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History Members 三国志編 第57回
「蜀漢戦隊ゴコレンジャーNo6、ハンコツピンク」

F「とりあえず、僕んちも被災した東北の大地震で亡くなった方に一礼」
公式には2人しかいない新潟県内での怪我人の片割れ「む」
A「なむなむ。アキラもしばらく来られんかったからなぁ」
F「お前は別の理由だろうが。首都圏から福島への線路が寸断している関係で、新津から郡山間を結ぶ磐越西線(全長約180キロ)で物資を運ぶことになったらしいが、これがちょっと難路でな」
A「新潟から県外へは山か海越えないと移動できないからなぁ」
F「それ以前の問題でな。磐越西線はオール電化されていなくて、新潟県内の路線はディーゼルエンジンが基本。ときどき蒸気機関車まで動いているくらいだ」
A「21世紀のこのご時世にSLですかっ!?」
F「SLばんえつ物語号、だったかな。新津区はもともと鉄道業で栄えたから、ホントに通ってるンだよ。とりあえず、一刻も早い復興を願いますと締めて、このオハナシはさておくが、新潟市新津区から福島県郡山市がだいたい180キロ、という点をアタマに入れてこれを見てくれ」



F「相変わらず縮尺が微妙なのはスルーしてもらうが、孔明が北伐の本拠を置いた漢中から終焉の地である五丈原までは、直線距離で180キロくらいになる」
A「だいたい、新潟から福島までくらいの距離なんだ?」
F「そゆこと。第二次北伐で不覚をとった陳倉城も距離としては180キロくらい。争奪の地となった祁山や馬謖が敗れた街亭は210キロ前後。ところが、第三次北伐で攻略した武都郡(西漢水の東側)は漢中まで160キロになる」
Y「比較級だが、意外と近いのか」
F「武都郡は長安とは反対方向になるから、一般方向からして逆でな。距離も程近い……」
A2「……いっぱん?」
F「あ、失礼。軍事用語です。『一般方向長安』と云ったら『針路はどこを通ってもいいから長安に行け』という具合に使います。ただ、武都郡や陰平郡は長安とは逆方向になります」
Y「武都から北に向かうならまだしも、西の陰平経由では長安に向かえんか」
F「いちど漢中に戻るようでは、さすがに一般方向とは云わんわな。劉備の死後鳴りを潜めていた蜀軍がいきなり攻めてきたから隴右の諸郡は慌てて降伏した、という記述で判るように、当初蜀軍は電撃作戦を採っていた。となると、漢中に程近いとはいえ武都を先に攻略しておくのはまずい」
A「蜀軍に不穏な動きあり、と魏が察するからか」
F「ために、第三次北伐まで武都・陰平は放置されていた次第だろう。まぁ、孔明の北伐については、ちょっと思うところがあるので違う機会にまとめる。距離の話に戻るが、孔明の北伐は、漢中から200キロ圏内にとどまっていた」
A「長安まではどれくらいなんだ?」
F「直線距離では250キロというところだ」
A「……あと少しだったのか」
F「ちなみに、陰平郡は300キロを割るくらいだが、成都までは400キロほど。陰平はともかく、漢中から成都に向かうには、米倉山脈を踏破する米倉道、陽平関を直撃できるものの険阻な金牛道、武都方面に迂回する比較的緩やかな馬鳴閣道、がある。略図の『至益州』に伸びている太線が、右から米倉・金牛・馬鳴閣道になる」
A「南は南で険阻だな……」
F「で、漢中から秦嶺山脈を抜けて長安、というか魏に向かうには大きく4ルート。祁山から大回りするルートもあるが、山脈を越えて渭水まで出るための道はそれくらいしかなかった。地図上は山だらけだけど、たまに平地もあって、大回りルートは山越えよりちょっとは楽だ」
