戻る

History Members 三国志編 第48回
「コイツが虎なら竜は馬超か典韋か」

F「久しぶりに発掘したコーエーの『三國志曹操伝』が楽しくてならん」
Y「どんなゲームだったかな」
F「魔王に操られた孔明劉備張飛を暗殺し孫堅孫策孫権(一回死んだ)を復活させ曹操に挑んでくるオハナシ」
A「どこの雛○沢でやってるンだ、そのゲームは」
F「そうじゃない展開もあるけど、僕そっちのルート見てないンだよなぁ。気がつくとゲージが青くなっちゃって。そりゃともかく、今年最後の講釈に入ります。今回は許褚について。コーエーの三國志Y事典では『まさに曹操のシークレットサービスになるために生まれてきたような男』とされている(61ページ)武将だ」
A「割と大物来たな」
F「大物かどうかはさておくが、三国志最強決定戦では上位にエントリーされていい武将のひとりになる。もっとも、準決勝までに五虎将の誰かに負ける姿しか思い浮かばないのも事実だが」
A「いや、そこは頑張ろうよ!?」
F「僕に云われても。演義での許褚は典韋に始まって徐晃趙雲馬超龐徳と互角以下の一騎討ちを演じ、呂布張飛にはかるーくあしらわれている。黄巾の残党なんかを一刀で斬り捨てる姿は見られるものの、武力90以上の連中には苦戦がめだってな。黄忠魏延ならともかく、他の4人には勝てそうもないぞ」
Y「五虎将なのに6人いるのは何でだ、とツッコめばいいのか? まぁ、弱い奴に強いのは普通だわな。龐徳なんか張郃夏侯淵・徐晃を退けてから許褚を相手にして一歩も退かなかったワケだから、明らかにこの4人より強い」
A「互角以下……か。確かに」
F「もっとも、この辺りは演義でのオハナシなんだが。正史では……はあとで見ることにして。羅貫中は関羽・張飛への対立軸として許褚・典韋を並べたかったンだろうけどそれができなかったモンで、許褚は曹操軍の最強武将ではあるものの五虎将の引き立て役として扱われている」
A「まぁ、演義での劉備軍は曹操軍より強いからねェ」
Y「武将の質と孔明の智略で曹操の大軍を退ける、というのが演義のスタンスだからな。補正は仕方あるまい」
F「だね。関・張の対立軸たりえなかった原因は大きくふたつ。まず、周知の通り典韋が序盤で討ち死にしている。さしもの羅貫中でもアレを長生きさせるわけにはいかなかった」
Y「史実通りの立ち往生では文句も云えんな」
F「加えて、許褚や典韋は基本的に曹操の身辺警護に使われている。武将としての働きは乏しいンだよ」
A「云われてみれば、許褚は地方軍将級の役職には就いていないのか」
F「演義では明記がないが、正史で許褚の最終的な将軍位は武衛将軍。曹操が設置した武衛営(ぶえいえい)を率いる役職になる(四品官)。身辺警護のお役目と考えていいンだが、大軍を与えて外に出せるタイプとは扱われなかった」
A「内勤では、武将としては腐るよなぁ」
F「演義でも、許褚が単身で大軍を率いたという記述はなかったと記憶しているがな。つまり、許褚・典韋が関・張の対立軸たりえなかったのは、武将として劣っていたからではなく『武将ではなかったから』という切実な事情がある。武人、よくて部隊長というレベルだろう、統率力では」
A「軍を率いることのできるタイプではなかった、か」
F「テンプレに行こう。生没年不明だが、出自は豫州譙郡(しょう、国になるのは魏の時代)。後漢末の戦乱から逃れ、一族や付近の若者数千人を集めて汝南に砦を築いていた。一万からの野盗に攻められてもきちんと防戦しているのは、野盗が弱かったのと許褚が強かったのとが複合した事例と考えられる」
A「率いとるやないかい」
F「非戦闘員まで含めて数千人なら、戦闘員は数百だ。物資や食糧がときどき枯渇してるから、せいぜいがいち時期の太史慈レベル、お山の大将というところだよ。いまのところ、コーエーの三國志シリーズでは、在野か曹操の配下としてしか出てこないのはその辺が原因」
