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History Members 三国志編 第56回
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」

F「モスコヴィッツじいさんは実在の人物でな
Y「……は?」
F「とは云っても、禁酒法時代のアメリカ人ではなく、ナポレオン時代のフランス人だ。何でアメリカンジョークに出演するようになったのかは僕も知らない。同名の別人なのか、何なのか」
Y「いや、どうでもいいのかそうでもないのか。何者なんだ?」
F「さっき云ったがナポレオンの時代に、フランス軍に従軍していた兵士でな。ロシア遠征に向かおうとするナポレオンの前に進み出て、自分にレジオン・ド・ヌールをくれと云いだした」
Y「フランス軍最高位の勲章だったか。どんな功績があってそんなことを」
F「じいさんにっこり答えたね『ハイ、エジプトの砂漠で皇帝陛下にスイカを献上しました』と」
Y「アメリカンジョークを聞きたいンじゃないンだがな」
F「ナポレオンの側近もお前みたいな冷淡な反応でな。じいさんを追い払おうとするンだけど、余人ならぬフランス皇帝ナポレオン陛下がそれを制止なされた。じいさんを温かいまなざしで見つめ、述べられている」

『アルコレ橋、カスティオーネ、エジプト、アウステルリッツ……私は、どんな戦場でもあなたが勇敢に奮闘していたことを覚えている。誰か、この者にレジオン・ド・ヌールを与えよ!』

