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History Members 三国志編 第55回
「神様はいぢわるなので本当に必要なことは教えてくれません(経験談)」

F「今回は、アキラが来らンないから予定を変更せざるをえない」
Y「例の新作が出るまで忙しいだろうからなぁ」
F「峠は過ぎたって云ってたけど、ファンタジーものは食指が動かんので何とも。ともあれ、というわけで魏延についての講釈は延期になる。蜀将だのにアキラ抜きではまたいろいろとまずいでな」
Y「大物のときは事前に連絡しろって本人云ってなかったか?」
F「どの辺りから大物で、どの辺からアキラが必要なのか線引きが難しくてなぁ」
Y「北は秦嶺山脈、東は荊州でいいと思うが」
F「蜀将全部かよ!? ……まぁ、オープニングジョークはこれくらいにして。今回は張裔(チョウエイ)になる」
Y「誰だ」
F「蜀の文官だ。演義では、劉備を皇帝に推挙したひとりとして名のみ登場した(正史でもやっている)くらいだが、正史では割と出番がある」
Y「だったかなぁ。アキラほどでもないが、俺も蜀の文官には詳しくなくてな。で、こいつナニしたンだ?」
F「兵を率いて張飛に挑んで負けた」
Y「お前、文官と云ったよな?」
F「うん。とりあえずテンプレ入れるが、出自は益州蜀郡成都。時期は不明だが孝廉に推挙されて劉璋に仕えている。地方の県長を経て官職を重ね、213年前後には成都に戻っていたが、この頃荊州から侵攻してきた劉備軍の別働隊、あろうことか燕人張飛率いる軍勢を迎撃するよう命じられたのが張裔でな」
Y「何でそんな人事を、あのボンクラは……」
F「いちおう、この頃は帳下司馬、つまり益州牧劉璋直属の武官長の座にあったから、地位に見あった職務ではある。だが、張飛の軍勢は厳顔を降して勢いに乗り『通過する戦場すべてで敵を打ち破った』とあるモンだから、張裔も一蹴されていてな。相手が悪いと云えばそれまでだが、劉備本隊への警戒のためロクな人数も割けなかっただろうし」
Y「率いたのもロクな武将ではなかった、か」
F「武将じゃなくて文官だからねェ。いちおう討ち取られずに成都に逃げ帰っているけど、軍事で結果を出せなかったなら文官として功績を挙げればいいのは単純なオハナシ。劉備軍に馬超が加わったことで心が折れた劉璋が、劉備のもとに送りこんだのが張裔だった」
Y「武官に文官にと大忙しだな」
F「先に張松の回で、本人が劉璋に信用されていたのを見ているが、劉備軍が成都を包囲したら、中に残っていた張松が『もう終わりですぜ、殿。降伏しましょうや』と劉璋に進言する……というのが孔明法正のプランだったはずだ。この場合、劉備のところに開城の使者として送られるのは張松になる」
Y「それくらい劉璋には信用されていたし、弁の立つ張松なら適任だろうと周囲も思うだろうな」
F「そゆこと。降伏を申し出る使者には、弁が立つことも求められるが、それ以上に君主の信を得ている人物であることが求められるンだ。たとえ位は高くても君主から疎まれているような奴が送られたら、信用されにくいものでな」
Y「つまり、張松亡きあとの、劉璋の知恵袋に納まっていたのが張裔だった?」
F「結果的な人事から見るとそう考えられる、というところになる。劉璋を直接説得したのは簡雍で、本人の伝によれば簡雍は劉璋と同じ輿に乗って成都から出ている。つまり、劉備(孔明+法正)相手に降伏の条件を交渉したのが張裔なんだ。他にまっとうな交渉のできる文官が成都にいなかったのかもしれんが」
Y「ん……? 黄権どうしたよ」
F「アイツならまだ広漢で徹底抗戦の真っ最中だ。王累はすでに亡く、許靖は劉備軍に降ろうとし、鄭度にいたっては失言以降記述がない。人選は消去法だったかもしれんが、よい結果はもたらしている。実際に劉備と面会した張裔は、劉璋を礼遇することと家臣団の身命の安全の保障を取りつけているンだから」
Y「降伏するけど益州の君臣には手出しさせない、との約を得たか」
F「劉備としても、張任たちの抵抗が激しすぎて被害は小さくなかったからね。そもそも劉備一家にとって益州攻略は天下三分のいち過程で、益州人士が担ぐ神輿を劉璋から劉備に替えてくれるなら、劉璋の命まで奪う必要はないと考えていた。まして、担い手まで殺しては蜀を保つこともできなくなる」
Y「むしろ『命は獲らんから降伏しろ』と云った方が……いや、法正がすでに云っていたか、これは」
F「うん。ただ、その時点では張任と雒城が健在だったから劉璋も突っぱねたけど、成都まで進軍されては意地も通せない。かくて成都は開城し劉備の入蜀はなされたが、劉備に仕えるはこびとなった張裔は、巴郡太守・司金中郎将という地位に報いられている。実際のところ、孔明が『以前から張裔に目をつけていた』という発言があってな」
Y「太守の座はいいとするが、司金中郎将は……」
F「武器や農具、つまり金属類の製造管理者だな。ずいぶんな重職を預かったのだから、劉備と孔明の期待のほどがうかがえる。ところが、思わぬアクシデントが発生した。益州郡の豪族・雍闓(ヨウガイ)が太守を殺したので、張裔が後任となって現地の慰撫に赴いたところ、雍闓に捕まってしまう」
Y「警戒はした方がよかっただろうに」
F「危機感とかそういう問題じゃないンだよ。雍闓は『神の声じゃー!』と張裔をふんじばって『殺すまでもないのじゃー!』と云って呉にマル投げしたンだから」
Y「ナニやってんの、お前」
F「正史には『神のお告げとゆーことにして張裔を捕え、殺すまでもないとして孫権のもとに送った』とあってな。これがいつのことか明記はないが、223年にケ芝によって蜀呉の関係が修復されるまで、数年間呉の領内を転々としていたらしい。『私釈』では103回で触れたエピソードだが、その時には張裔の名は挙げなかったな」
Y「ロシアの雪男にも云えることだが、唐突に神の声と云われても周りが困るだろうに」
F「でも、呉に送られたってことは民衆はちゃんと信じたンだよなぁ。どうにもピュアな皆さんでいかんね」
Y「神の声にすがりたくなるくらい、蜀の統治がアレだったのかね」
F「で、この段階まで孫権は張裔と面識がなかったらしい。雍闓を首魁とする益州南方の蜂起は孫権が裏で糸を引いていたのは常々触れているが、積極的には関与していないと装うために建業には連行させず、村で農役につかせていたようでな。ケ芝に説得されて蜀に返す段階で、やっと張裔をインケンしている」
Y「陰険?」
F「引見だ。孫権は張裔に『蜀では卓氏の後家が司馬相如と駆け落ちしたが、お前のところの風俗はどうなってる?』とからかってな。まだ生まれていないが、姪っ子と結婚した孫休が聞いたらどう思うだろう」
Y「未来の事例では、孫権はどうも思わんだろうよ」
F「対して張裔は『いや、朱買臣の女房よりマシだと思いますよ』と応えている。呉の朱買臣は貧乏で、妻は彼を見限って離婚したけど、のちに朱買臣が出世すると復縁を迫ってきて『覆水が盆に返るかい!』と追い返された、というエピソードがあってな」
Y「どっちがマシかと云えば、蜀の後家のがまだマシか」
F「僕からは何とも。このやりとりに感心した孫権は、張裔を気に入ったようでな。『君が蜀に帰ればそれなりの地位に起用され、百姓には戻らんだろう。ワシにどんな礼をしてくれるね?』とからかうと……」
Y「いや、それからかってるか? 野郎の性格からして本心で聞いてると思うが」
F「んー、この時点では本心じゃなかったと思うぞ。とりあえず、張裔の返事がふるっている」

