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History Members 三国志編 第52回
「引き抜きメモリアルの失敗談(少なくない)」

F「前回がちょっと長めだったから、娘がお怒りでねェ」
A「翡翠ちゃん、お前のことが心配でならんのよな」
F「僕には過ぎた娘じゃけど、何かとうるさいのが玉に瑕だ。まぁ、気にしないできょうの講釈しよう。いちおう、前回よりは短くする予定だが」
A「娘の云うことは聞くンだよな、このボンクラ。誰だ?」
F「張松になる。劉備入蜀の足がかりとなった人物と云えば聞こえはいいが、極端に云えば蜀を売った張本人だ」
A「端的に云えばそうなるかぁ。劉備側から見れば恩人のひとりじゃよね?」
F「それが微妙でなー。確かに、この男がいなければ劉備が入蜀できたかは判らん。だが、だったら爵位でも追贈すればいいのに、そういうことはしていなくて」
A「……してないンだ?」
F「劉備・劉禅は張松のはたらきと死になーんにも報いていないンだな、コレが。同じく『恩人』の法正は本人が死んだ翌年に追贈されているのに、張松に関しては完全にノータッチだ。魏に寝返った孟達ならともかく、益州で劉備のために……というか、劉備のせいで死んだ張松に何の感謝もしていないのはどういうことなのか。まぁ、テンプレ入ろう。生年は不明だが益州蜀郡成都の生まれだ」
A「あからさまな地元民ですか」
F「だな。何をしたヒトか、は演義でよく知られていると思う。漢中の張魯が益州に侵攻してくるンじゃね? と危機感を抱いた劉璋から、曹操に誼をつなぐ使者として派遣されたのが別駕(べつが)の張松だった。が、許昌についても賄賂を送らなければ曹操は会おうとしない。会っても態度が悪いので、張松もそっけない対応をする」
A「見とがめた楊修が別室に招いて話してみると、これが驚くほどのキレ者。曹操に『アレは大したタマですぜ』と進言すると、曹操は閲兵所に張松を呼びつけ、軍備を見せつけて威圧する。なのに張松『こんな軍で益州に攻め入ってきたらどうなりますかねー』とからかうモンだから、危うく殺される羽目に」
F「楊修と荀ケのフォローで一命は取り留めたものの、百叩きに遭ってから叩き出された、と。まぁ、この辺りのエピソードは有名だな。このあと劉備のところに行くことになるが、実際のところ、演義でもコレはちょっと変だ」
A「なにが?」
F「演義でも最高の人物鑑定眼を持つ"引き抜きメモリアル"曹操が、顔や態度が悪いくらいで他国の使者を冷たくあしらうか? 孫権・劉備は龐統に直接会っても重く用いようとはしなかったけど、曹操は、連環しに来た龐統を『勝ったら先生を三公に迎えます』と云っているだろ」
A「むぅ……? でも鳳のセンセ、『とりあえず試す』という水鏡門下生の君主選びを、曹操にはしなかったよな? 孫権相手には周瑜からかって怒らせたし、劉備相手には職務怠慢して見せたしで」
F「曹操にはそれをしなかった、というのは早計だぞ、アキラ。孫権相手の面接で不採用になった龐統は、魯粛に『曹操のところに行こうかなー?』とのたまっているンだ。発言そのものは本意ではなかっただろうと思いたいところなんだが、敗戦の一因になった自分を曹操がどう扱うか試そうとしたとも考えられる。軍師の言葉は裏を読むのが基本だ」
A「義姉さん相手にしてるとそーいう気が回るのも無理はないが……むぅ」
F「実行していたらどうなったのかは興味深いところだが、曹操は、外見と能力を分けて考えられる君主だった。演義でもそうだったが、では何で張松相手にはこんな態度だったのか。いくら羅貫中でもこれはちょっとまずかろう」
A「うーん……馬超を破って調子に乗っていただけ、で済ませるにはちょっと重いのか」
F「態度が悪すぎるね。まぁ、実は消極的な理由、それも確たるものがあるにはあるンだが」
A「あるの?」
F「うん。『正史に準じた』という絶対の理由が」
A「……そりゃ逆らえんわなぁ」
F「そう云ってしまえば終わるンだが、理由としてはちょと弱い気もする。ただし、正史でも、曹操が張松をないがしろにしたと記述はあるから、演義でもそーいう扱いにしたとは云える。さらに百叩きまでして追い出したから、恨みを抱いた張松は劉備のところに駆け込んだ、と状況を発展させているが」
A「説得力を持たせるために痛い目にも遭わせたか。……確かに、理由としては弱いけど、他に思いつかないよなぁ」
F「自分の不明を恥じるところだがな。さて、『私釈』の62回で触れた通り、張松が曹操を訪問した時期が、正史と演義では大きく異なっている。演義では211年、馬超を討って調子に乗っているところに訪問したが、正史では赤壁の戦闘前、とりあえず荊州を攻略した段階で訪ねてきた」
A「ために、曹操は態度が悪かったと」
F「実際のところ、無理もない状況だったンだけどな。演義ではほとんど無視され、正史でも軽くしか扱われていないのが張松の兄の張粛だが、それ以上に無視されているのが陰溥(インホ)という人物」
A「……だれ?」
F「だよな。張松が、というか、劉璋が何をやったのかを書き起こしてみると、こんな具合なんだ」