Y「この略図、渭水の北岸はほとんどスルーしてるンだな?」
F「略図と云っておろうがね。東から子午道・駱谷道・斜谷道・故道で、故道が文字通りいちばん歴史が古く、ここだけ北への蓋になる散関が作られている。いちばん新しいのは駱谷道で、できたのは実は三国時代だ」
A「この時代に開かれたのかよ!?」
Y「新しいと云っても1800年前だがな」
F「そーじゃね。ということで、魏延は急襲策で子午道から攻めようと云い、孔明はそれを退け故道(当時、陳倉・散関は廃棄されていた)から隴右へ進んだ、というのが最初の北伐だったのは周知の通り」
A「本題に入りましたー」
F「魏延、字は文長。いち時期三国志最強の称号を帯びていた、というのは昔触れた通りだ。出身は荊州義陽郡とあるが、繰り返しているように義陽郡は222年設置なのでたぶん南陽郡。生年は不詳」
A「劉表配下から長沙の韓玄を経て劉備に仕えた、と」
F「んー、演義ではそうなんだが、正史だと劉表・韓玄配下だったとの記述はないな。もっと云えば、いつ劉備に仕えたのかも定かではない。益州侵攻にいち部隊長として従軍し、功績を挙げて雑号将軍に取り立てられたとしか」
Y「その辺りの経歴は曖昧だったか」
F「が、劉備はこの男を高く評価する。漢中王になった劉備は本拠を成都に置いていたので、魏への抑えとして優秀な武将を漢中におかねばならなかった。衆目は張飛が起用されると思っていたし、本人もその気になっていたけど、劉備が北方最前線を委ねたのは魏延だった」
A「曹操には勝てないけど配下の武将連中だったら叩き潰しますよと豪語したンだよな」
F「ために、劉備からお褒めに預かり、人々からも認められた次第だ。劉備が帝位につくと鎮北将軍に昇進(それまでは漢中都督・鎮遠将軍)し、ために、夷陵の敗戦には従軍していない」
A「運よく、かね」
F「後々を考えると、劉備とともに死んでいた方がよかったかもしれんが。223年に都亭侯に叙され、227年に孔明が漢中に本陣を移すと督前部・丞相司馬・涼州刺史に任命されている。230年には郭淮を打ち破った功績で前軍師・征西大将軍・南鄭侯に昇進した。まぁ、この辺りが魏延の絶頂期だな」
A「だが、孔明の死後は楊儀費禕にハメられ、叛逆の汚名を着せられた……」
F「孔明の死後に魏延が叛逆した、と思っているヒトは多い。正史でも一時的に楊儀と戦闘になり、負けて死んだ旨の記述はある。だが、陳寿は正史に『叛逆したワケではない』と明記しているし、演義でもよぉーっく読んでみると叛逆したワケではないのに気づく」
A「え?」
F「書き起こしてみよう。聞くも涙語るも涙の、魏延の人生を」

208年、襄陽
魏延「ワタクシ魏延は、劉表様が死んだので劉備様を襄陽にお迎えしたいと思い、蔡瑁に無断で城門を開きます!」
文聘「この裏切り者め!」
孔明「あ、戦闘してる。殿、襄陽は危険だから劉g殿のところに向かいましょう」
劉備「そうするか」
魏延「……あるぇ〜?」

209年、長沙
魏延「ワタクシ魏延は韓玄をブっ殺して黄忠殿を救い、長沙を劉備様に捧げます!」
孔明「襄陽から落ち延びたお前を受け入れた韓玄を殺すとは不届きな奴め! 殿、こんな奴は斬られませい!」
魏延「えー!?」
劉備「いやいや、この男を斬っては、これからうちに降る者はいなくなるぞ」
孔明「ちっ……。おう魏延、殿のお顔を立てて命は助けてやる。だが今度叛逆したら殺すぞ」
魏延「は、はい……」

223年、漢中
魏延「ワタクシ魏延は、劉備様から命じられた漢中守備の大命を、劉備様の死後も続けております!」
孔明「それ中止。漢中は趙雲に任せて、お前南蛮兵の相手してくれ」
魏延「おいおい……」

