History Members 三国志編 第54回
「白馬将軍」
F「さて娘よ、少し真面目な話をしよう」
翡翠「ういっす」
F「入院中、見舞いに来てくれたひとには、退院したらその旨の連絡が必要だろう。まず当日のうち、遅くても翌日には退院したことを伝え、お手持ちをいただいたならきちんと見舞い返しをしなければならん」
翡翠「うい、当然っすね」
F「というわけで、病み上がりだが講釈するのを見逃せ」
翡翠「待ちなさい!」
F「だから、母親と同じ顔と口調で喋るな! とりあえず落ちつこう。僕が入院中にもサイトとかブログとか来てくれてた皆さんに、快気した旨の連絡は必要だろ? だから、無事戻りましたーってお伝えする意味でだね」
翡翠「現代医学では発見できない病巣でもアタマにあるっすか!? 講釈しないと死ぬっすか!?」
F「僕でもいちおうストレスを感じるンだよぉ。3週間も三国志から離れてたから三国志しくなってきて」
翡翠「このバカ親は、まったく……。云ってもムダだろうから、2時間だけ許すっす。2時間経ったら途中でもやめさせるっすからね!」
F「ありがとうっすよー。何だかんだ云って僕に優しい翡翠ちゃん大好き。じゃぁオープニングジョークは省いて、今回は龐徳についてー」
A「いいのかねェ……」
Y「李雄と云いださないだけマシな人選だ。もっとも、短縮でいいのかは疑問だが」
A「それは確かに。割と上の方の武将なのに」
F「文句なら翡翠に云ってくれ。まぁ、三国志最強決定戦では上位にランクインできるだろうな。演義では、許褚など曹操軍の名だたる武将4人を連続で退け、呂布亡きあとの三国志世界最強の武神たる関羽をも倒しかけている。最後にゃなぜか周倉に捕らえられたが、やはりもと馬騰軍だけに水中では戦闘力を発揮できなかったらしい」
A「水陸両用とはいかなかったかな」
ヤスの妻「それができるなら大ハーンは全世界をご統一されたよ」
F「出自は涼州南安郡だから、北狄でも西戎もでないですがね。テンプレ続けると、生年は不詳ですが、若い頃から郡を経て州の役人になり、馬騰に従って西羌や氐族相手に転戦するうちに昇進しています。歴戦の馬騰の目に止まるくらいなので、その頃から武勇は確かだったワケで」
A「ひとかどの武将たりえる器だった、と」
F「ちなみに、正史では龐悳だが龐徳で通すので。演義では馬超の乱まで出てこないけど、正史でのデビュー戦は、先日触れた高幹との河内争奪戦。鍾繇の求めに従った馬騰は、袁家と決別して馬超率いる精兵を平陽に送ったけど、これに龐徳も従軍している。先鋒となって郭援を打ち破ったとあるので、203年ごろには馬騰軍のエース格になっていたようでな」
Y「肝心の郭援も討ち取っているからなぁ」
F「そのときにはスルーしたンだが、乱戦だったせいで郭援の首級が見つからず、龐徳が『コレですか?』と差し出すと、首級を検分したおじの鍾繇は声を上げて泣いた。慌てて龐徳は謝るが、鍾繇は『甥とはいえ国賊、討ち取ったのを謝ってくれるな!』と応えている」
Y「だったら泣くなよ」
A「血も涙もあるンだよ、鍾繇には!」
F「……あとで触れるか。えーっと、郭援を討った功績で、龐徳は中郎将・都亭侯に任じられている。さらに龐徳伝では、205年からの高幹蜂起戦に馬騰とともに従軍して張白騎を打ち破ったとも記述があるが、馬騰が高幹戦に自ら動いたという記述はちょっと信じていいか微妙でな」
A「でも、武勇は確かだよね」
F「うむ。正史でも『戦闘のたびに陣営を攻略して敵を打ち破り、武勇は馬騰の軍に冠たるものだった』と賞讃されている。馬騰が中央に移ってからは馬超の配下に移ったが、それでも敗走する馬超に従って各地を転戦……」
A「いや、負けるまでの過程を語ろうな!?」