 許昌、荊州への出陣を前に
陰溥「ワタクシ、陰溥と申します。曹操サマが荊州を討伐なさるとのことで、戦勝を祈願するため、益州を治める劉璋より送られてまいりました」
曹操「おう、それは幸先いいな。よしよし、劉璋殿には振威将軍位をお送りするので、良しなに伝えてくれ」
 襄陽に入ってから
張粛「ワタクシ、益州別駕の張粛と申します。主の命で、曹操サマのお力となりますよう、蜀兵300と蜀錦その他の物品をお持ちしました。お納めください」
曹操「おう、これはありがたい。先般は劉璋殿に将軍位を送ったしなぁ……じゃぁ、今度はお主にやろう。広漢(こうかん)太守だ」
 劉備を破ってから
張松「ワタクシ、益州別駕の張松と申しま……」
曹操「ええぃ、やかましい! またしても劉備を取り逃がした俺を笑いに来たか!」
張松「い、いえそんな、滅相もない。……なんで怒ってるの、このヒト」
楊修「虫の居所がお悪いのです……。それはそうと、劉備めは赤壁に陣取っているとの報告が入りました」
曹操「おう、今度こそ長年の決着つけてやる! 出陣前の景気付けだ、張松とやらには比蘇(ひそ)の県令をくれてやる!」
張松「……そいつはありがたいことでございますねー」

