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History Members 三国志編 第50回
「儒者ともに謀るに足らずぜんぜん足らず」

Y「お前の人生か」
ボンクラ「いちおう今回で『HM』三国志編は50回めなんだけど、アキラがいないのに加えて僕も野暮用入ってるので、前回レベルの短縮版になります。ということでオープニングジョークはさておいて、今回は常林(ジョウリン)について」
Y「……魏の文官だったか?」
F「としか云いようのない人物になる。文官一筋83年、高柔(コウジュウ)なんかと違って三公にもなれなかった。かといって不遇な人生だったワケではないが、その人生は儒教で始まって、遺族が儒教で害を受けたロクでもない男でな」
Y「先入観たっぷりだな」
F「この世はすべて絵空事。正史常林伝の冒頭に挙げられているエピソードは、この人物を語る際に欠かせないもの。出自は司隷河内郡、ただし生年不詳。7歳のとき、父の友人たちが常さんちに『伯先おるか』と訪ねてきた。父の字(諱不明)なんだが、本人がいなかったので常林が門まで出てきたものの、父の友人たちに拝礼しない」
Y「通常は、した方がいいんだろうな」
F「うむ。当然、父の友人たちは『何でアイサツしない?』と、僕に因縁つけて返り討ちにあったどっかの上級生みたいなことをほざいたが、常林は平然と『父の字を呼ぶような奴に下げる頭はありません』と応えている。たとえ拝礼すべき相手でも、父に礼を欠いた輩には礼をもって接する必要はない、との判断でな。ある意味素晴らしい言動だとは僕でも思う」
Y「伝統とか先例とかとかより大事なモンがあったワケだな」
F「朕は未来の先例である、とアキラのご先祖様はのたまっているがな。さて、さっきも云ったが常林は生年不詳で、これがいつごろのエピソードか記述がない。ただし、189年以前のことだった。このあとで、河内郡太守の王匡(オウキョウ)が反董卓連合に加盟したことが記述されているンだ」
Y「ずいぶん早い段階の人物だったか」
F「洛陽にほど近い河内郡という地勢上、ほとんど先鋒よろしく董卓に挑んで返り討ちにあい、配下の軍勢を失ったボンクラだった、と考えて問題ない。正史の注に『王匡は財貨を軽んじる任侠で、何進に採用された。何進の死後は(董卓に)河内郡の太守に任じられた』とあるが」
Y「いくらボンクラでも、やっていいことと悪いことの区別はつけるべきじゃないかね?」
F「しかも、常林伝に記された王匡の行いがまた非道い。河内郡内の各県に審問官を送りこんで官民問わず罪に問い、捕縛したひとには金銭・穀物を要求しているンだ。一方で『支払いがグズグズしていた奴は一族皆殺しにして、王匡の威厳は高まった』とある」
Y「何を始めたンだ?」
F「さっきも云ったが河内郡は洛陽にほど近いので、董卓の猛威に晒されていた。董卓の軍事力を知っているせいで服従するか判ったモンじゃない民衆を引き締め、併せて手っ取り早く戦費を調達する手段として、こんな真似をしでかしたようでな」
Y「手段はともかく、目的としては認めねばならんのか」
F「例の伯先はすでに亡かったようで、常家でターゲットになったのは常林の叔父だった(こちらも諱不明)。食客を鞭打ったと密告されて逮捕されている。どうも王匡は密告も奨励していたようでな」
Y「それで財産没収では、やってることは董卓と大差ないな」
F「違いないが、群雄といっても二流どころはこの程度なんだろうな。ともあれ、釈放するのにいくら要求されるか判ったモンじゃないと常一族は動揺した。何しろ常林は『幼い頃は貧乏で、経典を学びつつ耕作していた』とある」
Y「あんがい、伯先の死はかなり早い段階だったのかもしれんな」
F「だな。このとき、常林が事態解決の仲介を依頼したのが、王匡と同郷(兗州泰山郡)の胡母彪(コボヒョウ)だった。王匡の妹の夫が泰山の名士で『海内珍奇胡母季皮』こと胡母班(コボハン)というが、このひととどう考えても血縁だろう。というか、陳寿の記述ミスで、実は同一人物なんじゃないかとさえ思える」
Y「そうなのか?」
F「そう考えた方がしっくり来るンだ。常林はひとまず『王匡殿は文武両道。天子が賊臣(董卓)に牛耳られているのだから、兵を挙げるのは当然です』と、王匡の行いそのものは認めている」
Y「認めるのかよ」
F「悪いのは時代だからなぁ。そのうえで『河内郡は堅牢で土地も人士も豊かです。それを収奪するばかりで用いないなら、天下に功績を立てるなどできませんよ』とこき下ろした。上げて落とすのは交渉の常套手段だが、胡母彪あっさり納得し、王匡に書状を送って責め、王匡は常林の叔父を解放している」
Y「王匡に対してある程度の発言力を持っていた、か……同一人物かはともかく、同族ではあろうな。かなり近い」
F「ちなみにこののち、胡母班は董卓の命で袁紹のもとに赴き、反董卓連合を解散するよう説得に当たったが、そのせいで王匡に処刑されている。王匡は胡母班のこどもを抱いて泣いたが、胡母班の親族は曹操と手を組んで王匡を殺してしまった」
Y「ボンクラというか悲劇だな。常林どうした?」