F「んー、潼関の戦闘に関しては、許褚の回で触れたのと馬超の回で触れるのとだからなぁ。さっき云ったが、演義ではこの辺りで初登場する。馬超が雪の中で虎の群れに襲われる夢を見ると『それは不吉ですよ』と誰にでも判る進言をしたのが龐徳だった」
A「その割に、横山三国志以来、馬超は虎の兜を手放せないンだよね」
F「アレなんなのかねェ? ともあれ、挙兵した馬超軍が長安城を攻略できたのは龐徳の智謀のおかげだった。長安の城は守りが堅いものの、その分土が硬く、木も育ちにくい。包囲すれば城内は水や薪が不足する。頃合を見計らって囲みを解いて遠くまで退くと、安全だろうと判断されて城門が開かれ、民衆は城から出て水や木を採ってきた」
A「で、これが罠だったと」
F「また馬超が来るとの噂が流れたモンだから、城門が閉じられた。ところがその晩、西門で火事が起こり、そちらの守備を担当していた城主の弟が駆けつけるが、龐徳にあっさり斬り捨てられた。兵とともに自ら民衆にまぎれて入城していた龐徳は、西門を占領すると門を開け放って馬超軍を導き入れている」
A「単純な策ではあるけど鮮やかなお手並みじゃねェ」
F「うむ。城主の鍾繇は抑えることができずに、東門から脱出している。死んだ弟は鍾進というから、郭援の父ではなさそうだ」
A「お前、何やっとンね!?」
Y「血も涙もないのは俺じゃなさそうなんだが」
F「高幹戦はともかく、郭援戦が演義で触れられなかったのは、馬超が曹操のために働くなんて耐えられないわーという感情論のためだろうけど、龐徳と鍾繇の間に郭援絡みのエピソードがあったら弟なんて討ち取らせられんから、という理由もありそうでな。この場合の国賊がどっちかも明らかだし」
A「皇帝があるのは知っているけど、皇帝を悪用して国を私物化する丞相がいるのも知ってますー!」
Y「うむ、孔明だな」
A「こらー!?」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。正史龐徳伝では『馬超が負けると一緒に逃げた。また馬超(が挙兵して打ち破られる)といっしょに漢中に逃げた』としかない。智謀には長けても曹操や賈詡には通じなかったというところだろう」
A「演義ではいい活躍したンだけどなぁ……」
F「ところが、ここで龐徳の人生に転機が訪れた。馬超は蜀に降って劉備に仕えたけど、龐徳は張魯が曹操に降ると、軍を率いて帰順したンだ。いい加減袂を分かったワケだが、龐徳の武勇を知っていた曹操は立義将軍・関門亭侯に任じている。さすがに西方軍にはおいておけず、南方軍の曹仁の下に回されたが」
Y「扱いとしては妥当だろうな。さすがに馬超とは戦えまい」
F「これまた演義での話だが、漢中争奪戦にも従軍して曹操の本陣に配備され、攻め込んできた魏延と交戦。そこへ馬超が背後から襲ってきたモンだから、魏延を追い払ってからそっちに向かわされている。ところが、曹操が高いところで軍状を視察しているところに『魏延でーす!』と戻ってきたモンだから、矢を受けて前歯二本折られて落馬した」
A「絶体絶命のピンチを龐徳が救った、と」
F「馬超を退けて戻ってきたワケでな、必死こいて魏延を追い払っている。そのまま退却するものの、次々襲い来る伏兵や火攻めに『ここは赤壁か!?』と泣き叫ぶ曹操軍の殿軍を張ったのも龐徳だった」
Y「赤壁の戦闘に無関係だっただけに、その辺の心理的重圧とは無縁だったワケか」
A「龐徳がいなければ曹操は死んでいたくらいの活躍をさせたのは、やっぱりこの後との兼ね合い?」
F「その前段階からだな。漢中攻略戦後、関羽が北上するのは正史・演義共通だが、そのときに龐徳がどこにいたのかは違っている。さっき云った通り正史では、すでに樊城の曹仁の下にいたが、演義では曹操の手元から曹仁の救援に出されるという手はずだった。ために、演義ではいちど別の戦場にいなければならなかったンだ」
A「あー」
