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History Members 三国志編 第44回
「収録日は11月21日夜」

F「23日は更新できないので、きょうのうちにもう1回分講釈しておこうかな、と。明日はいい夫婦の日だから、泰永のカミさんにはいてほしかったンだが」
Y「やかましいわ!」
A2「愛されてないなぁ」
Y「声真似までして俺を追い詰めようとするなよ、頼むから!」
A2「(くすっ)……たのしい」
F「アホ兄はさておくが、アキラが動けるうちにちょっと無理しておこうというのもある。ともあれ、例によって『恋姫』のオハナシから入るが、袁術がミカンで孫策を転ばせる、という真似をしている」
A「バナナがないならミカンを使えばいいじゃない、というところか」
F「うん、その台詞がほしかった」
A「なんなのー!?」
F「誰もないとは云っておらん。士燮伝に記載された交州からの貢ぎ物リストにバナナ(芭蕉)も入ってあるンだ」
Y「ったく……交州からなら、フイリッピンとも交易できただろうからなぁ」
F「だから、どーしてお前は小さいイが発音できんのだ? ともあれ、今回はそんなバナナではなくミカンに関連した人物。ちなみに、2日連続なので娘から軽めのメニューにするよう云われているのでちょっと短い予定」
A「いいけどね。また、紀伊国屋文左衛門?」
F「前にやったけど、それ三国志じゃねーから。陸績についてだが、彼は割と有名だな。6歳のときに袁術と会い、出されたおみかん3つを懐に入れて退出しようとした。ところがポロリしたモンだから『陸家の坊ちゃんは、ヒトに招かれた席でミカンをパクるのか?』とからかわれると『母に持ち帰ってやろうと思ったのです』と応えたエピソードだが」
A「まぁ有名だな。ちょっと前にやったばっかりだし」
F「だ。元代に撰された『二十四孝』という、中国歴代の親孝行者24人のひとりに数えられる人物になる。云うまでもなく、当時の漢土はモンゴル人王朝が統治していたため、儒教的な価値観が通用しかねた時代だ。ために、そういうのを著して国威ならぬ漢人威発揚につなげようとした、という文化的側面がある。そのまま滅べばよかったのに」
A「ダークでロウな本性出てるぞー」
A2「……あからさまな邪神系?」
F「失敬。だが、実際のところ来歴はぱっとしない。以前触れたように、父の陸康は盧江太守だったものの、袁術への帰属要求を拒んだモンだからにらまれて、冷淡に扱ったせいで恨まれていた孫策に攻め殺されている」
A「割と悲惨な人生だな」
F「ただし、このときすでに陸績は郷里の呉郡へと逃れていた。身の危険を察した陸康は、陸遜に陸家を任せて呉へと逃がしていたのね。呉の四姓に数えられる陸家を束ねていたのが陸康だったけど、陸遜に陸家の将来が委ねられたことになる。この時点では、その判断は正解だった。この時点では、だが」
Y「のちの悲劇は予想できるはずがないだろうな」