F「王匡が『天下に功績を立てるなどできない』男だと見限っていたようで、叔父が解放されると并州上党郡に逃げてしまっていた。ために、董卓と反董卓連合の戦闘に巻き込まれずに済んでいる。山の奥で農耕をして暮らしたとあり、かつての経験が活かされていたらしい」
Y「世俗の争いからは背を向けたのか」
F「ところが、世俗の側では常林を放っておかなかった。イナゴが大発生して食糧不足だったけど、常林の家は山奥で害を逃れることができた。ために、郷里の人々を呼び寄せて食糧を配布し、ちょっとした大所帯になっていたところを、張楊(チョウヨウ)が目をつけられ攻撃されている。これがいつのことかは不明……本人の伝では何進が死んだあととあるが、それだと世情とちょっとずれてな」
Y「何進が死んだのが189年で、反董卓連合の結成が190年。常林が上党郡に入ったのはそのあとで……うん、確かに何進が死んでからとは云いがたいな」
F「これに対し、常林が軍師として迎撃の策を弄したせいで、張楊の攻撃は2ヶ月続いたけど退けられている。評判が高まったようだが、目をつけたのは并州刺史の高幹だった。騎都尉に上奏した(が断った)とあるから、高幹が曹操に降ってからのことと思われる」
Y「上奏とあるからには、推挙した先は皇帝を擁している曹操だろうな。敵対している時期にそんな真似をしたら袁紹に怒られるか。……并州が曹操に降ったのはいつだった?」
F「攻略戦のあとだから204年中のことだな。高幹は翌205年にあっさり曹操に叛旗を翻しているので、それに備えて少しでも手駒を増やしたかったというところだろう。だが常林は、王匡のとき同様、高幹の将来が見えていたようで、配下には加わらなかった」
Y「目端は利くのか」
F「高幹の死後に并州刺史となった梁習(リョウシュウ)からの登用にはあっさり応じているンだ。県長に任じられると善政を敷き、博陵郡太守を経て幽州刺史に昇進している。だいたい15年隠遁していた割に曹操が天下を治めると判断していたようで、仕えたら積極的に政務に従事していたワケだ」
Y「うむ、素晴らしい見識だ」
F「あっはは、この野郎。で、曹丕が五官中郎将に任じられると補佐役に任じられ内勤に移った。この頃、曹操は馬超と戦闘している真っ最中で、手薄と見た幽・冀州では盗賊が暴れまわっていた。鄴を預かっていた曹丕は、のちに呉へ親征しているように意外と熱血で、自ら兵を率い討伐に出ようとした。それを諌めたのが常林になる」
Y「アキラがいたならこう云っただろう。曹丕が諌めを聞くようなタマか、と」
F「お前も疑っているワケか。并州で15年隠遁し、幽・冀州の州境に近い博陵郡の太守や幽州刺史も務めていた常林だ。北方の事情には詳しい私です、と前置きして『北方の民衆は争乱を嫌うので、大挙して賊に呼応することはありません。あんな連中に自ら動くことはありませんよ』といさめたンだ」
Y「現場を知っている人間を周りに置いてあったワケか」
F「そのうえで『大軍が西方に出払っているからには、曹丕様は天下の抑えですぞ。軽はずみな行いはくれぐれも慎んでください』と締めた。曹丕は忠言を入れて自分では動かず、誰か(記述がない)を派遣して賊を討伐している」
Y「うむ。曹丕とて臣下を軽んじてなぶり殺すような真似ばかりしていたワケじゃないからな。当然の帰結だ」
F「このあと常林はまた外に出され、平原太守から魏郡の都尉となっている」
Y「左遷されたワケじゃないからな。そういう見識の持ち主を外に出すことで、戦後の治安を回復しようとした人事だ」
F「中央に戻されたのは213年、例の魏公問題のトシでな。曹操が魏公に封じられ、11月に魏国初めての人事で尚書に任じられている。とりあえず曹丕の手元からは離されたワケだが、曹操の死んだ220年に曹丕が皇帝になると少府を経て大司農に任じられている」
Y「若い頃の経験からそーいう役に見込まれたワケか」
F「つまり、曹丕に政策面の意見を云える立場ではなくなったようなモンだがな。曹叡の代に光禄勲を経て太常となり、晩年には人柄を見込まれて三公への叙任も取り沙汰されたが、本人が重病と称して固辞。事実、老いという逃れられない病に冒されていた常林は、光禄大夫となるも83歳で死去している。時期は不明だが、曹芳の代まで生きたらしい」
Y「反董卓連合の頃に始まって、曹芳の代で終わったか。三国志の歴史を半ば以上見届けたような長生きをした割に、表舞台で華々しくというのはなかった人生だったな」
F「そうだな。自分が一流の人材ではなかったと考えていたのか、大きなことをやっては隠遁したり左遷されたり、浮き沈みの激しい人生だった。だが、それなりの評価を得ていたようで、三公並みの葬儀で送られている。追贈されたのが驃騎将軍位だから、あるいは賊討伐に差し向けられたのがコイツ本人だったのかもしれんが」
Y「まぁ、めでたしめでたしというところかね」
F「ところで、本題に入ろう。この常林、人格は清廉潔白だったが、小役人を鞭打つことがあった。叔父のことも、密告されたとはいえ『事実と反する』とは云わなかった辺り、儒者らしく目下の者を見下す傾向があってな」
Y「……そういえばそういう話だったな」
F「少府だった当時、夜通し小役人をムチでしばいていたモンだから、向かいの催林(サイリン)さんちまで悲鳴が聞こえていた。朝になって出てきた常林と催林の会話が、常林伝の注に引かれていてな」

