、結果は出せなくても志に殉じて死ぬのと、どっちがマシかな」
Y「………………」
F「判らん。……ところで、ここまで云えば判っただろう。孔明のやったこと、姜維のできなかったことは、魏延のできなかったこととイコールだったのが」
A「孔明は劉備の死後、蜀軍をひとつにまとめたけど、魏延や姜維は孔明の死後にそれができなかった?」
F「なぜか。ふたりとも、朝廷で与党を味方にできず、その余波から軍内でも孤立していったからだった。孔明は丞相として自分に権力を集中させる一方で、朝廷には子飼いの腰巾着を置いて外に出ていた。だが、魏延は孔明の派閥に属していなかったし、姜維も姜維で費禕の派閥とは考えにくい。費禕生前は1万の兵しか与えられなかった一件……いや、何度かあったらしいが、アレは『魏延はその兵でできると云ったぞ?』的な脅しともとれる」
Y「軍事は政治に従属する、だな。少数野党だったワケか」
A「でも、魏延はともかく、姜維は軍で孤立してたか? それなりの人望はあったはずだけど」
F「魏延亡きあと蜀軍の主力となった四猛将は、いずれも北伐には否定的だったンだよ」
A「ぶっ!?」
Y「待て。他の3人はともかく王平もか?」
F「割と単純な事実をこの間認識した。講釈してタイプもしたのに『……あれ?』と気づいたのはホント先週だ」
Y「またそのパターンか」
A「だからいきなり蜀の軍制コラム始めたンかい」
F「まぁ、本人の回で触れるが。というわけで、孔明の死後に魏延が死なず、蜀軍を率いる立場になっていたらどうなったか。こうなった。姜維のように、うまくできなかったはずだ。楊儀がいなければ殺されることはないが、朝廷に与党を持たない魏延は、軍の支持だけでも得ようと国力を超えた軍備を消費し続け、国を衰退させる」
A「自分を焼く戦火をまき広げ、軍内での地位も危うくなって……」
F「この場合、魏延を追い詰めるのは費禕だろうか。だが、頃合と見た司馬の親か兄か弟かが攻め込んでくれば、それを口実にもう一度蜀軍をまとめる立場に返り咲ける。司馬昭が蜀侵攻にゴーサインを出さなければ、黄皓の暗躍で姜維がますます孤立したことは疑う余地がないが、迎撃の指揮を執ったことで、姜維は軍での支持と信頼が高まった」
A「そう考えると、姜維はまだ幸せなのか」
F「弁解の余地もなく死んだ魏延よりは、だな。魏延は、劉備のように陣頭に立つ頼れるアニキであろうとしたが、孔明が成し遂げたのはアニキの一存で将兵の生死が左右される地方軍閥からの脱却だった。劉氏の血は御旗で充分、実務と実権は孔明以下の家臣がやればいいというシステムに切り替えたことで、魏延のような武人は時代遅れになっていた」
Y「力量でも人格でもなく、時代的に魏延が受け入れられることがなくなっていたのか」
F「そして、費禕によって北伐そのものが否定されたことで、姜維も時代に取り残されていた。それでも北伐を続けたことを、陳寿は手厳しく非難している」

 文武両道の才を備え功名をあげることを志したが、軍勢を軽々しく扱い外征を繰り返し、明晰な判断を充分に運らすことができず、最後は身の破滅を招くことになった。「大きな国を治めるには、民の生活を乱してはならない」というが、小国ではなおさら、民の生活を乱すような真似をしていいはずがないだろうね。

F「姜維は、孔明の志は継いでも、才も官職も受け継げなかった。才はともかく地位も得られなかったのは、周囲から孔明の後継者とはみなされていなかったということになる。楊儀がそうであったようにな」
A「それでも蜀軍を背負わねばならなかったのが、姜維の真の不幸か」
Y「そんな奴に率いられた蜀軍のがよっぽど不幸だよ」
A「やかましいわ!」
F「続きは次回の講釈で」


姜維(きょうい) 字は伯約(はくやく)
202年〜264年(一発逆転の大博打に負けてタマ取られた)
武勇5智略6運営3魅力3
涼州天水郡出身の、蜀の最期を飾った智将。
「関羽の武と龐統の智を併せ持つ」と称された涼州最大の人傑。しかし、政治的には孤立し、軍部を暴走させ蜀滅亡の原因のひとつとなった。

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