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History Members 三国志編 第53回
「意外とどこにでもいるとにかく間の悪いヒトのオハナシ」

F「えー、では第53回を始めます」
A「アキラの妹が別室でくつろいでるからって、かしこまらなくてもいいンだけどねェ」
F「いちおう、今回はあまりエキサイトしないように気をつけよう。というわけで、地味に許靖(キョセイ)で」
A「………………えーっと?」
F「所属は蜀なんだが」
A「あ、あーあー。文官ねー」
Y「お前、いま『アキラが知らないってことは武官じゃないねー』って算出しただろ」
A「そんなことないよ!?」
F「翡翠ちゃん、アキラの座蒲団もってけ。さっそくテンプレ入るけど、出自は豫州汝南郡。かの許子将のいとこにあたる。生年は不詳だ」
A「冬の新潟でフローリングに直座りはつらいですー!」
F「ちっと反省してろ。許子将同様人物鑑定で名を挙げたンだが、いとことは仲が悪かった。先に許子将が汝南郡のお役人、それも人事担当者になったモンだから『お前なんて取り立ててやらんもんねー!』と排斥され、職にあぶれた許靖は馬磨きをして生計を立てていたとある」
Y「おかしいな、そろそろ女房が『アキラの泣き声が聞こえたよ』とか飛び込んでくるパターンかと思えば」
A「義姉さんなら、妹が持参したアキラのちーちゃいころの写真に夢中であられます……」
翡翠「おー、あたしも見てくるっすー♪」
A「クッション返して行ってー!?」
F「聞いてンのか、お前ら。この時代の人物評は、現代の世論とか人気とはちょっと違うものでな。名士とされる高名な人物鑑定士に知遇を得て評価されることで、その人物も名士の仲間入りを果たすことにつながるンだ」
Y「人物評をされるほど名士に、人格なり能力なりを知られていれば、ある程度のつながりがあるとされたワケか」
F「そうなる。ために、ある程度の無茶も黙認された。孔融は門衛をだまして李膺に知己を得たし、曹操はダンビラつきつけて人物評を迫ったようにな。李膺が孔融をどう考えたのかはさておくが、曹操は『乱世の姦雄』と評されたのを『喜んだ』とあるように、内容ではなく評価されることそのものが目的となっていた」
A「目的のために手段を選んでいられなかった、と。でも、そんな許子将に許靖はにらまれた?」
F「だ。だが、すでに許子将同様評価を得ていた許靖を、見るひとはちゃんと見ていたようで、新たに汝南太守となった劉翊(リュウヨク)が許靖を中央に推挙し、孝廉を経て尚書郎となり、官吏の選抜を担当している。許子将が中央政界に入れなかった(劉繇に仕えているからには、入る意志はあったはず)原因のひとつに挙げてよさそうだ」
A「郡でやったことを国家レベルで返されたら反抗もできんわな……」
F「いつぞや云った通り、相手を上回る権力を握るのは、権力者に対抗するいちばん手っ取り早い手段なんだよ。ちなみに、劉翊の前任の汝南太守は徐璆(ジョキュウ)と云うが、他の郡の太守を経て中央に戻れることになったのに袁術陛下にお拉致られて長いこと配下にされていたという不遇な人物だったりする」
A「運のないひともいるねェ」
F「この頃、ちょうど霊帝が没し、例の宮廷騒動が起こってな。結局政権を握ったのは董卓だったのは周知だが、董卓が天下の人事を任せたのが(シュウヒ)と許靖だった。彼らは野に埋もれた士人を発掘し、昇進の遅れていた者を取り立てている。具体的には、韓馥冀州牧劉岱兗州刺史孔伷豫州刺史張邈陳留太守……」
A「お前、何やっとンね!?」
F「いちおう『汚職官吏を追放した』ともあるンだが、この連中が中核になって反董卓連合が結成されたモンだから、周は『お前が抜擢しろと云った連中がこのザマだよ!』と怒った董卓に殺されている。正直、誰だって怒るだろう」
A「怒るねー……。でも、許靖は殺されなかったンだ?」
F「董卓伝にも周が『信用されたが殺された』旨の記述はあるンだが、そっちには許靖の名がなくてな。実務をどっちが担当していたのかはともかく、責任者が罰せられた(関連して何人か死んでいる)ようなかたちだ。だが、陳国の相(大臣)の、許子将とは別のいとこが孔伷の軍に加わっていて『こりゃヤバい……』と宮中から逃げている」
Y「賢明な判断だな」
F「ところが、逃げた先がそのいとこのところ、つまり孔伷の軍だった。我らが鄭泰はこの男をして『云うことだけは立派で、枯れ木でも花が咲いていると云いくるめることができるが、雨が降ったら休みたがるような奴で、軍を率いることはできない』と評している。鄭泰は『本当のことを云ってひとを騙した』ので、風が吹いたら遅刻するかはともかく、軍才がなかったというのはたぶん事実だろう」
Y「ロクでもねえな、どいつもこいつも」
A「ですねー……」