F「で、曹操の部下と曹仁の部下という違いはあるが、旧主の馬超やいとこの龐柔(ホウジュウ)が蜀にいるモンで、龐徳に疑いの視線が向けられるのは共通。正史では『国恩を受けたからには死をもって報いるのみ。ワシが関羽を殺さねば、関羽がワシを殺すに違いない』と常々公言していたとある」
Y「関羽に個人的な恨みでも持たれてたのか?」
A「なにその死刑執行令状」
Y「……うん、考えてみたら俺でも怖いわ、それ」
F「どんな経緯でこういう発言が出たのかは不明だ。演義ではさらに非道く、董衡・董超なる部将に『アイツ裏切りませんかね?』と讒言されて出陣を取りやめさせられそうになったモンで、意地になって棺桶を作り『ここにワシか関羽をブチ込む!』と豪語したモンだから、賈詡に『あそこまで気合入っているとかえって不安ですよ』と云われている」
A「そして不安は的中する」
F「とりあえず激闘だ。演義では、まず出てきた関平をあっさり蹴散らし、続く関羽とも互角に渡りあう。正史でも関羽と戦闘して、その額に矢を命中させたというから驚きでな。龐徳はいつも白馬に乗っていたため、関羽の兵は彼を白馬将軍と呼んで恐れたという」
A「……コーソンさんのことを思うとそんなに恐れてない気がするなぁ」
F「その後、演義では功を立てるのを警戒した于禁によって後方に送られるが、正史では曹仁の命で樊城の北方に陣をかまえている。これは、関羽の軍勢が激しいモンだから、北上されるのを警戒しての配備と見ていい」
Y「曹仁には抑えだけ残して許昌へ向かわれちゃまずいから、か。そういうのの抑えに回すからには、龐徳の能力と人格にちゃんとした信をおいていたと考えていいのか?」
F「演義で後方に送られたのは于禁の差し金だったけど、正史ではこの件に于禁の関与は見られない。部将はともかく曹仁は信用していたみたいでね。ところが、長雨で漢水が氾濫し、樊城の周りは五丈から六丈の高水に見舞われた。龐徳は将兵を率いて何とか高いところに逃れるものの、水没した于禁が降伏したモンだから、従軍していた董衡・董超は『降伏しましょう、ね?』と云いだしている」
A「お前ら、出陣前に何て云った!?」
F「龐徳はふたりを斬り捨て、攻めよせる関羽の軍勢相手に徹底抗戦。自ら放つ矢は必ず敵兵に当たり、一本も無駄にはならなかった。夜明けから始まった攻撃は日暮れまで続き、ついには矢も尽きて白兵戦に突入している」
Y「矢は無駄にしなくても、無駄な抵抗ではあろうな」
A「無駄ではあっても無意味ではないと思うよ」
F「翌日、『きょうがワシの命日じゃ』と副将に告げて、さらに気合入れて戦闘するが、水かさがどんどん増える。将兵はみな降伏し、龐徳はわずか3人の兵士と、舟を奪って樊城への帰還を目論む。ところが増える水に舟がひっくり返り、ひっくり返った舟底にしがみついているところを捕えられてしまった」
A「……あー、うん。周倉でなくてもいいけど誰かに捕らえられてくれないとだな。これじゃ絵にならんね」
F「だな。関羽の前に引きだされても、龐徳は跪かずに立っていた。『お前の兄は漢中にいるのに、どうして降伏しなかった?』との関羽の問いに、堂々と応えた台詞が正史にある。あえて書き下して引用しよう」
「ボケ。魏王は百万の軍を率い、天下に威を振るっておられる。お前の劉備のような凡才が、どうして曹公に敵対できるか! ワシは国家の鬼となる、賊の将などになれるものか!」
F「かくて関羽に斬られた。享年不明」
A「惜しいヒトを亡くしました」
F「曹操は龐徳の死を聞いて涙を流し、曹丕はその墓に使者を送って壮侯と諡された。龐会(ホウカイ)ら遺児4人には爵位が送られ、243年には曹芳くんによって、張遼・楽進・李典らとともに魏の霊廟に祭られている。後代には、魏の有数の武将として数えられていたワケだ」
A「まぁ、当然の扱いか」