A「いや、まぁ、君主で出られても困るが……」
Y「官渡の辺りで張飛が山賊やってたからと、張飛が群雄扱いのシナリオはあるのにな」
F「そういえばアレも汝南が拠点だったか? ともあれ。食糧が欠乏したモンだから、許褚は野盗に牛と食糧を交換しようと持ちかけた。なんで敵にそんな交渉をするのかと平和ボケしたジャップは思うだろうが、白人サマだって戦争していてもクリスマス休暇をとるンだから、別に不自然でも何でもない」
A「どっちがボケてるのか議論の余地があると思います」
F「僕の耳もクリスマス休暇中だ。食糧を受け取った許褚は、約束通り牛を引き渡すけど、この牛が許褚の砦に逃げ帰ってしまう。そこで許褚は『ダメじゃないかー』と、牛のしっぽを片手でつかんで引きずり、野盗の陣地にずかずか歩いていく。これに仰天した野盗は盗るモノ盗らずに逃げ出したという」
A「賢明な判断じゃね」
F「ちなみに、許褚は身長八尺以上とあり、八尺の満寵より高いが八尺三寸の程cより高いかは不明。また、バストとヒップは不明ながらもウェスト115センチ。女の身体ではぜったい見たくないプロポーションだろうな」
A「男でも見たくないよ、そんなハラ周り!」
F「この世はすべて絵空事。さて、典韋と云えば十歩短戟のシーンが有名すぎるな。敗走する曹操の殿軍を張った典韋は、短戟を十数本持って呂布の軍勢に立ちはだかる。兵士に『敵が十歩まで近づいたら教えろ』と命じ『十歩です!』の合図で短戟を投げつける。追手は一投一殺、ばたばた倒れるというアレだが」
A「悪来典韋の真骨頂じゃね」
F「正確には『十歩です』『五歩で知らせろ』『五歩です』なんだけどね。許褚も似たようなことをしている。この頃矢弾が尽きたので、湯呑くらいの大きさの石を集めさせて砦の四方に置いていた。野盗が近づいてくるとこれを投げつけ、一投一殺。湯呑サイズの石といっても、2メートル近い許褚なら投げるのに不都合はなかったワケだ」
A「はー……それは知らなかった」
F「演義では、許褚本人が『こんなことやりました』くらいにしか触れられていないエピソードだしな。これを踏まえて『三國志曹操伝』では、ほぼ許褚専用の『没羽箭(ぼつうせん)』というアイテムが出てくる。間接攻撃できるようになるものだが、銭形平次の元ネタになった水滸伝の石投げ張清の綽名がこれでな。まぁそれくらいの腕前ということになる」
A「……と云われても、どれくらいなのやらアキラには判りかねますが」
Y「梁山泊に入る前に武力90級3人を含む15人を石投げで退け、花和尚魯智真までアタマに直撃受けてひっくり返った、という腕前だな」
F「實吉達郎氏曰く『一番多くの好漢を倒した武将』『最も好漢たちが(梁山泊への)参加を承知しそうもない男』だ。まぁ、この石投げ技を披露したのはアウトロー時代だけで、曹操の下についてからは一度も見せていないな。ちなみに、件の『三國志曹操伝』で、許褚は賊兵という兵科になっている」
A「アウトローなんじゃね……」
F「曹操の下についたのは、年代の記述はないンだが194年ごろ。曹操が呂布と戦火を交えていた頃に、汝南を支配下に収めた曹操のところに配下を率いて帰順している。その風貌に曹操は『やぁ、オレの樊噲だ!』と喜んだ……が、樊噲はちゃんとした武将としても使われていたンだよなぁ」
Y「そういう使い方をしたかったが、将としては使えないと思われたのか」
A「しかし、樊噲に子房……自分が劉邦になったつもりなのか?」
F「少しあとに蕭何扱いもいたが、そこまで考えていたのかはなぁ。ともあれ、許褚配下の者たちも近衛兵『虎士』として使われることになった。西に転じて、張繍との戦闘では許褚が虎士を率いて斬り込み、将兵1万からを討ち取った功で校尉に任じられている。明記はないンだが、198年のことと思われる」