F「オレもか? そもそも、孔伷が何をしたって記述はないからなぁ。とりあえず、許靖伝では孔伷の下についたとはあるが、すぐに『孔伷が死んだので、揚州刺史陳禕(チンイ)を頼った。陳禕が死ぬと……』となっている。この陳禕が死んだのは192年のこと」
Y「となると、孔伷は反董卓連合の解散後にあっさり死んだ計算になるな」
A「一年に満たなかったかね。豫州は郷里だったからとして、何で揚州?」
F「記述がないンだ。だが、陳禕のあとに頼った相手が許靖の昔馴染だったとあるので、そういう関係だったンだろうと察せられる。許靖は、一族郎党どころか故郷の村人まで呼び寄せて生計を立てていたが『すべて仁愛の念からだった』とあり、まぁ人格者だったンだろうな、と」
A「立派な人柄だったワケか。で、揚州の誰を頼ったンだ?」
F「許貢王朗だ」
A「お前、何やっとンね!?」
F「むしろ、陳禕はただの通り道だったンじゃないかって気もするンだけどね。というわけで、194年に始まる"小覇王"孫策の江東侵出の直撃を受けて、許靖は交州への避難を余儀なくされた。当時の孫策は、云うまでもないが袁術配下。かつて徐璆を拉致して配下にした経歴から、許靖も逃げねばならなかった」
A「あぁ、ここでそうつながるのか」
F「このとき許靖は、ついてきた一族や村人を先に舟に乗りこませ、自分は最後まで岸から離れなかった。ために評判が高まり、"南方王"士燮は彼らを歓迎し、手厚く迎えたとある。今度こそ平穏に過ごせる……かと思ったら、思わぬアクシデントが発生した。袁徽(エンキ)という人物が『許靖は凄い奴ですよー』と荀ケに書状を送ったのね」
A「いらんことするなよな……」
Y「野に埋もれた人材を推挙することの是非を問うつもりはないが、そいつは何者だ?」
F「袁紹の血筋ではない。『漢王朝はもう終わりだから、戦乱が起こったら風光明媚なところで隠遁するよー』と公言していて、実際に陳国から交州まで逃れていた世捨て人だ。例のいとこを通じて許靖と面識があったのかもしれない」
A「だのに、他の世捨て人を曹操に推挙したのか?」
F「しかも、ここでも"引き抜きメモリアル"曹操はミスをしでかした。許靖を登用すべく、この一件にしか出てこない張翔という役人を送りこんだンだが、コイツが『ワシは朝廷からやってきたから偉いのじゃ!』といばりくさり、権力をタテに無理やり許靖を連行しようとしたのね」
A「完全な人選ミスじゃね」
F「許靖は断固として拒否したものの、曹操にオコトワリの手紙は書いている。それを、張翔を通じずに曹操のところへ直接送ろうとしたンだ。これじゃ張翔がキレるのもたいがいだが、妨害されると察して何通か出したようでな。ところが、任務失敗を根に持った張翔はその手紙をすべて探し出し、川にブチ込んだとある」
Y「張翔とやらは、魏で生きていけそうもないタイプだな」
F「そうだな。だが、許靖も交州にいられなくなった。士燮に迷惑をかけるのを恐れて、益州に逃れたのね」
Y「ここまで選択ミスが続くと、もはやわざとやっているようにしか思えんな」
F「何なのかねー? 董卓の下にいた当時、許靖は巴郡太守に任じられたンだけど、現地には行かずに兄弟を派遣したらしい。その辺りが劉璋に手をまわしたのか、招聘に応じて蜀に入っている」
A「ああ、ここでそんな人間関係が」
F「劉璋の配下に王商という人物がいたンだが、荊州の知人から許靖について『独立不羈の精神を持ち、この時代に役立つ才覚を有する優秀な人物』と聞いていた。許靖が益州に入ると面会し『王商殿が中原に生まれていたなら、王朗より上だっただろうね』と評されている。で、許靖に評価されたことで王商は蜀郡の太守になれた」
A「あのボンクラでも、優秀な人物を遇するすべを知っていたのか」
F「優秀は優秀なんだが、王商が『郡にいること十年、在職中に亡くなった』のが211年なので、許靖の益州入りが201年ごろのことだったと逆算できるンだ。霊帝の死から12年で、洛陽から豫州、揚州、交州と来て益州だ。ずいぶん波乱な人生だったが、王商の後任に任じられて蜀郡太守となり、今度こそ余生を過ごせる……はずだった」
Y「そこへやってきたのが、袁術なんぞ子供だましな野心と軍事力を持った、許靖を上回る波乱な人生を送ってきた、三国一のこん畜生だった、と」
A「誰のことだ、誰の!?」
F「いい加減にしないと僕でも怒るぞ、泰永。いちおう、巴郡や広漢郡の太守をしていたような記述もあるンだが、ともあれ。212年から劉備の益州攻略が始まり、214年には成都が包囲されている。この頃には許靖も成都城内に入っていたンだが、何を思ったのか城壁を乗り越え、劉備の軍に投降しようと目論んだ」
Y「お前、何やってンだ」
F「ことが発覚して捕まったのに、劉璋は許靖を殺さなかった。その後、成都が開城して劉備が益州を得ても、その一件が原因で許靖は起用されていない。潔くない野郎だと思われたらしい」
Y「お前が云うな、孟獲にも負けないハングリー精神の持ち主が」
A「微妙にほめながら劉備けなすのやめろ! 反応に困るから!」
F「困ったモンだ。ところが、法正の進言がある」