A「三回め?」
F「愚鈍な劉璋でも中原の動静は気になっていたようで、情報収集は行っていたが『曹操は荊州を討伐し、すでに漢中まで攻略した』なんて報告が入ってきたと正史劉璋伝にある。最初の陰溥はとりあえず状況の検分のために送られたみたいなんだが、出陣前にそーいう使者が来たのを曹操は思いのほか喜んだ」
A「荊州を攻めようとしたら益州から友好親善の使者が来た、何を云っているか判らねェと思うが幸先はいい、と」
F「そゆこと。中原ではそんなことになっている、と鈍い頭で理解した劉璋は、今度は別駕の張粛を送りこんだ。陰溥がどんな役職でどんな人物かは記述がまったくないンだが、別駕というのは州牧・侍中に次ぐ重職だ。さらに、兵士や物品まで持ってきてくれたので、曹操は大喜びしている」
A「荊州攻略のお祝いに駆けつけたような状態だモンな」
F「攻略前に来ていればなおさら喜んだだろうけどな。300とはいえ益州兵まで曹操の陣中に加わっていれば、反曹操派へのパフォーマンスがさらに強化される。だが、張粛が来たのは襄陽への入城後のことだった。それでも、張粛を広漢太守に任じているから、曹操はこの加勢を感謝したワケだ」
A「軍事的よりは政治的に利用できると思ってだね」
F「うん、益州とも誼が通じていると喧伝できるからね。ところが、さらに張松がやってきた。だが、このとき張松が何をしに来たのかよく判らない」
A「何って……………………なんだろう?」
F「陣中見舞いなら張粛のように何を持ってきたか記述があるだろうが、張松が何を持参したのか記述がない。まぁ、手ぶらということはないと思うが、そもそも張粛からの間隔が狭すぎる。目的が何であれ、劉璋はもう少し時間を置いてから張松を派遣するべきだった。何しろ、長坂坡で劉備を取り逃がした直後というタイミングだ」
A「心中穏やかじゃねーだろうねェ」
F「ニヤニヤしない。虫の居所が悪いところへ、何をしに来たのかよく判らない使者がやってきたのに、それを官職掲げて大げさにお迎えしろと云われても、僕なら困る。曹操は、困らずに怒った。なかば八つ当たりなのは認めるけど、正しい日本語ではこういうのを『仕方ない』と云わないかな」
A「だけど、張松は『仕方ない』とは思わなかった?」
F「思え、というのも無理があるがな。ハラの虫が収まらない張松は、楊修に知識をひけらかしたりしていた(のは、正史の注にも記述がある)けど、そんなハラの虫を歓喜させる事態が発生する。曹操軍が赤壁で敗れたンだ」
A「喜んだのか?」
F「劉璋のところに帰りついた張松が『曹操の悪口を吹き込み、親族の劉備と結託するよう勧めた』とある。これまでの親曹操路線から、対立とまでは云わなくても外交相手から外させたンだから、張松の熱の入れようは明らかでな」
A「陰溥は記述がないって云ってたけど、張粛は何も云わなかったのか? そんな、外交政策の方針転換について」
F「さっき云ったが、別駕というのは州牧・侍中に次ぐ地位で、『張松は(益)州(牧=劉璋)の股肱の臣』という評価もあってな。ある程度は発言力があったらしい。何しろ、黄権みたいに劉備受け入れに反対する家臣はいても、曹操と通じようとする家臣は益州にいなかったンだから。少なくとも張松以後、劉璋が曹操に通じた形跡はない」
A「あららー……」
F「そも、張粛は成都から160キロ東に離れた広漢の太守に任じられて、劉璋の傍から離れていたからな。反対しようにも声が届かない状態と云える。かくて益州は親曹操路線から劉備を頼りとする外交政策に転換した。211年、曹操が漢中の張魯を討伐しようとしていると聞きつけた劉璋に、張松は『野郎が隴を得たら蜀も危ういですぜ』とけしかけている」
A「そこで劉備に助けを求めることにした、か。反対意見があったンだよな?」
F「うん。黄権が『劉備殿を益州に受け入れて、どのように処遇されますか。部下として扱えば先方がご不満でしょうし、賓客とすれば一国に二君が並ぶことになります』と反対している。だが、さっきも云ったが張松のが発言力があったので、黄権は広漢太守に左遷されている。張粛と交替する羽目になったワケだ」
A「あらら……」
F「で、かねてから仲が良かった法正を劉備への使者に推薦して、自分は成都城内に残って劉璋の言動を内通し、いざ劉備が成都を攻める段では城内から呼応する役割を担った。劉璋に信用されているのを自覚していたようで、何かあったらまず殺される危険な役目を自ら務めた辺り、どこまで劉備に入れ込んでいるのかと思わないでもない」
A「ふっ、劉備の魔的な魅力にむしばまれた男がまたひとりじゃね」
F「ところが、劉備の側ではそんなに張松に入れ込んでいなかった。龐統が立てた、曹操と孫権が戦火を交えたのを口実に、いったん荊州に帰還すると喧伝して、周辺の武将を誘い出して殺し、その軍勢を吸収して成都に攻め入るという中策を、張松には伝えていなかった」
A「ために、慌てた張松は『何で帰るの! もうひと息だよ!』と慰留の書状をしたためたら、たまたまやってきた張粛がそれを発見してしまった」
F「自分も殺されちゃかなわんから、と張粛は張松を劉璋に売った。劉璋が張松を殺したこの段階で『はじめて不和が引き起こされた』と正史にあるが、劉璋はずーっと劉備と張松を信じていたらしい。ためにお怒りは激しく、張松はあっさり処刑されている」
A「本気でアホだな、このボンクラ」
F「このあとどうなったのか、は張松の知らないオハナシになるのでさておこう。まとめると、張松は曹操に八つ当たりされたために、親曹操路線にあった益州を劉備につかせた。劉璋の股肱でありながらボンクラな君主ではなく賢明な君主の下で働きたいと思い、益州を劉備に捧げるために暗躍し、そして死んでいる」
A「謀略家としては脇が甘かったのね」
F「実際のところ、張松が益州と曹操を決別させなかったら、のちのちの歴史は大きく変わっていたように思える。天下二分にせよ三分にせよ、長江南岸の楊・荊州と益州が連携し曹操に対抗するのがグランドプランだ。もし益州が劉備ではなく曹操の手に落ちていたら、のちの三国鼎立は起こりようがなかった」
A「劉備であれ孫権であれ、曹操に対抗できる国力を得るためには益州が不可欠だったのか」
F「そして、八つ当たりで張松を怒らせたのに、曹操はそのことを甘く見ていた。劉備が蜀に攻め入っても攻略することはできないという意見を信じていたのか、漢中を攻略しても『隴を得て蜀まで望めるかよ』と益州に入るのはやめている。前回触れたがこの時点が曹操生存中の最大領域だったから、調子に乗ったとしたらこのときだったろう」
A「羅貫中が描いた演義での曹操が見られたとしたら、215年を待たなければならなかったのか」
F「やはり、曹操は神ではなかった。張松を怒らせて天下を逸したこの失敗は、人間だから仕方ないと云えば云える。教訓、他国からの使者は丁寧に扱おう」
A「後悔先に立たずじゃね」
F「正史に張松の伝はないので、陳寿がこの男をどう考えていたのかは判らない。だが、裴松之が注に引いたコメントがあるので、書き下して引用しておく」