「ワシは職務を果たせず、罪人として蜀に帰るのですから、命は刑吏に預けましょう。もしクビがつながっておったなら、五十八までの人生は親より授かったものにございますが、これ以後は大王に賜ったものと思いましょう」

F「孫権とは機嫌よく談笑した、とある」
Y「親からもらった命は58まで、そこから先は孫権からもらいました、と」
F「そんな命なら58まで続かんでいいわ。だが、張裔は『アホのふりをするべきだった』と後悔した。酒が抜けた孫権は『……やっぱり惜しいな、蜀に帰すな!』と追跡を命じ、ところが、追跡されると察していた張裔は、必死こいて長江をさかのぼり、国境の永安まで逃げ込んでいた」
Y「水上レースで呉の追っ手を振り切ったのか?」
F「最初から本心で見返りを求めていたなら、いくらなんでも水上では逃がさんと思うンだ。だが、水路で逃げた旨明記があり、やはり酒の席での歓談の末に惜しくなったというところのようでな」
Y「酒呑んで賢人と会うべきじゃないってことか」
F「酒は呑んでも呑まれるな、じゃね。かくて、蜀に帰りついた張裔は、孔明の下で軍政を執り仕切ることになった。孔明が北伐のため成都を離れると、蒋琬とともに丞相府の実務を張っている。というか、長史は張裔だったから、張裔の下で蒋琬は実務経験を積んだとさえ云える」
Y「おいおい」
F「夷陵の敗戦で劉備とともに蜀の将兵は大半が失われたが、馬良・黄権の両名も失われている。まっとうな才を持つ文官としては唯一残る李厳は呉の抑えに回さねばならないので、蒋琬や費禕が一人前になるまで、張裔が孔明の補佐役として実務を担当していたワケだ」
Y「ちゃんとした地位とそれに見合った能力が身につくまでの指南役か」
F「孔明の北伐に張裔がどれだけ貢献したのか、記述の少ない正史から読み解くのは難しい。だが、230年に張裔が亡くなると、翌231年の第四次北伐は李厳の輸送ミスで撤退を余儀なくされている。李厳が驃騎将軍となって漢中での軍政を委ねられたのが、実は230年でな」
Y「ぅわ……」
F「これまた結果論から見るのなら、不可欠な人材のひとりだったように思えるところでな」
Y「蜀の国内においてはかなり有能だった、と」
F「注釈をつけないと気が済まんのがお前らしいな。張裔について、正史に見られる称賛の声を書き下してみる」