A「じゃね。でも、何で陸遜?」
F「陸康のいとこが陸遜の父親で、陸績と陸遜ははとこになる。ところが、陸遜の父が早死にしたせいで、陸遜兄弟は陸康のところに身を寄せていたンだ。陸康の殺されたのは袁術との面会の翌195年で、188年生まれの陸績は当時7歳。陸遜は老けていても15だが、衆を率いることができない年齢ではない」
A「お父さんが生きていればってオハナシか」
F「そうなる。孫策の江東進出に伴い、陸孫ともども、陸績も幕下に入っているが、かつて孫策本人に直接にらまれ、攻め殺された陸康の子だ。そう手厚い扱いはされなかった。幕僚チームの末席にいて、孫策に『軍事ではなく徳を広めるべきです』と進言したが、それを小覇王サマが聞かなかったのは周知の通り」
A「いや、誰の進言でも孫策がそれを聞いたとは思えんわ」
Y「戦い続けた人生だったからなぁ」
F「だよなぁ。陸績は『張昭らからは感心された』とあるンだが、孫策相手にそんな真似しておいて、孫権にもできない道理はない。辺りはばからず諫言したモンだから、孫呉名物の交州送りに処されている。それも、偏将軍に叙されたンだが、原因は不明だが足が悪い陸績に兵を与えて山越対策させるのは、死んでこいと云っているようなモンでな」
A「扱い非道いなぁ。足が悪いと馬にも乗れないだろ?」
F「呉だから乗れなくても実害ないけどな。……馬と身体障害で思い出したが、確か『龍狼伝』で曹操が右利きってあったけど、アレたぶん間違いだ。張繍に襲撃されて息子を犠牲に逃げたとき、本人も右ひじに怪我してるから。曹操の乗馬が射殺されるほどの激戦だったからには、右腕がまっとうに動かなくなっていた可能性が高い」
A「あら……」
F「余談だけどな。陸績は天文から未来を計算する、占星術を修めていてな。それを駆使したのか、軍務では死なず、軍務の最中に書いた天文観測記録や占いの本に施した注釈なんかが面白くて世に広まった、とある」
A「予言者ネタはやめない?」
F「僕に云われてもなぁ。自分がいつ死ぬのかを占うのは、僕ら西洋系の占い師にとっては絶対のタブーなんだが、陸績はそれを平然と占っていてな。自分が死ぬ日を占って、自分で墓碑まで選定していた」
Y「占っちゃいかんのか? お前がいつ死ぬのかは、俺の立場としては把握しておきたいンだが」
F「宗教的な都合だ。キリスト者にとって命とは天なる主からの授かりもので、自分のものじゃないンだよ。それをいつ神にお返しするのかを占うのは、神の意志をうかがうに等しい。申命記6の16で『主を試すな』とあるように、キリスト教圏では占っちゃいけないンだよ。ジプシーや魔女が迫害された理由の一端がこの辺りの都合」
A「だからキリスト教徒は自殺を禁じられている、と」
F「対して儒教圏では、命は『大事な大事なご両親からいただいたもの』だからな。木の股を神と崇めろと云われてもこっちが困るが、その辺りに抵抗がないらしい。ともあれ、陸績の遺した墓碑はこんな感じだ」