225年、南蛮
魏延「ワタクシ魏延は、身の丈4メートルでゾウに乗ってヘビを喰う兀突骨と戦うよう命じられました! 矢も刃も通らないので正直歯が立ちません!」
孔明「じゃぁ15日毎日戦って15回負け続けろ。陣地は7つまで捨てるように」
魏延「いや、云われなくても負けますけどね!?」

227年、漢中
孔明「じゃぁ、北伐しようか」
魏延「ワタクシ魏延に1万の兵を預けていただきたい! 長安を攻略してきますので!」
孔明「却下。馬謖ー、街亭行ってくれー」
魏延「劉備様が、野郎は信用するなとご遺言なされたのでは?」
孔明「大丈夫だろ、オレの弟子だし」
楊儀「丞相! 馬謖が敗れました!」
魏延「云わんこっちゃない! 丞相、いかがされます!?」
孔明「え、え? じゃぁ魏延、お前軍を率いて出陣しろ! オレはここでお琴弾いてるから!」
魏延「何でそうなるかなぁ!?」

228年、陳倉
魏延「ワタクシ魏延に、王双の迎撃を任せていただきたい!」
孔明「却下。王平たちを行かせよう」
魏延「……大丈夫ですかね?」
楊儀「丞相! 連中が敗れました!」
孔明「……あー、えー、魏延。行ってこい」
魏延「最初からそう云ってくれれば……」

230年、祁山
孔明「仲達の陣地を攻めてこい」
魏延「……ホントに大丈夫なんですね?」
孔明「疑うのかオラ」
魏延「疑いたくもなりますよ!」

234年、ひょうたん谷
魏延「ワタクシ魏延は孔明の策で、仲達めをひょうたん谷に追いつめ火攻めにしております!」
仲達「云いにくいンだけど魏延クン、キミ、逃げないとボクら親子といっしょに焼け死ぬよ?」
魏延「責任者出てこぉーいっ!?」