A「えーっと……2回めの張繍戦か」
F「だ。前年の1度めでは、張繍は曹操に戦わずに降り、そのあとで叛旗を翻して曹昂(ソウコウ、長子)や典韋を討ち取っている。その状況で1万からの兵を討ち取るのは戦況的に無理。また、死んだ典韋がそれこそ当時校尉だったので、おつとめだけでなく役職も継いだと考えれば話は通じる」
Y「筋は通るな」
F「まぁ、校尉といっても護衛隊長扱いだね。最強の武将は防御に回せというのが僕の持論だが、武勇と忠誠心に信のおける人物を親衛隊長に抜擢するのはおかしなことではない。これ以降許褚は自分で兵を率いていないが、大軍を率いるには向かないと思われたンだろう」
A「武勇だけでは、曹操軍では栄達していけないワケか」
F「内勤だからといって外回りより軽んじているワケじゃないけどな。いちおう、許褚伝に(ぎょう)攻略戦で功績を立てた記述はあるが、あの戦闘は曹操自らが指揮を執っていたから、親衛隊の出番があってもおかしくはない」
A「激戦なら出番はあるわな」
F「ただ、その一件を除くとホントにただの護衛官になってるンだわ、それ以降。鄴攻略戦(204年)より前の、官渡の決戦では曹操陣営から袁紹に寝返りの書状を送った輩が多かった、のは有名なオハナシ。上これを好めば下それに倣うというように、兵士の中にも曹操を殺して袁紹に寝返ろうとする輩もいた」
A「気持ちと理屈は判らんでもないけど……」
F「徐他(ジョタ、徐佗とも)という名が正史にある。曹操の身辺に仕えていた兵士なんだが、同志を募ってよからぬ企みをしていたけど、許褚が身辺を警護していたので思いきったことができなかった。そこで、許褚が休憩にはいった隙を衝こうと考え、実行している」
A「実行って」
F「原文では刀とあるが、ダンビラではなくドスだろう。とにかく、獲物を隠し持って曹操のテントに侵入した。曹操暗殺を企んだワケだが、ところが、テントの中には許褚が突っ立っている」
A「休憩に入ったンじゃなかったのか?」
F「うん。自分のテントに引き揚げたンだけど、いやーな胸騒ぎがして引き返してきたンだ。そうと知らずに入ってきた徐他たちは、許褚がいるのを見て愕然とする。その顔色に全てを察した許褚は、全員を殺害した。これを喜んだ曹操は、許褚をますます信頼して左右から離さなくなったという」
A「信頼に応えたからますます信頼された、か」
F「その割に、赤壁でナニをしたという記述はないけどな。かくて許褚伝の記述は、最大の見せ場となる馬超戦に飛ぶ。211年に始まったこの戦闘で、馬超は潼関(どうかん)に前線を置いていたが、これは、現在の陝西省で黄河がL字に曲がっている辺りに築かれた関でな。北に黄河、南は山脈にはさまれた隘路をふさいで築かれたものだ」
A「そう簡単には突破できないな」
F「そこで曹操は、おとりの部隊を潼関の前に残して、本隊は黄河を渡り潼関の背後から馬超の本営がある関中へ向かうという策を弄した。さっき云ったがこの辺りで黄河はL字になっているので、都合2回渡河する必要はあるが、これが上手く行けば潼関は無力化できる。まして、相手は涼州の騎馬軍団だ」
Y「水上戦闘ができる装備ではない、と」
F「それだけに、馬超の警戒と攻撃を支えるおとりの部隊は、戦況的に殿軍にもなる。並の武将には任せられず、曹操自らが指揮を執っている。まず徐晃・朱霊(シュレイ)を北岸に送って橋頭堡を築かせると、随時他の部隊も渡河させる。ところが、察した馬超が万余の兵を出してきて戦闘が始まった。気をつけよう、軍隊は急に止まれない」
A「河を渡っている部隊は、そう簡単には引き返してこられないし、その場で戦闘するわけにもいかない。ほとんど無力化されているワケだな」
F「そゆこと。ために、殿軍たる曹操本隊、つまり、許褚率いる親衛隊もいるンだが、馬超軍と激突。数に劣る曹操本隊はよく戦線を支え、味方が渡河する時間を稼いでいる」
