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History Members 三国志編 第49回
「仏の顔は三度めで怒るのか四度めで怒るのか」

F「それではこれより年越し講釈に入る」
A「間にあうンじゃなかったよ……」
A2「……いあ、いあ」
Y「じっくりぐったりノンダクレ、と。だが、翡翠の奴に手短に済ませるよう云われているが」
F「判ってるよ、普段よりは短い予定だから。えーっと、『私釈』で一度しか出ていないけど、蜀ファンなら李邈(リバク)という名を覚えていると思う」
Y「ああ、本当のことを云って殺された」
A「本当じゃないから殺されたンだよ!」
F「ちゃんと覚えてるな。孔明の死を哀惜する劉禅に『野郎には簒奪の意志があったンですから、死んだのを喜びましょう』とのたまったことで知られている」
Y「そりゃ忘れんわ、お前にしちゃ珍しく『この野郎』呼ばわりだったからな。孫権でもある程度以上の礼をもって接するお前が吐き捨てるような言動したのは、アレが最初で最後だろ」
F「……孫権に礼をもって接した記憶はないが、まぁその辺のオハナシはさておいて。蜀の歴史は大まかに劉備親政時代・孔明の代理統治時代・その後と分けられる。この李邈、その都度劉備・孔明・劉禅にかみついていてな」
A「お前、何やっとンね」
F「生年は不明だが出自は益州広漢郡(こうかん)。劉璋に仕え、州都成都の南に位置する犍為郡(けんい)牛鞞(ぎゅうひ)で県長を張っていた。劉備が益州を得ると従事(補佐官)に任じられ内勤に移ったが、ある年(明記はないが、215〜218年の間)の正月、行酒(酒を注いでまわる係)に任じられた」
A2「……重責だね」
Y「黙ってろ」
F「ところが李邈、劉備のところに酒を注ぐときにやっちまった。『劉璋サマは同族として、殿に張魯討伐を委任なされたのに、張魯より先に劉璋サマを討たれるとは。この益州を奪ったのはあからさまによろしくないですな』と」
A「酒の席とはいえ、コレはないな」
F「劉備も『よろしくないなら、何で劉璋を助けなかった?』と反問するンだが『私では力不足だったからです』と、李邈が劉備に反抗できる力量があるなら黙っていなかった旨を豪語している。さすがに担当官が李邈を処刑するよう求めたンだが、なぜか孔明が助命するよう嘆願してな」
Y「あの男のひとを見る目のなさは筋金入りだな」
A「コラ」
F「否定はしない。何しろ孔明、李邈を犍為郡の太守に任じ、丞相府参軍として北伐にも同行している。太守の実権は与えなかったにしても権威付けはしたンだから、劉備に牙を剥いた男を飼い慣らそうとしたのか、それとも手元に置いておかないと不安だとでも思ったのか」
A「2番だと思うよ……」
F「なのに、この野郎はまたやってしまう」
Y「お前もだ」
F「……あ、うん。馬謖が街亭で敗北したので処刑を命じた孔明に、李邈は『みだりに功臣を殺したらあとあとに響きますよ』と正論を述べている」
Y「基本的に云ってることは正しいンだよな、この男」
A「ここまではな! ここまでの意見はな!」
F「だが、真実は常にひとを傷つけるものでな。馬謖を殺したくなかったのは本心でも、殺さなければ軍政の秩序を守れない孔明としては、泣いて愛弟子を殺さなければと思い詰めていたのに、云われなくても判っていることを云われてついつい怒髪天。李邈を成都に送還している」
Y「正しい日本語ではこういうのを八つ当たりと云います」
A「いや、怒る対象は間違ってないと思うが」
F「むしろ逆ギレじゃないかな。これが228年のこと。234年に孔明が死ぬと、劉禅は白い喪服に身を包んで三日の喪に服すと宣言したが、そこへ李邈は書簡を送っている」

霍禹(カクウ)は必ずしも叛逆の意志を抱いておらず、宣帝も臣下を殺す君主となりたくはなかったのに、臣下は身に危険が及ぶのを恐れ、君主は臣下の威勢を畏怖したため、かくなる悲劇が発生しました。ところが野郎は強力な軍を率い、虎狼のような企みを抱いておりました。勢力のある家臣は外に出してはならないもので、臣はいつもこれを危ぶんでおりました。孔明が死んだことで陛下の一族は安泰を得られた、これは全てのひとにとって喜ぶべき事態であります」

