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History Members 三国志編 第51回
「代に黄泉還った臧茶」

F「基本的に、僕のやっていることは死者に鞭打つ行為でな」
Y「おいおい、今回は孫権か?」
A「だから、大物のときは一週間前にー!」
F「先週いなかったのお前だろ。そうじゃなくて、な。三国志について研究するということは、結局天下を盗れなかった皆さんの行いを検証することなんだ。1800年も前の人たちとはいえ、失敗や敗戦について調べて掘り下げるンだから、本人からすれば面白くないことこの上ないように思えるンだよ」
Y「まぁ、孫権を『出ると負け皇帝』呼んでるの、うちくらいだしなぁ」
A「失敗にせよ敗戦にせよ、究極的には自業自得としか云いようがないから、仕方ないと云えばないよねェ」
F「お前ら、何でそんなに孫権が好きなんだ? 今回は高幹(コウカン)についてなんだが」
Y「トシ明けてからこっち、能力査定で4以上がつかないような奴探してないか?」
F「狙ってるつもりはない。ともあれ、繰り返しになるが、曹操は万能ではあっても全能ではなかった。失敗もあるし敗戦もする。それでも次善の道を模索し続けた愛すべき人間が曹操だ。彼は決して神ではない」
A「間違いは犯す、か。確かに、本人にしてみりゃ大きなお世話だろうな」
F「だが、高幹の件に関しては、曹操でも自業自得とのそしりを免れないンだ。何で曹操がこんなミスをしでかしたのか、割と難しい問題でな」
A「……なんかしたっけ?」
Y「さて?」
F「あっはは……ミスとも認識されてねーでゲスか。ちょっと確認してみるが」

曹操の領土拡大・縮小の変遷
192年 前任の劉岱(リュウタイ)が戦死したため、兗州牧に就任。
194年 張邈(チョウバク)を破って兗州全土を掌握。この頃から徐・豫州にも進出。
196年 黄巾の残党を破って豫州全土を掌握。
197年 北荊州張繍をいったん降伏させるも叛逆され、撤退。
198年 北荊州の張繍を攻めるも撤退。呂布を破って徐州を攻略。
199年 司隷・河内郡(かだい)を攻略、のちに司隷全土を掌握。北荊州の張繍が降伏。劉備が徐州で叛逆。
200年 劉備を討ち徐州を攻略。官渡の決戦に勝利。揚州北岸合肥(がっぴ)に入植。
202年 袁紹、死去。これにより袁家は分裂。
204年 冀州・鄴(ぎょう)を攻略。并州の高幹が降伏。
205年 袁譚を討ち冀州全土を掌握。高幹、并州で叛逆。
206年 青州海岸部まで進出し全土を掌握。高幹を討ち并州全土を掌握。
207年 幽州を攻略し袁家を滅ぼす。
208年 荊州の劉j(リュウソウ)が降伏するも赤壁で敗れ、北荊州のみが残る。
213年 数年がかりで涼州を平定。
215年 益州北部・漢中張魯が降伏。
219年 漢中から撤退し、益州での領土を失う。

F「兗州から始まった曹操の覇道は215年にピークを迎えるが、そこまでに起こった叛乱、それも有力といっていい武将による叛乱は四度ある。兗州を失いかけた194年の盟友・張邈、息子を失い曹操本人も負傷した197年の張繍、軍師たちの反対を受けて送り出したら案の定叛逆しやがった199年の劉備」
Y「で、205年の高幹か」
F「このうち、張邈は他の3件とはやや性質が異なる。張邈は曹操の部下ではなく同盟者に近く、豫州に手を出しつつあった曹操に代わって兗州を治めていたような状態だ。張邈の挙兵で荀ケらが守る郡を除いた全土が呼応したことでもそれは明らかだが、というわけで分離独立というのに近い」
A「じゃぁ劉備もじゃね?」
F「そっちは叛逆だ。あの男は、呂布に徐州を奪われて曹操の庇護下に入っておきながら、袁術討伐に出されたのを幸いとばかりに徐州で自立したンだから。演義の31回で『あれほど賓客扱いしたのに、この恩知らず!』とほかならぬ曹操に責められたあの一件を叛逆と云わずに、何を叛逆を云うンだ」
