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History Members 三国志編 第45回
「コラム 魏の軍制について・3」

魏の軍制について・1 http://f-sinner.at.webry.info/201011/article_9.html
魏の軍制について・2 http://f-sinner.at.webry.info/201012/article_4.html

F「魏の続きなんだな、これが」
Y「続けて講釈するのかよ。今週はこれで終わりかと思えば」
F「アキラが冬コミに間に合うよう四苦八苦しておるのに、留守の僕らがなまけちゃおれんだろーが。今回分の収録終わったら、奇蹟が起こって間にあった場合用の講釈するから。たぶん必要ないけど」
Y「お前、はんぶん諦めてるだろ。誰だ?」
F「曹休になる。テンプレ行きたいところだが、生年は不明……なのはいつも通りか」
Y「思えば、曹・夏侯両族の第一世代は、だいたい生年不詳か。豫州沛国(はい)の出自で?」
F「む、曹操の族子、つまり、曹一族のひと世代下の親戚筋にあたる。が、十歳を超えてから、漢末の混乱で父を失ってな。祖父が呉郡太守だったので、伝手をたどって母とともに呉へと移り住んでいるンだ」
Y「おいおい……のちのちのことが考えにくい系図だな、それは」
F「先走らんでくれ。ちなみに、祖父が健在だったのかは記述がない。曹操が兵を挙げると、曹休は偽名を使って荊州経由で曹操の下にたどりついている」
Y「祖父は曹嵩の縁故で太守の座を得たが、ろくなことをしなかったというところかね。揚州で曹休の名を出すと身が危うかったとか」
F「その辺りがはっきりしなくてなぁ。だが、江南で曹操の挙兵を聞いて駆けつけたというより、曹操が丹楊(たんよう)で兵を集めたと聞いて、駆けつけようとして間にあわなかったンだと思う。集めた丹楊兵は叛乱起こして、曹操自ら斬り伏せて逃げる事態になっているンだから」
Y「曹休や祖父がまずいンじゃなくて、丹楊兵の性質が問題だったのかね」
F「さてさて。ともあれ、来てしまった曹休を、曹操は『コイツは我が一族の千里の駒じゃ』と褒めている。曹丕と寝起きを共にさせ我が子同然に扱ったンだから、曹丕の代ではいっぱしの武将になると期待していたワケだ」
Y「よほど気に入ったンだな」
F「曹休はその期待に応え、曹操が軍を率いたときには従軍し、成長しては精兵虎豹騎の指揮を任されている。218年の漢中攻防戦では、曹洪の下に参軍としてつけられたが、曹操自らに『お前は参軍だが、実際は司令官だぞ』と云われているくらいだ。次代の将帥として使うことが内定していたようでな」
Y「大したモンだが、力量としてはどうなんだ? 優秀な武将だったとは認識していないが」
F「いちおう、才はあるな。この戦闘で曹洪は下弁に駐留していた呉蘭討伐に向かっていたが、そこへ張飛が後方を扼そうとする動きを見せた。どっちに向かうべきかという議論で、曹休は『本気で我らの補給を断つつもりなら、敵はこっそり動くはず』と、張飛は陽動だと見破っている」
Y「相手が張飛じゃひっかかるのがどうかと思うぞ」
F「あっはは……。呉蘭は討ったが、漢中攻防戦そのものは曹操の負けだった。夏侯淵を失い漢中を捨て、長安まで退いたのは周知の通り。それから、曹操が死んで曹丕が皇帝になると、曹休は、曹丕自らの見送りを受けて揚州方面に赴いている。幼少期を呉で過ごしたのがこの人選にかかわったのかもしれない」
Y「東方軍主将の地位を得たワケか」
F「そうなる。正史曹休伝では『夏侯惇の死後、曹休は鎮南将軍・都督諸軍事に任じられた』とあり、曹休は勇躍して交戦。二度に渡って呉軍を打ち破ったので、揚州刺史・征東将軍に昇進している」
Y「えーっと、鎮南ということは都督に任じられたのは豫州軍か」