「天下には虚名を博しながら実が伴わない者がおり、許靖はまさしくそのひとり。ご主君は大業をはじめられたばかりで、天下のひとりひとりに所信表明するわけにはいかんでしょう。許靖の虚名は四海に広まっており、彼を礼遇しなければ、天下はご主君が賢者を冷遇すると思うでしょう。敬意を持って丁重に扱うことで世間の眼をごまかし、郭隗の故事にならうのがよろしいでしょう」

A「いや、虚名って」
F「原文では『天下有獲虚誉而無其実者』とあるンだ。まぁ"隗より始めよ"郭隗はいいと思う。春秋期・燕の昭王が、あまり有能でない郭隗を厚遇して『だったら俺はもっと厚遇されるンじゃね?』と有能な賢者に思わせたアレだが」
Y「一歩間違うと『あの主君、ひとを見る目がねェな』と思われる奴だな」
A「……まぁ、思うわな」
F「法正の言は容れられ、とりあえず左将軍(当時の劉備の現職)府の長史に任じられ、のちに鎮軍将軍に昇進。劉備が漢中王になると太傳に叙された。そして、劉備が帝位に就いた場面では『諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とし……』と、孔明に次ぐ序列を受けている。蜀で極めて高い評価を受けていたと云える」
Y「だから、燕には来た楽毅は来なかったンだろ?」
A「やかましいわ!」
F「楽毅に比すべき男なんて蜀にいなかったのは事実だな。ともあれ、死んだのは222年。夷陵の敗戦で劉備が白帝城に逃げ込んできたあとに死んだ旨の記述がある。享年は不明だが70を越えていたとあり、世俗は離れたものの人物鑑定を続け、後進を導いていた。ために、孔明以下群臣は彼に敬意を表したという」
A「波乱の人生だったけど、晩年は穏やかに過ごしたのか」
F「時間が割とかかったので、ところで。許靖についての評価が、割と面白い」