F「いち老兵の奮闘ぶりさえ覚えていたことに感動したショラナ・モスコヴィッツは、皇帝の恩徳に報いるためにロシアの地で――他の戦場でも、常にそうであったように――勇敢に戦って、戦死している」
Y「……何でこんなベテランがヨッパライになってるンだ?」
F「さーねー、僕も知らない。まぁ、じいさんのオハナシはこれくらいにしておいて。今回のお題は呉から淩統(リョウトウ)について。ちなみに『私釈』では文字コードの都合で凌統にしていたけど、今回から修正しておく」
Y「王淩(オウリョウ)は途中で直したのになぁ」
F「登場回数が少なかったから『あとでなおせばいーやぁ』と思ってスルーしててな。テンプレ入ると揚州呉郡の出自。父の淩操(リョウソウ)は孫策の江東進出に際して配下に加わり、鉄砲玉夜露死苦特攻していた」
Y「若い頃の地が出てるぞー」
もと暴走族「あ、もとい。常に先陣切っていた、と正史にある。ために孫策に重宝されていたンだが、時代が進んで203年、孫権江夏を攻めた折に先鋒となって、黄祖率いる水軍を打ち破ったものの、調子に乗って追撃していたら殿軍の甘寧に射殺されてしまう。出る首級(クビ)は討たれる、というパターンだな」
Y「孫策に認められたなら、それなりの武将だっただろうに」
F「息子の淩統はこの年15歳だった。孫権は『淩操が国事のために死んだので淩統を取り立て、父の率いていた兵を与えた』とある。つまり陳寿は、孫権の作戦ミスで死なせたと暗にほのめかしているワケだ」
Y「野郎本人の戦下手は明らかだからなぁ。どっかの大耳野郎と直接対決したら、果たしてどっちが負けたか」
F「共倒れしたら魏が喜ぶから、そこまで事態は悪化しなかっただろうが。なりかけたことは何度もあったが。ともあれ、孫権が軍を率いて山越の討伐に向かったある日、総攻撃を前に酒宴が開かれた。そこで陳勤(チンキン)という、この件にしか記述のない男が、酒の席とはいえ序列も礼儀も無視した悪酔いをしてしまう」
Y「酒の席に礼儀を持ちこむのも無粋な話だが、最低限のマナーってあるからなぁ」
F「『どこでもいい』って云われたから忘年会を美味しいケーキのお店でやったら、二度と呑みに誘われなくなった、という僕の実体験はマナーに抵触するのかな」
Y「お前という人格をひと言で表す日本語があるぞ、非常識というんだ」
F「当時、僕もアキラも十代だぞ? そんな僕らに呑み会の幹事を押しつけるのは何と云うね」
Y「……むぅ」
F「知らないなら覚えておけ、犯罪というンだ。これがいつのことか記述がないが、淩統もまだ十代だった計算でな。アニメならこのシーンで『お酒はハタチになってから』とでもテロップが流れただろうけど、この坊やは僕みたいにヨッパライを陽気にスルーはできなかった。陳勤を注意して、勧められる酒も呑まなかったのね」
Y「狙ってやったなら非常識でも足らんぞ?」
F「その通りでなー。注意されたヨッパライは逆ギレして、淩統どころか亡き淩操まで罵倒しだした。このヨッパライ『自分勝手だが勇猛』とあり、あるいは、淩操亡きあとの鉄砲玉を張っていた可能性もなくはない」
Y「個人的に含むものがあったかもしれないのか」
F「しかも厄介なことに、淩統が泣き上戸。云い返せないで泣くばかりだったから宴席は白けて、孫権は解散を命じている。だのにヨッパライは調子に乗って、外に出てもまだ淩統の悪口を云い続けた。ヨッパライを黙らせるのには吐くまで甘いものを詰め込むのが効果的なンだが、この時代、さすがにケーキはない」
Y「あまり聞きたくないが、その忘年会で何人病院送りになった?」
F「記憶にない。ともあれ、淩統はいちばん手っ取り早い方法で黙らせた。ダンビラ抜いて斬り捨てたのね」
Y「コラ」
F「チンピラ黙らせるのはコレがホントに、いちばん手っ取り早くて効果的なんだ。だが、淩統にはできなかった。酒が入っていたせいかヨッパライは即死せず、数日後にやっと死んでいる」
Y「まだまだ坊やだったワケか」
F「コイツが死んだせいか数日総攻撃は延期されてな。だが、当日になって淩統は『主の部下を殺した罪は、死んで償う他はない!』と、父余露死苦特攻んで、淩統が担当した部署はあっさり陥落。そこを橋頭堡に、呉軍は山越の砦を攻略するのに成功している」
Y「ちゃんと淩操の血を引いていたワケか」
F「戦後、自ら縄目を受けて出頭した淩統に、孫権は『立派なものだ!』と感服し、ヨッパライを殺した罪をあがなって余りあるものとしている。あとあとを考えると、この措置がまずかったンだけどね」
Y「功をもって罪を帳消しにするのがか?」
F「いや、命がけの無茶を称賛したのがだ。208年、降ってきた甘寧の勧めに従って江夏に侵攻するが、淩統は数十人の兵を率いて、江夏城一番乗りを果たしている。とりあえず特攻する、というのが淩統のパターンなんだ」
Y「おそろしくまずいタイプじゃないか」
F「その性格を孫権も危惧していて『甘寧に復讐なんて考えるな』と云っていた、のは本人の回で触れたな。こーいうタイプは命さえかければ強大な敵にも勝てると思い込むものだが、孫権は冷ややかに、淩統では甘寧に勝てないと見ていたとも云える。呂蒙の諌めで引き下がったが、孫権が甘寧の任地を変えてふたりを引き離したのは周知の事実」
Y「甘寧よりは淩統を惜しんでの措置か」
F「そして、淩統こそが外には出せないと思われていたのを示すエピソードだ。だが、呂蒙には高く評価されていた。赤壁終戦後の荊州争奪戦で、夷陵に進出した甘寧が曹仁の軍に包囲され、周瑜率いる本隊に助けを求めてきた。この時呂蒙は、曹仁本隊の抑えに淩統を残すよう推薦している」
Y「そりゃ、甘寧を助けに行けと云ったら曹仁と手を組みかねんだろうが」
F「そういう見方もできるな。だが呂蒙は『たとえ本隊不在の間に曹仁が攻撃してきても、淩統なら十日は持ちこたえられるのを私が保証する。その間に甘寧を助ければいい』と豪語している。そして、実際に周瑜本隊が甘寧を救援している間、淩統は曹仁の抑えを張っていた」
Y「戦闘があったのか?」
F「記述はないがあっただろう。本隊が動いたら背後を衝くのは戦闘の常道だ。だが、演義でも採用されているこのエピソード、結果論とはいえ甘寧を助けた功績を本人は気に入らなかったようで、淩統伝には記述がなくてな」
Y「そんなに甘寧が嫌いだった、と」
F「その割には、いっしょの戦場にいることが多いンだよなぁ。赤壁、荊州争奪戦、皖城攻略と、だいたい甘寧伝と淩統伝で戦闘の場所は一致している。それでいて、功績はだいたい甘寧のが上」
Y「孫権の懸念は現実のものだったのか」
F「そして迎えた215年。この頃、曹操軍の主力は漢中攻略に向かっていて、東側は手薄だと踏んだ呉軍は合肥に攻め入った。第二次合肥侵攻だが、コレが呉の歴史に残るほどの大敗だったのは云うまでもないな」
Y「遼来々か」
F「うむ。張遼にしてやられた一戦だが、この戦闘についての、呉書での記述が非道い」