催「常殿は廷尉になられたので?」
常「いや、少府ですが」
催「じゃぁ何で、囚人の取り調べなんぞなさっておられたので?」

F「囚人への拷問と思えるほど激しい悲鳴を、催林はからかった……というか、本気で心配して忠言したというところだ。常林は大いに恥じ入ったものの、自分を改めることはしなかったという」
Y「困った奴だな」
F「儒者というのは目下に厳しく目上に阿る人種だからな。その最たるエピソードが司馬仲達との一件だ。周知の通り仲達は河内郡の出自で、郷里の先輩たる常林にちゃんと拝礼していた。だが、太傳ともあろうお方を拝礼させていいはずがなく、誰かは記述がないが常林に『高貴な方に拝礼されるのはやめさせるべきです』と忠告するひとがいた」
Y「序列ってあるからなぁ」
F「だが常林は『あの方は長幼の序を大事にされて、若者の手本となるおつもりなのだ。高貴だろうと知ったことか、私への拝礼は必要だ』と突っぱねている。裴松之も常林を『権力者だからと遠慮する人格ではない』と云っていてな」
Y「是非はともかく、そういう性格だとは知れ渡っていたのか」
F「本人の過失でな。身分というものは家柄や官職で上下するというのに、年齢さえ上なら誰より上になれると思い込んでいたのが常林だ。反骨というのではなく思い込みの激しいバカというべきだろう」
Y「絶好調だな」
F「トシが絶対だというなら、世界はサン・ジェルマン伯爵が治めなけりゃならんことになるからな。そういうクサレた妄想に人類がつきあってやる理由はない。もちろん、司馬昭は僕と同じ意見だった。寒門出身の小役人のくせに仲達に拝礼させていたのを根に持っていたようで、常林の死後に、息子を処刑している」
Y「どういう口実で?」
F「ちょうど諸葛誕討伐に出立するときだったンだが『重病でーす』と父親と同じ口実(この時点での年齢は不詳)で従軍を拒んだンだ。お前の父は俺の父に頭を下げていたンだぞと司馬昭を見下す態度がありありで、出陣前の景気づけとばかりにブっ殺されている。バカ息子の名は常旹(ジョウキ)と云ったが、まさしく常軌を逸したバカだったと云える」
Y「……世間が見えてねェボンクラ親子だってのはよーく判った」
F「続きは次回の講釈で」
Y「次回までには機嫌直してくれ」


常林(じょうりん) 字は伯槐(はくかい)
生没年不詳(83歳での大往生)
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司隷河内郡出身の魏の文官。
長幼の序を重んじるあまり司馬家ににらまれ、子孫に害を残した儒者。

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