Y「さすがに、面と向かって云うのは控えたのか」
A「いくらバカでも2回で懲りるわ」
F「宣帝は司馬仲達ではなく前漢の9代でな。詳しくはまたこんど講釈するが、アホの武帝のせいで前漢王朝が衰退していたときに『このヒトならなんとかなるンじゃね?』と見込まれて擁立された皇帝になる。擁立したのが霍光(カクコウ)と云うが、霍禹はその息子。が、霍禹に叛逆の意志がなかったのかと云えば疑わしいし、宣帝の側にも殺す意思はあった」
A「李邈の云っていることは、このときのシチュエーションには相応しくないと?」
F「だ。孔明には劉禅に取って代わる意志はなかったし、劉禅としても孔明を害する意志はなかった。ために、直言された側は怒り狂った。劉禅は李邈を獄に下し、処刑している。享年不明」
A「死んで当然じゃ」
Y「図星を衝かれてキレた、とかじゃないのかね」
F「それなら李邈じゃなくて諸葛瞻(ショカツセン、孔明の息子)殺すだろうな。遺族に危害を加えていない辺り、劉禅が孔明の忠誠を疑っていた形跡はない。君臣間に問題がなかったのを示すために、劉禅は誣告者を殺さねばならなかったワケだ。上に立つ者にはそれ相応の立ち居振る舞いが求められるからね」
A「孔明が馬謖を殺したように、か」
F「そゆこと。ところで、この李邈には兄弟がいる。順番の明記がないので兄かもしれない李朝(リチョウ)、弟と明記のある李邵(リショウ)、若死にしたためか諱が残っていない弟がもうひとり」
A「4人兄弟か」
F「で、正史の……正確には季漢輔臣賛の注で、裴松之が書いている」

 群臣が劉備を漢中王に推挙したときの文書を書いたのが李朝で、彼と李邵、それに若死にした弟は、それぞれ才能と名声を併せ持っていたので李氏三龍と称されていた、と古書にある。はて李邈はどうしたとオレも思うが、あの野郎のイカレっぷりでは数に入らなかったンだろうな。

Y「イカレっぷりて」
F「原文では『邈之狂直』とあってな。ちくま版正史の5巻476ページでは『どはずれな率直さ』と訳されているが、狂った直言とはよく云ったモンだと僕も思う。まぁ、うまく訳せなくて」
A「裴松之は相変わらずだな。でも、そんな兄弟聞いたことなかったよ?」
F「意識的にこの兄弟は『私釈』には出さなかったからなぁ。孔明は姜維について『姜維は李邵や馬良でも及ばない』としているンだけど、李邈のインパクトのために李邵の名はカットしたンだ。演出の都合」
Y「李邵って誰だ、と追求したらどーしても李邈に行きつくからか」
F「そゆこと。李邵が馬良と並び称することができるだけの人材だと目されていたからには、三龍それぞれそれなりの人物だったのだろう。だが、李朝は夷陵の戦いに従軍し、戦後222年に死去。李邵は孔明の南征に際して丞相府の留守を任されているが、この年に亡くなっている。死因は不明」
A「いずれも李邈に先立って死去していた、と」
F「だが、李邈にしても『三族皆殺しになった』とは書かれていない。親族に刑が及んだならその旨記述はあるだろうから、李邈の死で収まったンだろう」
Y「三龍を惜しんだか」
A「ヤスが云うと三流って聞こえます」
Y「否定はしないな」
F「はいはい、仲良くなさい。少数意見、特に、耳の痛い忠言に対してどういう態度を見せるのかは、君主の器をはかる重要なポイントになる。張昭に対して対決姿勢むき出しなのに、いざというときは泣き寝入りする孫権の器の浅さは明らかだが、李邈に関してはそーいうレベルのオハナシではないと思う」
Y「調子が出てきたのか、無理にそう装っているのか」
A「お前が孫権をどう思っているのか、間近で聞いててもよく判らんしな。まぁ、忠言じゃなくてただの誣告では相手にもされんか」
F「自分が被害者だと思っているから劉備にかみつき、そのとき助けてくれた孔明にも恩知らずな発言をした。助けられたことで『俺は正しいのだ』と思い込み、ために馬謖に関して孔明の意に沿わない発言をしたワケだ。正論を口にすれば孔明は自分を認めるだろう、と」
Y「ところが後方送りにされたから、逆恨みしたワケか」
F「どーいう考えでそんなことになったのか、は割と明らか。要するに李邈は自己愛の激しい奴だったワケだ。それでも蜀の宮中で劉禅に意見できる立場にあった辺り、蜀の人材層の薄さはまた悲劇的でな」
A「孔明の苦労がしのばれますね……」
F「続きは次回の講釈で」


李邈(りばく) 字は漢南(かんなん)
?〜234年(死んで当然です)
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益州広漢郡出身の蜀の文官。
反骨と云えば聞こえはいいが、侫臣にもなれなかったただの小者。

李朝(りちょう) 字は偉南(いなん)
?〜222年(永安で死んだとあるので、たぶん戦傷死)
武勇2智略3運営3魅力2
益州広漢郡出身の蜀の文官。"李氏三龍"のひとり。
弟たちとともに劉備の身辺に仕え、劉備に殉じた。

李邵(りしょう) 字は永南(えいなん)
?〜225年(死因は不明)
武勇1智略2運営4魅力2
益州広漢郡出身の蜀の文官。"李氏三龍"のひとり(末弟は諱不明)。
南征では丞相府を任されたほど孔明の信頼を得ていたが、その南征の最中に死去。

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