 長史らは誠実にして善良で、死に臨んでも節度を曲げることはいたしません。(孔明の出師の表より)
 輔漢将軍は聡明で、機敏さと慈愛を併せ持ち、遠謀を持ちながら身近な疑問にも対応できた。時代の一翼を担い蜀を反映させた。(楊戯の季漢輔臣賛より)
 張裔は明敏、臨機応変にことに対応し、楊洪(ヨウコウ)は忠実で公正、費詩は実直な発言をした。いずれも歴史に残すべき人物である。(陳寿の蜀書十一巻の締め)

Y「褒められているワケだな」
F「ところで、公正を期すなら悪評も挙げておかねばならないだろう」

 張のお殿はヒョウタンの壺よ、外面はよいけど中は空っぽ。殺すまでもないから呉に送ろう。(雍闓)
 張裔は天性の判断力を有し激務の処理を得意としておりますが、人柄は公平と云えません。(楊洪)

F「また、許靖も蜀に入ると『張裔は実務能力に長け頭の回転が速い。魏の鍾繇の同類だな』と評している」
Y「とりあえず、雍闓を除いて能力は褒めているが、人格面ではあまり褒められていないのか」
F「どの辺りをして鍾繇と並び称されたのかは判らんが、正史には、張裔の人柄について興味深いエピソードが引かれていてな。若い頃に楊恭(ヨウキョウ)という男と仲がよかったンだが、若死にしてしまった。そこで、遺族に自分の土地を分けて住まわせ、母には自分の母に対するように仕え、遺児が成長すると妻を迎えさせて、一家の面倒を見ているンだ」
Y「褒めていいと思うが……」
F「明記はないンだが、この楊恭の遺児が楊洪みたいでな。張裔が呉にいる間に、楊洪は蜀郡に赴任したけど、役人だった張裔の息子が些細なミス(内容は不明)をしでかしたとき、楊洪は見逃さずに処罰した。帰国してからこのことを聞いた張裔は恨みに思ったと記述がある」
Y「そりゃ思うだろう。手塩にかけて育てた友の息子が、実の息子を処罰したら」
F「ために、孔明が北伐に際して、張裔に留守を任せると云ったとき、楊洪は上の発言でいさめたが、張裔は『お前の云うことを孔明サマが聞くモンかー』と応じている。しかも、実際に孔明が留守を任せたモンだから、楊洪に悪評が立った。自分が長史になりたいとか、張裔に嫌われているから出世させまいとしたとかだな」
Y「張裔がいい気になって云いふらしたのかね」
F「だが、楊洪は正しかった。のちに張裔が塩田の責任者と仲違いすると、孔明自ら『どうして我慢できないの!』という書状をおくって張裔をとがめているンだ。なんで仲違いしたのかさえ書いていないこのイベントを通じて『士人は張裔が公平ではないとした楊洪こそが正しかったのを思い知った』とある」
Y「そんな些細なことで評価が変わるほど、張裔の人格に関する認識は微妙なモンだったと?」
F「能力は確かなんだ。張裔が帰国し死ぬまでに、孔明は一度の南征と三度の北伐を果たしたのに、死後の北伐は上手く行かなかった。北伐そのものが通じて勝てなかった現実はともかく、劉備が張裔を起用している事実は大きい。虚名こと許靖が法正に推挙されるまで用いられなかったのは本人の回で触れた」
Y「許靖や馬謖のような『外面よいけど中は空っぽ』の野郎を嫌っていた劉備だからな。そうではなかった、と」
F「才はあった。だが、どーにも蜀の士人は才徳どっちかが欠けていてな。御多聞にもれず、張裔には徳が欠けていたワケだ。こーいう連中を率いなければならなかった辺りが、孔明の寿命を縮めたのだから残念でならん」
Y「さして残念とも思わんね。まぁ、この男がいなければ蜀の軍事的脅威が少し薄れたのは認めるが」
F「続きは次回の講釈で」


張裔(ちょうえい) 字は君嗣(くんし)
165年〜230年(たぶん過労死)
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益州蜀郡出身の蜀の文官。
孔明の北伐を支えた文官だが、才はともかく人格にはやや問題があった。

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