A「……あ、曹操軍のな。うん」
F「お前ね。徐晃隊が先鋒なのは明記があるが、そのあとがどう続いたのか記述はない。ただ、曹操本隊の直前まで残っていたのは張郃隊だったようで、自分たちも渡河するため馬超軍の猛攻から撤退するタイミングをつかみかねていた曹操を『もう退いて大丈夫ですよ!』と舟にひっぱりこんだのがこの男」
A「強引な真似するなぁ」
F「だが、曹操はそのまま舟の中から迎撃の指揮を執り、許褚の虎士百人余りを残して本隊も渡河するまで黄河南岸を離れなかった。一万からの馬超軍を相手に堂々と踏みとどまり自軍の渡河を支えた、この度胸と指揮能力には、さすが曹操と思わずにいられない」
Y「劉邦なら自分が真っ先に逃げただろうからな」
A「まーねー……」
F「本隊も渡河したのを見届けた許褚に勧められ、ようやく曹操も南岸から脱出しようとする。だが、陸に残っている曹操軍が本人と親衛隊だけでは、馬超の攻撃が集中するのも無理からぬオハナシでな。馬超もバカではなく、矢を射かけて舟そのものにダメージを与えている」
A「将を射るにはまず馬を射ろ?」
F「ここで動いたのが丁斐(テイヒ)だった。牛馬を戦場に解き放って、馬超軍の意識をそっちに逸らすことに成功している。ちなみにこの牛馬、『蒼天航路』では丁斐の私物になっているが、実史では官牛・官馬。というのも、丁斐には盗癖があって、自分ちの牛がやせていたモンだから、それを官牛と取り替えて牢屋にブチ込まれたとゆー前歴の持ち主」
A「罪人ルックで登場したのはそういう経緯か」
F「だが曹操は『餌をちょろまかす犬でも、ネズミを捕えるなら財産には影響しない』と復官させている。この判断がいい方向に動いた次第だ。馬超軍の兵士が牛馬を得ようとして、曹操の乗る舟が岸を離れる隙ができた。さすがに馬超は牛馬に惑わされず、舟めがけて矢を射かけさせたので、船頭があっさり死んでしまう」
A「代わって許褚が舟を漕いだンだよな」
F「うむ。左手で馬の鞍を掲げて矢を防ぎ、右手で舟を操っている。本職ではないし流れも速かったので、舟が北岸についた頃には四里から五里も流され、先に渡っていた曹操軍はこの舟を見つけられずに『曹操サマが死んでもうた!』と泣き叫んだという。どんだけの矢の雨だったのか、は陳寿裴松之がこぞって書き記しているな」

是日 微褚几危「この日、許褚がいなけばマジでヤバかった」(正史許褚伝)
且潼関之危 非褚不済「潼関の危難は許褚でなければ防げなかった」(正史斉王紀の注)

A「絶賛だな」
F「窮地を脱した曹操が反撃に転じ、ある程度戦況を盛り返してきたのでトップ会談が行われることになった。馬超・韓遂と曹操が軍師を同席させずに話しあうというワケの判らん事態だが、曹操サイドは護衛の許褚が随行した。当然、その場で曹操を斬りたかった馬超だが、うしろに許褚がいてはそれもできない」
A「そこに突っ込もうと考えるのは、関羽と張飛くらいじゃないかと」
Y「いや、いくらあのふたりでも無理じゃないか?」
A「演義でやったよね」
F「んー……確かに劉備を連行したのは許褚・張遼率いる数十人とはあるが、そのまま警備していたとの記述はないな。例の『君と余だ』のシーンでのこと(演義十八回)だが、まぁ許褚はいただろう。役職と状況的に」
Y「マジで突っ込んだンかい」
F「しかも、横山三国志だと素手だった気がするが……考え出すと怖すぎるからさておこう。馬超も、かねてから許褚の武勇を知っていたので『虎侯というのはどちらかな』と尋ねると、曹操は後ろの許褚を指差し、本人無言で馬超にガンくれると『馬超はあえて何もせず、そのまま去った』とある」
A「そして翌日、竜虎の対決とでも称すべき一騎討ち!」
F「は演義でのオハナシだな。正史では、もちろん許褚と馬超の一騎討ちは行われていない。ガンくれられた馬超が震えあがって手も出せず、許褚の貫禄勝ちという状態になる」