A「竜が沼の底に伏せるのは何のためか、いずれ風を巻き空へと昇らんがためじゃ」
F「演義では、張飛が呂布の軍馬を奪って『馬を返してほしけりゃ徐州を返せ』としでかしたモンで、曹操のところに逃げ込む羽目になったンだから、降ってきたパターンが少し違うと云えなくもないがな」
Y「どいつもこいつもロクでもなくていかんな」
F「張繍に関しては、曹操が、張繍の死んだ叔父の妻に手を出したのを怒ってのことだった。女癖の悪さが出たワケだが、この未亡人について、敗走中だのに『張繍を降伏させたのに、人質をとらなかったのがまずかったンだね!』と何も判っちゃいねェことをほざいている。まぁどれだけ魅力的だったのかと」
A「ホントに、人間臭くて嫌だね……」
F「人間の何が不満なのか。ともあれここまでの3件、いずれも叛逆者がもともとの拠点に居座ったのが原因で起こったと考えていい。未亡人を連れて帰ろうとするンじゃなくて張繍を北荊州から引き離していれば息子は死なずに済んだはずだし、劉備を徐州に送ったのは完全な失敗だと軍師たちが咎めたのは周知の事実だ。まして張邈においておや」
Y「余所ならよかった、という問題か?」
F「劉jや張魯は降伏後、魏の内地に入っているが、そのまま余生を送ったのかほとんど記述がないよ。劉備みたいに裸一貫から成り上がれる男がむしろ稀で、通常の群雄なら従来の拠点から引き離した時点で反抗する能力は失われる。新しい土地で気分一新やり直そうと考えるほど根性が居座っている英雄は、さすがに三国志でも極めて稀だ」
Y「あのハングリー精神は褒めんといかんレベルだよなぁ」
A「ふははのは。……じゃぁ、何で高幹が叛逆できたンだ? 袁紹の妹の息子だったよな」
F「たわけの語源は田分けで、土地をバラバラにするアホのことを云うと某覇道で田豊が云っていたが、袁紹は支配下にあった四州を息子3人と高幹に任せていた。要するに分割統治制を敷いたワケが、そのせいで、袁紹本人の死後に袁尚(三男)と袁譚(長男)が骨肉相食む兄弟喧嘩をしでかしたのは周知の通り」
A「そのせいなのか?」
F「曹操の死後に曹彰曹植が積極的には動なかったのは、曹丕によって経済的・軍事的に骨抜きにされていたからなんだ。封地を転々としていたせいで王位なり帝位なりをうかがえる国力が彼らにはなかった。ところが、晋では皇族を各地の王に封じていたせいで天下をうかがえる地力がついてしまい、八王の乱にまで発展している」
A「……後継者を袁尚にするつもりだったなら、袁譚に青州を与えるべきではなかったってことか」
F「荊州だって、劉備と孔明がいなければ劉表の死後は劉jで決まっていたンだからねェ。まぁ、分割統治の是非はさておくが、袁買(エンバイ)をさしおいて并州を任された辺り、高幹は袁家で重きを置かれていた。袁買が袁紹の庶子かそうでないのかははっきりしないから、その辺が原因とも考えられるが、それを云うなら袁譚も正妻の子ではない」
Y「長子が正妻の子じゃないってのは後々でもめごとのタネになるよなぁ。とっとと恩人の息子の嫁にだせばいいのに」
F「お前の弟に翡翠はやらんと云っておろうがオラ。袁家が滅んだ原因は、究極的には『曹操』の二文字で済ませられるが、副次的な要素はいくらでも挙げられるンだよ。話を戻すが、高幹に并州を任せた袁紹の人選は正しかった。演義では、官渡から連戦連勝を続ける曹操に対し、唯一成果的な反抗をしたのが高幹だったからね」
A「したっけ?」
F「認知されていないのは『時は流れた』で済ませた横山氏の弊害だな。演義での初登場はそれこそ31回。官渡の決戦に敗れた袁紹の陣に5万の兵を率いて駆けつけたが、倉亭の戦いでは十面埋伏の計にかかって伯父やいとこたちと手を取って敗走。その後は、并州に帰されて防備をかためていた」
A「反抗できてないぞー」
F「ここからだ。鄴が陥落、袁譚が死に、黒山張燕が降伏したりで、各地で袁軍が敗走しているのに、高幹が守る并州は一歩も退かず、張燕に楽進李典の討伐隊を必死に防いでいたンだ。これまでの戦闘でも功をあげてきた楽進が『突破できませんー!』と曹操に泣きついたというからタダごとじゃない」