F「記述されていないが、そうだろう。この頃、北はともかく、南方軍は征南将軍の夏侯尚、西方軍は鎮南将軍の曹真が率いていたから、豫州の南方軍副将から東方軍主将に転任した、と。これにより、合肥・襄陽・祁山の三大防御拠点が曹家親族衆に任されるかたちになった」
Y「親族ではあっても親藩ではないのが曹丕以降の魏のおかしなところだわな。直系の弟たちは冷遇したのに、少し離れた親族はちゃんと使っていたンだから」
F「冷遇されなかった曹幹(ソウカン)みたいな例外もいるがな。時代が曹丕を経て曹叡に移っても、曹休はたびたび戦功を挙げている。黄権は降伏先に夏侯尚を選んだが、韓当の息子の韓綜(カンソウ)が帰順してきたのが曹休のところだった。東国の抑えとしては呉にも名を響かせていたと考えていい。実際のところ、呉書では曹仁より多く名が出てくる」
Y「任地と時代の差だろうな。曹仁が張ってた頃は荊州全土が呉のモンだったワケじゃないンだから」
F「荊州は劉表の死後、晋まで統一されなかったンだけどね。それだけに、呉にとっては目障りだったようで、周魴が身体を張った計略かまし、曹休はボロクソに負けている。命からがら逃げかえったものの、背中に悪性の腫瘍ができて死んでしまうという400年前に聞いた死に様を遂げた」
Y(確認中)「……お前、それ『漢楚演義』で触れてないぞ。范増(ハンゾウ)がそういう死に方したのは、知識として知ってるが」
F「あれ? いかんな、トシのせいか物忘れが激しくて。えーっと……じゃぁ、ちょっと短くなるけどやるか。ところで、コラムの続きに戻る。さっき云ったが、曹休は曹丕の代から東方軍を率いていた。曹操には『千里の駒』と期待されながら、夏侯淵の死後に西方軍主将の座を受け継いのは曹真だった。戦後に、曹休は中領軍に叙されている」
Y「外軍から内勤に回されたワケか」
F「手元でなら使えると判断された、ということだよ。少なくとも西では使えないと判断された。単身で外に出すには不安があったようで、曹休が主将として軍を任されたのは曹丕の代だ」
Y「曹操にそこまで見放されるような真似をしているか?」
F「何が原因かは判らん。だが、曹休に相応の器量があったなら、曹操存命中に東方軍主将になっていたはずだ。曹操でもそんな人事をしなかったからには、その器量はなかったンだろうなー、と。周魴にだまされた辺り、方面軍将に任じなかった曹操の見立ては正しかったように思える」
Y「……おい、ちょっと待て」
F「はい、何ですか?」
Y「つまり、曹操時代の東方軍主将は、代わりがいるならいつでも替えられる男で、曹休は将来そいつの『代わり』となるのを期待されていたのにダメだったから、そいつが東の抑えを張っていた、ということか?」
F「そゆこと。現に、曹丕の代ではあっさり曹休に挿げ替えられているだろ?」
Y「お前、張遼をそこまで過小評価していたのか? 張遼のクビがいつでも替えられると思っていたとは」
F「能力の問題じゃない。魏で220年の末までに四征以上の将軍位に叙されたのは5人だけ、と云ったよな? 征南将軍の曹仁(214年叙任)、征西将軍の夏侯淵(217年叙任、219年戦死)、衛将軍の曹洪(220年叙任)、大将軍夏侯惇(220年叙任)、そして、征東将軍の張遼(215年叙任)だ」
Y「…………………………それは」
F「名作『蒼天航路』で四天王と呼ばれた曹操の親族衆に、敵からの降将が比肩していたンだ。それも、最大の軍事力・管轄範囲を誇る東方軍を任されていた。演義で曹休の弓勢に対抗して『外様の力量もご覧あれ』と云ったのは文聘(ブンペイ)だが、『親族にひとナシと云われるか』と突き上げがあってもおかしくない」
Y「だ、だが、能力で考えれば問題なかろう?」
F「だから、人事的なバランスの問題だよ。張遼は外様か譜代か親藩か、それが問題。東を任せられる親族がいなかったと思われるるワケにはいかない。国が大きいだけにその辺りのしがらみは避けられないンだ。曹操は避けたが」
Y「だが、曹丕はやってしまった……」