A「おいおい!?」
F「この会談から数日後に馬超軍は敗れたが、許褚も自ら首級を挙げている。その功で武衛中郎将に叙され、曹操は許褚のために武衛営をつくったと許褚伝に明記があって、どれだけの功績やらというところだ」
Y「ふはは、羅貫中の創作は蜀ひいきの負け惜しみか」
A「やかましいわ!」
F「まぁ、許褚のはたらきはここまでになる。演義ではその後も曹操の身辺警護を務め、濡須戦では周泰韓当の攻撃を真っ向から支える奮迅ぶりを見せる。ところが、漢中戦では酔っ払っていたところを張飛に絡まれ一蹴されるという体たらくだ。負けて当然ではあるが、やはり武力90代には苦戦が目立って」
A「馬超との一騎討ちも、馬超の優勢だったしねェ」
Y「酔っていなければ、と思わんでもないが」
F「食糧輸送中だったからには、物資の中に酒もあったはずでな。張飛と酒の奪いあいをして勝てる奴がいるか?」
Y「いないいない」
A「呂布くらいですね」
F「だよなぁ。これ以後、ほとんど記述がみられなくなり、いつの間にか亡くなっていた。享年・没年はいずれも不明」
A「馬超戦がピークだったワケな。正史でも?」
F「似たようなモンだ。曹操が死ぬと血を吐いて号泣し、曹丕に武衛将軍に任じられて宿衛の警護を張った。曹叡の即位後に領土を七百戸に増やされて、この時代に死んでいる。やはり、馬超戦後は目立った戦功がない」
A「惜しいヒトを亡くしました、と」
F「陳寿は許褚と面識がない。が、正史許褚伝に興味深い記述がある」

 許褚は力自慢であったがぼーっとしていたので、軍中で虎痴と呼ばれていた。馬超が許褚を"虎侯"と呼んだのはこのためで、現在に至っても天下の人々は虎痴が許褚の本名だと思っている。

F「この"痴"は『ぼーっとしている』の意でな。馬超でも、さすがに本人の前で『ぼーっとしているトラ野郎というのはどいつだ?』と聞けないので"虎侯"と呼んだ、というのが通説なんだが、陳寿の記述に従うなら諱だと誤解したので"痴"で呼ぶのは失礼と考え、素で『トラ殿とはどいつだ?』と聞いた、らしい」
Y「こっちはこっちで頭がちと足らんな」
F「無理もないけどな。ここで、ところでと云おうか。序盤で云ったが、許褚や典韋は武将ではない。シークレットサービスはシークレットと云うだけに、表立って目立っていい役どころじゃないンだ。実際のところ、正史での許褚の記述はそんなに多くない。ちくま版8巻の索引では、本人の伝を除くと4ヶ所にしか名が挙がっていない」
A「ホントに少ないな」
F「許褚と典韋に優劣を問うなら、目立っちゃいけないと自覚があったのかを問えると思う。典韋は、降ってきた張繍を迎えての宴席で、曹操が張繍たちにお酌して回ると、そのうしろを大斧持って歩いて威圧している。これじゃターゲットになるのも無理からぬオハナシでな」
A「じゃね……。対して許褚は、力は虎でもぼーっとしていたからあまり目立たなかった?」
F「何しろ、本人の姓名さえ知られていなかったくらいだからな。文武の違いはあるが、こちらも匿名の情熱ちっくな性質だったと考えていい」
A「あー……」
F「それと、許褚がぼーっとしているというのには、ちょっと心当たりがある。目の焦点を一ヶ所におかずに周りを見ていると、周りにはぼーっとしているように見えるが、意識をどこかに集中するより注意して警戒できるンだ」
Y「意識を集中していると、他のものには注意散漫になるということか」
F「そゆこと。きょろきょろしないで一見ぼーっとしつつ、見える範囲すべてを警戒するという、ちょっと高度なテクニックだ。両目を左右別々に動かせるようになるには10年かかったけど、許褚ならそこまでかからんだろうね」
A「どういう修行を積めばそんなことができるようになるンだ?」
F「気合と根性。ただし、一見ぼーっとしつつも、許褚はひとつのものを見ていた。つまり、曹操の安全だ」