Y「演義でもいちおう活躍してたよな? 楽進」
F「先の袁譚討伐戦で郭図を射ったのが楽進だったな。地元で十万からの兵を率いていた張燕でも高幹を倒せなかったモンで曹操自ら出馬して、城からおびき出して城を乗っ取るという単純な策で破ったンだが、高幹が入っている限り城は落とせなかったワケだ」
A「奮闘はしたンじゃね」
F「北に落ち延びて、匈奴の左賢王に助けを求めたが『知るかボケ』と一蹴される。反対方向の荊州に向かう途中で王琰(オウタン)に斬られた。享年不明」
A「だが、袁家らしく最期はぱっとしなかった、と。やっぱりいまひとつじゃね」
F「演義では、な。テンプレ入る前に、こっちを見てくれ」

袁紹関連家系図:高幹関連の記述を追加

F「追加部分でいちばん最初になる高固(コウコ)は、王莽に仕えなかったので殺され、名を残した。息子の高慎(コウシン)は、おそらく父と一緒に殺された兄の子5人を育てたので、瑯耶(ろうや、地名)の大臣の何英(カエイ)に認められ娘を賜っている」
A「立派な親で立派な子だった、と」
F「県令と太守を歴任したものの家に貯蓄を残さなかったので、妻に『これじゃ子供が可哀想よ』と責められても『清廉と思われたからあなたと結婚できたのに、官位を得たからとそれを忘れられますか』と応えている。カミさんは贅沢癖が抜けなかったのか、息子の高式(コウシキ)が必死で家計を支えたので、イナゴが出ても高式の麦は喰わなかったとか」
Y「つい最近聞いたエピソードだな」
F「善行を行えば天が援けるというのが漢土の世俗宗教みたいなモンだからなぁ。評判を聞きつけた郡太守が推挙したが受けず、孝廉に推されてようやっと官職についた。高式の弟の高賜(コウシ)は司隷校尉まで昇進し、高賜の息子の高躬(コウキュウ)は蜀郡太守を務めている。この高躬の子が高幹になる」
A「王莽の時代から約200年かかってようやっと本人になったな。割といいとこの生まれなのか」
F「正史の注に引かれた文章に『高幹はかねてから身分が高く名声があり』云々とあるし、四世三公の袁家と縁組みできたからには、それなりの家格ではあったようだな。袁紹が冀州を得たとき、韓馥(カンプク)のところに送られたのが高幹と荀ェ(ジュンジン)だった。実際の交渉は荀ェがしていたとはいえ、袁紹の名代となれたことからもそれはうかがえる」
A「息子たちじゃなくて高幹が、袁紹の代理として送られたワケか……」
F「袁紹が『ワシは子供たちにひとつずつ州を任せたいのじゃ』と云っているからには、甥でも高幹は袁紹の息子格として扱われていたことになるな。生年は不明だが、たぶん袁譚よりも年上だったンだろう。ちなみに、陳留郡の出自だ」
A「これじゃ嫌でもお家騒動になるな」
Y「いちばん年上が血のつながらない兄弟ではなぁ。後継者争いになる前に、翡翠をだな」
F「争うほどの資産なんて蔵書くらいしかねーよ! 話が一向に進まんじゃないか。えーっと、并州を任されたあとの高幹に関する記述はしばらくない。正史では官渡・倉亭のいずれにも従軍しておらず、次の出番は袁紹の死後。北上してきた曹操軍を袁尚・袁譚が迎撃している間に、高幹は并州から司隷方面に侵攻すべしとの命が下った」
Y「誰からだ?」
F「袁尚だ。名目上、袁家の家督は袁尚が継いだからな。202年のことだが、南匈奴の呼廚泉(コチュウセン)が洛陽の北方に位置する平陽郡(へいよう)まで侵攻してきて、城を奪ったンだ。曹操軍の主力は冀州で袁家と戦っていたから、この方面には司隷校尉の鍾繇(ショウヨウ)が張っていて、平陽城を包囲した。それを救い、曹操軍の裏門を叩けという指示になる」
A「主力を引きつけている間に裏門に回る、か。プランとしてはまっとうじゃね」
F「ちょっと確認しよう。この頃曹操の支配下にあったのは兗・豫・徐州に司隷と、荊州北部に揚州の長江北岸部。単純に云えば黄河の南、長江の北をほぼカバーしていた。これが何を意味するか」