F「孔明と羅貫中は魏延に何の恨みがあるのか、と聞きたい」
Y「これで怒らんのなら何を怒るのかというレベルだな」
A「……魏延の側の素行不良はさておいて、孔明が魏延にしたことを列挙するとこうなるのか」
F「韓玄に関しては、まぁ責められても仕方ないことは否定しない。だが、襄陽では魏延が門を開いても、孔明は中に入らないよう勧めている。それならそもそも襄陽に寄らないよう勧めるのが軍師の務めとは思うが、初登場のシーンから、孔明は魏延を見捨てていてな」
A「劉備の身を案じた……とは云えない?」
F「劉表から荊州を奪え、と勧めたのはどちら様だったかな? 時は流れて劉備死後の、仲達プロデュースの五路侵攻に際して、魏延はなぜか南蛮の抑えに回っている。演義でもちゃんと漢中の太守だったのに、その座を趙雲に奪われて、だ。ちなみに趙雲は、演義では蜀軍にボロ負けし続ける曹真を担当」
Y「演義では、と条件つければ勝てるよなぁ」
A「……勝てますね」
F「その南蛮に攻め入って、兀突骨との戦闘では、魏延が15戦15敗7逃亡を命じられている。これに関しては、兀突骨相手に15戦を戦える武将が他にいるかという疑問は否定しない。趙雲(漢中の守りは馬超と交替した)も割とトシだったのは以前触れた」
Y「魏延の部隊にはどれだけ被害が出てもいいような扱いだがな」
A「むぐぐ……」
F「北伐にいたっては論ずるに値わず(能わず:必要がない、値わず:価値がない)。魏延の意見をハナから聞いていればもう少しマシな戦闘ができただろう。少なくとも、最強の武将が不貞腐れることはなかったンだから」
Y「その最強武将を緒戦で亡くした可能性もあるだろ?」
F「魏軍のトップが夏侯楙(ボンクラ)で、姜維不在なのにか? 相手が郭淮級までなら魏延は勝てる、のは正史・演義共通だ。演義での魏軍は極端にまで弱いのを忘れるなよ」
A「うーん……」
F「正直な本音、演義での魏延最大の魅力は、武勇ではなく、初対面で『ブっ殺せ』と云われた相手に25年間、かたちの上では忠実だった、その忍耐力にあるように思える。だいたい韓玄の一件にしても、未遂の伊籍はともかく同じことをした鞏志がよくて魏延がダメってのは説明がつかないンだよ」
A「ふたりとも、演義での最期はさだかではないけどね……」
F「かくて魏延はキレるべくしてキレた。こういうのを正しい日本語では『仕方ない』と云うが、では正史ではどうだったかと云えば、孔明の死の直後に起こった蜀軍の内紛が楊儀のクーデターだったのは、常々触れている通り」
A「クーデター……でいいのかね?」
F「まず、楊儀が大物だったという思い込みを捨ててくれ。アレは孔明の部下のひとりにすぎず、公的な役職は丞相府長史・雑号将軍だけだ。それに対して魏延は丞相府前軍師・征西大将軍・涼州刺史・漢中都督・南鄭侯。九品官人法の序列で比べると、長史は六品官だが軍師は五品官、雑号将軍は四品官で征西大将軍は二品官だ」
A「北伐軍総帥の幕僚のひとりと、北伐軍の副司令官では、階級が段違いでも無理はないが……」
F「あー、案の定判っていなかったな。当時の蜀に魏延を超える者は、孔明と劉禅のふたりしかいなかったのが」
A「……はい?」
F「趙雲が死に李厳が失脚し劉琰(リュウエン、当時の車騎将軍)が処刑され、魏延は北伐軍ではナンバー2、蜀全体でもナンバー3の地位にあったンだ。ちなみに、司徒だった許靖の死後、蜀では三公が一切叙任されていない」
Y「蜀の人材不足は周知だが、そういう状態にまでなっていたのか?」
F「この点を無視するか気づいていないと、孔明の死後に楊儀のやったことの異常性にも気づけなくなる。たかがいち文官ごときが国の重鎮、軍の事実上のトップを追放して北伐軍を掌握しようとしたのを、孔明の部下同士の権力争いと誤解してしまうンだ」
A「でも、部下は部下だろう!?」