「ワタクシこと漢王朝の臣下たる陸績は、幼い頃から書に親しんでおりましたが、主命で南方の軍務に就いて病気になり長生きできませんでした。いまから60年後に天下は統一されるというのに、それを見届けることなく死ぬのは心残りでなりません。いやはや、志から外れた人生だったことを悔やみます」

A「一行で『孫権に殺されました』と書いてしまえばいいのに」
Y「はっきりそう遺したら孫権が叩き潰すわ」
F「まったくもっておっしゃる通り。天下が統一されるのは280年だが、その61年前にあたる219年に死んでいる。享年は33。袁術からミカンを盗もうとしてから27年の歳月が流れていた」
Y「予言は1年ずれたのか」
F「割と動乱な人生だったが、いい夫婦の日なのはコイツ本人じゃない。陸績の妻に関する記述はないからな。かといって、ミカンをもらった例の母親でもなくて、娘になる」
A「あ、こどもいたンだ」
F「確認できる分では、息子ふたりに娘がひとりだ。長男の陸宏は都尉、次男の陸叡は校尉まで出世したとしか記述がないが、娘の扱いはさらに非道い。正史の注に少し書いてあるだけでな」
Y「当時の女なら、書いてあるだけ御の字じゃないか?」
F「儒教の悪影響で男尊女卑がはびこっていた時代だしな。そも、女という字からして、腕を組んで膝を折り頭を下げている姿の象形文字だ。女という存在が半ば物として扱われていた時代だけに、陸績もその辺りの発想を脱却できず、配流された交州の鬱林郡(うつりん)で生まれた娘に鬱生(ウツセイ)と名づけているンだ」
A「鬱林で生まれたから鬱生って……ないがしろだなぁ」
F「ただ、この陸鬱生女史についての記述が少ないのも、実際のところ仕方がない。何しろ、彼女が嫁いだのは張白という男だが、コレが張温の、ふたりいるうちの下の弟でな」
A「あら」
F「江東豪族の共同体だった呉を中央集権制に切り替え、自分が孔明になろうとした張温が、陸遜ら豪族たちにせっつかれた孫権に処罰され、失脚したのは前回見たが、有能と評判だった弟たちも官職を追われている。孫権本人も張温には手を焼いていた旨の記述はあるが、殺さなかったからには惜しむ思いはあったらしい」
A「罪人として扱われたモンだから、呉でも史料そのものが少なかった、と」
F「そゆこと。そんな彼女の数少ないというか唯一の史料、陸遜の甥にあたる姚信(ヨウシン)の上奏文が、陸績伝の注に引かれている。鬱生はわずか13歳で張白に嫁いだが、それから3ヶ月と経たないうちに先の一件が起こってな。張温伝では官職追放されたとしか書いてないンだが、張白さらには配流に遭い、行き先は不明だが現地で死んでしまった」
A「このボケ皇帝は、ホントに孫皓の父親かもしれんな……」
F「あのイベントの時点では、まだ即位してないから。そういう状況になったら、ふつうは再婚するだろう。数えで13歳なんだからまだまだ将来がある。だが鬱生は亡夫に操を立てて、有力者(たぶん、親族の姚信本人)からの再婚の勧めに応じなかった。張温・張白には姉妹が3人いたが、困窮する彼女らを支えながら夫の供養を納めている」
Y「立派だな」
F「感動した姚信は、孫権に『鬱生は立派なので表彰しましょう。そうすれば、若い者が彼女を見習い節度ある行動をとり、陛下の徳が広まって民衆は生活態度を改めるでしょう』という上奏文を出している。注とはいえ文そのものは載っているが、孫権がこれにどう応えたかは記述がない」
A「張温の義妹で陸績の娘だろ? 孫権が表彰するとは思えんがなぁ」
F「この上奏文は224年に出されたものではなく、孫権が皇帝になってから出されたようでな。それなら、ある程度は孫権のハラもおさまっていただろうし、張温が死んだあとだったらなおさらだ。表彰されたと考えてもよさそうで」
Y「めでたしめでたしでは済まんが、後味は悪くないな」
A「珍しくね……」
F「鬱生は、3ヶ月に満たない夫婦生活と引き換えに、人生を張白の遺族に捧げた。僕は褒めんが、当時のひとたちには美談と映ったこの行いは、母にみかんを持ちかえろうとした前科のある、陸績の教育の賜物と考えてよさそうだ」
A「惜しいヒトを亡くしました」
F「ほとんどが政略結婚だった当時にあって、そんな人生を送った夫婦、というか妻もいました、と。……予定より長くなったな。娘がうるさいから、今回はこれで終わっておこう」
A「あ、『ところで』はナシなんだ」
F「やろうか?」
A「やらなくていいです!」
F「リクエストされては仕方ないな。ところで、日本にミカンを持ちこんだのは、平安の三筆のひとりに数えられる弘法大師・空海そのひとでな」
Y「おや、そうなのか」
F「んむ。同じく三筆に数えられる嵯峨天皇に拝謁した空海は、ミカンを差し出し『陛下、みかんくうかい?』と……」
Y「寝てしまえ!」
A2「(くすっ)……昭和のギャグ」
A「いや、笑うところじゃねーから……義姉さんいなくてよかったよ」
F「続きは次回の講釈で」


陸績(りくせき) 字は公紀(こうき)
188年〜219年(自称、病死)
武勇2智略4運営3魅力3
揚州呉郡出身の、民政官志望の占い師。
鳳雛に「早足の馬」と称された切れ者だが、諫言癖ゆえに孫権に疎まれヴェトナム送りとなった。

陸鬱生(りくうつせい)
211年〜没年不明(たぶん過労死)
武勇1智略1運営1魅力3
交州鬱林郡生まれの、陸績の娘。
張温の弟に嫁ぎ、公職から追放された張家を支えた行いを称賛された。

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