F「ここで、陳寿が正史にさりげなく記した一節に注目したい。さっき触れた『夏侯惇の死後、曹休は鎮南将軍・都督諸軍事に任じられた』だが、方面軍将ではない夏侯惇が死んだというのが曹休とどう関係があるのか。スルーされがちな一節だが、帝位についた曹丕は、張遼を前将軍に転任させているンだ」
Y「……大将軍になる前の夏侯惇が叙されていた将軍位だな」
F「うむ。不定期コラムの第1回で触れたが、征東将軍なら権力は前将軍より上だ。だが、慶事における名誉職としては、前漢の時代から確たる位として続いていた前将軍のが珍重される。劉備も漢中王に就任したとき、征西将軍の黄忠を後将軍に任じている」
Y「一見降格だが、権威としては四征より前・後将軍のが上……だったな」
F「そういう口実で張遼を征東将軍から外し、のちにその座に曹休をつけたンだ。張遼も『ドS』曹丕の被害に遭ったと云えば云えるが、やはり、前々から張遼を東方軍将から降ろそうとしていたと考えるべきだろう。あまりにもあっさりと人事が展開しすぎている」
Y「やっちゃならんことをしでかしたように思えるが……」
F「そうだな。能力にこだわるなら、張遼と曹休では格段の差があったのは明らかだ。曹丕でもさすがに不安だったようで、当の張遼は現地に残っているから」
Y「だったら外さなきゃよかろうに」
F「曹丕は親族を冷遇すると思われているし、実際に冷遇された親族が多かったのは事実だ。だが、曹丕の代では、魏の方面軍将はいずれも親族だった。曹操ではできなかった親族による魏の軍権掌握を、曹丕は断行したと云える。……まぁ、実際には『曹操はやらなかった』が正しいンだが」
Y「親族だからと重用して、結果が出れば苦労はないな」
F「曹操はそういう考えだろうけど、やはり急場を任せる人材には親族が優先されるンだよ。曹休が、周魴に敗れるまで結果を出していたのは事実だし。だが、魏の真骨頂は唯才にあったと云うべきだろうか。誰かが『親族かどうかなど大したことではありません!』と吹き込んだようで、夏侯尚(と、曹丕)の死後に南方軍を預かったのは外様の仲達だ」
Y「それはそれで魏の悲劇の第一歩じゃねーか!」
F「忠誠心と能力が信頼できれば親族かどうかなど大したことじゃない、というのは歴然たる事実だ。だが、能力を度外視して親族を重用する考え方があるのもまた人の世の現実なんだよ。曹操は張遼を信頼し曹休を信じなかったが、曹丕は曹休を信用し張遼のことは利用した。どちらが真実とも云えないだろうね」
Y「キノマタ党の第一義は『親を大事にしてはならない』じゃなかったのか?」
党首「死ぬ前に坑儒したかったなぁ。ともあれ、曹休の死後、曹・夏侯一族は征東将軍に誰ひとり就いていない。南方軍は、夏侯儒(カコウジュ、夏侯尚の親族)を経て王昶(オウチョウ)が率いている。生まれてきたことを後悔する諱だな、オイ」
Y「世にバカ者の胤は尽きまじ……」
F「僕か、名付け親か? そして、夏侯玄(カコウゲン)が西方軍を離れたあとに、曹・夏侯一族はいずれも、方面軍将および四征将軍位以上からまったく消える。曹・夏侯一族の時代が終わったと云うべきか、魏の時代が終わったと云うべきか」
Y「三国時代の終焉とともに、曹操の息吹も歴史の主役からは転落したワケか」
F「その凋落の先鞭となった敗北を喫した曹休が、『お前は司令官なんだぞ』と云われて送り出された蜀との戦闘で何をしでかしたのか、陳寿は記さない」
Y「……因果なモンだ」
F「続きは次回の講釈で」


曹休(そうきゅう) 字は文烈(ぶんれつ)
?〜228年(敗戦のショックで病気を発して死んだ)
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豫州沛国出身の、魏の武将。
曹丕・曹叡には信任されたが、曹操には見放された感があり、それを表すかのような最期を遂げている。

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