Y「防御線が東西に長いのか」
F「そゆこと。対する袁家の領土は河北の四州で、前線を冀州に集中していた。横に長い曹操軍と縦に厚い袁家、という政局だったンだ。となれば、戦場の選択は内線の袁家が握っているに等しい。并州の軍に動かれても、曹操の主力は袁家本隊と冀州で対峙していたので、司隷方面の予備軍で対応する羽目になったワケだ」
A「意外と一大事だったのか」
F「一大事さ。高幹ら并州軍は、平陽と洛陽の間にある河東郡(かとう)に入っちゃったンだ。平陽城を包囲していた鍾繇は退路を断たれたかたちになってしまった。しかも、この軍を率いていたのは、袁尚が派遣した郭援(カクエン)という武将だが、あろうことか鍾繇の甥っこだった」
A「何でそんな奴が袁家に仕えてる!?」
F「驚くことじゃないぞ、荀ェだって荀ケの兄弟だ。兄か弟かははっきりしないが、親族で敵対しているのが珍しくないこの時代。袁家というネームバリューが、この頃の曹操の名声を上回っていたのは事実だ」
A「……で、どうなったのよ」
F「配下の武将は平陽の包囲を解いて撤退するべきだと、当然の主張をするンだけど、鍾繇は毅然と『弱みを見せたら民衆にも襲われるから、国元に帰りつけるものか。大丈夫だ、郭援の性格はよーく知っている!』と胸を張った」
A「ちゃんと面識があったワケか」
F「正史に『針路上の城市はあっさり降伏した』とあるくらい勇猛な甥だが、性格が強情だから鍾繇を軽んじるだろうと分析している。むしろ、鍾繇らが抜けて手薄になった司隷を涼州勢がどうするか、を心配している」
Y「東西に広すぎるから、全てを守ろうとするのもひと苦労だな」
F「ために、鍾繇配下の張既(チョウキ)が馬騰を説き伏せて、袁家との連携を遮断し、馬超率いる精兵を動かすことに成功した。涼州騎兵は平陽まで郭援より早く駆けつけ、ノコノコやってきた郭援の軍を前に、川を挟んで展開する。部下の諌めを聞かずに川を渡りだした郭援軍を、馬超は渡河の原則『半ばを渡らせて叩け』で叩きのめした」
A「このときは、馬超が曹操のために戦ったンだから、歴史の皮肉って嫌だねェ……」
F「あっはは。だが、馬超が『流れ矢で負傷した』という記述が本人の伝の注に見える。ために、戦後には屍が累々としていて、すぐには郭援の首級が見つからず、従軍していた龐徳が『コレですか?』と出してきてようやく死んだのが確認できた、くらいの激戦だった」
A「ホントに勇猛な武将だったのか」
F「そんな武将を失っただけに匈奴も高幹も震えあがって、呼廚泉は降伏。明記がないンだが落ち延びたっぽい高幹は并州に逃げ込んでしまった。2年後の204年、袁家の拠点だった鄴が陥落すると、高幹は配下の諌めも聞かずに并州をあげて曹操に降伏している」
A「あれ……?」
F「うん、演義の高幹は降伏しないで奮戦していたンだ。だが、実史での高幹はいちど曹操に降っている。ここで、よく判らない人事が行われた。張繍に負けたときには『人質を取らなかったボクが間違ってました!』とのたまい、官渡の決戦直前にも劉備が叛逆しているのに、曹操は高幹を并州刺史に留任させている」
A「……なんで?」
F「まるで判らん。土地をあげて降伏してきた武将をその地に留めたらどうなるのかは、二度の叛逆で理解できていただろうに、高幹を并州にそのまま残すというワケの判らん真似をしでかした。しかも、翌年にはあっさり蜂起しているからには、人質を取ったようにも思えない」
A「油断とか自業自得としか云いようがなくね?」
F「推察は可能だ。袁尚の配下で高幹のところに派遣された牽招(ケンショウ)が、并州について『東は山脈、西は大河で守られ、武装兵五万と北狄兵を抱える』と評している。正史でも楽進・李典が攻めても攻めても抜けなかったことでディフェンスは明らか。つまり、正面から并州を攻め落とす余裕と自信が、この時点の曹操にはなかった」