「魏の蒋済です。同時代の私から申し上げれば、許子将殿の人物鑑定は不公平で、樊子昭がごときを持ちあげ、許靖殿は不当におとしめられています。樊子昭は商人から身を起こして官職に就き、職務ではいい加減な仕事をせず、官を離れては静かな生活を送りました。まぁ清廉潔白であることは認めますが、議論の際は歯を鳴らして相手を威嚇し、たるんだ頬肉を揺らして口から泡を飛ばすのですから、許靖殿にはるかに劣りますね」

孫盛です。賢者を礼遇し徳ある者を尊ぶのは、国家の要となる道義でしょう。ですが、相応しい人物でなければ道理も通りません。プライベートでは兄弟と仲が悪く、公では董卓から官位を受けており、追い詰められたら逃げ出そうとするなど信義に欠け、見識においては劉備に与するようでは、話になりません。この男を高い位につけるようでは、正義のひとをいったいどうすればいいのでしょうか。法正は許靖を郭隗に比していますが、別して同類ではありません」
裴松之だ。孫盛の云うこともまぁ判るが、天下に知れ渡ってはいた許靖が、いくら成都から逃げようとしたからって礼遇しなかったら、劉備はどう思われたかね? 兄弟仲の悪さは許子将の側に非があるし、董卓が政権を牛耳る前から許靖は官職にあったじゃないか。許靖と郭隗が同類じゃないのは事実ともそうでないとも云えないが、許靖を遇したのが間違いなら、間違っていたのは劉備だけじゃなく昭王もということになるだろうがよ」
陳寿です。許靖は早くから名声を得て、篤実で評判高く、すぐれた人物を見出すことに心血を注いでいました。行いすべてが妥当だったとは申しませんが、蒋済の『全体として国政を担う人材である』との評価はしごくごもっとも。蜀書の文臣列伝では、糜竺孫乾簡雍伊籍と並べ、そのうえで先に伝を立てさせていただきました」
「そうそう、やっぱり許子将の人物鑑定なんてあてにならないンだって」
※※ 正史の注釈によれば、この時代、同族のいとこ関係は「兄弟」と表現され、実の兄弟に準じる扱いをされたらしい。

F「許子将に嫌われていたという事実を優先すると、孫盛みたいに非難することになるが、そこを除けば『まぁ優秀だったンじゃね?』という人物だったらしい」
A「……許靖、具体的になんかしたっけ?」
F「いいところに注目したな。正史(演義にはほとんど出てこない)には、この人物鑑定士が行った業績なんてほとんど記述がない。戦乱から逃れようとしたら別の戦乱が向こうからやってくるので、一族郎党引き連れて逃げ続けていただけだ。郡太守だった頃にどんな評価を得たのか、もない」
Y「どこぞの流民の大将みたいなモンか」
A「誰のことかオラ!?」
F「民衆を連れて各地を転々とし、その先々で受け入れられるンだから、若い頃からの人物鑑定で得た名声がかなりのものだったワケだ。同じことをした張松を殺した劉璋に殺されなかったのもその名声ゆえと見ていいが、実際の能力はないのに口ばかり達者な男がとことん嫌いな流民の大将には、その名声は通じなかったな」
Y「むっ……」
F「許靖には、実務能力はともかく名声はあった。まぁ、蒋済や陳寿の評価を見るにある程度のレベルで実もあったようだが、劉備がそーいうタイプを認めなかったのは周知の事実だ。だが、新参ゆえに法正には、劉備に足りないものが何なのか、客観的に判っていた」
Y「何もかもだろ?」
A「黙ってろ!」
F「数多いことは誰にも否定できんが、名士層における評価、すなわち名声だ。とりあえず、名声だけはあると評された許靖を受け入れることで『おー、あの許靖が劉備に仕えたのか』という評判を立てさせたワケだ。その後、特にゴタゴタもなく昇進している辺り、許子将の評価が間違いだった感があるな」
Y「じゃぁ、何で許子将は許靖を嫌っていたンだ?」
F「川にブチ込まれた、曹操へのオコトワリの書状を読んでもらおう」