呉主(孫権)伝「合肥に攻め込んだが、張遼が降伏しないから撤退することにした。ところが張遼が襲ってきたので、淩統が防いでくれている間にオレは逃げた」
呂蒙伝「合肥に遠征しましたが、退却することになりました。ところが張遼に攻撃されたので、ワタシと淩統は必死でご主君をお守りした次第です」
甘寧伝「ワシも合肥の戦闘に参加いたしましたが、陣中に病が流行りましてのぅ。軍勢は退却することになりましたのじゃ。まずは軍勢を退かせ、ご主君を守るためワシと呂蒙殿、蒋欽殿にクソッタレが残っておりましたのじゃ。ところが、張遼めはワシらの様子をうかがい知って、急襲してきやがったのですじゃ。ワシは弓を手に抗戦し、クソッタレもまぁ働いたのぅ。ところが軍楽隊が何もしなかったから『ナニしとるかオラ! ちゃんと音楽鳴らさんかい!』と怒鳴りつけてやったのですじゃ」
淩統伝「我が軍は撤退することになり、兵が引きあげたところへ、張遼が攻め入ってきた。主上は兵を呼び戻そうとされたが、すでに遠く離れてしまっていた。ために、私は兵300で囲みを破って主上をお逃がしし、戻って殿軍に加わった。300いずれも討ち死にし、私自身負傷したが、主上が逃げおおせたので私も撤退。橋が落とされていたので鎧をつけたまま川を泳いだ」
蒋欽伝「あ、ボクも従軍しました。頑張ったのでお褒めにあずかれました」