Y「鄴が陥落ても、まだ袁尚・袁譚が健在だったからなぁ」
F「そこなんだよ、牽招は『だから、并州に袁尚様をお迎えしましょう』と勧めているンだ。高幹はこれを突っぱね、牽招を殺そうとさえしたが、そんな高幹を并州から遠ざけようとしたら、気が変わって袁尚を受け入れかねない」
A「拠点が并州だとさらに攻めにくくなるのか」
F「国力的に頭打ちにもなるがな。そして、第三に高幹本人の作りあげていた勢力が侮れなかった。前回見た常林(ジョウリン)こそ応じていないが、故郷を戦火で離れることになった人士を四方から集めていた。おそらくコーソンさんの残党と思われる張白騎(白馬騎兵の張さんの意)や、河東郡・弘農郡(いずれも司隷)とも誼をつないでいたンだから」
A「一大勢力だったのか!?」
Y「袁紹の見立ても侮れんな。これでは高幹の地位を保全せざるを得ない」
F「すでに二分していた袁尚・袁譚のどちらかを叩くまでは、并州にまで遠征する余力はなかったワケだ。ために、高幹の地位を保全したところ、傍から見てる分では当然の事態が発生する。205年に曹操軍が北上したのを見計らい、高幹はあっさり兵を挙げた」
Y「こん畜生め」
F「高幹本人は壺関(こかん)に立てこもり、上党・弘農・河東各郡では呼応した暴徒によって太守が捕縛されている。并州から司隷北部に勢力を広げた高幹が何をしたかったのか、は牽招の言を容れなかったことから明らかだろう。袁尚・袁譚では袁紹の志を継ぐことはできないと断じ、自分で袁紹の流れを継ごうとした。ために、袁家の拠点だった鄴の奪還を目論んでいる」
A「懲りない男だな……」
F「そう思うのも無理はない。確かに、曹操軍主力の隙を狙っての挙兵は3年前に失敗しているが、今度は司隷方面にも足止めを置いているンだ。張白騎率いる黒山賊が弘農から黄河を渡って鍾繇ににらみを利かせていたから」
A「背後を衝かれる恐れはなかった、か。鄴奪還が上手く行っていたら、今度は曹操が退路を断たれることになるな」
F「だが、高幹の招聘に応じた仲長統(チョウチュウトウ、仲長が姓)が、高幹本人にこう云っている」

『アンタは雄大な志は持っていても才に欠け、人物を好んでもひとを見極めることができない。それが心配でね』

F「自尊心の高かった高幹は仲長統の忠言を容れず、ために仲長統は高幹のもとを去った。それから間もなく、鄴襲撃部隊は守りを張っていた荀ケの兄・荀衍(ジュンエン)に叩き潰され、河東・弘農方面は鍾繇に奪還されている。高幹本人が出馬して張白騎と合流し河東攻略に乗り出すも、脱出した太守・杜畿(トキ)の防備を抜けずに撤退を余儀なくされた」
Y「野心を満たすだけの実力がなかったワケか」
F「張白騎は黒山賊あがりとあるし、河東郡などで呼応したのは民衆レベルで、太守級は高幹に反発している。その辺りの支持を得られなかったワケで、仲長統の見立てが正しかったと并・冀州の人々は感じ入ったという。それでも壺関だけは、楽進・李典の攻撃を受けても踏みとどまっていたが」
A「その辺は演義の通り……というか、演義が準じたのか」
F「そこで曹操自ら乗り出す、のも演義通りだ。牽招の認めた通り堅牢な并州を攻略するには、曹操自らに頼らなければならなかった。206年正月に曹操が出馬したものの、壺関が陥落ちたのは三月のこと。それも、この頃高幹は河東郡の攻略に向かっていたため、誰かは不明だが他の武将が守っていた隙を衝いてのことだった」
A「どこまで堅牢なんだ、壺関は!?」
F「だが、壺関陥落の報に兵は四散。高幹は呼廚泉に助けを求めるが、今度は呼廚泉でも突っぱねる。というか、演義では『曹操が我らを攻めるワケないだろ〜』と楽観して助力を拒んだンだが、202年の平陽攻めにしても呼廚泉の動きに袁尚が乗じたのであって、袁家と積極的な協力関係にあったとは考えにくい」
A「万策尽きたな」