F「正確には、序列が下なだけだ。宰相職にありながら中央を離れて地方軍の屯所に駐留したせいで、魏延が率いていた漢中軍も孔明の指揮下に入ってしまった。ために、孔明の指示に従うハメになった。魏延としては不本意だろう」
A「劉備の時代には漢中方面の司令官だったのに、中央から上司がやってきたから司令官の権限は失って……」
F「しかも、ひとを見る目のなさには定評のある孔明さんがバカなことをしでかした。魏延と、自分の子飼いの楊儀を同列視するという、軍・政権の序列からは考えられない暴挙だ。孔明の下で楊儀が文事、魏延が武事を担当する、という状態に持っていきたかったンだろうが、並べる対象があまりにも小さく、そして下等だった」
Y「そりゃ、魏延でなくても怒るわな。劉禅の下で孔明が文事、魏延が武事を担当していても、序列としては何の問題もなかったというのに、本来並ぶべき相手の下について、さらに下の木っ端役人と同列視されたら」
F「むしろ僕が聞きたい。楊儀とは何様か、と。劉備に信任され長年魏との前線を守り、漢中に強固な防衛ラインを構築し、出陣すれば魏軍を破った、関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠亡きあとは蜀軍に並ぶ者なき重鎮、六人めの五虎将魏延サマと並ぶことが許される男か、と。楊儀がどんな功績を立てて魏延と並べられたのか、誰か教えてくれ」
A「……楊儀は、ただの小役人だったのか」
F「それにもかかわらず、孔明に信任されていたモンだから欲が出たらしい。孔明の死後は自分が丞相になれると思い込み、まずは怨敵魏延の排除からはじめた。魏軍の目の前に魏延を置き去りにして、漢中に引き揚げている」
A「魏延が、大人しく楊儀の撤退命令に従っていたら、どうなっていたかな」
F「漢中についた時点……いや、到着前だな。冤罪でっち上げられて殺されていたはずだ。実際に殺っただろ?」
A「まぁ、殺したけどさ……そうじゃなくて、魏延が楊儀の下についていたら」
F「殺す。まだ判ってないなら云ってやるが、楊儀はそういう男だ」
A「……そうね」
F「だが、置き去りにされた魏延は怒り心頭で、五丈原から漢中に先回りしてしまった。この機動力には、魏延は来たるべき北伐に備えて漢中から北の地勢を調べ上げ、従来のルートとは違う間道を知っていたとしか思えない。だからこそ、長安を急襲できると豪語したンだろうな」
Y「孔明とは違い、劉備は口先だけの男を認めなかったからな。楊儀も、劉備の下では出世できなかっただろうよ」
F「劉備に左遷されていた楊儀を拾ったのが孔明だしな。そんなワケで、魏延と楊儀は、互いに『アイツが謀叛しました!』という書状を劉禅に送っている。困った劉禅が蒋琬董允にことを諮ると『魏延が悪いです!』とのお返事。政治的に孤立した魏延は、そうと知らずに楊儀の軍を待ち受けていた」
A「王平だっけ」
F「うむ。王平に『丞相が死んで間もないというのに、お前らは何をやっている!』と怒鳴られ、魏延の側の兵はあっさり四散。軍事的にも味方がいなくなった魏延は息子たち数人とともに逃げ出すが、馬岱の追跡を逃れられずに殺されている。漢中にいた魏延の一族も処刑され、楊儀は魏延の首級を『思い知ったかバカ野郎!』と足蹴にしたという」
A「……ロクでもないな」
F「楊儀がな。この点については陳寿も明言しているが、魏軍の目の前に置き去りにされたというのに、魏延はそっちには降らず、漢中に駆け戻っている。この内紛はあくまで、自分をハメた楊儀へのカウンターにすぎないンだ。本当に蜀への叛意があったなら、五丈原で仲達に降っているよ」
Y「それをしなかったから、魏延の真意は蜀への忠義にあった?」
F「あくまで楊儀を除きたかっただけで叛逆したワケではない、と陳寿は蜀書魏延伝を締めくくっている。ところが、丞相になれなかった楊儀は『魏に降るべきだった』とぼやいたモンだから投獄され、こちらもあっさり死んでいる」