F「もっとも、曹芳くんが祭った20人は、裴松之でも『理由が判らん』と断じた人選でもあるンだが。さて、息子の龐会は、蜀攻略戦で関羽の子孫を殺し尽くしたことで知られるが、それ以前に諸葛誕が挙兵した際に、寿春城に配備されていたのに、誘いを蹴って同僚とともに手勢を率いて城から脱出したことで称賛を受けている」
Y「魏への叛乱に与しては、父の汚名が真実だったと思われるからな」
A「えーっと……?」
F「諸葛誕の乱は257年だ。龐徳の死から40年近く経っていても、遺族は猜疑の目を気にしていたとも云える。関羽の子孫を殺し尽くしたのも、その辺の感情があったからかもしれない」
A「……蜀にいればそんな疑惑を受けずに済んだだろうに」
F「ところで、どうして馬超と袂を分かったのか……については、本人の言がある通り、劉備を低く、曹操を高く見ていたことを挙げていいだろう。天下三分して魏はその七を得ていたのだから、どちらが次代の勝ち組かは割と明らか。蜀へ落ち延びる馬超に従うより勝ち馬に乗るのを選ぶのは、薄情というより賢明と云うべきだ。龐徳が賢かったのは羅貫中も認めているし」
A「馬騰を殺した張本人なんだが」
F「アキラ、大事なことを忘れちゃいけない。正史で馬騰が死んだのは、馬超の乱のあとだ。馬超が兵を挙げたから馬騰は死んだンだぞ。死の原因の半ばは馬超にある。残りはんぶんが曹操にあることは否定できんが」
Y「薄情とも云えなくなったな」
A「ぐむむ……」
F「さて、魏で重きをおかれる鍾繇に借りがあったのは触れたが、曹操軍に加わって袁家の残党と戦った龐徳には、曹操がいずれ天下を盗る器と見えていた。なぜそこまで曹操に……といえば、注目したいのが実は龐柔」
A「兄だかいとこだか判らない、蜀にいるという?」
F「だ。彼がどんな人物だったのかは、正史に記述がない。演義でも『兄はロクでもない女と結婚しやがりまして、その女を酔ったワシがつい殺したら顔も見たくないとほざきやがりました。だので、もはや兄弟の縁など切っております』と語られている程度でな」
Y「龐徳が悪いように聞こえるのは、俺の気のせいか?」
F「気のせいじゃないと思うンだ。龐徳には思い込んだら一直線な面があって、降将の龐徳にも手厚い待遇をしてくれたことが国恩なのかは判らんが、ために曹操にも心酔したようでな。龐徳は愚直に、曹操のために戦って死んだ。それは揺らがない事実だ」
A「蜀から見ると惜しいけどね……」
F「そんな生き様が羅貫中には気に入られたようで、龐徳は演義での関羽最期の戦いを彩るオードブルに選ばれた。曹操軍の名だたる武将を蹴散らしたほどの武将でも関羽には敵わなかったことで、関羽が死んだのは弱かったからではないとアピールしているワケだ」
A「うんうん、さすがは羅貫中じゃね」
F「ところが、周大荒はそんな生き様が気に入らなかったようで、『反三国志』ではあっさり死なせている」
Y「あのトンチキ三国志では使い方が見出せなかったのか?」
F「うん。それも『黒コゲのなべ底に白目だけ見えているような』外見で、例によって白馬に『白衣白鎧を身につける姿は、雪の中を炭団が転がってくる』みたいに見えたという。相手取った許褚にも『お前さんの顔は、馬超の代理が務まるようには見えないなぁ』と云われたくらいのブ男で」
Y「悪意があるようにしか思えんなぁ」
F「周大荒から文字通りの面罵を受けたことは、曹操に与する奴は馬騰・馬超の配下でもボロクソ罵るという扱い。この辺り、龐徳が魏の忠臣だったことの傍証に思えてな」
A「……ぬー」
F「続きは次回の講釈で」
龐徳(ほうとく) 字は令明(れいめい)
?〜219年(関羽相手の激闘の末、捕えられ処刑)
武勇6智略4運営2魅力2
涼州南安郡出身の猛将。関羽の軍からは「白馬将軍」と恐れられた。
武勇と曹操への忠誠心は許褚や典韋にも引けを取らない猛者。ただし、馬騰はともかく馬超には……ぅわなにをす