 戦乱の時代ゆえにご無沙汰すること十年あまり、礼を逸したことをお許しください。会稽にいた折にもお手紙をいただき、親密なお言葉を頂戴したこと忘れておりません。
 しかしながら、袁術に劉繇が敗れ、王朗も土地を追われたため北には戻れず、南海を越える頃には私どもの一行は三分の二を失い、やっとの思いで交州へと落ち延びました。
 曹操殿が天子をお迎えしたことを聞き及び、荊州から駆けつけるつもりではありましたが、蛮族どもの襲撃や流行り病で、伯母や同行していた者たちを失ったため引き返したところ、生き残った者は十人のふたりに満たぬ有様です。益州ルートは『董卓の残党など入らせるわけにはいかん!』と私を拒み、士燮殿を通じて兄弟たちに手紙を届けてもらったのですが、いまだに返事も来ておりません。これでは翼を持たぬ我が身が、どうしてそちらへと参れましょう。
 いまは最果ての地におりますが、私も国家の藩屏のつもりです。荊・楚が平定され南方まで恩徳が行きわたったあかつきには、どうぞ私が交州を出られるよう取り計らっていただけますよう。そうでなければ、益州の兄弟に受け入れられるようにフォローをお願いします。中原に帰って死ねるのなら、我が身がどうなろうと恨むことはありません。人生とは無常なもので、帰ることができなければ永遠に罪を背負って最果ての地に埋もれることになりましょう。
 曹操殿は国家の柱石であり、人臣でありながらその身分は太公望霍光より尊いもの。しかし、それゆえに責任も重いものでしょう。言葉を出せばそのまま賞罰になり、行いは道義を左右なさるもの。漢王朝は曹操殿にかかっており、その責任のために、官職に相応しい人材を起用し、それが仇敵であっても用いられますよう。不適任であれば身内でも官位を授けてはなりません。功業を歴史に刻むため、どうか国家のために努力し、民のためにご自愛ください。

Y「旧知なのか」
F「そうらしい。だが、見てきたように、益州には兄弟がいて、その気になれば受け入れられる立場にあったし、荊州の劉表とも王商を通じて交流があった可能性が高い。そもそも、後半が曹操への諫言になっているが、相手がそれをしていないから諫言する、というパターンに即すると、どうもこの男には曹操への誤解が見える」
A「誤解というか、曹操が国政を壟断しているという認識があったみたいじゃね。まぁ、当時の共通認識に近いけど」
Y「何だとオラ」
F「212年に、献帝の子供が3人、各地の王に立てられているンだが、それを聞いた許靖が『老子の云う、何かを奪おうとするならいったんそれを与えておく、というのは曹操のコトか』と述懐したのが、正史の注に引かれている。それを踏まえたうえで、時期は不明だが許靖が上奏したこちらの文書を見てもらおう」

「逆賊の仲間になって生きるのは心情から我慢もできませんし、官職に執着して自分の身を危うくしては道義が通りません。心中念じますのは、古人が危機に臨んで常道から離れ、非常の手段で理想を成し遂げたことです」

F「どうも、許子将と許靖の間には『乱世の姦雄』に対する意見の一致があったようでな」
A「曹操が漢王朝を滅ぼす、という意見は一致していたのか。許子将は実践するとは思わず、許靖は思った」
F「つまり、許子将より曹操の能力を高く評価していたのさ。だが、人格に対する評価は許子将より低かった。敵の敵は何とやらと云うが、劉備の軍勢が攻めてきたら、城壁を乗り越え『仲間にしてください!』と云いだすンだから、書状ではどう云い繕っても、この男の曹操嫌いは相当なものだったように思える」
A「許子将を上回る人物鑑定士だったワケですね!」
Y「凄まじくご機嫌そうな顔をするンじゃない!」
F「続きは次回の講釈で」


許靖(きょせい) 字は文休(ぶんきゅう)
生没年不詳(放浪の末に七十代での大往生)
武勇1智略3運営3魅力4(バイタリティは高いが)
豫州汝南郡出身の、最終的には蜀に行きついた文官。
人物鑑定で得た名声を武器に、各地と君主を転々とし続けた。

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