 李厳は才幹、魏延は勇猛、楊儀は実務の手腕、劉琰は……古くから仕えていたから? 皆さん尊重されました。ですが、その行為、その品行を観察しますと、身を滅ぼしたのは自業自得じゃないですかね。

A「楊儀がロクでもない小役人なのは判った。そんなモン相手にむきになったのが魏延のまずかった点だってことも。じゃぁ、なんでそんな重鎮があっさり見捨てられたンだ?」
F「ところで、と云おう。孔明独裁体制の唯一と云っていいイレギュラーだったから、だろうな」
A「……えーっと?」
F「魏延は、孔明の派閥に属していなかった。これを否定する者はいないと思う。ところが、当時魏延を除く蜀の中枢部は、蒋琬・費禕・董允などなど、ことごとく孔明派で占められていたンだ。権力を孔明に集中させることで挙国一致体制を作り、蜀の国力を北伐につぎ込む政策のためだったが、魏延はそこから外れていた」
Y「なぜ、はさっきまでに確認した通りか。もともと劉備に抜擢され蜀の北方を預かっていた、実質的には軍のトップにいた男が、たとえ丞相とはいえそうへいこらとはできなかったから」
F「そうなる。劉備時代ならそれでも通ったンだけど、皇帝ではない孔明が蜀を総動員するには自分への対抗者を作るワケにはいかなかったンだ。この時代の蜀は、中央集権制だったものの権力は皇帝劉禅より孔明の方が強かった」
A「権威はさておいて、実質的な国家権力は握っていたなぁ……」
F「だから、孔明は魏延を楊儀と同列に扱わねばならなかったンだ。権力はあくまで孔明に帰し、孔明に次ぐ存在なんて許せない。だが、さすがに五虎将亡きあとの武の要を無碍には扱えないモンだから、孔明からある種の特別扱いを受けていた。230年に呉懿を率いて独立行動させたのはその流れだろう」
Y「それだけに、周りからは不満の眼で見られていたのか。何でアイツだけ、みたいな」
F「本人も『丞相が亡くなられてもワシがいる。諸将は丞相の代わりとしてワシを望むだろう』と思っていた、のは正史に記述があるが、周りからは孤立していったのね。下っ端ほどそういう空気には敏感だから、兵士たちは王平に怒鳴りつけられるとこれ幸いにと逃げ出している」
A「空気読めないというよりは、古いタイプの武将か。武勇にモノを云わせればみんなついてくるという考え方の」
F「幸運の女神は汗臭い男が大嫌い、というのはイタリアのことわざだったか。さっきも云った通り、劉備とともに死んでいたら、魏延が蜀の叛臣列伝にエントリーすることはなかっただろうね。そして、そんな魏延を除けば自分が孔明の後継者となれると思い込んでいた楊儀も、実際には同じ穴のムジナと思われていたらしい」
A「見捨てられて死んだけど、こっちは蜀への叛意を口に出していたからなぁ。同情する余地はないか」
F「魏延を擁護する声は多少ならずあるけど、楊儀にはそういう声は聞かれないね。ちなみに、魏延と云えば後ろ頭の骨が出っ張っている反骨で有名だが、現代日本では、反骨は『暴力や権力に屈さない、しっかりした意志の持ち主』というニュアンスでとらえられることが多い。叛逆者という本義とは違った目で見られるね」
A「実際にそうだったのかな」
F「正史には記述がないけど、もしそうなら魏延も家庭内暴力を受けて育ったのかな。僕の頭蓋骨が変形しているのは親の虐待が原因だけど」
A「……実体験やめろ」
F「正史の注に、こんな記述がみられる」

「魏の魚豢(ギョカン)です。同時代の私が聞いた話では、孔明は死に臨んで魏延に自分の職務を代行させ、死体を秘密裏に運ばせようとしたとのこと。魏延は云う通りにしようとしたものの、不仲だった楊儀は『……殺されるンじゃね?』と危惧し『野郎が魏に寝返ったぞー!』と喧伝して兵を味方につけ魏延を襲撃したとか。魏に寝返るなんて考えていなかった魏延は、兵が逃げたモンだから敗走し、殺害されたそうです」
裴松之だ。ぶっちゃけるが、魏の記録なんてあてになるかよ。陳寿とどっちが正しいか、議論の余地もないね」

F「同時代に編纂された魏の側の史料でも、魏延に叛意がなかったと書かれているのが凄いよね」
A「むしろ、魚豢さんの記述が凄いよ!?」
F「続きは次回の講釈で」


魏延(ぎえん) 字は文長(ぶんちょう)
?〜234年(楊儀のクーデターにより殺害される)
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荊州南陽郡出身の、五虎将亡きあとの蜀を支えた勇将。
孔明の死後の蜀軍をまとめ上げる立場になれなかったものの、そうなっても蜀を裏切ることはなかった。

楊儀(ようぎ) 字は威公(いこう)
?〜235年(獄中で自害)
武勇1智略2運営5魅力2
荊州襄陽郡出身の、孔明子飼いの文官。
飼い主がやっていたことを「オレもやろーっと」とやっちまったアホな飼い犬。

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