A「そりゃま、親衛隊長ですから」
F「征南将軍の曹仁が朝廷に来たとき、曹操がまだ来ていなかったので、ヒマを持て余した曹仁は許褚を『おぅ、ちょっとオハナシしよーぜェ』とさそ……」
Y「だから、その曹仁やめろ!」※『真・恋姫』には未登場の曹仁を、『真・恋姫RPG』に出すため設定したもの。
F「ぶーぶー。誘ったンだが、許褚は『王はもうすぐ来られます』と相手にしないで宮殿に入ってしまう。曹操の親族で南方軍を率いる重臣相手にその態度はないでしょう、と叱られても『あの方は親族で重臣でも外軍を率いる方です。中軍の自分がどーして個人的におつきあいできますか』と応えている」
A「外軍の曹仁と中軍の許褚が癒着したと、あらぬ疑いをかけられるのを避けたがったワケか」
F「大勢でおしゃべりするならまだしも、とな。それを聞いた曹操はますます許褚を信頼したとある。つまり、曹操の心理はともかく中軍にしてみれば、曹仁級の親族かつ重臣でもうかつには信をおけなかったワケだ。ために張遼が……というのは以前触れた通り。分別をわきまえている辺り、痴にして猛なれと愚ではないと云える」
Y「どこぞの癒着集団にも聞かせてやりたいエピソードだな」
A「誰のことかオラ!?」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。もっとも、許褚がそこまで考えていたかは微妙なもので、ただ曹操に懸念されたくない一心で曹仁の誘いを断っただけかもしれん。実際に曹操が来たときに曹仁と話しこんでいたらどう思われるだろう、と」
A「なに、そのねーちゃんの琴線に触れまくりそうな男同志の恋慕感情」
F「さっき、曹操を助けるため自ら舟を操って黄河を渡った話をしたが、そのときに、逃げ遅れて舟がなくなった兵士たちが、その舟に乗ろうと群がってきてな。許褚が乗ろうとする兵士たちを斬り捨てたので、定員オーバーで沈没しなくて済んだ、という記述があるンだ」
A「味方を殺してでも、曹操を助けようとしたのか」
Y「虎士だよな?」
F「うん。曹操に降る前から許褚に従っていた、親衛隊でも『全員が剣客だった』と明記のある精鋭」
A「そんなモンを斬ったのか!?」
F「曹操を助ける、という一点を貫くには仕方のない行いだ。曹洪じゃないが、許褚や虎士がいなくても天下はどうとでもなるが、曹操がいなくては天下が収まらん。主を助けるためなら長年の部下でも斬り捨てられる忠誠心は確かなもので、だからこそ曹操に信頼されたと云えるが、どうにも考え方、言動に難があったのは事実でな」
Y「曹操原理主義者か」
A「非道ェぞ、それ……」
F「表立って曹操に殉死した人物は文官・武官を問わずいない。だが、曹丕・曹叡の時代まで生きたとはいえ、許褚の人生は曹操の死をもって終わっていたように思える。曹操の子や孫を助けるためにと親衛隊を率いていたが、その後に許褚がどんな働きをしたのか、まったく記述がないのもそういう次第だろう」
A「真っ白に燃え尽きていたワケか」
F「それを考えると『三國志曹操伝』で、孔明を倒し天下に平和を取り戻したら、故郷の村に帰ってしまう許褚の姿は、明らかに本人像から外れているように思えてならない」
A「ホントにどんなシナリオなんだ、その三国志モドキ!?」
F「続きは次回の講釈で」


許褚(きょちょ) 字は仲康(ちゅうこう)
生没年不明(精神的には220年に死んでいたが)
武勇6智略2運営1魅力3
豫州譙郡出身の、魏最強の武人。一名をして"虎痴"。
曹操を守ることに生涯を費やした。

"悪来"典韋(てんい) 字は不明
?〜197年(曹操を守っての立ち往生)
武勇5智略1運営1魅力4
兗州陳留郡出身の、魏の武人。
曹操は守ったが自分は死んだし曹昂も守れなかった(許褚は『主を守って自分も生き残った』)。

戻る