F「合肥を手薄と思いこんだ孫権は自ら兵を率い攻め入ったが、一騎当千の張遼・楽進李典らが守る合肥城を攻略できなかった。疫病も流行ったモンだから(ただし、疫病云々は甘寧伝にしかない)撤退を余儀なくされるが、ここで孫権、兵を先に帰して自分は残り、呂蒙・甘寧・淩統といった武将たちと少数の兵しか手元に置いていなかった」
Y「追撃を誘って張遼をおびき出そうとしたのか」
F「そのようだが、相手が悪かった。斬りこんできた張遼の猛攻を支えられず、あっさり包囲されている。軍楽隊は戦意消失し、淩統の側近を張る精鋭もことごとく戦死。何とか包囲を切りぬけた孫権が舟に向かって逃げるけど、逍遙の船着き場では艀(はしけ、舟に乗るための足場)まで破壊されていた」
Y「さすがに張遼、抜かりはないな」
F「ところが相手は張遼をして『馬の扱いが達者』と云わしめた孫権だった。艀から3メートル近い距離を馬で飛び越え逃げおおせている。それを見届けた淩統は戦場に取って返し、数十人を殺している」
Y「他の戦場でも常にそうであったように、決死の無茶をしでかしたワケか。……ちょっと待て。甘寧はまぁ書いてあるが、呂蒙はこの退却戦で何をした?」
F「記述がない。そもそも甘寧も、抗戦はしてもどうやって逃げたのかは書かれていない辺り、淩統とその兵を殿軍に徐々に引きあげた、要するに見捨てたようでな。さすがにこの功績を残さないワケにはいかないだろうが、それでも『呂蒙の撤退を助けた』とでも書けば『ああ、甘寧もそのせいで助かったのか』になる」
Y「だから、呂蒙伝でさえ敗戦とは判っても、その様子は書かれていない、か」
F「やっとの思いで舟まで逃げ帰ってきた淩統に孫権は驚喜しているが、本人は喜ぶ気にもなれなかった。何しろ側近たちでさえひとりも生き残れなかった負け戦だ。孫権は自分の袖で淩統の涙を拭いてやり『死人は生き還らないが、お前がいてくれるのだからそれでいい!』と慰めている」
Y「本人には慰めになってない気もするがなぁ」
F「というところで、淩統の奮戦記は終わる」
Y「おや?」
F「ところで、だがな。正史淩統伝の記述によれば、淩統が死んだのは49歳の時。寝ていた孫権はそれを聞くとベッドから飛び起き、数日は食を減らしたとある。189年生まれであれば237年で死んだことになるが、呉書駱統(ラクトウ)伝には222年にはすでに死んでいた旨の記述があってな」
Y「どっちが正しいのか、という話になるのか」
F「合肥の大敗戦ののち、淩統がなにかしたという記述はほとんどない。237年まで生きたのなら夷陵やその後の戦役で何かしていてもおかしくないが、その辺りの戦闘で何かしたという記述はない。そも駱統伝の記述というのが、夷陵の戦いに際して、死んだ淩統の軍を引き継いだというものだし」
Y「陳寿の記述ミスなのか」
F「原文で四十九とある享年が、実際には二十九の間違いだろうと云われているな。これなら217年に死んでいることになるから、他の戦闘に出てこなくても問題はなくなる。まぁ、合肥大敗戦での戦傷がたたっての死だと見ていい」
Y「2年もったのか」
F「注だが『傷が非道くて舟から降ろせなかった』とあるから、重傷だったのは疑う余地もない。ために、このあとは内勤に回され、山越討伐をして余生を過ごした。ただし、ただ殺すのではなく威圧と恩恵で味方につければいいと孫権に上奏し、実際に山越を鎮圧して万余の精兵を得たとある」
Y「張遼相手に死にかけたせいで、性格が落ちついたのか?」
F「いや、平素から有能な人材を大切にして、人材からも心を寄せられたとあってな。かの歌う跛行者留賛(リュウサン)を見出したのが淩統だった」
Y「ほぅ、トメさんをか」
F「トメさん呼ぶな。また、誰か(記述がない)が孫権に『淩統より上の人物です』と盛暹(セイセン)を推挙すると、孫権は『淩統くらいで充分だ』と応えている。実際に盛暹を検分する役を仰せつかったのが淩統だが、夜中に淩統の館を訪ねてきた盛暹に、淩統はベッドから飛び起きて門まで出迎え、手をとって案内している」
Y「盛暹は性格悪いが、淩統は性格がよかったワケか」
F「戦場に出なければ人格者と云っていいレベルだね。それだけに、毎度おなじみ陸機の弁亡論では、甘寧に次いで名が挙がっている。総合7位で、8位に程普がつけているのを考えると、のちのちの呉にとって惜しむべきひとだったと云っていいな」
Y「だが、呉将にしておくのは惜しいとまでは云えん男だったな」
F「続きは次回の講釈で」


淩統(りょうとう) 字は公績(こうせき)
189年〜217年(正史では237年だが、たぶん陳寿の勘違い)
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揚州呉郡出身の、呉の武将。
その戦闘スタイルは特攻を基本とするが、山越相手に恩徳ある姿勢を見せるなど柔軟さも備えていた。

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