「劉璋は暗愚ですが善人です、無道とは云えません。張松・法正は正しく評価されなかったとはいえ、臣下ではありませんか。使者として出されたからには曹操のありのままを劉璋に説明すべきですし、それが嫌なら陳平・韓信よろしく出奔すればいい。二心を抱き忠義によらない計略を図るのは、罪人の類ですよ」

F「まぁ、法正のときに見たものなんだが」
A「蜀を売った張本人じゃねェ……」
F「ところで、と云おうか。張松の死が、誰かが目論んだものだとしたら、容疑者はふたりいるのはいいと思う」
A「法正か、龐統だな」
F「もし張松が生きたまま劉璋が降伏したら、どう考えても勲功第一だ。そうなることを危惧したどちらかが、あえて張松に連絡しないでことを進めようとした。要するに張松を見捨てたのだとしたら、ひとりに絞れる」
A「……法正だな」
F「傍証になるが、例の『もうひと息だよ!』という書状は、劉備とともに法正にも送られているンだ。法正が割と野心家だったのは、本人の回で触れた通り。少なくとも龐統には、張松を見捨てる理由がない。だが、劉備を立てて自身の出世と安全をはかった法正には、たとえ盟友でも対抗馬になられちゃ困るワケだ」
A「だから未然に手を打った、か……。法正も法正で割とアレな奴だったなぁ」
F「実際のところ、劉備がどこまで張松を信用していたか判ったモンじゃないンだ。見落としがちだけど、正史の本文には劉備と張松が面会したとは書いていない。裴松之の引いた注には書いてあるンだが」
A「曹操とは?」
F「武帝紀に『益州牧劉璋がはじめて苦力の徴募を受け入れ、軍に兵士を提供した』とだけある。内容からして張粛のことだが、張松が来たという記述は少なくとも魏書には、ない」
A「……実際に何をしたのかはともかく、少なくとも歴史に残る功績はないってコトか?」
F「だからこそ、劉備も劉禅も張松を惜しんで追贈したりはなかったンだろうね。惜しむ気持ちがあったなら、法正の死後ならいくらでもその機会はあったはずなんだから」
A「ヒトの和の国……なんだけどなぁ」
F「続きは次回の講釈で」


張松(ちょうしょう) 字は永年(えいねん)
?〜213年(劉璋に処刑された)
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益州蜀郡出身の、所属をどうするべきかいまひとつ判断しかねる謀士。
曹操を見限り劉璋を見捨てて劉備についたが、劉備からは大事にされなかった。

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