F「先に『袁尚を受け入れよ』という牽招の勧めを突っぱねたからには、袁尚には合流できない。袁譚はすでに死んでいる。一度曹操に降って叛逆したのにまた降るのはなおさらまずい。河北に居場所がないと考えた高幹は、荊州めがけて逃走をはかるが、王琰というお役人に捕らえられ、斬られたのは演義と同じ」
Y「というか、演義が準じたと。それなりに曹操の背後を扼したはいいが、本人の才徳がなかったせいで失敗か」
A「何と云うか、いかにも袁家……」
F「また、高幹の死後に并州に入った梁習(リョウシュウ)の伝に『并州は高幹のせいで荒れ果てていた』とある。幽州陥落時に并州がまだガンバっていた場合に袁尚がどう動いたか判らんので断言はしかねるが、長期戦に持ち込めば自滅を招けた感もある。才徳で云えばどちらも欠けていたというのが総評になるな」
A「曹操に対抗できる男ではなかった、か」
F「というか、上に立てる男ではなかった。袁紹の下でなら優秀な州刺史として動けたが、自分で袁紹の流れを受け継ごうとして失敗した、みたいな。演義よりは正史で活躍、というか華々しく咲いて散った男だった」
Y「他勢力ではエース格の武将でも魏に来れば二線級、ということだな」
A「魏の人材層の厚さと深みが尋常じゃないのははっきり判ってるよ……」
F「ところで、結局破れたとはいえ高幹のなした行いは、曹操の心にある程度残ったようで、これ以後に降伏してきた群雄、つまり劉jと張魯は、先に云った通り領土を保全されていない。その分、魏の内部で厚遇はされていたが、本拠地からは引き離されている」
Y「公孫度……違うな、公孫康はどうなんだ? 燕に放っておかれたはずだが」
F「アレは降伏したワケじゃなくて、後漢王朝が自立を黙認していたような状態だからな。ちゃんと降ってくるのは魏になってからだ。地勢とある程度の地力が備わっていたからはんぶん独立、はんぶん従属していたような状態で、扱いとしては属国みたいなもの」
A「呉にとっての士家みたいなモンか」
F「んー、ちょっと違うンだが……。ともあれ、曹操に対抗できなかったとはいえ、高幹は『やればできる』というのを見せつけた。ちゃんとした軍師でもついていて、そいつの云うことをよく聞いていれば、あるいは張繍くらいの被害を出せたかもしれない」
Y「常林や牽招みたいに、目端の利く奴は逃げたンだろ?」
A「ちゃんとした軍師がいなかったのは痛いよな」
F「ところが、実は204年の并州降伏時点で、高幹の手元にはちゃんとした智謀の士がいた。これが甥っこの高柔(コウジュウ)で、205年に高幹が蜂起すると叔父を見捨てて曹操の下に逃げ込んでいるンだが、曹操から曹奐の代まで地味〜に魏を支えていた賢人なんだ」
Y「前回から聞いている名だが、そんなに有能か? あまり記憶にないンだが」
F「三公全てを歴任した男が『三国志』で何人いるね?」
A「えーっと……?」
Y「……したのか?」
F「この高柔のほかには、ちょっと記憶にいない。いちおう、袁紹の伯父だか叔父だかがなっていたかと思うが、さすがに広義でも『三国志』の範疇を外れるだろう。高柔は174年生まれだからこの時点では三十路、いっぱしの男と扱われていいのに、のちに智略と誠実さで三公を歴任するこの甥っこを、高幹が重用した気配はなくてな」
Y「なるほど、人物は好んでも価値を見極めることができなかったワケか」
A「ホントに、魏の人材層の厚さと深さは尋常じゃない……こんなところにそんなモンが埋まってるなんて」
Y「掘り出した曹操の眼力をこそ褒めろよ」
F「その辺りが、歴史の神が袁家ではなく曹操を選んだ根拠なんだろうな、と僕は思う」
A「……神を持ちだされるのはアレだが、云ってることは否定しない」
F「続きは次回の講釈で」


高幹(こうかん) 字は元才(げんさい)
?〜206年(曹操に敗れ死去)
武勇3智略2運営3魅力2
豫州陳留郡出身の、并州を預かった袁紹の甥。
一時は袁尚と手を切り曹操に降るも、袁紹の流れを継ごうとし、失敗した。

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